昨日7月7日から大相撲名古屋場所が始まった。昨年あたりからNHK world (英語版)でも大相撲のある日曜日にはライブで見せてくれる。
朝9時10分から始まったライブではちょうど栃ノ心と遠藤の取り組み準備で、ベィビ―フェイスの遠藤がはにかみながら、石川県穴水町出身 と自己紹介していた。
穴水は私の心の故郷。この地で育った4年間は決して忘れられない。
石川県松任市(当時は松任町)から穴水に引っ越ししたのは私が小学校1年生の10月だった。
そのいきさつは下記のブログを読んでいただきたい。
https://blog.goo.ne.jp/reikoh6/e/9448ca5537e7dce6e2604b6b9f9f0a20
まだ昭和20年代、日本全体が貧しかった。
父は家財道具と一緒にトラックで来ることになっていて、私たち、母と3人の子供たちは石炭を焚いて走る蒸気機関車の汽車で穴水までたどり着いた。当時松任から穴水まで4-5時間はかかったと思う。
穴水からはバスで住吉の村はずれのバス停に降り立った時は、辺りは真っ暗。波の音が聞こえるほかは物音一つも聞こえない。遠くに住居らしき明りがぽつぽつ付いて、そこへ行くまでの道が見えない。
2歳年上の兄と5歳の弟と私7歳、母にしがみついて恐怖に震えていた。あの時の情景は一生忘れられない。
どれ程このバス停に突っ立っていたか、遠くの村のある辺りから、貨物3輪車がやってきた。ただ一つの明りが道路を照らしてあんなところに道があると判った。
足探りで村の方へ向かっていき一番最初の道端の一軒家で、母は駐在所の家内ですと案内を請うた。
その家から長いお蔵橋(長いと思ったのは私が小さかったから)を渡って駐在所についた。
近所の人たちが居間に薪をくべて煙もうもう、目が痛い。夕食を御馳走になっているころ父が着いた。
この駐在所は昔前田藩の米蔵だったところを改造して駐在所にしたもの、トイレ迄のガラス戸や天井に白いヤモリが張り付いていて、慣れるまではトイレへも母についていってもらった。
翌朝、真っ青に晴れ渡った。駐在所の前は道路を挟んで丸く青い入り江になっていた。山に囲まれた、小さな入り江と入り江に流れ込む川があった。家の後ろは垂直に切り立った崖で、そこの岩をくり貫いて滴り落ちる水を竹の樋を通して大きな水がめに溜まるようになっていた。
その水際に小さな赤いカニがいつもいて、あまりの可愛さに手で摘まんでは指をカニのハサミで挟まれて泣いたものだった。
駐在所の横の空き地の隣は米田さんという豪農のお家でその裏山は私たちの裏の続き、その山の崖にアケビが紫色に熟れて下がっていた。
トラックの運転手とその助手は昨夜我が家に1泊し、そのアケビを見つけて大喜び、若い人たちだったから崖をよじ登り、木に登り、たくさんのアケビをとってきた。
アケビなるものを見たのは初めて、真っ黒の種が多いが実は甘く、自然にとれるものは素晴らしい。後日このアケビは米田さん地の山のだと判ったけれど後の祭りだった。
入江は遠浅でお蔵橋の上からはサヨリの群れや、ボラが泳いでいるのが良く見渡せた。小さなタコは父がタコ釣りに行って毎日数匹捕まえてお弁当や夕食のおかずになった。裏山や入り江の向こう岸から山へ入ったところではキノコが毎年たくさん採れて、母は冬のお菜の為に樽に塩漬けにしていた。春にはふき、ワラビ、ぜんまいなどどっさり採れてこれらも一年中食べられるように塩漬けにしていた。
入り江にはトンビが舞って居て、大きなボラを直撃して両手で引き揚げ山へもっていこうとするが、ボラが暴れて誰かの家の屋根に落とし、トンビの落とし物と話が伝わってきた。
半農半漁のこの村には自動車が7台、どれも荷物を運ぶトラックや軽4輪、3輪トラックなどで、乗用車などどこにもなかった。当時5歳の弟は自動車狂い、家の中で見ないでもエンジン音だけで誰の車かが分かった。
入り江の向こうの山際に住吉小学校があった。初めて学校へ行った日の国語の時間にすぐ教科書を読まされた。母によれば上手に読んで、先生がほめてくださったとのことだが、その夜いつまでも同じところを読んでいる夢を見て長い間トラウマになっていた。
当時絵本も物語の本も買ってもらったことはなかったから、4年生を終わるまでに図書館の日本の民話や西洋の童話などほとんどの本を読破してしまった。
この住吉駐在所と穴水本署出勤の父は,当時民主警察を上げる日本政府の推薦で、若い警察官(父は30台)の民主教育のため、大阪の警察学校へ2-3か月づつ送られていた。帰宅前の1週間は毎日おやつに出るジャムパンを食べないでためておき、お土産に持って帰ってくれた。
それと2-3年生の時父が大阪から買ってきてくれた絵本美女と野獣は今でも絵を覚えているくらい、愛読してボロボロになってしまった。
学校へ行くのに海辺の脇を歩きながら,きれいな貝が欲しくて、腹ばいになって手を伸ばし、遠浅の海におちてしまい、着替えに帰ったことも在った。
学校の帰り山道をたどって歩くと小鳥の巣を見つけて、小さな雛の入った巣事持って帰り、母にこっぴどく叱られて、元にもどして毎日小鳥が巣立つまで通ったものだった。
学校側の山には開拓団が入り新しい村を作り開墾していた。時々道端に子ヤギが捨てられていた。真っ白の子ヤギはかわいく、どんなに飼いたいとねだって
も許してもらえなかったが、開拓団の人たちが引き取ってくれると安心したものだ。
夏は村の子供たちが皆集まってお蔵橋のたもとで泳いだ。秋には裏山の神社の森の椎の木に上って椎の実を沢山集めたことも在った。
真っ赤な赤とんぼの大軍を見たり、井戸に落ちたタヌキをみつけたり、村の半ばにある高い階段の上の神社は境内が鹿の子百合で覆われた。
駐在所にはお風呂がなかったけれど、村の風呂屋さんは村人が皆行っていたから、友達も多かった。
ほとんどすべての人が自給自足の生活をしていたから、村にはお豆腐屋さんと酒屋、米屋があっただけ。肉は穴水まで行かないと買えなかったが、新鮮な魚には事欠かず野菜も自家製、鶏を飼って新鮮な卵はお弁当のおかずになった。
私が小学校4年生を終わった3月に父は奥能登へ転勤になった。