澄姉こと澄代。
朝日新聞の夕刊が待ち遠しい今日この頃である。
新聞小説「愛しの座敷わらし」が面白いのだ。
浅田次郎先生の「椿山課長の七日間」、辻原登先生の「花はさくら木」以来のことである。
まだ36回目(3/14)で、筋らしい筋はこれからだけれど、今までだけで十分面白い。
主人公は東北に左遷されて、先行きが知れてしまって、田舎で生活したい夫。町から遠く離れた大きな古民家を探し出した。引っ越す前に家族を連れて見せたが、妻は猛反対。女子高生の長女はビミョーでケータイばかり。小学生の長男はゲームに夢中。
36回もかけていながら、それぞれの思惑を書き分けるだけで、一向に場面は進展しないのに、実に面白いのだ。
作者の萩原浩先生の人間観察は誠に達者。それぞれの上辺と腹の内が可笑しく巧みに書き分けられて、文体には独特なユーモアがある。ケータイ長女の言葉遣いは参考になる。独り言をそのまま使って、まるで「林住記」のよう。
35回目からは、姑、つまり夫の母の気持ちを書いている。
豊かな呉服商の家に生まれ、娘時代に物資統制で家が没落。自分の女学校を続けるために、親は末弟を5歳で東京に養子で出し、戦災で死なせてしまった。と、自分を責めている。この辺の独り言は、森男の身の回りでも見聞きした事だから、誠に哀切で胸に迫るものがある。
末弟六助こと座敷わらし。
この家には「座敷わらし」が棲んでいる。小学生と愛犬は気配を感じている。
姑だけが、物陰に潜んで自分を覗っている「座敷わらしに」気付いている。自分の死んだ弟と勘違いして、「怖がらずに出ておいで」などと語りかける。
そこで、嫁に東京へ戻ると声をかけられて、夢想から覚める。理屈に合ってない夢とも知っている。
そして、嫁や息子は、自分のことを呆けたと思っているが、「おあいにく。そんなんじゃない」。
「忘れたいことが多すぎるから、時々、おじいちゃんたちがいる夢の中に遊びに行くだけ」。
感動的だった「椿山課長」でも、課長の父親は呆けた振りをしていた。何もかも分かっていて、呆けていなければ、家族関係が壊れてしまうと熟慮して、呆けていた。
老人は海千山千。都合の悪いことは聞こえない振りをする。物忘れがひどくてね、なんてよく言う。
森男の死んだ母親も、同居していた兄は、まだら呆けと言ってこぼしていたが、たまに会うと、この人何もかも分かっている、と怖れたものだ。
萩原先生にもそういう体験があるのかも知れない。小説はこの先どう展開するか分からない。作者の萩原先生には腕を振るって頂こう。
ご老人にはご用心。何もかもお見通し。
挿絵は浅賀行雄さん。
なお、一家はお婆ちゃんの「あそこに帰りたいんだよ」の一言で、引っ越すことになりました。
「おまかせパックなんだけど、人に仕事をお任せするのが苦手なお父さんは、一緒に荷物を運ぼうとして、引越屋さんに迷惑顔されました」、と長男談。(37回現在)
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