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先日、胡蝶さんがカワサキの4輪車の写真つきのブログをアップした。
私も初めて見たのである。
胡蝶さんのブログには、昭和35年に開発着手し39年に完成とあるが、私はもう少し前ではなかったかと思った。
そうだ浜さんの本に何かあったはずだと、
浜脇洋二さんの著書 『45歳までにあなたもトップになれる』 をひっくり返してみた。
この4輪プロジェクトの当時の起案者である。
何年に始めたのかは記述がないのだが、本の中から関連するところを抜粋してご紹介する。
『エンジンを活用した仕事というなら、何と言っても花形は乗用車である。やがて道路網が整備されるだろう。そこにカワサキのエンブレムをつけた車を走らせたい。』
『昭和30年トヨタはトヨペットクラウンを発売した。
大衆を巻き込んだ乗用車産業の勃興は昭和33年に発売されたスバル360からといえるだろう。』
『私はその頃、調査部員の立場で明石や岐阜の工場で、乗用車市場進出の夢を語っていた。それぞれの工場では私の話に耳を傾けてくれる人は多かった』
『私は上司に膝詰めで乗用車の夢を語った。そして役員会で提案して貰うから、企画書を纏めるようにと指示が出た。』
『このプロジェクトは、役員会の受けもよく、直ぐ試作の予算が認められた。当時の砂野社長の発案でこのプロジェクトは「KZプロジェクト」と命名された。
カワサキのZ旗であるという意味を込められた命名である。」
『岐阜で車体を、明石でエンジンを試作、私は来るべき販売体制の検討に着手していた。』
『ところが事業化の検討に入ったとき、三菱500とマツダクーペ360の販売開始が発表された。これから設備投資という段階の川崎が一歩出遅れたことは明白だった。
デイーラーなど一切持っていなかった川崎航空機にとってこの出遅れは致命的となった。首脳部は一転事業の中止を決定した。
昭和34年(1955)のことである。』
この本の記述によれば、昭和34年にこのプロジェクトは終わっている。
多分、私のおぼろげな記憶からも、こんな時期であったと思う。
浜脇さんは、このあとブラジルの市場調査、更にはアメリカの二輪市場の調査から、アメリカでのバイク事業の提案をし、自らアメリカに渡ってKMCのスタートが切られるのである。
浜さんは、私より3年ほど先輩である。
入社当時は、本社企画が明石にあったりしたので、よく話もしたし碁を打ったりした。
スケールが大きくて、今までに『この人にはとても叶わない』と思った何人かの人たちの一人である。
後、浜脇さんは川崎を止めてBMWジャパンの社長などもされたので、
いろいろな見方はあるが、
カワサキの二輪事業が今あるのは、
『浜さんがアメリカ市場の開拓をしたからだ』と思っている。
そんな浜さんの若い頃の、四輪プロジェクトであったのだが、
私は、何となく『やらなかったのは正解』と思っている。
若い頃、夢見た四輪事業、メーカーはドイツのBMWではあったが、
BMWの日本市場の開拓に尽力される機会があってよかったと思っている。
私は、今もBMWに乗っているのだが、最初に購入したのは浜さんがBMWジャパンの社長をされた時期からである。
浜脇さんとは、Z1会のゴルフでもお会いしたりする
そんないろいろのことを思い出させてくれた、「四輪プロジェクト」であった。
先日、胡蝶さんがカワサキの4輪車の写真つきのブログをアップした。
私も初めて見たのである。
胡蝶さんのブログには、昭和35年に開発着手し39年に完成とあるが、私はもう少し前ではなかったかと思った。
そうだ浜さんの本に何かあったはずだと、
浜脇洋二さんの著書 『45歳までにあなたもトップになれる』 をひっくり返してみた。
この4輪プロジェクトの当時の起案者である。
何年に始めたのかは記述がないのだが、本の中から関連するところを抜粋してご紹介する。
『エンジンを活用した仕事というなら、何と言っても花形は乗用車である。やがて道路網が整備されるだろう。そこにカワサキのエンブレムをつけた車を走らせたい。』
『昭和30年トヨタはトヨペットクラウンを発売した。
大衆を巻き込んだ乗用車産業の勃興は昭和33年に発売されたスバル360からといえるだろう。』
『私はその頃、調査部員の立場で明石や岐阜の工場で、乗用車市場進出の夢を語っていた。それぞれの工場では私の話に耳を傾けてくれる人は多かった』
『私は上司に膝詰めで乗用車の夢を語った。そして役員会で提案して貰うから、企画書を纏めるようにと指示が出た。』
『このプロジェクトは、役員会の受けもよく、直ぐ試作の予算が認められた。当時の砂野社長の発案でこのプロジェクトは「KZプロジェクト」と命名された。
カワサキのZ旗であるという意味を込められた命名である。」
『岐阜で車体を、明石でエンジンを試作、私は来るべき販売体制の検討に着手していた。』
『ところが事業化の検討に入ったとき、三菱500とマツダクーペ360の販売開始が発表された。これから設備投資という段階の川崎が一歩出遅れたことは明白だった。
デイーラーなど一切持っていなかった川崎航空機にとってこの出遅れは致命的となった。首脳部は一転事業の中止を決定した。
昭和34年(1955)のことである。』
この本の記述によれば、昭和34年にこのプロジェクトは終わっている。
多分、私のおぼろげな記憶からも、こんな時期であったと思う。
浜脇さんは、このあとブラジルの市場調査、更にはアメリカの二輪市場の調査から、アメリカでのバイク事業の提案をし、自らアメリカに渡ってKMCのスタートが切られるのである。
浜さんは、私より3年ほど先輩である。
入社当時は、本社企画が明石にあったりしたので、よく話もしたし碁を打ったりした。
スケールが大きくて、今までに『この人にはとても叶わない』と思った何人かの人たちの一人である。
後、浜脇さんは川崎を止めてBMWジャパンの社長などもされたので、
いろいろな見方はあるが、
カワサキの二輪事業が今あるのは、
『浜さんがアメリカ市場の開拓をしたからだ』と思っている。
そんな浜さんの若い頃の、四輪プロジェクトであったのだが、
私は、何となく『やらなかったのは正解』と思っている。
若い頃、夢見た四輪事業、メーカーはドイツのBMWではあったが、
BMWの日本市場の開拓に尽力される機会があってよかったと思っている。
私は、今もBMWに乗っているのだが、最初に購入したのは浜さんがBMWジャパンの社長をされた時期からである。
浜脇さんとは、Z1会のゴルフでもお会いしたりする
そんないろいろのことを思い出させてくれた、「四輪プロジェクト」であった。