雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

三木山森林公園

2011-05-16 06:09:22 | みっきぃふるさとふれあい公園

★ 三木山森林公園、 今が一番緑の綺麗な時期である。

もうだいぶ前、今アメリカにいる孫たちがこんな子供たちと同じ年ごろの頃、まだ家の犬たちが元気だったころ、

三木山森林公園には、しょっちゅうお世話になっていた。

そのホームページの冒頭には

『県立三木山森林公園は、三木市の中心部にあります。 広さは、甲子園 球場のおよそ20倍、80万平方メートル。 その中には、音楽ホール をはじめいろんな施設があります。
四季おりおりの豊かな自然の中で、森の大切さを素直に肌で感じても らえる場所として、また文化活動やスポーツ・レクリエーションを通 じて、人と森とのふれあいをおおいに活用していただけるよう心から お待ちしています。』 と書かれている。

 

ごく最近になって、またこの公園と繋がりが出来て、所長さんに芝生ばかりではオモシロくないので、『ススキの広場』なども造っていますよ、と教えて貰ったので、

『それも見てみよう』 と日曜日の午後3時ごろから散歩がてらに覗いてみた。

日曜日の『満車』の駐車場が1台、2台止めれるスペースが出来たころである。時計は3時15分を指している。

入り口の前庭は、水遊びのこどもたちで賑わっていた。

 

 睡蓮も咲きだしていた。

 

森の小劇場では、ジャズバンドの 1曲目の演奏が始まったばかり

 

 ひろばの横を流れる水辺は、『多彩な生物がすむ水辺環境づくり』という立て札が

 こんな素晴らしい環境なのである。

昔以上に整備されている。

小エビなどいっぱいいるはずだ。

 

 

 こんな水生昆虫もいっぱいいる。

 

逆に見ると、こんな眺めになる。

駐車場が満車でも、園内が広いから、人でいっぱいということにならないのがいい。

 

これが所長さんの言われたススキなどの自然の草花が植えられたひろばである。

昔はここも芝生だった。

 

 

こんな説明板が立っていた。

東播磨のこの地の草花や植物のようである。 

 

 

 こんな表の広場から、一歩裏手の道に入ると、まさに『森林公園』のその名の通りの風景に一変する。

 こんな地道がずっと続いている。

犬たちと何度も散歩した道である。

 

 

こんな広大な公園の一番外の道を歩いてみた。

今からの写真は『どんぐり谷』である。 

 

 

 分かれ道には、どこにもこんな道しるべがある。

 

 

このあたりが、『ターザンの真似ごと』の出来る 冒険の森で、孫たちとよく来たところである。

少し寂れた感じになっていた。

 

 アドベンチャーの森には、こんな説明板もあって、確かに谷の向こう側は、以前よりは随分と手を入れておられる様子がうかがえた。

 

どんぐり谷を抜けて戻ってきたところに『森の研修館』がある。

今まではあまり来たことはなかったのだが、今後のNPO The Good Times とのお付き合いするグループの本拠がここである。

  

 

そして、ここがイベント広場、5時、流石にお客さんの数もまばらになっている。

 

 

 そして孫たちの『お気に入り』だった ひろばは昔のままである。

 

 

そんな孫たちも、上はハイスクール、2番目もこの9月にはハイスクール、末っ子だけがまだ小学生である。

アメリカカリフォルニア、アーヴァインの孫たち、このブログ、見るだろうか?

日曜日の午後、いい2時間であった。

もう駐車場は、普段の日と同じ状態に戻っていた。

 

 

 

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有名人?に届いた ブログとツイッター

2011-05-15 05:56:57 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

 

★ブログやツイッターなどネットの情報発信は、世界に向けて発信されているのだから、どなたの目に止まっても不思議ではないのだが・・・・

毎朝、一番先に、あず、アクセス解析を見るのが習慣になっている。

『昨日と今朝続けて1番閲覧が多かったURLには、『株式日記 と 経済展望』 というこんなブログが現れたのである。

 

最近はいつも 『Twitter関連』がトップに来ることが多いのだが、矢鱈とアクセスが多いので調べてみたら、

gooのアクセスランキングでこんな上位にいるブログなのである。

上位トップ10に入っていて、アクセス数も1万を超えているのだから、当然なのかも知れない。

 

★そのブログに、雑感日記の海流発電の記事そのものが紹介されていた。

 

メガフロートと海流発電などなど 4月9日 雑感日記

★ 『海流発電』 のいいところは

● 24時間同じ方向に止まることなく流れる黒潮のエネルギーを利用、その幅は100キロもあり、流れの速さなどのデータ―はすべて揃っている。

 幾ら広大なスペースを使っても、土地代などは発生しない。 近隣への補償なども考えられない。

● 一基から電気が発電さえしたら、その数を増やせば原発の発電量以上のものが計算出来るはずである。

● 発電効率や一基の生産コストなどは量産効果で、今後幾らでも改善できるはずである。

● メガフロートとのコラボや、海底資源との関連基地や風力や太陽光発電との共用なども、幾らでも考えられるのでは。

● 全くの自然エネルギーだから、原発のような危険は、全く考えられない。

● ちゃんと開発さえしたら、海流は世界にあるのだから、世界展開の一大産業になり得るのである。

● 国会でも審議されているのに、マスコミに『潮流、海流発電』の名前が出てこないのは、『原発利権』の絡みなのだろうか? 

● 自民党時代は、兎に角、電力会社も官僚も、『原発一筋』、『ややこしいことを言ってくるな』という姿勢であったとか。

● 『海流発電』で初めて国が動いたのは、電力の担当省ではなくて、『環境省』関係だったのである。 

● 今回、原発の担当になった『馬淵さん』は間違いなく、環境省時代に、この件ご存じなのである。 今は、原発担当だが、『海流発電担当ではない』と仰るのだろうか?

● 国家事業として国が旗を振れば、すぐにでも造船工業会なども動くのではないだろうか?

● 今回は、災害地の復興計画や原発問題を含めた『エネルギー問題』は当然復興構想の中にあるのだろうから、この際是非、国の検討項目に加えて欲しいものである。

● そのためには、まず世の中で『話題になる』 ことだろう。



★最近、菅さんは、『日本のエネルギー政策を白紙から見直す』などと言っているが、

『海流発電』などアタマに入っているのだろうか、今すぐはダメでも、『基本コンセプト』としては、

日本の国情から言って、『太陽光』などよりはいいと思っているのだが、

そのためには

● そのためには、まず世の中で『話題になる』 ことだろう。

、と先日も書いたが、私のブログならともかく、アクセス万を超す、Google PageRank Check でも『評価5』の素晴らしいブログに取り上げて頂いて、

大いに気をよくしているのである。

 

★昨日はもう一つツイッターで、

ちょっと旧いブログだが、JALの日航機事故との関連で、『ひょっとしたら』と思って書いた記事なのだが、こんな方が何処かで見つけて『呟いて』頂いた。

  • おくあき まさお tuigeki たまたま拝見した日航機事故の秘密?トイレの隙間に指を吸い込まれhttp://bit.ly/llW3oQ
  • RT @rfuruya1: 『自分の歩いてきた道の記録』 どう生きたのか残しておきたかった。若いころ『死ぬかも』と思って書きだしたhttp://bit.ly/l64JCX
  •  

    今ちょうど、自分史は、東南アジアに市場調査団でタイ、インドネシア、イランなどに出かけた年度の昭和51年(1976)43歳のころを書いているのだが、

    このアクシデントは、イランからタイへのフライトで起こったのである。

    この方のツイッターも、Google PageRank Check 『評価4』 相当なものである。

     

    ★ブログとツイッターと、連続して、有名人?お方に届いて『不思議に思っている』のだが、こんな『不思議な事が起こる可能性』を秘めているのが、ネットの世界なのである。

    『海流発電』 何とかならぬのかな? と思っている。

    『話題にでもなればいいのに』

     

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    薔薇

    2011-05-14 06:13:17 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

    ★待望の薔薇が一輪、二輪と咲いた。

    これから毎朝が楽しい蕾も膨らんで、花が一斉に咲き始めると今度は花柄摘みに忙しい。

    今がただ眺めているだけで、一番楽しい時期である。

    まだ、この程度である。 薔薇に絡んだクレマチスも同じ時期に咲く。

    この画面の中にも5種類ある。一斉に咲く日が待ち遠しい。

     このごろのカメラは綺麗に撮れる。 目で見るより綺麗に撮れている。」

    こちらはまだ、蕾。

     

     

    これは前のお宅の

    早咲きの蔓バラ ナニワイバラ 今満開で みごとである。

     

     

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    昭和51年(1976)11月、市場開発プロジェクト室発足

    2011-05-13 06:28:31 | 自分史

    ★ 昨日の新聞でトヨタの国内生産比率の問題が取り上げられていた。 今では二輪事業に於いても、生産工場の主体はタイなどの海外に移行し、中国やブラジルなどのかっては開発途上国と言われていた地域が今後の生産の主体になることは間違いない状況になってきた。

     

    1975年ごろまでのカワサキの二輪事業の主体は、アメリカ市場の比率が圧倒的でA1 、マッハ、Z などと続いた大型車のヒットで事業そのものを引っ張ってきたのだが、その勢いもだんだん衰えて、75年の時点では今後の事業推進をどのようなコンセプトで進めるべきか、吉田専務の陣頭指揮で『発本戦略』などの検討がなされていた。

    そんな時期の75年10月に突如企画室に国内営業から呼び戻されて、そんな中長期の戦略立案の直接担当となったのである。

     

    76年初頭から、アメリカ市場の比率を40%まで落としたいということで欧州進出は既に決まっていた。

    従来の機種がそのまま使えるし、直販会社の設立も殆ど規制もなく可能だったので、UKにはカワ販から内田さんが社長で乗りこんでいたし、ドイツ市場への進出も決まって調査、準備を進めていたのである。

    ただ、東南アジアは、小型車の分野だし、完成車の輸出は難しい規制がいっぱいだし、直販会社はダメで、現地資本との合弁、さらにはCKDと言う部品生産工場がMUST条件で、その計画を具体的に進めるのは非常に難しかったのである。

    営業部が担当はしていたが、どのように進めるべきか、話ばかりでなかなか前には進まなかったのである。

     

    ★前回の自分史でも取り上げたが、この一番ややこしい東南アジアビジネスの基本方向を企画として纏める事を決意し、年初から基本構想を策定し、

    5月から1ヶ月、タイ、インドネシア、イラン、マレーシアを中心に市場調査し、

    この『新市場プロジェクト』はカワサキとして進めるべきと答申して、9月には調査団の団長をされた高橋鉄郎さんが長で『新組織を立ち上げる』ところまでは決定したのである。

    10月半ばに直接の上司の高橋宏さんから、『高橋鉄郎さんから貰いがかかっている』とだけ告げられた。 そして10月21日に正式に新組織への異動が命じられたのである。

    企画はちょうど1年だった。 『いいポジションになったな』といろんな人が言ってくれた企画だったが、自ら飛び出さねばならない「自分の進路」を造ったような結果になった。

    そして、11月1日、新組織『市場開発プロジェクト室』 がスタートしたのである。

     

     直ぐに、基本運営方針を纏め、本部長以下関係者に報告、討議の上承認されて、具体的な活動に入っていったのである。

     

    ★ タイ、イラン、インドネシアの3国が重点市場であった。

    このうち既に現地に工場があり現地資本で動いていたのがイランである。

    タイとインドネシア、マレ―シアは、まだどうなるか、はっきりと解っていなかったのだが、その地域を担当することになったのである。

     

     特にタイは、完成車を少しだけ輸出ベースで現地のGROLY という華僑の会社が販売をしていて、計画としては、合弁の販社を設立しよう、CKD工場を立ち上げようと言うことにはなっているのだが、現実には一向に前に進まないのである。

    新組織になって現地に事業計画を造りに行っていた、小池、岩田くんが戻ってきて、造ってきた事業計画を見せてもらったら、『大赤字の実績と計画』でメーカーとしての大幅援助が必要だと言うのである。

    私は即座に、この計画は『間違っているのでは?』と言ったら、『そんなことはない。1ヶ月も掛って造り上げたものだから』と言うのである。

    そんなに儲かっていない、儲からない事業を現地資本の華僑が、メーカーと一緒に合弁会社を造ったり、CKD工場を計画したりするはずがない。 

    とカンで思っただけなのだが、『それならあなたも現地に行って見ろ』と言うことになって、11月25日から12月25日の1カ月間、バンコックに長期出張することになるのである。

     

    GROLYというグループは、馬さんが率いる華僑グループで、バイクのほかに金屋さんやその他いろいろ手広くやっていた。

    長男のチャンチャイはアメリカの大学、次男のピテイはタイの東大チュラリンコンの出身で娘さんが経理、みんな抜群に優秀であった。

    そして、馬さんと長い付き合いの番頭さん役、チャンさん。それにピテイさんとの大学の同級生ケマさんと言う『馬ファーミリ―』のメンバーたちだった。

    いろんな人がいろんなことを言うが、馬さんが『うん』と言わない限り、一歩も前には進まないのである。

     

    1週間ほどは、ただ仲良くなるために飯を食ったり殆ど雑談で過ごし、調査団の時に見た末端市場に加えてさらにあちこちの販売状況を観たりした。

    特に、長男のチャンチャイさん中心にマーケッテング関係や、販売ネットワークのこと、番頭さんのチャンさんとは商売の話をしていたのだが、2週間ほど経つと、何となくいい雰囲気になってきた。

    そのころチャンさんに、『この商売儲かっていないのか?』と聞いたら、『儲かっていると思うよ』というのである。

    『なぜ?』と聞いたら、 『毎月、馬さんに貰う金よりも、馬さんに渡す金が多いから』というのである。

    華僑商売の真髄を観たような気がした。

    商売ごとにそれを纏める番頭さんがいて、その商売をどのようにするかは全て番頭のチャンさんに任しているのである。

    セールスを何人雇うのか、給料を幾ら払うかなど、何に金を使うかは全て番頭さん任せである。

    その金が幾ら要ると言えば、馬さんはチャンさんに金をくれるそうである。 その代わりバイクを売って、『現金になったら』、その金は全て馬さんに渡すというシステムなのである。 その渡す金の方が多いから『儲かっているはずだ』と言うのである。

    先月事業計画を造ったら、『赤字となったのは?』と聞いたら、『事業計画など造ったことがない』、小池さんがいろいろ聞くから、『それに応えただけ』だと言うのである。

     

    ★馬さんとの会議も何回かやった。 私の発言は全て小池くんが通訳してくれたのだが、なかなか本音が伝わらないので、

    黒板に漢字で 『正直、誠実、勤勉』 『信頼、互譲、協力』と書いた。 

    これは川崎航空機の社是と執務態度で、私は心底共感していたし、現役のころはずっと、今でもこの通りに心掛けている。

    息子たちには解らなかったが、馬さんとチャンさんは通じたようである。 それ以来『本音の話』が出来るようになったのである。

    馬さんが、合弁事業について、『GROLY にとっては100%のリスクだが、KHIにとっては1%でしかない』とも言った。 確かにその通りなのである。

     

    ただ、馬さんも 

    5月の市場調査団から、新組織、その長に高橋鉄郎さんと数ヶ月のうちに具体的に動いたカワサキの行動に、今回は確かなものを感じたのであろう。

    12月半ばになって、合弁会社の設立の方向に『YES』 を出したのである。

    今までなかなか決まらなかった、タイの合弁会社構想がこのとき動き始めたのである。

     

    このころはまだ、出資はしても資金繰りの面倒まではダメだったのでその役割を日商岩井にゆだねた3社の合弁事業の方向を採ったのである。

    初めての長期の海外での仕事だったが、11月にスターした新組織で、今まで長く結論の出なかったタイ市場は、12月にその方向だけは決まったのである。

     

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    首相公選論

    2011-05-12 05:46:00 | 政治

     

    ★先日のブログでもちょっと触れたが、大阪の橋下さんが『首相公選論』を言っている

    昨日改めて、ニュースとして流れたようで、

    Yahoo の意識調査でも取り上げられている

    その結果 『導入した方がいい』と言うのが、82%もあって、圧倒的だったのには少々驚いた。

     

    ★ 日本の総理は、自民党の時代からずっと順送りみたいなもので、任期も世界のトップたちに比べたら圧倒的に短く、名前も顔も覚えられないうちに、次の人にバトンタッチされるのが常であった。

    戦後60年戦争もなく、リーダーが先頭に立って物事の決定を下さねばならぬ事態が、皆無であったと言ってもいい。

    国政は霞が関の官僚たちが、大企業は本社のエリート集団が、それぞれ描いた上にリーダーはただ乗っているだけでも『大過なく任期』を務める事が出来たのである。

    お神輿型経営などと言われてきた。

    独特の個性など、むしろない方が『大過なく過ごす』にはよかったのかも知れない。

    大きな課題が、経済政策や企業で言えば業績など、お金に関するもののウエイトが大きかったので、それでも特に問題はなかったのである。

     

    ★今回の橋下さんの提起に対してこんなに極端に反応するのは、

    今回の東日本大震災に起因することは間違いない。

    阪神大震災などと比べて、その規模は比べ物にならぬくらい大きいし、

    加えて『原発問題』など、日本の今後のエネルギー政策に関わる根本問題だけに、

    この決定をする総理がどんな決定をするにしても、『菅さんではちょっと頼りない』 という感覚みたいなものをみんなが持っているのだと思う。

    今回の浜岡原発の要請も、仮に同じ方向だとしても、菅さんがするのと、石原慎太郎とでは、受け止め方に差がでるのではと思われる。

     

    古谷錬太郎 rfuruya1 東日本大震災は、日本人が忘れかけていた『国』の問題を提起した。 代議士の中から選ばれる総理。 橋下さんが『首相公選へ改憲』を提案。 日本の総理は、国を代表する人であって欲しい。

    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1

    汐月イブ雷神マッハ2号MovieMarbieはっぴいえんどプロジェクトのりみさっちわだかずきsay真選組副長そねちゃん

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    昭和51年(1976)43歳  単車事業の企画から東南アジア市場開発室へ

    2011-05-10 16:58:24 | 自分史

    ★ 前年度の10月に10年間の国内出向期間を終え、当時は単車も発動機も含めた発動機事業本部の企画部門に復帰した。

    この時期は、絶好調であったアメリカ市場に陰りが見え、ヨーロッパ市場への進出が始まっていた。

    事業部の業績は低迷していたが、その規模だけは既に大きくなっていて、川崎重工業本社としても放置しておくわけにはいかなかったのだと思う。

    本社の財務の中枢にいた堀川さんを企画室長に送り込み、吉田専務が事業部全体の統括責任者として事業本部の総合戦略を策定しようとしておられた時期である。

    ただ、本社にも企画部門にも二輪事業の第1線の状況を解った人は、殆どいなくてなかなか具体的な戦略は纏っていなかったのである。

     

    当時の発想は、主として生産サイドからの生産構造を改善し大量生産でコスト減を図り、低コストの小型車を量産しようと言うような、夢みたいな計画が既にスタートしていて、年間50万台を造ると言うような、確かCMCと呼ばれたプロジェクトが進行していたのである。

    そんな状況の中での、企画の長期計画は直接の担当だったのである。東南アジアでのCKD事業についても、営業部でその検討が進められていた。

    前年度、12月に一応は、『発本戦略』なるものの骨子は、出来上がったものの、具体的にどう展開するかはまだ纏っていなかったのである。

     

    ★企画部門に戻ってから退職するまで、いろんな形で二輪事業に直接関係するような、基本方針の分野を否応なく担当せざるを得ない立場に追い込まれた。

    どのような観点から、どのように対応すべきなのか? 自らの考え方は全て自筆で書類にして残すことにした。それを纏めたのが写真のファイルである。

    このファイルは、昭和50年の10月、企画に戻って以来、昭和52年8月までの、主として基本方針に関するもので、月別に整理してファイルされている。

    こんなファイルが、今我が家には10数冊残っている。ある意味カワサキの二輪事業の歴史が刻まれている。

    多分、どなたも見られたことがないであろう、堀川運平さんの直筆のユニークな『発本基本戦略』もこの中に入っているし、

    自工会の企画部会で入手した『二輪車の中期見通し』 省資源時代の二輪車事業などにも触れられたホンダさんの産構審資料など貴重な資料も入っている。

    森田君の力作『長計』も、武本一郎さんが纏めた数値資料などもある。 自分で眺めていても懐かしい。

     

    これから後の自分史は、出来る限り忠実にこれらの資料をもとに、綴っていこうと思っている。

     

     ★開いている書類は、1月19日に纏めている 『 東南アジア市場に関する 当面の基本方針について』 答申したものである。

    みなさん口ではいろいろ言われるのだが、どこまで本音で、どう思っておられるのか解らないので、企画としてはこういう方向で考えますが、いいですか?

    と聞いてみたのである。

    当時の営業の矢野部長、 企画の高橋宏部長、企画の堀川室長、事業本部の青野副本部長の関係する上司の決裁を頂いているのである。

    ●戦略市場として、インドネシア、タイ、マレーシア、イラン、フィリッピン

    ●具体策としての投入人員、投入機種、を示し

    ●販売台数計画、具体的市場別対策、タイムスケジュールは営業部、

    ●小型機種戦略と市場との関連計画、 総合的な東南アジア政策の纏め(人、資金、その他)は企画で担当すると書いている。

    企画で担当と言っても、私のほかに纏める人いはいないので『私がやります』と宣言したようなものである。

     

    ★小型車への進出も、東南アジアへの進出も、当時アメリカを担当されていた浜脇さんは反対の立場をとられていたし、1月の時点では事業部としても何の具体的な決定はなされていなかったのである。

     

     ★この表はこの1年間を月別に纏めたものだが、

    結果としては、5月に東南アジア市場の調査団を結成し、高橋鉄郎さん(当時技術本部長)を団長に担ぎ、11月には『市場開発プロジェクト室』を立ち上げ、その室長には高橋鉄郎さん、

    私自身は、企画に残るか、新組織に移るかいろいろあったようだが、結局は市場開発室に移ることになったのである。

    当時、企画にいた田崎さんや岩崎君は、しきりに『そうはならぬよ』と言っていたのだが・・・

    田崎さんが企画に残り、岩崎君も新組織にやってきてイランを担当する事になった。

     

    いろんな人から、『いいルートに乗った』などと言われていた企画部勤務は、たった1年で終わり、自ら市場調査し事業の方向を決めた新組織で、高橋鉄郎さんと一緒に、ゼロからの事業に携わることになったのである

    ★この東南アジア調査団は、高橋鉄郎さんを団長に、安藤(生産)川崎(技術、商品)山辺(営業)松田(カワ販)と私(企画)と現地に詳しい多賀井のメンバーで結成され、

    台湾ーインドネシァ―タイ―イランーマレーシアの5カ国の末端市場も、現地でホンダさんや、ヤマハさん、三井物産、日商岩井などの人たちからもいろいろ話を聞いた。

    その報告書は、生産分野を安藤さん、その他上記の分野は私が報告書を纏めたものである。

     

    現地の経営者は華僑であったり、ペルシャの商人と言うか事業者たちである。その人たちの第1の関心事は資金なのである。商品などよりはそちらの方に強い関心があって、今までカワサキの人が何人も来たが誰もその話に乗ってくれなかったと言うのが、あちこちで聞かれた。

    東北で代理店の社長の関心も資金だった。そう言う意味で東北での営業経験も都会での大型販売店とのやりとりも大いに役立ったと思っていた。

    私が、東南アジアのCKD事業はカワサキでも『やれる』と思った理由は幾つもあるが、

    日本や先進市場では、ホンダ、ヤマハ、スズキとまともに闘わねばならぬが、CKD事業はその展開環境そのものが、その競争条件を緩めてくれているのである。

    ● 導入機種は国によって違ったが、『数機種』と制限があるし、現地投入の人員も『ワーキングパーミットの制限』があって絞られている。

    ● さらに現地企業との合弁事業だから、いい相手と組むことで、そんなに差が歴然としないのである。

    ●50cc のモペットよりは、小型車と言っても100ccが中心なのである。

    なにはともあれ、この年の年末は、タイにいた。方針通りタイ、インドネシア、イランの3カ国から攻めたのである。

     

    ★ 高橋鉄郎さんとは、現役の最後までいろいろと関係があるのだが、ホントにいろいろとお世話になって、

    今現在も、NPO The Good Times の相談役などお願いしているが、直接仕事で関係が出来たのは、この時が初めてなのである。

    ご本人は覚えておられないかも知れないが、この調査団の団長は、塚本本部長が決められたのだが、初めは大槻幸雄さんがその候補だったのだが大槻さんが断られて、高橋鉄郎さんになったと言う経緯がある。

    お二人とも、今でもお付き合いが続いているが、若いころのレースでのお付き合いがベースにあって、何か運動部の仲間のような連帯感がある。

     

    1年で終わった企画だったが、『本当の意味で企画の中枢に返り咲く日を楽しみに』などとメモっているが、

    7年後に、再び高橋鉄郎さんとのコンビで、単車事業本部の企画を担当することになるのである。

     

    ★この年、オリンピックの年だった。 女子バレーがソ連を破って金メダル を獲得している。

    子供たちは、息子は中学生、西日本選抜に選ばれて全国大会では決勝戦でオール清水に敗れはしたが、ここでも優秀選手に選ばれている。

    娘は、小学校4年、マラソン大会で優勝している。

    勉強は兎も角、子供たちのスポーツには熱心に応援している。

    家の借金もあって、生活は豊かではなかったが、会社でも家でも元気な時期であった。

     

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    東日本大地震雑感

    2011-05-10 05:06:57 | 発想$感想

    ★地震が起きて、もう2ヶ月が経とうとしている。

    連日、ニュースは地震関連のいろんな事柄を伝えているし、復興の兆しも少しは見えてきた。

    阪神、淡路大震災が凄かったと思っていたが、今回の東日本大震災は、ちょっと比較できない規模である。

     

    『津波』と『原発』と『被害地域の広さ』が、今までの関東大震災や、阪神淡路大震災と比べて、全然異なる要素である。

    いろんなデーターや、映像など、今回の地震では確りとしたデーターが残されるであろうから、今後の参考には間違いなくなるだろう。

    今から始まる、復興計画に日本人はどんな知恵で対応するのだろうか。

     

    ★菅さんは、『何も決めない』と思われていたら、『浜岡原発の停止』を発表した。

    いろんな問題も、意見もあるのだろうが、60%の人がその方向を『妥当』としているし、その方向がいいのではないかと思う。

    その理由は、東海地震が80%以上の高い比率で、予想されるのであるから、この判断は妥当だと思う。

     

    かって、4年間仙台に住んでいたので、仙台の海岸線や仙台空港などの地形や状況はよく解っている。

    津波が海岸から、5キロも陸地に向かって入ってくるなど考えられないのである。

    だが、昔1000年以上も前だが、その時の津波は、今回と同じ地域まで達していたと、学者先生は仰るのである。

    現実に、この地域に多くの家が建ち始めたのは40年前ぐらいからだろう。

    私が仙台にいたちょうど40年前ごろからだと思うが、ここに『津波が来る』などとは1000分の1%も考えたりはしなかったと思う。

     

    1000年と言う期間が、長いのか短いのか?

    1000年に1回なら、それを『リスク』と考えるのか、どうか?

    なかなか、難しいところである。

     

    ★今、『国が機能しないのなら私たちで動こう』 と、『 ハ―トタウンミッション と言うプロジェクト』 を武雄の樋渡市長さんたちが立ち上げた。

    先日、その会議が東京であって、Ustream で流れたので、2時間47分、ちょっと長かったが、全部聞いてみた。

    ホントに動きだすのではないかと、期待しているのである。

     

    陸前高田市と言う具体的な候補地で、そこの戸羽市長さんもメンバーに入っていて、

    次回は、現地の陸前高田市にみんなが集まって対策を考えると言う。

    武雄市長 日本ツイッター学会長 樋渡啓祐

    hiwa1118  【お知らせ】被災地支援ーハートタウンミッションーのFBページです。ぜひ、ご覧の上、いいね!ボタンお願いします。 http://ow.ly/4PFHM
    MAC斉田  野菜ファン古谷錬太郎ひのきあのん薄墨 桜はまだ剛史

     

    既に、Facebookにファンページが立ちあがっている。

    何もできないが、広報ぐらいでは、お手伝いしようと思っている。

     

    ★ 直接、地震とは関係あるのかないのか?

    国をどうする、と言うような大きな問題は、戦後殆どなかったのではないかと思う。

    戦争も日本には直接関係はなかったし、戦後60年ちょっと苦労はしたけれど、『平和な60年』を過ごして、 みんな『国を考える』ことを忘れてしまっていたように思う。

    今回の大災害で、単なる災害復興では済まなくなった。

     

    今後のエネルギー問題をどうするのか?

    原発は、続けるのか? 止めるのか?

    300に近い三陸の港をどうするのか?

    などなど、国としての明確なリーダーシップが期待されるのだが、

    その先頭に立つ総理大臣に、今までそんな大きな期待など国民は持っていないのである。

    1年や2年で、順送りに代わる総理でも、霞が関の官僚たちが、何とかこなしてきたのである。

     

    選挙で、代議士は確かに選ぶけど、その人が総理として適正かどうか?などの観点は皆無に近いのである。

    大阪の橋下さんが、首相公選論を言っている

    これには憲法改正が必要だと言う。

    単なる9条問題だけではなくて、国民が一度『国』について考える『いい機会』を今回の大災害は与えてくれたのかも知れない。

     

    ★今朝の高橋昭一さんのツイッターです。

    高橋昭一

    takasho624  我が国の防災に対する姿勢はこれまでずっと「発生→対策」主義で後手にまわっています。神戸の人と防災未来センターの吹き抜けには「地上15m」のところに、東海地震や南海地震ではここまで津波が来るという印がある。予測されているのに実感を持った対策がないのは恐ろしいことです。
    古谷錬太郎友定徳子阿部雅彦maruFKUあきひそかnoza8ouji齋藤  崇Shigeyuki Miyataがんばれ民主党政治家の活動

     

     

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    仲間たちの笑顔いっぱいの写真です。

    2011-05-09 05:53:26 | カワサキワールド

    ★3月4日に、明石で集まった仲間たち、『カワサキの想い出、そして未来

    そのパ―テ―会場での写真など、300枚以上入ったディスクを送って頂いた。

    プロの写真家が会場で撮った写真である。

    いい写真、いっぱいだが、その中から20枚ほど適当に抜き出した。

    私なりの注釈を入れてご紹介してみよう。

    残りもいつかまた。

     

    まずは、高橋鉄郎さん。

    われわれカワサキ二輪の何と言ってもリーダーである。

    NPO The Good Times の相談役もお願いしている。

    そしてレース仲間、田崎雅元さん。

    仲間と言っているが、結構エライお方である。 もと川崎重工業社長。 カワサキが初めて鈴鹿を走ったマシンの提供者?でもある。

    その時のライダーは、不思議なことにモトクロスの山本隆くん。 彼がロードで鈴鹿を初めて走ったカワサキのライダーなのである。

    当日出席して頂いた、カワサキの歴史を背負った技術陣のメンバーたち。

     大槻さん、百合草さん、稲村さん、そして今のカワサキの現役、高田プレジデント、技術本部長山田浩平さん。

     

    この会のお客様と言っていい。

    左からススキのレース総監督ご存じ吉村太一ちゃん、私、あのケン鈴木ご夫妻、現MFJモトクロス委員長田中隆造さん、元BSファクトリーの時は、ケン鈴木さんとご一緒だった。

    若いころからのレース仲間なのである。 カワサキのイベントに快く、参加して頂いた。

    これはまた、ご存じの顔がいっぱいの中に、真ん中で写真を撮っているのは、現NPO The Good Times のホ―ムページなど担当の『まっしま』さん。鈴鹿8耐を何回も走っている。

    現在、With Love でご活躍である

    その左は『雷神マッハ』さん、 文字通りのマッハファンでもある。毎日ツイッターやFacebook でお会いしている。

    説明不要、キヨさん。 一番右は、二輪車新聞社の衛藤さん。 50年来のお付き合いである。

    今なお現役。

    司会を担当してくれた、はっぴいえんどさんねこさん、&金谷秀夫。

    ご機嫌なのは60おじさんこと山本隆くん、あと坊主さんは知ってるが・・・・

     

    星野一義と金谷秀夫。

    星野はシーズンインで翌日走行予定なのに、日帰りで参加してくれた。

    いつもながら律儀なのである。

     

    これもまた、いい顔ぶれである。 全国オートバイ協同組合連合会の吉田会長の顔も見える。

    ある意味、二輪の世界を代表していると言っていいメンバーである。

    これは、カワサキグループ、現場関係のメンバーかな?

    みなさん、お互いよくご存じである。

     

    これはまた、いい顔合わせである。

    小林ゆきさん、木村夏也君をご存じかな?  私も40年ぶりに会いました。アマのころですがカワサキで日本グランプリ優勝しています。

    これはまた、すばらしい新旧ライダーたちと、大槻、平井両レース監督です。

    真ん中の加藤くんが、何と言ってもカワサキの一番古いライダーと言っていいでしょう。 キヨさんの先輩ですし青野ケ原のモトクロスも、カワサキ初の6時間「耐久にも出場です。

    杉尾君と多田君は、神戸スーパースポーツか?チームグリーンか、どちらで関係あるのだろう。

    杉尾良文君のことを山本隆くんが『教え子』などとツイッターで言うので、昨日聞いてみたら、  加古川の河原で星野と練習してた時、『中学生の杉尾が来て・・・』などと言っていた。

    これはまた、いろんな人がいるな。新旧誰にでも顔のきく平井さんのすごさかな。

    右から5番目は、山本」隆の熱烈ファン、加園さん、関東からの出席です。

     

    カワサキの人は、みんな解る、有名人です。

    右から、モトボックス関さん、カワサキマイスターの森田さん、このお二人はNPO野団体会員さん、

    東京のナベさんとはホントにお久しぶりです。

    中締めをしてくれたのは、NPO The Good Times の東京総括、村島さん

    私の78歳の誕生日のケーキを頂きました。

    こんなケーキ頂いたのは、生まれて初めてです。

    そして、この会のスターは平井稔男さんかな? ホントのスターたちを呼び捨てで後ろに侍らせての、

    『チャリテ―オークション』1時間、約40万円を売り切りました。

    その様子はUstreamで、世界と同時中継でした。「鈴鹿8耐&Love Bikeメッセンジャー」として活躍するシンガーソング・ライター 左嵜 啓史(サザキ・ヒロシ)さんのライブと平井さんのオークションです。まあ一度聞いてみて、見てみてください。 

     

    当日の会場の3時間、最初からみんな見れますよ。 参加された気分になるかも知れません。

    現時点では その1 808人 、  その2 386人 、 その3 400人 、がご覧になっています。

    その日世界に、同時中継したUstです。 

     

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    泥んこドッジボールと・・・・

    2011-05-08 05:04:58 | みっきぃふるさとふれあい公園

    ★昨年から始まっている、緑が丘と吉川の子供たちとの田んぼの中の『泥んこドッジボール』

    今年も昨日、行われました。

    昨年の雨とは打って変わっての晴天、五月晴れの土曜日でした。

    朝、『さるとるさん』から、『来ませんか?』 とのお誘いの電話、早速行ってきました。

     

    私の住んでいる三木の緑が丘は、所謂新興住宅地で、子供たちは田んぼなどとは縁がありません。

    『田植え』をして、そのあと泥んこの田んぼでの『ドッジボール』、 秋には、その稲刈りをします。

     

    どんな催しなのか?

    写真を撮ってきましたので、アップしながら説明します。

    緑が丘町から参加したのは、『緑が丘こども会育友会』のみなさんです。

    緑が丘こども会育友会は、NPO The Good Times の団体会員さんですが、引率されている『アラケン』さんはNPOの理事さんです。

    このイベントの企画推進者は、NPOのアドバイザー『さるとるさん』ですし、田んぼなど場所の提供者は、『熱血漢丸坊主さん』、この方もNPOの会員さんです。

     まだ、今の時期、田んぼに水は引かれていないのですが、

    こんな水源から水をひいて、田んぼをならして、3日前から『熱血丸坊主さん』が準備をしてくれました。

    このネーミング、確か名付け親は、新潟三条市の国定市長さんのはずです。

    さるとるさんとのコンビで、三条や佐賀県武雄の樋渡市長さんなども訪ねたりする名コンビです。

     三木市吉川町、酒米『山田錦の日本一の産地で、田んぼの殆どに山田錦が植えられます。

    こんな静かな山あいの棚田がいっぱいの美しい環境です。

     

     

     手前が、さるとるさん。 向こうにいるのが熱血漢丸坊主さんです。

    子供たちに楽しく遊んで貰うには準備が大変です。

     

     ドッジボール、始まりました。

    最近は、小さいときから、女の子も活発で、何人も参加してました。

     

     こんな田んぼの中で、動くのも大変だと思いますが、こどもたちは元気です。

    一試合では飽き足らずに、11時半の制限時間いっぱいまで、がんばりました。

     

     戦い終わって、泥んこの身体の清掃は、

    第1段階が、この田んぼのヨコの水源です。

     

     こんな具合に流れに浸かって、

    まず大雑把に泥を落とします。

     

     

     こんな状況ですから、まず何とか泥を落として、

    丘の上の『熱血丸坊主さん』のお城のようなお屋敷まで歩いて上がります。

     

     

     鯉のぼりが泳ぐ、ご自宅で

     

     こんなホースで、2回目の泥落としです。

    順番に、頭や顔の泥を落とします。

    こんなことが自由に出来る環境はいいですね。

     

     

     そして3回目のお風呂です。

    多分、この後、ホントのお風呂に順番に入ったのだと思います。

     

     すっきりした後は、楽しい食事です。

    今年はおにぎりなどと同時に、朝取った『たけのこご飯』の同時進行でした。

     

     そして、みどりが丘の子供たちの『お礼のご挨拶』です。

    みんな笑顔いっぱいです。

    秋には、昨日植えた稲刈りで、また吉川に訪れることになるのだと思います。

     

    緑が丘の子供会の活動は、三木市でダントツの『資源回収』なども有名で、結構お金持ちです。

    夏祭りには、花火を打ち上げたりもします。

    三木アネックスパークでの『古代の窯』のお手伝いも、アラケンさんにやって頂いています。

     

     

     

     昨日は、同時進行で、

    『三木の竹取り物語』 

    三木にはいっぱい竹があります。

    竹炭など、竹を使った活動も盛んです。

     

    そんな、『竹取り物語』のメンバーたちが、

    こんな『たけのこ ご飯』 竹筒を使って、炊きあげました。

    竹の甘い汁がご飯にしみ込んで『最高でした』

     

     

     

    メンバーは、小学校の校長先生や、三木市役所の方たちもいっぱい。

    吉川が中心ですが、これにも『さるとるさん』が絡んでいます。

     

    こちらの方も、いっぱい写真があるのですが、明日朝、excite のブログの方にアップしますので、お楽しみに。

     

    ★こちらの方にも、NPO The Good  Times の仲間たちはいらっしゃいます。

    『異種、異質、異地域の人たちがみんな繋がって楽しい「グッドタイム」を』過ごしています。

     

    全国、どこからでも、どんな方でも参加できます。 

    いろんな活動を活発にやってみたい方には、格好の仕組みです。

    個人会員1000円、団体会員1万円、 入会金だけ1回限りです。

     

    このNPOの収入は、入会金だけです。

    今日は『理事会』です。 

    今年度の決算を締めますが、

    今年度は、約170万円の収入があり、会員の方々に、主として団体会員さんですが、120万円ほど活動資金の補助を差し上げています。

    NPO自体は、インターネットの『システムそのもの』ですから、お金は殆ど要りません。活発に活動されるところには、その活動を援助することにしています。

    カワサキの想い出、そして未来』は、兵庫メグロさんが主催されました。 こんな全国的な活動も、出来てしまいます。

    来年度も、いろいろ頑張りたいと思っています。

     

     

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    ツイッター1周年

    2011-05-07 05:48:37 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

     

    ★ ツイッターを始めたのは、一昨年の末だからもう1年以上になるのだが、

    フォロワーを増やしてみようかと、思いたったのは昨年5月のちょうど今ごろだから、記念すべき1周年と言うことになる。

    今のツイッターに関する情報は、twilog でこんな風に纏めてくれている

     

    記録期間 2010/02/02~2011/05/06 ( 459日間 )
    総つぶやき数 1,395件
    つぶやいた日数 459日
    つぶやかなかった日数 0日
    一日の平均つぶやき数 3.0件
    一日の最高つぶやき数 13件 ( 2011/03/04 )
    つぶやき文字数 84,277文字 ( 60.4文字/件 183文字/日 )
    コミュニケーション率 8.6%
    フォロー増加ペース 379.9人/日
    フォロワー増加ペース 348.4人/日
    フォロワー/フォロー比率 0.92 (逆:1.09)
    フォロー可能人数 159,705人 (残り1,599人)
    Twitter登録日時 2009年12月05日 16時38分03秒
    記録期間 2010/02/02~2011/05/06 ( 459日間 ) Twitterでつぶやく
    総つぶやき数 1,395件 Twitterでつぶやく
    つぶやいた日数 459日 Twitterでつぶやく
    つぶやかなかった日数 0日 Twitterでつぶやく
    一日の平均つぶやき数 3.0件 Twitterでつぶやく
    一日の最高つぶやき数 13件 ( 2011/03/04 ) Twitterでつぶやく
    つぶやき文字数 84,277文字 ( 60.4文字/件 183文字/日 ) Twitterでつぶやく
    コミュニケーション率 8.6% Twitterでつぶやく
    フォロー増加ペース 379.9人/日 Twitterでつぶやく
    フォロワー増加ペース 348.4人/日 Twitterでつぶやく
    フォロワー/フォロー比率 0.92 (逆:1.09) Twitterでつぶやく
    フォロー可能人数 159,705人 (残り1,599人) Twitterでつぶやく
    Twitter登録日時 2009年12月05日 16時38分03秒

     

    ★技術の世界のことは全く解らないが、こんな個人の数値が自動的に勝手に集計されるシステムはただ驚くばかりである。

    自分でも本当かなと思うのは、『つぶやかなかった日数  0日』である。 

     459日、1日も欠かさずつぶやいたことになっているが、最初の2ヶ月は何もせずに放っておいたので、この459日のスタートは昨年2月2日以降のことだろう。

     

    兎に角、昨年の5月からは、『フォロワー10万人』と言う目標を立てて、ただ一途に、毎日フォローをし、フォロー返しを頂いて、それを積み上げてきただけのことである。

    10万人になるまでは、殆ど毎日限度いっぱいの1000人をフォローし毎日その半分の500人ぐらい、1ヶ月に直すと15000人ぐらいのペースで増えていった。

    そんなことで11月半ばだったか目標の10万人が達成できたのである。

    その間、毎日何時間も単純作業をただただ続けてきた。 自分でも不思議に思うほど、こんな根気の要る単純作業は得意分野で、黙々とやることに快感みたいなものを覚えたりするのである。

     

    ★フォロワーが10万人以上になって、情報発信力と言う意味では、確かにその数の人たちに伝わるはずだが、現実に伝わっているのは、ほんの2,3%ではないかと思ったりしている。

    その辺のところは、確認する術は現実にはないのである。

    まあ言えば、10万などという数字を口に出来るのが、『気分がいい』とでも言うところだろうか?

    兵庫県でトップだったリ

    フォロー数のランクでは、これは間違いなく違うと思うが、この集計では鳩山一郎さんの一つ上の全国5位と言うことになっている。

    実は、つい先日まで兵庫県では2位だったのだが、姫路にいた藪崎雅紀さんが、北海道の大学に入ったので(ご本人から大学ではなくて、就職したのですと、訂正がツイッターで入りました)、北海道で集計されるようで、兵庫県ではトップになったのである。

    ちなみに、フォロー数では薮崎さんは全国4位だし、Facebook もやっていて、そこではトモダチで繋がっている。

     

    ★今現在145000人ぐらいになったので、兎に角15万人までは頑張ってみようと思っている。

    今月末か、幾ら遅くとも6月中には達成できると思う。

    そこから先は、幾ら頑張ってみても日本のトップにはなったりはしないので、その時点でまた考えてみたいと思っている。

     

    その一番大きな根拠は、最初のように増えるばっかりではないのである。

    理由はともあれ、1日に 『0.01~0.015%』ぐらいの方が『アンフォロー』されるので、実質200人増やすためには、350~400人増やす必要があるので、

    正直、ちょっとしんどくなってしまっている。

     

    まあいつもの癖で、何事も、そこそこのレベルまでは狙うのだが、『そこから先、努力するのは効率が悪い』と思ってしまうのである。

    囲碁で言えば『初段』。 ゴルフで言えば 『ハンディ 10』。 それくらいなら人並みちょっと上かなと思ってしまう。

    何事もそこそこまでは、頑張ってみる。 そこまで行くと、後は趣味の世界。 決して専門家などは目指したりしない。

    自分の人生、『ハンディ 10 の人生』だなと割り切っているのである。

     

    ツイッター1周年、果たして来年の今頃、どんなことになっているのだろうか?

     

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    フォルクロ―レ音楽祭

    2011-05-06 05:29:10 | みっきぃふるさとふれあい公園

    ★第15回の三木山フォルクロ―レ音楽祭に行ってきた。

    音楽祭など柄でもないのだが、

    e-音楽@みき』が NPO The Good Times の仲間に加わったし、

    今回は三木山森林公園が団体会員さんになることにも決まったし、

    その三木山森林公園で行われる『第15回の三木山フォルクロ―レ音楽祭』となれば、黙って見ているわけにもいかないのである。

     

    ★大体、 FOLKLORE とは一体どんな音楽なのか調べてみたら、

    フォルクローレとは? ~ラテンアメリカの異国情緒あふれる民族音楽なのである

    この音楽祭は、阪神淡路大震災後に、フォルクロ―レ愛好家が元気を出して頑張ろうと立ち上がり始められたもので、

    三木山森林公園はずっとその舞台を提供していると言うのである。

    プログラムを見ると、地元神戸や兵庫県のグループを中心に51グループが全国そしてペルーからも集まる西日本最大のフォルクロ―レ音楽祭だそうである。

     

     

     こんな素晴らしい舞台で、客席は満席である

     。

     地元三木からも、2グループが出演していた。

    これはクラリネットばかりの、初出場の三木市からの『さくら』というグループである。

    いろんなグループがこんなラテンの南米独特の衣装で登場する。

     

     いつもの静かな三木山森林公園とは、また違った華やかさいっぱいの雰囲気であった。

     

    あちこちで、本番前の練習に取り組むグループがいっぱい見られたし、

    これは『エスぺランサ』という 加古川から出演のグループ

     

    屋外のステージでも、本番前に演奏を披露していた。

     

    ★、これは音楽祭とは、直接関係はないのだが、三木山森林公園に300名もいると言う、そのサポーターたちが自分たちの分野の紹介をしていた、サポーターのグループのテントである。

     

     

     

     

     

     その中に、『炭焼きくらぶ』を見つけた。

    三木は竹林がいっぱいある。

    仲間のさるとるさんは、『三木の竹取り物語』などと竹に熱心なのだが、スタートは確か、三木山森林公園と聞いたので、

    掛りの人に聞いてみたら、何となく解っていた。

     

    そんなことでつい話しこんでしまったのだが、

    その方、川崎重工のOBで三木にお住まいだと言う。

    さらに、神戸のカワサキワールドでOB達が説明員を引き受けているのだが、そのメンバーでもあるという。

    ぼけちんさんのことも知っているし、大いに意気投合して、NPO The Good Times に入会して頂いた。

    いつも、カードは持ち歩いているのだが、『これといった方』にしか、お勧めしないのである。

     

    三木山森林公園のフォルクロ―レ音楽祭、なかなかいい半日だった。

    流石に、三木山森林公園の駐車場も、満車で、外の道は入場を待つ車が何百メートルも並んでいた。

    こんな事は三木では、めったに見られない光景なのである。

     

     

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    元気な三木を創る会

    2011-05-05 14:29:33 | みっきぃふるさとふれあい公園

    ★兵庫県三木市は人口8万人ちょっとの、神戸の隣町です。

    三木の人たちは、既になかなか元気ですが、さらに元気にしようと、
    元気な三木を創る会』という会があります。

    会の代表をされている井本智勢子さんは、元三木市の教育長の井本智勢子さんです。
    井本先生の教え子たちは三木にはいっぱいいて、さるとるさんや米田君など私の仲間たちもいっぱいです。
    井本先生は、私たちのNPO The Good Times の早くからの会員さんでもありますし、ヨコから応援しています。


     ★「みき」を好きな仲間が集まり、自分たちのふるさと「みき」を元気にし、
    誰もが「住んでよかった」、「住み続けたい」と真に実感できるまち「みき」を創造していくこと。を目的とし、講演会、見学会、講習会などの開催 、ボランティア活動 、広報誌の発行などを通じ、主旨に賛同する団体・企業・グループなどと連携し幅広いネットワークづくりを進める!!
    とそのホームページに書いておられます。


     

     

    ★ これは三木のまちの地図ですが、美嚢川の北側の三木のまちです。

    5月8日の日曜日、朝6時から

    『第3回のクリーンハイキング』が行われます

    地図に書かれている線は、そのコースのようです。
    どなたでも参加できるようですから、奮ってご参加ください。

    これは三木市役所の8階からの眺めですが、5月8日のクリーンハイキングのコースは、
    この写真の左手の上の方の一帯です。

    三木のまち、なかなか綺麗でしょう。
    緑いっぱいです。高い建物が少ない広いまちです。
    歩いてご自身の目で確かめられたら、もっと三木の美しさが発見できるかもしれません。
    歩かれた後には、『うどんパ―ティ』もあるそうです。


    ★なぜ、会員でもない私が広報しているのか?

    私は、この会の会員ではないのですが、
    NPO The Good Times の会員さんがいっぱい参加しておられます。
    そんなご縁で昨年の秋の京都のバス旅行には誘って頂きました。

    今回も『広報して!!』と頼まれましたので、このブログにアップしています。
    『NPOの広報システム公式ツイッターでも、全国14万人に拡散します』
    『三木のNPO The Good Times の仲間たち』も、
    ちょっと朝早いですが、奮ってご参加ください。

     

     

     

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    みどりの日

    2011-05-05 05:27:15 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

    ★昨日は5月4日、この日が祝日で『みどりの日』と称されていることなど、正直知らなかった。

    カレンダーを見たら『みどりの日』となっていたので、検索して見たら次の様に記述されていた。

    『元は4月29日で、昭和天皇の天皇誕生日であったが、1989年(昭和64年)の崩御からは、昭和天皇がみどりを愛されたことから、みどりの日と改称され、国民の祝日として残された。』

    いろんな経緯があったようだが、いずれもあまり休みには関係がない生活になってからのようなので、関心がなかったのか、今まで気がつかなかったのである。

    4月29日が『昭和の日』だと言うことも、実は今年初めて気が付いた。

    兎に角、4月29日から5月5日の子供の日までは、ゴールデンウイークで、各企業が休日振り替えなどして、『連続に休める週間』だと言うような大雑把な認識だったのである。

     

    ★そんな『みどりの日』 庭のみどりは、確かに色を濃くしている。

    いつもは、4月中に咲く『もっこう薔薇』が今朝初めて黄色い花をつけた。

     

    これはみどりではないが、紅葉の若葉も美しい。

    もっと一面いっぱい葉が出ていたのだが、剪定して間引いたのでこんなにすっきりしているのである。

    こちらは、蔓バラ。1ヶ月前までは枝だけが見えたいたのだが、今はみどりの新葉で覆われている。

    よく見ると蕾ももう膨らんできているのが、ご覧になれるだろう。

    あと2週間もすれば、一面薔薇の花で埋まってしまうのである。

    今一番楽しい時期である。

    ★そんな『みどりの日』、 これも緑に関係のあるネーミングの 『グリーンピア三木』で毎年開催される、

    ミニSLの走行会 を見に行った。

    このイベントをスタートして、もう4年目になっている。

    『グリーンピア三木』では、、丘の芝生の上でこじんまりとした楽しいイベントとして定着している。

    10時からのスタートだが、9時過ぎはまだこんな準備段階である。

    赤い帽子が、このイベントの中心人物、内山利晶さん。 元工業高校の先生で北条鉄道播磨下里駅の駅長さんでもある。

    この秋10月2日には、『三木さんさんまつり』にも、ミニSL は初登場するので、その打ち合わせも兼ねていた。

    こんなスタッフによる試運転に乗せて貰って、レールなど問題ないかをチェック。

    下が芝生は、綺麗でいいのだが、安定させるのはなかなか技術的に難しいのである。

    いろんな準備やチェックを経て、

     

    10時過ぎのオープンには、こんな楽しい雰囲気に仕上がった。

    まだお客さんもまばらだが、昼近くにはいっぱいになるだろう。

    ここのミニSL はのんびりとした雰囲気だが、

    5月21,22日に神戸メリケンパークであるミニ鉄道フェスタは、全国から50台もの鉄道車輛が集まる大イベントなのである

    内山さんも、線路を担当の古橋君も、こんな大きなイベントでも中心メンバーなのである。

     

    今日も三木では乗れますよ。

    今日ダメだと言う方は、21,22日神戸メリケンパークに行ってみてください。

    『みどりの日』の半日でした。

     

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    そして10月2日は、また三木でお会いしましょう。

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    昭和50年(1975)42歳 10月川重単車企画に復帰

    2011-05-04 06:08:00 | 自分史

     

    ★この年の10月に突然、川重単車の企画部門に復帰を命じられた。

    出向した10年前は川崎航空機工業であったが、途中川重、川車、川航の3社合併があって戻った時には川崎重工業になっていた。

    カワサキの二輪事業は、日の出の勢いであったアメリカの市場も、ちょっと陰りを見せて、ようやく欧州への進出も始まり、東南アジアへ進出も検討しようという、そんな時期だったのである。

     

    当時は発動機事業本部で事業本部長の塚本さんは、川航出身であったが、副本部長の青野さんは造船、企画室長の堀川さんは川重本社財務から、

    さらに単車事業担当として吉田専務が直接指揮をとられるなど、この事業をどのように展開するのか、いろいろと社内でも意見のあった時期であった。

    当時の企画室は堀川室長、高橋宏部長の下、部員制が敷かれていたが、なかなかオモシロイメンバーが揃っていた。

    田崎、岩崎コンビで、KMC、リンカーン工場などを担当していたし、田付君が発動機、種子島君もいた。

    私が一応は年次が上だったこともあって、長期計画、開発費、設備予算、人員対策などの分野の担当となったのである。

    下には、武本、森田、今城君など、いいメンバーが居たのである。

     

    堀川さんは企画だけでなく営業部門も担当されていた。

    技術本部は高橋鉄郎さんで、渡辺、安藤、大槻さんなどが部長でおられた。

    生産本部が川畑さん、資材本部に脇本さんだった。

     

    ★企画と言う部門は、川重の中では、企画と言うよりはむしろ管理機能が多くて、川重本社との予算管理などの関係も多く本社の人たちともいろいろと、関係することとなったのである。

    いままでの、10年間はレースライダーや、二輪の販売店と専らお付き合いをしてきたのだが、一転メーカーのエリート集団との対応となったのである。

    長く、販社では部下が100人以上もいるようなことに慣れていて、今度は職位は課長だし、扱う数字は大きいのだがやる仕事はそんなに大きいとも思えなかった。

    川重の本社の人たちも確かにアタマは切れるし、理路整然と話はなさるのだが、どうももう一つ『迫力ナイな』と思ったのは事実である。

    いままで付き合ってきた販売店などは、想いもあったし、話す言葉に迫力を感じたものである。

    今でもそうだが、話す言葉に響きのない人は、幾ら綺麗事を言っても、どうも好きになれないのである。

     

    単車部門も当時は、東大出の人たちは珍しくなく、会議の席上で出身校を数えたら、東大出が一番多かったりした時代である。

    事業部長、副事業部長、企画室長が揃って東大出身だし、堀江、浜脇、種子島、武本と名前を連ねていたのである。

     

    ★そんな中に入っての仕事だったが、ちょうど吉田専務が陣頭指揮で、長期計画を造ろうとされていた。

    その直接担当をしたのだが、吉田さんは元造船、そして鉄鋼の出身で、『こわい』ことで知られていたのだが、単車事業部の特に若手は少々のことには驚かないし、船や鉄鋼の受注産業と違って、自由にモノを発想することには慣れていて、なかなか専務の仰ることに、『Yes』とは言わないのである。

    なかなか『はい』と言わないので、吉田さんは『俺は鉄鋼ではこわかったんだ、俺が怒ったら卒倒したやつがいる。』などと言われたりしていたが、単車事業そのものには、非常に愛着も関心も有り気に入っておられて、熱心に明石に来られていた。

    その『長期計画』の話では、誠にオモシロイ話があり、私は深く関わっている。

     

    ★その年の12月に、吉田専務から『長期戦略』を年末までに纏めるよう指示があり、

    『12月20、21日の土日に須磨の翠山荘で休みを返上して検討したい』と言う指示があったのだが、

    企画室長の堀川さんが、『その日はゴルフコンペがあって、ダメですわ』と断られたのである。

    断る堀川さんも流石だが、吉田さんからは『若手でもいいい。誰か出てこい』と仰るのである。

    堀川さんに、『私がコンペを止めて、出ることにします』と言うことになって、私や森田君の若手で専務のお相手をしたのである。

    吉田さんが『オモシロかった』と言われる、『翠山荘の会議』である。

    ★突然、ゴルフの優勝カップだが、 

    我が家には、優勝カップはいっぱいあるが、これは宝物である。 堀川運平さんが主宰された企営会の純銀製のカップである。

    その第1回の優勝者が田崎雅元さんで、日時が写っていないが、50年12月20日、私は参加を止めた、まさに翠山荘の会議当日なのである。

     

    みんながゴルフをしているさなか、吉田さんは若手を相手にいろいろと話をされたのである。

    当時の川重専務が、途中抜きで課長や係長の若手と直接会議することなどは考えられない時代で、珍しかったから吉田さんもオモシロく感じられたのだと思う。

    いろいろあったが、印象に残っているいい話を聞いた。

    『人生は綱渡りである。過去はよかった、将来はいいだろうと思って綱を渡っていくが、いつも一番低い位置を歩いている。』

    確かにそうだが、将来に夢があるから、今もまた、楽しいのだと思う。

    自分史を書いたりするのも、過去はよかったと思っているのかも知れない。

     

    ★ところで、この優勝カップなぜ私の手元にあるのか。

    このコンペは、田崎さんが優勝した第1回から14回続いている。

    当時の事業部各分野の方が参加されているが、13人が優勝して、その『取り切り戦』で私が優勝して、今我が家にあると言うことなのである。

    13人のメンバーがまた錚々たる方の名前が並んでいる。

    第1回   田崎雅元   昭和50年12月20日  

    第2回   田中 誠   昭和51年4月24日 

    第3回   橋本 賢   昭和51年10月2日

    第4回   宮田敬三   昭和51年12月4日

    第5回   那波義治   昭和52年3月19日

    第6回   土井栄三   昭和52年6月18日

    第7回   古谷錬太郎 昭和52年9月17日

    第8回   堀川運平   昭和52年12月3日

    第9回   苧野豊明   昭和53年3月18日

    第10回  野田浩志   昭和53年7月15日

    第11回  若山禎一郎 昭和54年3月17日

    第12回  酒井 勉   昭和54年7月21日

    第13回  前田祐作   昭和55年5月2日

    みんな懐かしい人たちである。

    第1回のコンペを不参加で、翠山荘で会議などしていたので、神様が『取り切り戦』で勝たせて下さったのかも知れない。

     

    堀川さんには、その後もいろいろとお世話になったがもう故人となられた。 

     そんな想い出のコンペの第1回がこの年にスタートしているのである。

     

    この年の、川重企画はたった3ヶ月だけ、ただ、そこに居たと言うだけだったかも知れない。

     

     

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    昭和50年(1975)42歳 国内販社出向10年最後の年

    2011-05-03 06:11:17 | 自分史

    ★当時の国内販社、最初に出向した時は、

    『カワサキ自動車販売』 自販と言っていた。

    10年後、戻る時の社名は、『カワサキオートバイ販売』、通称『カワ販』と社名変更されていた。

    まだ、世界の市場が、国内とアメリカだけの時代だったので、販社と言ってもカワ販と名称変更した時の社長は川崎航空機の常務取締役岩城良三さんであったし、

    出向者も本社のスタッフは部長以下殆どが川崎航空機籍のメンバーだったのである。

    それに反して、販売第一線は、従来のメグロ、メイハツの代理店社長や販売会社としての採用を開始した若手諸君が中心だったのである。

     

    そんな販社の中で、最初の数年は、本社で広告宣伝とレースを担当し、

    その後、仙台で東北6県の販売代理店管理を4年、最後の方は北海道地区も合わせて担当したのである。

    この4年間は、最高に勉強になった。年上の経験豊かな代理店の社長の方たちとのお付き合いは、二輪販売の全ての要素を教わったのである。

    さらに、大阪、名古屋、東京の大市場の第1線営業を2年半、そして最後の2年半を本社企画スタッフとして、当時展開していた特約店制度を担当していたのである。

     

    ★大阪、京都、名古屋、の特約店からスタートし、全国各地に展開した最後の年となった。

    全国各地のこの制度の説明会は、全てそのスピーカーを務めたのである。

    制度そのものが、この時代の二輪販売店にとっては画期的なものであったし、販売店そのものもさることながら、販社の営業担当への説得、その理解の方がむしろ問題であった。

    納得して『やる』と手を挙げたところから順次、制度の展開を図ったのである。

    販売店の選択は非常に厳しく律して、地元の兵庫県などは候補店が見つからなかったので、自社のセールスやサービスからの『のれん分け制度』を造り、独立希望者を募り進めたのである。

    2月に、兵庫の第1号店として財満君の灘カワサキの検討を開始している。

    その後も、兵庫県は販社従業員だけではなくて川崎重工からの従業員の独立もその後続いて、独特のカワサキ販売網を構築していったのである。

     

    この年の特約店説明会の実施状況は、

    2月に、北関東の埼玉と千葉

    3月には、広島、新潟、群馬、栃木、茨木

    5月に、四国の説明会を行って、東北を残しほぼ完了したのである。

    10月からは、川重の企画に戻ったのだが、最後の仕上げの東北地区は、10月後半にカワ販からの依頼で説明会の巡業をしているのである。

     

    ★ 非常に貴重な販社への出向の10年間であった。

    人生の30代を、製造メーカーに入社したのに、そのほとんどの人が経験しない『マーケッテング』の世界にいたのである。

    国内の流通段階が、世界に比べて遅れていたがゆえに、末端の販売がホントはどんなものかを逆に知ることが出来たのである。

    こんな末端の泥臭い経験が、その後の人生の糧になったし、今現在のNPO The Good Times に繋がっているとも言えるのである。

     

    ★家では息子は、小学校6年生、4年生の時に始めたサッカーは、5年生の時に小学校の単独チームで兵庫県優勝を果たし、

    6年生のときにはオ―ル三木のキャプテンとして兵庫県で優勝し、東京の全国大会に出場している。

    オ―ル三木も結構強くて全国大会でも何回かは勝ち進んで、大会の優秀選手にも選ばれたりして、息子も家内もすっかりサッカー熱で燃え上がっていたのである。

    夏休みの出来事だったのだが、母親たちはみんなチームと一緒に東京まで行って世話をしたりしていた。

    この年あたりから、中学も高校も大学も、息子はサッカー中心の生活になってゆくのである。

     

    ★この年あった、今でもよく覚えていることの一つに、ヤマハオートセンターの杉浦さんとの出会いがある。

    まだ岡崎に1店舗だけの商売スタートしたばかりの時である。岡崎地区のカワサキ特約店の中の1店だった。岡崎地区は当時南君が所長で、後東京でファイブテンを立ち上げた五島君がセールスだった。

    岡崎、京都、大阪南が特約店制度を一番最初にスタートさせた地区なのである。

    そのヤマハオ―トセンターの杉浦さんが出したDMが、大阪の船場モータースの学校を卒業したばかりの息子さんに届いたのである。 船場の岡田さんが、テリトリー侵害だから文句を言ってくれと仰るので、気楽に引き受けて、ヤマハオートセンターを訪ねたのが、この年の7月24日のことである。

    ちょっと文句を言ったら、こっぴどく反論された。

    『この岡崎の田舎町で、一生懸命バイクを売ろうとして、DMまで打っている。安全運転コースも持っているし、ちゃんと認定工場の資格もとっている。大阪の特約店で認定工場の資格を持っている店が何店あるのか。ちゃんとした体制でやっているが、岡崎は大阪と違って田舎だから、DMでも打たぬとなかなか売れないのだ。 』と言うのである。

    『これは尤もだ』と思ったので、それ以上は強く言わなかった。帰阪して直ぐ堺の伊藤さんに認証工場の取得を勧めたりした。

    杉浦さんとは、それ以降も何度もお会いしている。 いろいろやり合ったことも多いがが、結構気があって仲はいい。 家には杉浦さんから頂いた立派な品が幾つもある。

    いまは『レッドバロン』多分間違いなく『世界一のオートバイ販売店』である。 国内300店舗もあるのだが当時は岡崎1店だったのである。

     

    ★この年の4月に船場モータースは新店舗を造り、息子さんはアメリカに修行に出すと言う話も出ている。

    当時は、ハ―レ―の『SEMBA』ではなくて、まだカワサキ色の強い船場モータースであった。

    暴走族=オートバイ=ナナハン=カワサキ と言われていた時代で、業界で安全運転の対策が強く言われていた時代であった。

    マレーシアで日本赤軍によるハイジャックが起こったのは、8月11日のことである。

     

    昭和50年の始まりは、こんな年であった。

    私にとっては、カワ販の出向が終り、10月からは川崎重工業の単車事業部企画部での仕事が始まるのである。

    10月からのメーカーでの3ヶ月は、次回に譲ることにする。

     

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