★11月19日に開催の「カワサキZ50周年祭 」は世界に向けて同時実況中されるのですが、
そこにはいろんな有名人も登場します。
そんな中の一人が「星野一義」です。
星野一義のWikipediaにはこんな一節があります。
「・・・・東海大学第一高等学校を1年生の1学期が終わったところで中退すると、
しばらくは静岡市内のオートバイ販売店で働くが、程なく当時東海大学に通っていた兄・幸雄を頼って神奈川に移り、
カワサキワークスライダーだった安良岡健に弟子入りを志願。
安良岡の同僚だった三橋実が率いるカワサキ系モトクロスチーム「カワサキ・コンバット」に入る。
16歳になった星野は、ここで後に一緒にホシノインパルを立ち上げることになる金子豊と出会っている。
1964年のデビューレースでは転倒し脳震盪のため搬送され入院というデビューだった。・・・・・」
★これは1964(昭和39年)ごろの話なのですが、
当時私は広告宣伝課を担当していて、その中でレース活動もやっていたのですが、
年間予算が1億2000万円もあって、
今のお金にすると10億円以上の大きな額ですから、
結構大胆な使い方が出来たのです。
当時、三橋実が厚木で展開していた「カワサキコンバット」には、
新人の育成資金として月間20万円を渡していて、自由に使っていました。
そこには全国から優秀な若手ライダーが大勢集まっていて、
星野一義も金子豊もその中の一人で、金子豊は秋田の出身です。
星野一義のデビューはWikipediaには上記のような記述なのですが、
より正確に詳しく言うと
それは1964(昭和39年)11月8日、
和歌山の紀の川で開催されたスポニチ主催の第1回西日本モトクロスに、
星野はコンバットのトラックの運転手として現地に来ていて、
レースに出る予定はなかったのですが、
その日の朝、契約ライダーの岡部能夫が朝のプラクテイスで、
荒井市次と接触して小指を骨折、レースに出ることが出来なくなって
急遽、星野を出すことになったのですが、
最初のレースで転倒・脳震盪で病院に救急車で運ばれたのですが、
午後、戻って来て「午後のレースにも出して欲しい」というので、
出場させたら、確か7位ぐらいに入ったのです。
これが星野の初レースですが、
私は未契約の選手を勝手に走らせたと、当時の上司に怒られました。
翌年の4月の全日本には星野はノービス90クラスで優勝を飾っています。
やはり、それなりの素質があったのだと思います。
★ カワサキの新人時代の星野は山本隆さんのお弟子さんとして修業し、
めきめき頭角を現すのですが、
私の手元にはその頃のこんな写真があります。
これはカワサキ時代の山本・歳森・岡部・星野ですが、
これはずっとのち、私と山本隆が上京した時、
こんなメンバーが集まったのですが、
このメンバーたちは今回のイベントにも顔を見せてくれます。
更に、こんな懐かしいメンバーと、
星野のおごりで二次会に行ったのですが、
星野とも縁の深かった岡部能夫と金子豊とは
この日が最後になってしまいました。
若しいたら、間違いなく今回の会合にも
顔を見せてくれるのでしょうが、先に逝ってしまって残念です。