★ 甲子園の夏の大会は慶応義塾の107年ぶりの2度目の優勝で幕を閉じた。
★ 私の野球との関りは、大学の最後の1年は野球部の監督をするのに卒業を1年延ばしたりした。
旧制中学の神戸一中、新制高校の明石高校、大学は神戸商大と学生時代の10年間は野球に没頭した時代であった。
その間神戸一中は春の大会に出場したし、
明石高校でも夏の大会に出場した。
そう言う意味では私自身も高校球児だったし、
先日にもちょっと書いたが、大学時代はリーグ戦が甲子園球場だったし、
正月の兵庫県の高校のOB大会が甲子園球場であったりしたので、
甲子園球場も多くの野球場の一つぐらいの位置づけで、
甲子園の土を持ち帰るなど考えられなかった時代なのである。
そんな時代から約60年も経っているのだが、
いろんな意味で野球そのものが変わったなと思う。
野球もレベルが上がったし、何よりも選手の体格が大きくなった。
甲子園球場もちょっとプロでも広すぎると、
ラッキーゾーンがあった時代なのである。
私の野球をやっていた時代の道具も今とは違って、
バットは木製だったし、
ヘルメットは被ったことがないし、腕や足などの防具もなかった。
昨今のプロ野球など見ていると、ボールが地面に落ちたら、
すぐに新しい球に変えている。
流石に高校野球はそんなこともないのだが、私の中学・高校の時の下級生の時代は、毎日ボール縫いに没頭したりしていた。
そう言う意味では、今は豊かになったと言うべきか、贅沢なボールの使いようである。
★大正4年(1915)に第1回全国中等学校野球選手権大会が始まるのだが、
第2回大会に慶応義塾は107年前に初出場し優勝したようである。
この大会は甲子園球場ではなく豊中グラウンドだったから、
甲子園を舞台に慶應が頂点に立つのは今年が初めてということなのである。
慶應は1921年の第7回大会まで6年連続で夏の甲子園に出場したというから、慶応はその応援歌にあるようにまさに『陸の王者・慶応』だったのだろう。
若き血に燃ゆる者
光輝みてる我等
希望の明星仰ぎて此処に
勝利に進む我が力
常に新し
見よ精鋭の集う処
烈日の意気高らかに
遮る雲なきを
慶應 慶應
陸の王者 慶應
光輝みてる我等
希望の明星仰ぎて此処に
勝利に進む我が力
常に新し
見よ精鋭の集う処
烈日の意気高らかに
遮る雲なきを
慶應 慶應
陸の王者 慶應
この歌詞は私はよく覚えていて、知っているのだが、
子供の頃、母方の伯父楠見幸信が朝鮮京城の我が家にいた時期があって、
伯父の持っていたレコードでこの歌を覚えたのである。
私がまだ生まれる前の1929年当時のことだが、
東京6大学の野球が人気絶頂の頃で、慶応大学野球部の黄金時代と言われる時代なのだが、
伯父・楠見幸信は当時の慶応の不動の1番バッターだったようである。
この頃の早稲田大学は、宮武三郎を擁する慶応に全く歯が立たたない状況にあったが、
早稲田に三原修(早大)、小川正太郎(早大)、伊達正男(早大)が加わって以後、早慶の激闘が全国的に注目を浴びるようになったという。
当時の慶応のメンバーは、宮武・山下のほか水原茂、山下実、浜崎真二、楠見幸信、らがいたという。
神戸一中時代だったが山下実さんにはコーチしてもらったことがある。大きな方だった。
その伯父はプロ野球に国鉄スワローズが参加した特、
国鉄スワローズの初代総監督に就任しているのである。
そんなこともあって、私の高校時代だが
甲子園での阪神ー国鉄戦は伯父に入場券を貰ってよく観に行ったものである。
あの金田正一は私と同期なのだが、
高校を中退してスワローズに入団していたので、
その当時の金田正一はよく知っている。
★慶応義塾が夏の大会に優勝して、
慶応義塾の応援歌や伯父のことなども思い出したのだが、
昨日も何となく慶応義塾を応援してたのは、
息子と娘の二人の長男は慶応大学の湘南校の卒業なのである。
かって仙台に4年ほどいたことがあるのだが、
その頃の私の家の1kmほどのところに仙台育英もあったので、
そんなことから、優勝戦までは仙台育英も応援していたのである。
いずれにしても、私が野球をしてた時代とは全く変わってしまった。
因みに、慶応義塾の選手たちは『丸坊主』ではないのである。