★ 昭和42年(1967)1月から新しく仙台事務所を創れという命を受けて、仙台事務所長として赴任した。
まだ34歳の時で明石を離れるのは、初めての時だった。
当時のカワサキはまだ海外市場はなく国内市場だけで、
125ccの実用車中心の『実用車のカワサキ』の時代で、全国で東北6県が最大の市場だったのである。
山坂に強い登坂力などがウリだったから、広大な東北の山坂にはもってこいの商品だった。
どれ位広大かと言うとざっとタテ600km、ヨコ200kmという広さで、
200kmと言うと、関西で言えば明石から名古屋までだから、
その間5県に跨ってる距離なのである。
★ そんな中でも日本一の広さを誇る岩手県が全国一の販売実績を誇っていたという、
考えられないような時代だったのである。
「田舎なれども南部の国はよ 西も東も金の山」と南部牛追い唄に唄われた南部の国岩手県は、日本一の実績を誇ったこともあってよく訪れたし、
当時の社長久保克夫さんには単車の販売の実際をいろいろと教えて頂いたし、私のマーケッテングの実地の先生だったのである。
久保さんを乗せて岩手県の販売店を走り回ったので、
その時の販売店への対応などは非常に参考になったし、
岩手カワサキ独特の販売システムはその後の私の販売手法の展開に大いに役立ったのである。
一言で言うと「差別化戦略」で他県・他銘柄とは完全に差別化されていて、それが徹底されていたのである。
私の人生の生き方の基本が「差別化」になったのも久保さんの影響なのだと思う。
当時はまだ南部とか伊達などと昔のお殿様の領地の感覚が色濃く残っていて、
岩手県でも南部の一関辺りは「あそこは伊達」だと言っていたし、
青森県の八戸はもともとは南部の国で、
それぞれ「八戸カワサキ会」と「津軽カワサキ会」に分かれていたが、
これはかって戦ったことがあり一緒に会合などすると、酒の席では喧嘩が始まるからだとか言っていた。
福島県でも福島地区と会津地区は代理店が別に存在していたという
まだ、そんな時代であった。
★カワサキの車で言えば、125B1が販売の主体で、
120-C2SS などのスポーツ車が発売され始めた時代で、
250A1などもあったが、まだ東北ではそんなに売れなかった時代である。
★ 仙台には4年間いたのだが、まだ各地には代理店が残っていた時代で、
東北地域の各地に点在した10店ほどの代理店のそれぞれの経営方式も勉強になったし、
兎に角、販売第1線の担当は川崎航空機籍では最初だったので、
その後「販売の第1人者」と言う位置づけになったし、本当に役立ったのである。
仙台の肉屋には牛肉がなくて豚肉ばかりで『すき焼き』も豚肉だったのだが、
その仙台で「牛タン」が産まれたのは驚きで、どうやら始まったばかりの年代だったのだと思う。
この仙台時代の4年目に、川重・川車・川航3社合併があって、川崎重工業となるのである。
今から言うと50年も前の「カワサキ単車の昔話」である。