雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

12月のばら

2019-12-17 05:49:34 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 今年のばらも終わってしまったが、
 12月だというのに何輪かのバラがまだ咲いている。

 12月は来シーズンのばらのスタートの月でもあるので、今から年末にかけて肥料や、蔓バラの整枝の準備などに入ることになる。

 なかなかムツカシク思うようには咲かないのだが、手入れをちゃんとやれば答えてくれるので、毎年今シーズンこそはと思うのだが、なかなか手入れが続かない。



 実際に見るよりも写真に撮る方が綺麗に見える。

   


 この赤はなかなかイイ。



 つる薔薇も、これが最後、
 もう少ししたら、葉を落とし整枝に入る。



 手前の枝は、蔓バラ、

 来年の主枝になる。 綺麗に伸びているから沢山の花を咲かせるだろう。



 今はこんな状態、どのように整枝をするのか、それも楽しみのひとつで、『絵を描く』心境である。
 その通りに咲いてくれると、楽しい。





 枝は横に引っ張るのが基本で、不要な枝は切らねばならない。

 年末までに、その作業は終える予定なのである。


 昨日、三木の道の駅に寄ったら、こんな小さな蔓バラを250円で売ってたので
『衝動買い』してきた。
 来年、多分花は咲くだろう。
 小さな木から育てるのも、また楽しみの一つである。
   


  いつの日にか、こんなになるかも知れない。

      



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜日は休養日だったが・・・

2019-12-16 07:08:26 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★12月15日は日曜日、
 アメリカから孫・門野真也がやってきて、ちょうど10日になる。

 日本に来たのは1昨年の年末から新年にかけてだったので2年ぶりである。
当時は大学生だったが、今はアメリカでだが、サッカーのプロ選手になって、
プロのアスリート』はこうも違うのかと思うほどの変貌ぶりである

 fitbit を身につけていて、四六時中体調管理をやっているので、
私も,それを真似て fitbit を買ってからちょうど1週間目になる。


孫の真也は、日曜日の朝5時16分には、24Hオープンの近所のジムで、
2時間ほどの筋力トレーニングなのである。
朝、5時前には家を出ているのだが、昨夜は8時には寝たというので、睡眠は足りている。

  

 こんな朝のトレーニングから始まって、昼間も走ったりサッカーの練習をするので、1日の歩数は4万歩・消費カロリーは4000calkにもなったりするのである。

 この写真は下の動画から撮ったものだが、動画をみると、これは素人のレベルでないことはよく解る。

 時間のある方はご覧になってみるといい。
  


 そんな毎日なので、1年のうちにこんな体になっている。
 後ろは末弟だが、体はしゃんとしているが、裸になるにはもう少し掛かるのかな?
   

 

★そんな孫の日常生活に刺激されて、私もこの1週間結構頑張った。
fitbit をつけているので、その辺のデーターが残っていて、見ることが出来るのがいい。

 例えば毎日の歩数も、こんな感じだが、そのうち5000歩ぐらいは歩いているのではなくて走っているのである。

   
 

そんなこともあって1日のうち激しく動こうという時間は、『30分が目標』だが、
家内の病院に連れて行った火曜日以外は、すべて30分以上をクリアして、日曜日も防災公園に走りに行ったので、54分を記録している。




★そんなことで、休養日である日曜日もジムには行かなかったが、ちゃんと運動は出来て夕方の記録だがこんなことになっている。

 多分1日経つと、歩数は1万歩、消費カロリーは2000を超えるだろう。睡眠時間は昼寝の1時間が足されている。
 こんな記録が、自然に出るのは、『健康生活』に大いに励みになるのである。


 


 これは孫が自分で作ってとった昼食だが、私もお相伴をした。
 カロリーが計算されていて、太らないように調整されている。

 肉は『鳥の胸肉』で脂身が少ない。 アメリカでは胸肉の方が好まれてもも肉よりも高価だというのだが、日本では反対のようである。

 料理も得意で、これも結構旨かった。
  


★アメリカの両親からも頼まれている土産を買いに行った。


  

 ウエルシアでいろいろ選んでいた。
 


 大したものはないが、こんな類は、日本の方が良くて安いのかも知れない。

 

 
 薬屋の横にあるのが24時間オープンしているジムである。
 


午後は、三木の街まで降りて、ユニクロ行っていろいろ買ってきた。
アメリカにユニクロはあるのだが、日本のようには安くはないのか?
 一度、行ったことはあるが、ちょっと日本のユニクロとは違った感じだった。

   


  そんなことで、昨日の日曜日は、結構動き回った1日になった。
 今週は、どんなことになるのだろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大槻幸雄さんのこと いろいろ

2019-12-15 07:46:45 | カワサキワールド


★ カワサキのZ1/Z2が世に出たのは1972・73年のことだから、
もう50年も前のことなのに、
未だに世の中で絶大な人気を保っているのはなぜなのだろう?

このZの開発責任者であったのが大槻幸雄さんで、
今回の日本自動車工業会の殿堂入りもこの功績によるものなのである。


そんな大槻幸雄さんとは、何故かご縁があって、
最初にお会いした1965年以来延々と54年にもなるのである。
一番近々にお会いしたのは、この12月11日の『Z1会の忘年会』で、
この忘年会に豊岡から愛車に乗って参加された『青木隆』さんがFacebook に載せられたものをお借りしたのだが、なかなかよく撮れている。


Z1会として今回の受賞のお祝いの記念の楯を、副会長の丹波さんから大槻会長に贈った時のものである。
 


会が終わって、店の前で撮った記念写真には私も、東京からやってきた藤木さんも、右端はKAWASAKI Z1 FAN CLUB の事務局長登山道夫さんである。
 



★確か来年は90歳におなりになる大槻さんは、
昨今はまさに『好々爺』そのもので温和な紳士なのだが、

あのマッハやZを開発されたころの若い頃の大槻さんは、
何事も『世界一を目指す』と言って、微塵の妥協も許さない厳しい方で、
常に自らの信念通りに行動されていて、近寄り難い存在だったし、
大槻さんにズケズケものを言ったりした方は、
技術屋さんではおられないのではなかろうか? などと思ってしまうのである。


★そんな大槻さんなのだが、私はなぜか大槻さんに『気兼ね』などしたことは一度もなく、最初にお会いした時から『いい関係』が続いているのだが、
その出会いが『レースチーム』であったからかも知れない。

『カワサキが鈴鹿サーキットを初めて走った』のは、
1965年5月3日のジュニアロードレースで、ライダーは山本隆だったが、
このレースにカワサキはホンダに続いて3位入賞を果たしたのである。

実はこのレースは会社の許可などは受けておらず、山本がどうしても走りたいというものだから、こっそりと勝手に出場したレースなのである。
ところがホンダに次いで3位に入賞したものだから、
ロードレース熱』は一気に高まって、このレースの1か月後にあった『アマチュア6時間耐久レース』には、3台のマシンを正規に出場させることになるのだが、
この時初めてカワサキのレース・チームに監督が誕生して、
それが『大槻幸雄』さんなのである。

その契機となった、ジュニア・ロードレースのマシンを都合したのは田崎雅元さん、
金を出したのは広告宣伝課のなのだが、
ひょっとしたら、大槻幸雄さんも陰で関わっておられたかも知れないのである。

この話を一度、大槻さんに聞かないとと思っているのだが、
山本隆はその後大槻さんに『開発中のGPマシンに乗れ』と何度か勧められたという話は何度も聞いているのだが、
どうも大槻さんは「1965年5月3日の鈴鹿のレース」を現地でご覧になっていたようなのである。


★カワサキの公式な初のロードレースは、6月13日の『アマチュア6時間耐久レース』で、その監督は大槻さん、助監督が田崎さん、そしてマネージメントを担当したのが私、だったのである。

そんな大槻さんとのレース・チームでのお付き合いは、
1966年10月16日のFISCOで行われた日本GPまで続くのだが、
いろんなご縁があって、先日このブログにアップした『藤井敏雄さん』については、マン島の現地から『ご遺体』を送り出して頂いたのが大槻さんで、羽田でお迎えしたのが私なのである。
デグナーが事故で入院した時も、
いろいろと関係したのは、『大槻さんと私』だったのである。


★その後、大槻さんは技術部の市販車開発担当に戻られるのだが、
開発を担当されたマシンは、大型の高いレベルのマシンばかりで、
小型車については全く興味をお持ちでなかったように私は思っている。
 
カワサキが大型車の開発が一段落して、『小型車分野』を目指した時期に

●『開発途上国市』のCKD分野への進出を目指す提案をしたのは私なのだが、
当時の塚本本部長が、その調査チームの長に大槻さんを指名されるのだが、
大槻さんが断られたので、髙橋鐵郎さんがその長をされることになったのである。
逆に、髙橋鐵郎さんはこの分野に非常に興味を持たれて、
技術開発本部長から、『場開発プロジェクト室長』になられたりしたのである。

●その後、髙橋さんの後の、技術本部長となられた大槻さんに、私がCKD市場用の110ccの車の開発を、技術本部会議でお願いしたことがあるのだが、
大槻さんはなかなか首を縦に振って頂けないのである。
普通は大槻さんがNOと言ったら、みんなそこで諦めてしまうのだが、お構いなしに粘っていたら、
松本博之』さんが『私がやりましょう』と助け船を出してくれたのである。

その車がカワサキの車の中で圧倒的な数の売れたGTOなのだが、
CKDの部品輸出のため、日本サイドにはその台数記録がないのである。

  



★大槻幸雄さんが関わられたカワサキのマシンの第1号はあのマッハⅢで、
その後はあの名車Zと続いて行くのだが、
当時のカワサキの主力市場はアメリカだったのである。

いま、カワサキの単車関係の旧い歴史を昔の人たちが語る『カワサキアーカイブス』という企画が進行中で
大槻さんも、私もそれを語ったりしているのだが、

 
   

 

これはそのアメリカ版で、
当時のアメリカでの数々のマシンの開発の想い出などをアラン・マセックなどが語っているのだが、その中にも大槻幸雄さんがいろいろと登場するのである。



 

 
そんな画面の中の一部をご紹介してみる。

当時のKMCの副社長がアラン・マセック語っている。



 
世界一を目指していますね?』と言ってるのは、
それなら明石側は『出来ない』などと言わずに
挑戦すべきだ』と言っているのである。

 これはZ ではなくてマッハⅢ の話なのだが、
 
 3気筒は素晴らしいと思うが、『CDI』を採用すべきだとアメリカ側の主張に対し、
 日本サイドは、『その部品を作る業者がない』という理由で断っていたのだが、

  


いろいろと言っていたら、『大槻さんがそれをやってくれた』と言っているのである。







こんな話は、私も初耳なのだが、大槻さんらしいなと思うのである。
『HP大槻』とは当時馬力を出すことに猛烈な関心のある大槻さんのことを、アメリカ人達は『Mr.HP』と呼んでいたのである。

この動画はまだ製作途上だが、
Zに関しては、 別の当時の担当者が、

これは疑いもなく、これまでに創られた二輪車で最高のものだった』と語っている。

 


★振り返ってみると、カワサキの単車事業の創生期は、いろいろと自由な雰囲気があったし、アメリカサイドのアメリカ人が開発に対しても、細部の要求をしていたと思うし、『ムツカシイ』ことでもそれを受け入れて、挑戦しようという雰囲気があったのかなと思う。

いろんな方がおられたが、間違いなく『大槻幸雄』さんも、そんな中のお一人で、
今は、考えられないほど温厚になられて、若い頃の面影はなかなか見られない。

私は実は『ゴルフ』を始めたのは結構遅くて、42歳になってからなのだが、
それは、髙橋鐵郎さん・大槻幸雄さんの先輩お二人が『ゴルフ大反対』で、何となく『やり難かった』のである。
いつ頃からか、なぜそうなったのかもよく解らないのだが、お二人とも『ゴルフ大好』になられて、大槻さんなどはZ1会の会長をずっと務められて、来年は第71回~74回まで、4回のコンペが既に日程まで決まっているのである。

ひょっとしたら『公私』共に一番密接に長い間、お世話になったのは、
大槻幸雄さんなのかも知れない。

来年、4月18・19日には、大槻さんの故郷・綾部で、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の
Zをこよなく愛する』ユーザーたちと一緒に、大槻さんを迎えて、今回の受賞のお祝いをしようと企画中なのである。

 来年もまた、大槻さんとのお付き合いは続きそうである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高齢者は太った方が長生きする

2019-12-14 05:37:18 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『日本の高齢者は「やせ過ぎ」体重を戻せば死亡リスクは半分以下に
 
 というこんな記事が出ていた。








 『我が意を得たり』である。
 いつも掛かりつけの医者に『体重を落とすように』と言われるので、
そう言われるけどみんな死ぬときは、やせ細って死ぬ』ではないですか、
といつも反論していた。
 
 ただ、先生が言われるには 『古谷さんは、メタボではない』と言われるので、
 『なぜか?』と聞いたら、『メタボ』とは体重も多く、血液検査の血糖値が高い人たちのことを言うので、血液検査の結果は、すべての項目が正常である私の場合は、当てはまらないと仰るのである。



★この記事にはいろいろと書かれているが、


 抜粋して、ご紹介すると


身長と体重から算出されるBMI数字は、一般的には「22」が標準、「25」を超えると肥満、「18.5」を下回るとやせとされていますが、高齢者の場合、女性は軽度肥満(BMI 23~24.9)、男性は中等度肥満(同27~29.9)の人がもっとも死亡のリスクが低く高齢者の場合、女性は軽度肥満(BMI 23~24.9)、男性は中等度肥満(同27~29.9)の人がもっとも死亡のリスクが低くなります。

つまり、高齢者は年齢とともに少しずつ太っていくのが安全な年の取り方、ということがわかってきているのですが、日本では全く逆のトレンドがあります。高齢者は年齢とともにどんどんやていくのです。日本の在宅高齢者の実に6割は、BMI「18.5未満」の、やせすぎの状態なのです。
 
どんな名医にかかっても、どんなに高級な薬を飲んでも、実は死亡のリスクはたいして変わりません。でも、やせている人はしっかり食べて体重を取り戻すだけで、死亡のリスクが半分以下に下がるということです。
 特に高齢者の場合、まずはしっかりと食べて体重と筋肉を守ることが、より効果的な健康管理の方法だと断言できます
。』

 
と書かれていて、『私の持論』通りのことが言われているのである。

私自身は今のところ、全く健康には問題はないのだが、人間の寿命などは、決まっていて、好きなように生きていけばいいと思っている。
 私自身は人生で2度ほど『死にかけた』が2度とも運よく切り抜けられている。
運がよかった』のか『そんな運を持っていたのか』と言えば、後者だと思っている。


★因みに、私の身長は168cm。 
体重は80~82kg で82は少々身体が重たいので80Kgぐらいにしたいと思っているのだが、    81Kgの場合の『BMIは、28.7』なのである。


 12月に孫が写してくれた写真だが、こんな体型である。


           


そしてBMI28.7
高齢者の場合、男性は中等度肥満(同27~29.9)の人がもっとも死亡のリスクが低くなります
という一番長生きする値のところに入っている。


この2年間、ジムに行ってトレーニングを続けているが、
筋肉は増え、脂肪率下がったのだが、
体重は一向に減らないので、半ば諦めていたのだが、
今の体重が高齢者にとっては『最高にいい値』だというので、この記事には大いに気分を良くしている。

ホントにこの記事が正しいのであれば、大いに自信を持って、
今の生活態度のまま、人生を楽しく生きたいなと思っている。

 皆さんは、どちらが正しいと思われますか?





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防災公園に2度行ってきた

2019-12-13 06:07:15 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★12月に入って、いろんなことが重なって、昨日まではなかなか忙しい日が続いた。

 親戚の法事に始まって、孫がアメリカからやってきたお迎え、大学の野球部の90周年記念行事に、Z1会の忘年会と続いていたのだが、

昨日の木曜日はジムは休みだし、のんびりとして朝から三木総合防災公園に走りに行った。
 
 スロージョギングで1.8キロ、その後芝生の広場でダッシュをやって、もう一度周回コースを回って、最後にこんな階段を上って終わりである。
 
 最初の72段は結構勾配が急で、こんな感じ。
   


 そのあとの43段は少し緩やか、
 ここまで一気に登って、ここでちょっと休憩、



 そのあとの40数段を駆け足で登って終わり。






 サッカー・コートが小さく見える。




★ 大体こんな感じで、ジムのない木曜日と土曜日は防災公園に来ているのだが、
コレで大体6000歩前後になるのだが、

 昨日は午後に、孫がサッカーの練習をするというので、もう一度防災公園を付き合った。

 約50分。サッカーのハーフぐらいの時間をそんなにきつくはないが、
動画に撮りながら、走り続けていた。

  

 




 私もお付き合いで、その周辺を走っていたら、
 
 fitbit の記録では、
 11,548歩  歩いた(走った距離) 8.37キロ  消費カロリー2070kcal

 と出て、
 アクテイブに動いた時間が1時間を越えたりした。
   
 
  
   


★ これは、なかなか気分がいい。
 動きはそんなに激しくはないのだが、結構スムースには動けていて、
 『バタバタ感』はないのがいい。

 孫の動きを見ていると、当たり前の話だが、軽くスムースなのがいい。
 簡単なようで、『軽くスムース』に動くのがムツカシイ。


 折角、 fitbit も腕に付けたのだから、

   

 
 これくらいの『数値』を目標にやってみたいが、 果たしてどうかな?

せめて、孫が滞在している新春まで、
ちょっとだけ頑張ってみようかと思ったりしている。

 
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキZ1会 の忘年会でした

2019-12-12 06:23:26 | カワサキワールド

★昨日は、スタート以来70回のコンペを重ねている
カワサキZ1会』の忘年会でした。

今回はこの会の会長・大槻幸雄さんの日本自動車工業会の殿堂入りのお祝い
を兼ての忘年会でしたが、
 川崎重工業単車事業本部の方々は勿論、
 二輪レースに関係された有名ライダーたちも、
 カワサキ販売網の重鎮と言っていい人たちも、
 こよなくカワサキを愛する熱烈なユーザーたちも一堂に会して、

 独特の『カワサキワールド』の雰囲気を創り上げた楽しい2時間半でした。


★ 2時間半をこんな1分半の動画に纏めたのでご覧ください。
この会の雰囲気だけは、お解りになると思います。

   


 

★スナップをいっぱい撮ってきたので、ご紹介を兼ねて、順不同に並べてみます。

 まずは大槻さんの殿堂入りを記念して、出席者全員に配られたゴルフボール。

  


 丹波副会長からは、記念の楯が大槻さんに

 

 


 
今年のZ1会のMVPには、カワサキのOBで、
一般社団法人 日本二輪車文化協会の会長を務める吉田純一さんに!
 
 この会では、業界のエライサンも 『純ちゃん』で通っています。

 


 これは、ご存じキヨさん、

 

 
 多田喜代一と塚本昭一さん  ご機嫌です。



 
 左から 
 カワサキの「ライムグリーンカラーの産みの親」、リンカーン工場の斎藤さん、
 その横は、顔がちょっと見えにくいが、KMC社長も務めた野田さん、
 大槻さんのヨコは、かって単車事業本部長も務めた丹波さん、
 その隣はこの会の世話役の一人、数々の名車の開発に携わった積山さん。
 


 多田さんと一緒にいるのは、
 カワサキの名物男、
 Kawasaki PLAZA の全国第1号店 PLAZA 明石のオーナー でもある、
 メーちゃんこと山本さん


 


 左はかっての明石カワサキのいつも愉快ないっちゃんこと吉田一郎
 右は、この会合に遠く東京からやってきた、ちょっと有名な藤木さん
 東京の方なら、みんな知ってると思うけど、カワサキのOBです。
 


 豊岡から愛車に乗ってやってきたカワサキファンの青木隆さん、
 純ちゃんの横は 紅一点の松田さん。
 


 奥から、カメラを構えているのは、
 『カワサキバイクマガジン』の井田さんです。
 毎年、参加されていて、
 来年の『カワサキバイクマガジ』にはその記事が出るでしょう。


 ●ちょっと脱線ですが、
 この会合でKZFC事務局長の登山道夫さんがご紹介されていましたが、
 
 来年4月18日・19日には、
 大槻幸雄さんの出身地の京都の綾部で、
  KAWASAI Z1 FAN CLUB のメンバーたちが、全国から集まって
 大槻さんの今回の受賞のお祝いのツーリングが企画されていて、
 勿論大槻さんもご出席ですが、Z1会のメンバーたちも何人かは参加で、
 間違いなく100人以上の前夜祭になるでしょうし、
 ひょっとしたら19日には、
 一泊の宿は満杯で参加できない方も参加できるイベントも企画されるかも?

 カワサキバイクマガジンは、その取材にも参加されることに! なりました。





 
 豊岡から来た青木さんと、
 大槻さん、丹波さんとの記念撮影をしていたら、
 
  


  どんどんメンバーが増えて、こんなに賑やかに、
 一番右のひときわ大きい方が、
 KAWASAKI Z1 FAN CLUB 事務局長の登山道夫さん。
 


 私の写真がないと、登山さんが気を遣ってくれて、
 こんな写真をFacebook にアップして頂いたのでちょっとお借りしました。
 
 


 これは、Z1会の永久幹事の仲さん、
 彼がいるから、この会が70回も続いているのだとも言えるでしょう。




 
この会で、来年のZ1会の開催日も、4回既にきっちりと決まって発表がありました。
来年は4回とも参加できるように、頑張りたいと思っています。


★ 世の中に、こんな会合は本当に珍しいといつも思っています。
  世の中の職位で言うと、相当な肩書の方々も、一般の社員の方も、
  有名ライダーも、メカニックも、販売店のオーナーも、
  カワサキのバイクのファンたちも
  みんな文字通り『ヨコ一線』で繋がってのゴルフ会なのです。

  一般の方々も『カワサキが好き』『Zが好き』な方は、参加資格がありますから、
  是非、ご参加を!
  年4回、三木セブンハンドレッドクラブで、開催されています。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

fitbit  ご存知でしょうか?

2019-12-11 07:18:26 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★12月8日の午後から、
私の左手にはこんな fitbit が寝る時も、そのままはめられている。

『fitbit』と言っても多分殆どの方が初めて聞く名前で、
一体どんな機能があるのか?』 ご存じの方はおられないのでは?
と思ったりする。

   


 
★ fitbit と検索すると、こんな画面が現れて、


 
Fitbit は毎日のアクティビティ、エクササイズ、そして睡眠の記録を通して、
あなたの健康的でバランスの取れた生活をサポートします。』
 

というコピーが現われる。 
一言で言うと、アメリカで生まれた『健康管理時計』とでもいうべきなのだろうか。

 


 
★12月5日にアメリカからやってきた孫が持っていて、
毎日の体調管理として歩数・走行距離・心拍数・睡眠状況・消費カロリー などが
スマホやパソコンと連動されていて、
いつでも今の状況を見ることが出来るのである。

アメリカのスポーツマンなどが愛用していると聞いて、
私もAmazonに注文したら、12月8日の午後家に届いたのだが、
設定というかセットするのがなかなかムツカシクて、
それらは全て孫にやって貰ったのである。


 アメリカ製なので、日本での価格は、アメリカの2倍もするようである。

  




★いま私のパソコンの画面の fitbit を覗くと、こんな数値が並んでいる。

今日は家内を病院に連れて行ったりしたので、ジムにも行っていないし、ランニングもしていないのでこんな数値だが、
 
 『6000歩・2000カロリー・走行距離5キロ
 あたりを毎日の目標にして頑張ろうかなと思っている。

 



孫のトレーニングの状況などを見ていると、さすがはプロのアスリートで、
朝5時からジムに行くし、サッカートレーニングなど結構な運動量で、
1日の歩数は4万歩、4000消費カロリー』と桁はずれの運動量だが、
それらが正確に記録されて、管理されている。


私が対抗出来たのは『睡眠時間』と『その眠り度』で、
7時間『いい睡眠』が出来ている状況だった。

 
 


★ 私自身は、体調管理には結構熱心で、ジムに通いだして3年目に入っているし、毎日3キロ以上は走っているし、先日は野球のダイヤモンドを28秒で一周出来たりした結構『元気な86歳』なのである。

筋肉量を増やしながら体重はもう1~2キロ減らしたいのだが、
そのためにも終日腕にこの fitbit をつけていて、正確な記録をとっていこうと思っている。
大体、年を取ると小さく縮じまってしまうものだが、この2年ジムに通って筋トレをしたら、上半身あたりが大きくなったのを嬉しく思っているのである。


★これは孫が近くの公園で約50分休まず動いたのを
1分半の動画に纏めたものなのだが、
孫の腕には fitbit がはめられていて、その運動量が正確記録されている。



 


いろんなことが、科学的に解り、管理される世の中になってきた。
これらの数値は、スマホやパソコンとも連動していて、自動的にデーターが溜まっていくので、
私はまだ1週間も経ってはいないのだが、今からは毎日の運動量が正確に把握できて、『体調管理』に大いに役立つものと思っている。

できれば、今以上の『体力』をせめて『90歳までは維持したい』と思っているのだが、この数年の推移を見ると、『充分その可能性はある』と自分では思っている。
それを実現するためにも、
いい味方=fitbit 』が現われてくれたものだと喜んでいる。

筋肉は何歳になっても付く』というのは間違いない事実だから、
是非、高齢者の皆さんもどうぞと言いたい。
 
私がトレーニングを始めたのは、15年前70歳の時なのだが、
まさに『継続は力』を実感している『今日この頃』なのである。

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1966年のカワサキのレースの出来事と 藤井敏雄さんのこと

2019-12-10 07:06:30 | M/Cレース

★1966年(昭和41年)が私のレース担当の最後の年となったのだが、この年はいろんな意味で大変な年だったのである。
 
 この1年のことを日記をめくりながら振り返ってみたい。

そんなきっかけになったのが、Facebook に『忠孝松本』さんがアップされた、
藤井敏雄さんのこんな写真』なのである。

 藤井敏雄さんの経歴など写真と共にこのように松本さんは紹介されている。

 
トーハツのライダー・組立工を経て鈴木誠一さん・久保和夫さんの率いる名門「城北ライダース」に移籍。
1962年スズキに入社し、メカニック・車両開発ライダーとして活躍。
1966年川崎航空機工業へ移籍。エースライダー・メカニックとして第2戦西ドイツGPから125ccクラスで単身世界選手権へ参戦する。
1966年世界選手権第8戦のマン島TTレースに、カワサキ125ccで出場。
問題を抱えながらマン島初出走するも、予選前の義務周回1周目、北部の避難港ラムゼイのコーナーで塀に激突し、将来を有望されたレーサー人生の幕を25歳で閉じる。


    


いろんなレースの想い出のある中で
一番悲しい想い出』が藤井敏雄さんのマン島での突然の事故死なのである。

素晴らしい好青年だった』という印象を持っているのだが、悲しい結末だったので、ブログにアップするのも・・・と思っていたのだが、この写真を見て藤井敏雄さんのことと共に1996年の出来事を振り返ってみたい。

 

★ この年の1月5日、初出の日藤井敏雄はやってきた。
 日記にはこのように書いている。

  
        


前年あたりからカワサキもGPレースに参加しようということになって、
ロードレースライダーの契約なども検討されていたのだが、藤井敏雄との契約交渉は技術部がやっていて私は詳しくは知らなかった。
 具体的な契約内容のみ、他のライダーと共に私が担当していたのである。

そんなことで初出の日に出社すると、藤井敏雄さんが既に来ていて、びっくりした。
『古谷さんに会って具体的な契約をするように』技術部から言われたのでやってきたと仰るのである。
たまたまだが、前年のモータショーの時に久保和夫さんと一緒にカワサキのブースにやってきたので、知ってはいたのだが初対面みたいなものだった。
契約交渉が、なかなかムツカシかったのは、彼は『ライダー契約ではなくてマシンの貸与契約』にして欲しいという希望で、その貸与マシンでヨーロッパを転戦するので、その結果を見て日本GP前に『ライダー契約』をして欲しいという、ライダー契約としては異例の内容となったのである。


★初出の日にこんな藤井敏雄さんとの異例の契約で始まった1年だったのだが、
いろんなことがあったが8月末までは至極順調に推移していたのである。

 ● 日記にも書いているように、藤井と契約する代わりに安良岡を切れと言うのが上の指示だったのだが、金谷秀夫が鈴鹿から帰りの車の中で『何時壊れるかもわからないようなマシンの危険なテストをやらしておいて、それはない』というのである。そんなことで私の独断で安良岡健さんとの契約だけは秘かに繋いでおいたのである。 これは藤井・三橋・金谷で鈴鹿テストをした1週間後のことだが、これはその後安良岡にとってもカワサキにとっても良かったと思っている。

● 2月末には山本隆が結婚し、私はその仲人を引き受けたりしているし、4月にはちょっと問題があった金谷秀夫のことも、片山義美さんに頼まれて、いろいろやったら上手くいったし、

●5月末には、西ドイツGPで初出場したのだが、他メーカーとのマシンと遜色なく走れたという報告を受けたし、

●7月にはモトクロスのニューマシンF21Mが世に出て、連戦連勝を重ねたし250A1のレーサーも開発されることになって、この辺りまでは順風満帆だったのである。

 
★それが8月27日、レース出場のためFISCOにいた私のところに明石から電話が入ったのである。
 『マン島で藤井敏雄が転倒して死亡した』と、それからすぐレースの総責任者であった山田熙明部長(後川重副社長)から『藤井宅に報告に行くように』と指示があり、赤羽の自宅まで報告に伺ったのである。

8月29日には『緊急事故対策会議』が開催され、会社としても初めての経験だったし、『レース』に関しても解る方は限られていて、『マシン貸与契約』ということで、事後対策についても補償についてもいろんな意見が出たのだが、
契約担当者としては、『マシン貸与契約』だと言っても、『そこらの市販車を貸した』のとは訳が違うと頑張って、事後対策も、補償も会社側がやるという結論にはなったのである。

 マン島からの『ご遺体』は、現地でスズキの方々のお世話にもなり、たまたまドイツ留学中の大槻幸雄さんがマン島に行かれていて、大槻さんが送りだし、私が羽田でお迎えしたのが、9月1日で、2日にお通夜、3日にご葬儀と続いたのである。


★そんな中で9月5日にはデグナーとライダー契約する方針が決まり山田熙明部長と私とで担当することになるのだが、外人ライダーとの契約は初めてのことだし、社内には聞ける人もいなくて、MFJの運営委員をしておられたホンダの前川さんに9月10日に、鈴鹿まで出向いていろいろお聞きし、日本語の原案は私が創ってその英訳は山田部長が全ておやりになったのである。

 そのデグナーは9月26日に来日し、9月29日にはFISCOでのマシンテスト走行をしたのだが、チェン切れで転倒し頭を打って入院してしまうのである。マン島で藤井敏雄さんを亡くして1か月後のことで、心配したし大変だったのだが、本番には出場は出来ずに『カワサキのデグナー』は実現しなかったのである。

10月16日にFISCOで開催された日本GPはカワサキは安良岡が7位に入賞し、同時に行われたジュニア250では、ガリー・ニクソンと金谷秀夫が同じベストラップタイムを記録するという大接戦となったのだが、惜しくも2位になってしまった。
 このレースで歳森康師が転倒し『鎖骨骨折』するのだが、私が歳森に掛けた言葉は『よかったな』だったのである。
 これはいま思っても、その時の私の正直な気持ちだったのだと思う。

★このレースの後、大槻幸雄さんは、技術部の市販車の開発担当に戻られたし、安藤佶郎さんはアメリカのリンカーン工場に、私は東北6県の代理店担当で、仙台に異動することになるのである。

 いろんなことがあったが、最後の1年は大変な1年だったと言っていい。

 

 
    
     






コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『12月8日の想い出』 と令和の時代

2019-12-09 06:36:54 | 発想$感想

★12月8日である。
 昭和16年12月8日、大東亜戦争が始まったとき、私は小学校3年生だった。
 その開戦の詔書はその後毎月8日が『大詔奉戴日』と指定され、
毎月8日には全校生徒が運動場に並んで、校長先生が読まれる『開戦の詔』を頭を垂れて聞いていた。

 そんな詔の内容を見るのは初めてだが、こんなことだったようである。
 1行目辺りは、何となく覚えている。




その口語訳はこのようなことだとか。


神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。
私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げ、この戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。
そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。
今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。
残念なことに中華民国は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石一味は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。
それだけでなく、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、忍耐してきたが、
米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、
その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。
皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
御名御璽
昭和十六年十二月八日


★ 世の中ではいろんなことが言われているが、かっての大東亜戦争もそれなりの『言い分』はあったのだろうが、『敗戦国』になってしまうと、無条件に日本の言い分は言えなくなってしまったのだろう。
 私たちが小学校で習ったことは『侵略戦争』などではなかったことは確かである。

そんな想い出もある『12月8日』だが、
4年後の終戦の年の『昭和20年12月8日』は、私たち一家が朝鮮京城(今のソウル)から、日本に引き揚げて、博多港に着いた日なのである。

ソウルから釜山まで『貨物列車』で移動し、釜山からは日本の船で引き揚げてきた。
今から74年も前のことだが、私は中学校1年生だったから、結構ちゃんと覚えている。

 戦争中の日本も、小学校4年生ぐらいまでは、毎年夏・冬に一家で明石まで帰省していたので、戦前の明石も神戸も、下関から明石までの沿線の風景も、知ってはいたのだが、昭和20年12月8日に見た、空襲で焼け野原になっていた『日本の風景』は、とりわけ広島の様子はすさまじかったし、故郷明石も全く家のない『焼け野原』だった。

★あれからいろいろなことはあったが、平和な日本に再建されて、74年後の日本は、新しい『令和の時代』になった。

 今年の『12月8日』を迎えて、私のアタマにあるのは、子どもの頃過ごした『南北朝鮮』がどうなるのかな❓と言うことである。
 いろんな問題があって、日本人は韓国は嫌いな人が多いのだが、私にとっては子供の頃を過ごした懐かしいところだし、当時は朝鮮ではなくて日本だったし、南も北も分離などはされていなかった。
 あれから70年以上も経って、朝鮮問題もいろいろあったが、今年が一番注目度が高いのでは?

 今の『文政権』はダメだとは思うが、これからの1年間にはいろんな動きがあるように思う。
 果たして、来年の12月8日は、どんなことになってるかな?と思っている。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野球部創部90周年記念イベント

2019-12-08 08:00:55 | スポーツ

★ 『大学の野球部の創部90周年イベント』が
オリックスのホームグランドの一つである「神戸ほっともっと球場」を借り切って盛大に行われた。

 


朝10時からは現役対OBの硬式野球から始まって、盛り沢山なイベントが行われ、
3時半からは球場上部にあるレストランでの総会と続いたのである。

 
野球部創部90年になるとは知らなかった。
私が『生まれる4年前』の昭和4年(1929)には既にあったとはビックリである。

70名を超すOB諸兄が集まったのだが、私は『上から2番目』だった。


 

 
これは午前中グランドでの催しから参加したメンバーである。
赤いエンゼルスの帽子が私である。

 

 

現役時代のリーグ戦は、甲子園球場で行われていたこともあって、
私がプレーした回数が「一番多い球場は甲子園」という全くウソみたいな話だが、
当時は兵庫県の夏の予選も甲子園球場だったし、
特に『甲子園』が特別な球場でもなかったのである。

ただ、このオリックスの『ほっともっと球場』の芝生の上に立つのは、初めてだし、
トス・バッテングやテイー・バッテングもやらして貰ったし、
ダイヤモンド一周」のタイム計測にもチャレンジした。

日頃から走っているし、大体120メートル以上にはなるダイヤモンド一周の計測は『28秒』と出て、86歳としてはスムースに走れたので、皆さんビックリされていた。
家族として来ていた小学1・2年生と同じぐらいのスピードだった。

兎に角ダイヤモンド一周をもたもたせずにスムースに走れたことが良かったし、
大いに自信になった。

 

 
こんな受付から始まって、

グランドでの競技。



 

これは私の現役監督時代57イニング連続無失点記録を創った小山修身投手
カワサキ関係者なら多分ご存じの原田紀男くん前野球部OB会長である。
 
お二人とも久しぶりだったが結構長い時間旧交が温められてよかった。
 
 


 
3時半からはこの奥のレストランでの野球部総会が行われた。



  

★昨今、なかなか運動部のOB会がもう一つ盛り上がらない中で、毎年11月頃に母校のグランドを使ってのOBとの対抗戦やそのあとの総会が結構な規模で行われるのは珍しいことだが、もう20年以上も続いている

 出席できないOBからはいろんな品物が供出されて、そのオークションが行われたりするのだが、今回もそれだけでも32万円の売り上げがあって、現役諸君の活動費の支援になっているのである。

 この球場を一日借り切るのも勿論無料ではなく、相当な金額なのだが、70名ものOBが集まるので何とかそんなこともできるのである。


★朝9時半から、夕方5時半まで、結構長い時間だったが、
 なかなか有意義ないい1日を過ごすことが出来てよかった。

 因みに、私の現役時代は神戸商大だったのだが、今は兵庫県立大学となっている硬式野球部なのである。
私が大学1年生の頃は、私を含めて3人もの甲子園球児がいたりして、そこそこ強かったのだが、今は残念ながら3部なのである。
でも、現役諸君の特にバッテングなど見ていると、私たちの時代よりは間違いなくレベルは上だと思う。
それくらい50年も前の野球からは技術的に格段に、今は進歩しているのだろうし、野球そのものが変わってしまっていると思う。
一番変わったのは体格・基礎体力だろう。

私たちの時代とは、あの長嶋茂雄や野村監督が私の2年下なのだが、その頃の野球は勿論金属バットはなかったし、ヘルメットもかぶったりは、しなかったのである。

プロ選手でも甲子園球場など旧フェンスまではなかなか打球が飛ばずに、『ラッキーゾーン』があったのだが、学生野球ではなかなかラッキーゾーンへのホームランも殆どなかったそんな時代なのである。
50年もするとやはり世の中は変わるものである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孫・日本滞在1日目 

2019-12-07 06:55:29 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨日12月5日の夕方に日本にやってきた孫の日本滞在第1日。

 きっちり『体力管理』はやっているとは聞いてはいたが、プロのアスリートはこんなにちゃんとやってるのか?とびっくりしてしまうレベルである。

 昨夜は7時過ぎに家について久しぶりに日本の魚の刺身などの夕食だったが、ビールなどは飲まないし、かってのように馬鹿食いもしない。
 8時半には寝てしまったのだが、第1日の朝は4時半に起きて、近くと言っても私は車で行く『防災公園』まで走ってきて、そこでかなりのトレーニングをして戻ってきていた。

 腕には寝ている時も、こんな『体調管理時計』をつけていて、
   

    

 
 『歩数· 心拍· 消費カロリー』などが、常に記録されているようである。
 その記録を常に意識しながらの食事など、めちゃめちゃ気をつけているのには驚いた。


★ 朝食はパンなどは食わずに、わざわざアメリカから持ってきたオートミール   を食っていた。
 8時半からの私の『ジム・トレーニング』に付き合ってくれて、トレーニングのやり方など、懇切丁寧に教えてくれたのだが、
呼吸と同時にゆっくりと正しい姿勢でやる事』
確かにやってみるとじっくりだが、『良く効く』感じである。
私自身も『体幹強化』を目的にやっているので、なかなか参考になった。

 そのあとすぐ隣の『三木山森林公園』のもみじ谷に『日本の紅葉』を観に行った。
 その写真の幾つかである。

   



 

 





孫がコドモの頃はよく遊びに来ていた公園だから、懐かしそうだった。
日本の田んぼの風景なども好きな孫だから、『もみじ谷』の風景も気に入ったに違いない。
 いっぱい写真を撮っていた。

 

これは、孫が撮ってくれた私の写真である。

  


   

 
 私はジムからのお付き合いだが、
 孫は朝起きてから、ここまで約2300カロリーだとか言っていた。
 私は一体何カロリーほどの消費なのだろう?


★ 家に戻ってから、この滞在期間に行くという24時間空いている『ワールド+』ジムの申し込みに一緒に行った。

  


 こんなジムだが、多分朝5時頃から、朝飯前に行こうと思っているらしい。

 そして、コープに買い物に行って、昼の弁当も買ってきたが、念入りに弁当のカロリーを計算して『』を買っていた。
 ちょっと『神経質』過ぎるなと思うほどの念の入れようなのである。

 今は、昼の3時前だが、『今は、昼寝』をしていて静かである。

★今夜は9時頃から、三木のサッカーチームに誘われて、フットサルの試合に行くというので、私も観に行ってきた。

 寒かったのでコートの周りをスロージョッギングしていたら、今日の歩数は11300歩になったりしたが、孫・門野真也は4万歩になって、日本の第1日は4000カロリー以上を消費したとか、まずは日本滞在第1日は、非常に健康的な1日になったようである。

  
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカから孫がやって来た

2019-12-06 07:11:40 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ シーズンオフの休みなので、アメリカから孫がやって来る。
  正月は日本で迎えて10日ぐらいまで滞在するらしい。

 アメリカ・カリフォルニアのIrvine からだが、早くから予約すると結構安い値段で航空券が買えるようで、帰る便も既に買っているようだ。

今回はロスからではなくて、サンフランシスコ経由ー関西空港でやってくる。
家からすぐ近くの『ジョンウエイン空港からサンフランシスコ』に飛び、
そこから今回は『ユーナイテッド航空』で来るらしい。

ロスまで車で行ってロスー関空よりも、サンフランシスコ経由の方が、送る側から言えば車で動く距離が短く便利なのかも知れない。



★ 今現在、12月5日の昼過ぎだが、『ua35』と検索すると、こんな画面が現れて、

 いま現在の飛行状態だと『16時19分』に関空到着の予定だから、あと3時間ちょっとで日本に着くことになる。

 『関西国際空港国際便・到着便』などで検索しても出てくるはずだが、今回はなかなか出てこなかったのだが『ua35』は娘が教えてくれたのである。
 
  

 

関空から神戸・三宮までは『空港バス』でやってきて、三宮までは迎えに行ってやろうと思っている。


  

 料金は2000円だが、時間は1時間ちょっと掛かる。

その時間表もこんな具合に出ているので、4時20分ごろの到着なら、この辺りの時間のバスになるのだろう。
 三宮には6時半から7時ごろになるはずである。
  


家から三宮までは40分もあれば充分だから、関空に着いたら何時のバス乗るののか『電話をしてくるように』と言ってあるので、電話が掛かってきたら、家を出るように待機中なのである。

何でも解る便利な世の中になったものである。

 
★ 5時過ぎに家を出て、三の宮まで迎えに行った。
   


 6時20分着のバスでやってきた。

  

  
7時ちょっと過ぎには、三木に戻ってきた。

    



★ところで、孫・門野真也は去年の12月にバークレー大学を卒業して、1月にアメリカのサッカーのプロになって1年目なのである。

日本で過ごす約1ヶ月も『体調管理』には気を付けるようだから、私もちょっとは見習いたいと思ったりしている。

ごく最近、末弟と二人で海で遊んでいる写真だが、結構いい体をしていて、こちらに来ても、まずやることが『ジムの確保』で、1ヶ月の短期契約をすることにしている。

  
 
 
 
私が行ってる三木総合体育館のジムでは『気に入らなくて』近くにある24時間営業のこんな本格的なジムに申し込みすることになっている。


 


とは言いながらも、シーズンオフの休みだから、日本の回転ずしも、焼き肉も楽しみにしている筈だが、去年までのようには食わないのだろうか?

 日本には小学生の2年生まではいたので、日本の友達と遊ぶことも楽しみにしているようである。

今日の夜は、日本に来るたびに、誘って頂いている『フットサル』を米田和彦さんなどとやることになっているらしい。

そんなことで、日本での第1日がスタートするのだろう。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ずっと昔、Team Green にいた和田斎くんが 訪ねて来てくれた

2019-12-05 06:54:33 | M/Cレース

★ まさにこのブログの標題通りの出来事なのである。

 『ずっと昔、カワサキのレースチームにいたメカニックの方』が
わざわざ『私に会いたいと』三木まで訪ねて来てくれたのである。

 『和田斎さん』 ちょっと名前の売れたカワサキのレースメカニックの方で、
勿論名前も知っているのだが、『直接二人で話などしたことのない方』なのである。

実は、KAWASAKI Z1 FAN CLUB 登山道夫さんと、先日垂水にある『和田さんの弟さん』がおられるバイクショップに立ち寄って、その際記念スナップを撮ったりしたのだが、

どうも事の始まりは、弟さんから『登山さんと私の写真』を見せて貰って、突然登山さんにこんな連絡をされたようである。

 登山さんのところに『メール』が入っていて、
そこには『KMJ時代に古谷専務に良くしてもらったのに、何のご挨拶もせずに川重戻り・・・』などとあって、


     


登山さんから私に『和田さんが会いたいと言われてますが・・』ということで、
昨日お会いすることになったのである。


★こんなかっこいいポルシェに乗ってやってきた。

突然なぜ『来られたのか』と聞いてみると、
KMJのTeam Green 入り』を希望された和田さんを『私が面倒見て実現した
と仰るのだが、全く記憶にないのである。

当時和田さんの直接の上司だったTeam Green 重本修次郎さんあたりがそうしたのだと思う。
Team Green のことは120%重本君に任していたので、多分彼の裁量でそうなったのだろう。


    

 
 

 延々3時間半も、途切れることなく、昔話に夢中になった。
 ホントに彼と直接話をしたのは、昨日が初めてなのである
 そんな方が、わざわざ三木まで訪ねて頂けるということは、なかなか世の中にはないことなので、私にとってはこの上ない喜びでもある。


 昨日の話の中で出た方々の名前を順不同に申し上げると、こんな方たちで、
レース界では、みんな結構な有名人で、なかなかレベルの高い『レースの話』になったのである。

野口種晴・片山義美・小島松久・三橋実・藤井敏雄・デグナー・シモンズ・谷口尚巳・安良岡健・ガリーニクソン・金谷秀夫・山本隆・歳森康師・星野一義・加藤文博・従野孝・宗和孝宏・北川圭一・塚本昭一・多田喜代一・飯原武志・梁明さん  

このライダーたちの名前を見て『解る』方は相当の『レース通』だと言っていい。

 
カワサキ関係者も、ここに名前の出た方は、川重の社長や副社長などが並んでいるのだが、みんな若い頃はレース部門の担当経験があって、『レース』に対しての理解が深かったので、和田さんとの会話の中でも、名前がいっぱい出てきたのである。

山田煕明・苧野豊秋・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎・松尾勇・田崎雅元・岩崎茂樹・重本修次郎・野村純一・石川薫・大津信・大庭浩さんなど

 

   
 


★ 私自身もカワサキの『レース関係』には若い頃から長く関係したし、当時の日本の二輪のレース界の方々ともいろんな形で繋がっていたのだが、こんな『レースの世界』は、ちょっと以上に独特な世界だし、その中にいないと理解できないことも多いのだが、そんな独特の世界の話について行けるのは『私の特』みたいなものである。

和田斎さん』も、そんな独特の世界に生きられた方だから、3時間半も懐かしい話が途切れることなく続いたのである。
先日、同じくここに来られた『カワサキの安井隆志さん』とも、よく存じ上げてはいたのだが、二人で直接話をしたのは、初めてだった。
会社の中では『職位』などが邪魔をして、なかなか現実に直接話をする機会を持てないのだが、退職後10年以上も経って、わざわざ『話をする』ために三木の田舎まで足を運んで頂けるのは、ホントにありがたいことだと思う。


★ 独特の『レース界』の中にいた人たちでの『レース話』はまた独特で、初めて『二人で話した和田斎さん』とも延々3時間半、昼飯も食わずに続いたのだが、
勿論、カワサキのレース話には欠かせない方『平井稔男さん』の話も出て、 

家に戻って、平井さんの旧いブログを見ていたら、
多田喜代一・塚本昭一・宗和孝宏の日本人トリオが、
1989年のフランス、ル・マン24時間耐久に参戦し、見事3位入賞を果たしたのだが、そのメカニックメンバーの中に中に『和田斎』さんの名前もあった。

Team Kawasaki
 総監督    武本晃 
 監 督     野田忠世
  ライダー   宗和孝宏 多田喜代一 塚本昭一 前田忠士
 メカニック  渡辺芳男 釈迦堂利郎 前田和広 藤本延彦 中村浩三 
       戎 俊 和田斎 渡辺嘉雄 田村嘉隆
                    総勢15名のつわもの達である。


★私の家はすぐ近くなので歩いてきたのだが、
 帰りは、和田斎さんの ポルシェに乗せて貰って、
 家のすぐ近くまで送って貰ったのである。

 

 
和田斎さん、 昨日行った綾部に古民家をお持ちのようなので、
ひょっとしたら来年4月の『綾部プロジェクト』でも、何か繋がるかも知れない。

 兎に角、なかなか楽しい3時間半だったのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

綾部プロジェクト スタート

2019-12-04 07:45:18 | カワサキワールド

★カワサキバイクマガジンの今月号に『Z1 開発者大槻幸雄さんの「殿堂入り」』
   というニュースが流れた。

カワサキの二輪事業に同じ時期一緒に関わったものとして,
ホントにご同慶の至りなのである。

 
    


 大槻幸雄さんとは、カワサキの創生期レース仲間として、ご一緒させて頂いたこともあって、今でもゴルフコンペZ1会でもご一緒させて頂いているし、Facebook でもトモダチで繋がっていて、コメントなども頂いている。
 
その大槻幸雄さんも会員の一人になっておられるKAWASAKI Z1 FAN CLUB の来年度のイベントが4月18日に京都・綾部市で開催することになっていたのだが、実は綾部市は大槻さんのご出身地なのでもある。

 そんなことで未だ半年も先の話なのだが、
是非大槻幸雄さんをお招きして、Z1のファンたちでお祝いをしたいということで、大槻さんにご出席を依頼したら『快諾』を頂いたので、
急遽『綾部プロジェクト』が動き始めたのである。

 いつもは40人前後のこじんまりとした会合なのだが、
大槻幸雄さんがご出席』ということになると、人数も増えるかもと、異例のことなのだが半年前にその予約を開始したら、申し込みが殺到して即満杯になってしまったので、当初予約しようとしたところの他に、隣の宿泊施設の温泉ホテルも全館予約し、対応しようとしているのである。

このZのユーザーたちの一泊『ツーリング・プロジェクト』は
今回は登山道夫さんのご担当なのだが、
大槻さんがご出席となると、一緒にお祝いをというカワサキの関係者も増えそうなので、私もお手伝いをすることにしたのである。


★そんなこともあって、昨日は登山さんと二人で、現地の当初の宿舎とすぐ隣の温泉ホテルの概要を視察に行ってきた。

綾部市は、初めてだったが福知山の隣のこんな静かな環境で山々に囲まれ紅葉が見事だった。
三木から綾部まで往路は高速に乗らずに立杭などを通って、地道を走ったのだが、二輪のツーリングには最高の山道・田舎道の連続だった。三木を8時に出発して、10時20分に現地に到着したから2時間20分の行程だった。

  
   
 
 人口3万5000人という綾部市は、福知山のすぐ隣で、こんな山々の自然に囲まれたいい環境で、今回の場所は綾部市の北東部あたりの静かな環境なのである。
  





こんな環境の中に当初からの予定の施設があり、
どうも人数が増えそうなので、そのすぐ隣のホテルを全館を借り切ったのだが、
そのホテルは温泉付きで、両施設は同じ経営者だから、当日は温泉も借り切りみたいなことになるのだろう。
 

 
どんな内容にするのかはまだ決まっていないのだが、
昨日見てきた限りでは、100名ぐらいまでは大丈夫なようだし、
施設も想像以上に立派なのである。


  





その具体的な内容については、登山さんから更にいろいろと会員方々に連絡されるのだと思うが、
その状況によって具体的な対応内容が決まっていくものと思われる。

1泊どまりのイベントなので、時間も充分あるし、
大槻さんをはじめNPO The Good  Times 関係のカワサキの人たちも、
山本隆さんなど有名人が、既に何人も決まっているし、
大槻さんのお話をはじめ、結構オモシロいイベントになる可能性を秘めている。

私自身も現役時代から、数多くのイベントを手掛けてきたので、頑張りたいし、
大槻幸雄さんの殿堂入り』の祝賀イベントだから、それに見合うものにしたいと思っている。
 
その舞台になる施設は『大丈夫なのか?』を観てきたのだが、
これは間違いなく大丈夫なので、
このプロジェクトは、今後ますますオモシロく楽しく、
 
 Kawasaki. Let the Good Times roll !! 
  というカワサキの基本コンセプト通りに、
  Kawasaki  に出会う人たちがグッドタイムになるような展開を、
 当日、大槻さんに出会う方たちがハッピーになるような展開を
 心がけて、今から立案しようと思っている。
 
時期的にはまだまだ余裕があるのだが、
年が明ける頃から登山さんが具体的に動き始められることになりそうなのである。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関初太郎 さんのこと

2019-12-03 05:37:00 | カワサキワールド

★ Facebook にこんな『私との2ショット』の写真を使っている関初太郎さん、
  もう60年近いお付き合いである。




 
三木のKAWASAKI Z1 FAN CLUB での写真だから、もう5年ぐらい前のことだと思うが、確か豊岡への一泊ツーリングの時ではなかったか?
 昔のことはよく覚えているのだが、最近のことはすぐ忘れてしまうのである。



  


 
ご自身のFacebook にも書かれているように、
昭和42年(1964)カワサキオートバイ定期採用第2期生での入社だが、
私が初めて関君に会ったのは、昭和45年の12月に私が大阪母店長に異動して、彼は京都営業所にいたころで、それ以来60年に近いお付き合いなのである。

 
★ 関初太郎さんについて『関初太郎 雑感日記』とチェックしてみたら、
このブログを始めて5ヶ月目の2007年2月に、こんなブログをアップしている。


その頃はまだブログに写真のアップも出来なかった頃だと思うが、こんなことが書かれている。
 
『以前、苧野豊秋さんのことを書いたとき、「Hさんに聞きました」というKshopさんのコメントを頂いたが、どなたのことか解らなかったのだが、昨日の私のブログ「反町ジャパンの反町くん」に高1、中1の息子さんたちがサッカーに熱中しているとのコメントを頂いた。
今回はKshopをクリックすると、モトボックスセキのホームページが現れた。
関君だったのか。読んでいてくれてたのだ。』

などと書いている。
彼がまだ独身時代の若い頃、京都の営業所が新幹線の高架下で狭くてみすぼらしい頃だが、藤田孝明君率いるこの営業所は、久後淳一郎、関初太郎、柏原久、吉川健一など、ユニークなのが揃っていた。総資本率10%の実績をずっと続けていた私の知る限り、カワサキの歴史の中でも最も充実した内容の営業所だった。

彼はその後、東京営業所時代に急逝された城北カワサキさんのお店の後を継いで販売店に転身するのだが、その時の東京所長も藤田孝明君で、彼の『ユニークな対応』が彼の販売店への転身のきっかけになったのである。

その後、新宿のショールームで新しい形の5時以降はショップに転換する『After 5』という新しい形の展開でも同じカワサキOBの五島さんなどと一緒に仕事もした仲間でもある。
販売店というよりは、ずっと仲間という意識のほうが強かった。

私の最後の勤めの札幌にいたころも、『南,五島,関、佐々木』というカワサキの懐かしいメンバーでわざわざ札幌まで遊びに来てくれたりしたのだが、これはまさしく『新宿のAfter5』の担当メンバーなのである。


★彼は信州・長野の出身で、『信州そば』などもよく送って頂いたりしたのだが、
 『蕎麦湯』は湯をかき混ぜずに静かに『うわずみ』を注ぐために、こんな容器になっていると教えてくれたのは、関初太郎さんであったことは間違いない。

 

 
 冒頭に書いた『豊岡へのツーリング』の時、蕎麦で有名な出石のこんな蕎麦屋の2階で昼飯を食ったのだが、その時関初太郎さんが教えてくれたことなのである。

  
  

 

人間の記憶はなかなかオモシロいもので、こんなことだけは確り、覚えているのである。

そんな関君やカワサキの同期入社の吉田純一さんや柏原久さんなどとは、
今もFacebook で繋がっていて、ネット上では毎日お会いしているのだが、
関さんのFacebook ページに、『私とのツーショット』の写真をお使いになったのはいつ頃からなのか?
これは実は、初めて気が付いたので、こんなブログを改めてアップしたのである。

 『昔の仲間たち』は、『私の人生の宝物』なのである。
 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする