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航空幕僚長の更迭があった。
政府見解と異なる意見であるということである。
これに対する、朝日と読売と産経の社説や主張を抜粋してみた。
読売の社説がまともであろう。
しかし、海外で少年時代を過ごしていたものの心情としては、産経に頑張って欲しいと思うのもホンネである。
朝日は、中国人や韓国人の気持ちは理解できても、当時海外で過ごし多くの犠牲を払った先人の日本人の心の痛みなど全然解っていないような気がしてならない。
そんな先人たちは『侵略のために』外地に出かけたのではない。
朝鮮を『ふるさと』と思う人もまだいるのである。
当時の朝鮮、こんな風であった。
戦前の日本の植民地統治とか侵略とか言われるが、
確かにそんな面もあったのは確かだろうと思う。
そんな日本の朝鮮や満州国の侵略の時代に、その頃は日本であった海外で過ごした人たちもだんだんと少なくなってきているだろう。
私は昭和20年8月終戦のとき中学1年生であった。
今の韓国、ソウル当時の呼び名は『京城』であった。
覚えているわけではないが、1歳のとき朝鮮大田に行き、小学校1年生からは京城で育った。
『ふるさとは?』と聞かれたら、『京城』と応えたくなる。
大東亜戦争、そう呼ばれていた、が始まったのが小学校2年生のときであったから、大体のことはよく覚えている。
当時は、そこは日本であった。みんながまさしく標準語の日本語を話し日本を『内地』と呼んでいた。
それが日本の侵略の結果だと言えばその通りだが、日本人の住む町と韓国人の住む町は違っていた。
日本人の住んでいる地区は、当時の内地の家々に比べても随分と広く立派であった。
そんな、個人の住宅だけではなくて、京城の町自体が立派であったし、道路も素晴らしかった。
当時、神戸の市電が日本で一番と言われていたが、それよりも綺麗な市電が走っていた。
三越も神戸の三越よりも大きかった。
それは、日本の植民地政策、侵略の結果であったといえば、その通りであろうが、
一般の当時の民間人にそんな意識があったとは思えない。
戦争の結果、一般の民間の人たちは、そこに築いた全財産を何の補償もなく放置して、引き揚げてきたのである。
所謂、南鮮はましであった。北鮮や満州では帰ることさえ叶わぬ人たちもいたのである。
そんな、犠牲をあまり文句も言わずに黙って受け入れてきている。
何事も、100%悪かったということは、世の中には存在しないものである。
外地に日本人が残した、鉄道や電力や街そのものも、個人の住宅もみんな無償供与である。
中国や韓国に対しても幾らかの貢献はあったと思って当然だと思っている。
そんな私だが、昭和20年8月15日の午後、『終戦の勅諭』の直後のソウルの町の様子が一変したのは、
そこに朝鮮の人たちの長年の積もる想いを見たと感じた。
ソウル市内の市電は韓国旗を持った人たちの歓喜のお祭り電車の様相に一変し、日本人など、とても電車に乗せて貰えなかったのである。
中学校から、家まで歩いて帰ったのをよく覚えている。
そんな時代を経験したのは貴重だと思っているし多くの海外の人たちの犠牲も仕方がないのだと思ってはいるが、
一方的に悪く言われるのはどうしても納得できないのである。
少年時代の純な思い出まで悪く言われているような気がしてしまう。
航空幕僚長の更迭があった。
政府見解と異なる意見であるということである。
これに対する、朝日と読売と産経の社説や主張を抜粋してみた。
読売の社説がまともであろう。
しかし、海外で少年時代を過ごしていたものの心情としては、産経に頑張って欲しいと思うのもホンネである。
朝日は、中国人や韓国人の気持ちは理解できても、当時海外で過ごし多くの犠牲を払った先人の日本人の心の痛みなど全然解っていないような気がしてならない。
そんな先人たちは『侵略のために』外地に出かけたのではない。
朝鮮を『ふるさと』と思う人もまだいるのである。
当時の朝鮮、こんな風であった。
戦前の日本の植民地統治とか侵略とか言われるが、
確かにそんな面もあったのは確かだろうと思う。
そんな日本の朝鮮や満州国の侵略の時代に、その頃は日本であった海外で過ごした人たちもだんだんと少なくなってきているだろう。
私は昭和20年8月終戦のとき中学1年生であった。
今の韓国、ソウル当時の呼び名は『京城』であった。
覚えているわけではないが、1歳のとき朝鮮大田に行き、小学校1年生からは京城で育った。
『ふるさとは?』と聞かれたら、『京城』と応えたくなる。
大東亜戦争、そう呼ばれていた、が始まったのが小学校2年生のときであったから、大体のことはよく覚えている。
当時は、そこは日本であった。みんながまさしく標準語の日本語を話し日本を『内地』と呼んでいた。
それが日本の侵略の結果だと言えばその通りだが、日本人の住む町と韓国人の住む町は違っていた。
日本人の住んでいる地区は、当時の内地の家々に比べても随分と広く立派であった。
そんな、個人の住宅だけではなくて、京城の町自体が立派であったし、道路も素晴らしかった。
当時、神戸の市電が日本で一番と言われていたが、それよりも綺麗な市電が走っていた。
三越も神戸の三越よりも大きかった。
それは、日本の植民地政策、侵略の結果であったといえば、その通りであろうが、
一般の当時の民間人にそんな意識があったとは思えない。
戦争の結果、一般の民間の人たちは、そこに築いた全財産を何の補償もなく放置して、引き揚げてきたのである。
所謂、南鮮はましであった。北鮮や満州では帰ることさえ叶わぬ人たちもいたのである。
そんな、犠牲をあまり文句も言わずに黙って受け入れてきている。
何事も、100%悪かったということは、世の中には存在しないものである。
外地に日本人が残した、鉄道や電力や街そのものも、個人の住宅もみんな無償供与である。
中国や韓国に対しても幾らかの貢献はあったと思って当然だと思っている。
そんな私だが、昭和20年8月15日の午後、『終戦の勅諭』の直後のソウルの町の様子が一変したのは、
そこに朝鮮の人たちの長年の積もる想いを見たと感じた。
ソウル市内の市電は韓国旗を持った人たちの歓喜のお祭り電車の様相に一変し、日本人など、とても電車に乗せて貰えなかったのである。
中学校から、家まで歩いて帰ったのをよく覚えている。
そんな時代を経験したのは貴重だと思っているし多くの海外の人たちの犠牲も仕方がないのだと思ってはいるが、
一方的に悪く言われるのはどうしても納得できないのである。
少年時代の純な思い出まで悪く言われているような気がしてしまう。