若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

政府は民のお荷物 ~ 軽く、小さく、簡素に ~

2020年09月01日 | 政治
コロナでバタバタ会社が倒れていくのに補償する気配を見せない政府を見た日本人には理解してもらえるでしょうか?

このツイートと画像を見て、ふと疑問に思ったことを。

【仁徳天皇「民のかまど」は超緊縮財政】

○釜戸の煙が少ないのを見て税を免除する・聖帝の世
======【引用ここから】======
ここに天皇、高き山に登り四方の国を見て詔らさく、「国の中に烟發たず、国、皆、貧窮し。故、今より三年に至るまで悉く人民の課役を除け。」 是を以ちて大殿破れ壞れて悉く雨漏ると雖ども都て修理うこと勿し。椷を以ちて其の漏る雨を受け、漏らぬ處に遷り避りき。
後に国の中を見るに国に烟滿ちき。故、人民富めりと爲て、今は課役を科せき。 是を以ちて百姓榮え、役使に苦しまず。故、其の御世を稱えて聖帝の世と謂う。

======【引用ここまで】======

煮炊きをする煙が上がらないほど国民が貧窮しているので、3年間税金を徴収するのを止めた仁徳天皇。その期間中、天皇の御所や役所の建物で雨漏りがしても修理せず、漏れて落ちた雨水を受ける箱を置き、雨漏りの箇所を避けて過ごすようにした・・・そうです。

今の日本で言うなら、

「国会議員の歳費を半減し立法事務費をはじめ各種手当を全廃。国家公務員や地方公務員の給料を半減し家賃手当をはじめ各種手当を全廃。役所の庁舎の修繕費は全カット。公共工事も全部ストップ。パソコンも古いものを使い続ける。」

といったところでしょうか。
仁徳天皇は、反緊縮論者・MMT教徒の嫌う「超」の付く緊縮財政を地で行ったわけです。

もともと、当時の朝廷は今と比べると「小さな政府」でした。
仁徳天皇の頃の正確な「役所の組織図」は分からないのですが、仁徳天皇の後の時代にできた律令制度を参考に見てみると、

○大宝律令と官制 - 歴史まとめ.net
======【引用ここから】======
神祇官(宮中の祭祀)

太政官(最高行政機関)
○太政大臣(非常置の最高位)
○左大臣(常置の最高位)
○右大臣
○大納言
 ・小納言
 ・左弁官
  ・中務省(天皇の側近事務)
  ・式部省(文官人事、大学の管理)
  ・治部省(氏姓の管理、仏事、外交)
  ・民部省(田畑・租税の管理)
 ・右弁官
  ・兵部省(武官人事、兵士・武器の管理)
  ・刑部省(訴訟、刑罰)
  ・大蔵省(財政、物価の調整※2000年まで名称が存続した)
  ・宮内省(宮中の庶務)

弾正台(行政監察)
五衛府(宮中の警護)

======【引用ここまで】======

となっています。

政府が行っていた業務は、今で言うと、天皇・皇室の生活に関する宮内庁の業務を中心に、国家公務員の人事、外務省アジア太洋州局、各地の税務署とこれをまとめる国税庁、市町村の戸籍係、官吏養成学校としての東大法学部の運営、陸上自衛隊、検察庁、国土交通省の道路局や水管理・国土保全局・・・くらい。

元々がびっくりするほどの「小さな政府」なんですよ^^
この「小さな政府」から更に、
「3年間徴税停止、そして大幅な歳出削減」
としたのが、仁徳天皇の「民のかまど」です。

【信長の「功」 税の簡素化】

次に、みんな大好き織田信長です。

彼の活躍した室町時代から江戸時代開始までの間、戦国大名は、朝廷、公家、寺社、守護大名の錯綜した権益関係を整理・統合・廃止し、自身の支配権に組み込む事に腐心しています。関所の廃止もこの文脈で捉えることができます。

織田信長は、寺社や座が個別に設置していた関所を廃止し、結果として流通が盛んになり商業が活発になりました。では、関所を廃止した信長はどこから収入を得ていたのでしょうか。

よく言われるのが、冥加金と、矢銭です。

信長の支配下にある尾張・美濃、新たに代官を置いた堺・大津・草津の商人から上納金を集めるとともに、堺の商人に2万貫の戦費を課したのは有名なエピソードですが、これらは定期的に納められていたというよりも、合戦や大規模工事のために金が必要になった際にその都度献金を募っていたと言った方が近いかもしれません。

平時は年貢で自分と家臣の食い扶持を確保し、合戦や大規模工事の時には商人に課金し不足分を賄う。そして、自分以外の、公家や寺社の複雑な権益関係は様々な機会を捉えて随時廃止し、自身の権力を強化する。その結果、関所をはじめとした各種規制が撤廃され、商業が盛んになり、商人からの献金が増える。
これが信長を始めとする戦国大名の主な経済政策と言えるでしょう。

【信長の「罪」 上京焼討】

ちなみに。

画像にある織田信長の
戦乱で京が焼けたので 税を免除する
についてですが、この言い回しは不正確です。

足利義昭と織田信長が対立していた元亀四年、信長は、義昭に協力的だった京都の上京を焼き討ちにし、その後、上京における地子免除を行っています。

これは、
「住居の焼けた京の民の生活に配慮し、信長は自分が取る税を免除した」
のではなく、
「信長は、自身に非協力的な住民の多い上京地域を焼き討ちにし、この地域で公家や寺社が取っていた税金を排除して公家や寺社の領主権を否定し、自身の直轄地とした」
というのが実情のようです。
信長は、焼討のあった地域で自分が徴税権を持っていた税を免除したのではなく、他人の徴税権を焼却するために物理的に焼き討ちをしたことになります。いくら公家や寺社の徴税権をなくしたいからと言って、焼き討ちはいかんよ焼き討ちは。

反緊縮論者・MMT教徒的には、これが美談になるのでしょうか。

(詳しくは、
○陣取放火と地子免除 織田期京都上京における寺社本所領の解体過程 土本俊和
をご覧ください。)

【古人に学ぶ税の在り方】

税制、税金、政府支出は、民にとっては重荷です。
税は、時代によって現金納付、現物納付、労務の提供、新貨・悪貨によるインフレ税などいろいろな形態をとっていますが、いずれにせよ、民の負担を強いるものです。政府支出が増えても富は増えません。

仁徳天皇の「民のかまど」エピソードは、減税と歳出削減はセットである事を物語っています。
また、織田信長は、複雑な税制を簡素化することで商業を活性化させようとしました。

二人とも、平時における給付事業を災害時に拡大するような愚策は採っていません。
平時に徴収していた税を止め、従来行われていた規制を撤廃することで、民の暮らしが豊かになるようにしたのです。

こうした古人に学び、新型コロナ禍の中にある現代の民を救うため、政府支出を減らし税額を減らし、税の種類を減らしましょう。政府の存在は重荷であり、緊急時こそ、政府を小さくして民の負担を軽くしなければなりません。

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