CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

THE CATS、MADE IN HOLLAND

2015年02月12日 | EURO ROCK
THE IVEYSが出したMAY BE TOMORROWのシングルがオランダ・シングル・チャート1位になった事に少し触れましたが、先ほどレコード棚を探していたところ、同系統のメロディを持ったオランダのグループのシングルが出てきました。

これは、友人から貰ったものなので、発売が日本でされた時期はわかりませんが70年代初期ではないかと思います。無名であっても、日本でヒットする思われるメロディー重視の曲であれば当時結構シングル化されていたようです。

YouTubeでTHE CATSのシングル、I WALK THROUGH THE FIELDを聴くことができます。 興味のある方は、一度お試し。しかし、最近の曲が好みの方が聴くとゆるゆるで寝てしまうかもしれません。


THE CATS, I WALK THROUGH THE FIELDS C/W TAKE ME WITH YOU

BADFINGER 世界デビュー

2015年02月12日 | BEATLES-BADFINGER関連
英国ウエールズ地方の港町スウォンジー出身のグループが母体となっています。 スウォンジー(SWANSEA) は白鳥の海という意味で、ご存知の方もいると思いますが、現在EPLで活躍しているプロ・フットボールチーム、スウォンジー・シティーのホームでもあります。

話を戻して、ビートルズがアップル・コープスを設立し、新たなタレントをサーチしていた時に発掘されたのがBADFINGERの前身のバンドであったTHE IVEYSでした。メロディアスなMAY BE TOMORROWをアップルからシングルで出し、ヨーロッパではヒット(オランダ・シングル・チャート1位)しましたが、肝心のイギリスとアメリカでは不発となり、MAY BE TOMORROWを含んだアルバムはドイツ、イタリアと日本のみの発売となり残念な結果となりました。

落胆していた彼らに救いの手を差し伸べたのはポール・マッカートニーで、リンゴの出るマジック・クリスチャンの映画のサウンドトラックにTHE IVEYSを使うようにプッシュし且つ、新曲のCOME AND GET ITを提供しました。
これが彼らの1969年の世界デビュー作MAGIC CHRISTIAN MUSICでした。内容はTHE IVEYSのアルバムMAY BE TOMORROWからの曲、主題歌であるポールの提供曲とポールによるプロデュースによる彼らの2曲の新曲(メロディアスなCARRY ON TILL TOMORROWとロック・テイストのROCK OF ALL AGES)で構成されていました。この世界デビューアルバムはアメリカで55位にランクイン、シングルのCOME AND GET ITは英米とその他の国でトップ10入りしそこそこの成功を収めました。

MAY BE TOMORROWやCARRY ON TILL TOMORROWなど彼らのメロディアスな曲は、ビートルズがらみではなくとも日本人好みの曲と言えるでしょう。 また同時期にELTON JOHNが出した3枚目のシングルIT’S ME THAT YOU NEED(邦題イエス、イッツミー)は英米では全く売れませんでしたが、日本では洋盤シングルのオリコンチャート2位と大ヒットしました。

使用されている言語や気質、またレコード販売のプロモーションの力の入れ具合など様々な条件により、曲に対する嗜好が国や地域によって異なるのは興味深いことです。嗜好に合うかどうか、一度お試しください。

写真は1970年発売の米盤です。裏ジャケットは、メンバー3人しか写っていません。ギター担当のロン・グリフィスがバンドを抜け、後任のジョーイ・モランドがまだ正式参加していない時点で、すでに3名でのアートデザインが完成し、デザインのやり直しには時間がかかるのでそのまま使用されたのではないかと推測します。 もちろんジョーイの名前は、裏ジャケに記載され4人組のバンドと説明されていますが、世界デビュー盤としてはなんと雑な仕事!


それとTHE IVEYS のMAYBE TOMORROW 2005年国内盤再発CDです。帯で隠れている人がロン・グリフィスです。



展覧会の絵, 初めてのELP

2015年02月11日 | PROG ROCK
1970年グループ名と同一タイトルのアルバムを出してデビュー。翌年2作目のアルバム、タルカスの制作終了後ツアーに出たところ、そのライブ演奏が 海賊盤として発表され大変人気を呼んだことから、レコード・メーカーは海賊盤対策として同様の内容のライブ盤をオフィシャルで同年の後半に3作目として出しました。

それが、この展覧会の絵というアルバムです。

プログレッシブ・ロックなどの分野はほとんどラジオでオン・エヤーされなかったため、音楽雑誌などを通じてある程度レコードの中身の情報を持っていない場合は、アルバムの購入には踏み切れませんでした。またこの分野の楽曲は、長尺であったりマニア以外一般受けしないないようなアレンジの曲が多いため、LPレコードからシングル・カットされることはほとんどなかったのです。

今では大人買いができるようになり、ジャケ買いをし、もし中身がそれほど期待にそぐわなかった場合でも、それほど沈んだ気分に陥ることはほとんどありませんが、 当時は最悪のケースを避けるため、多くの時間をかけ慎重に購入の選択をしてたものです。そしてもし買ったレコードが自分の想像通りで気に入ったものであれば、本当にヤッターというような気分になった事をよく覚えています。残念ながら今ではそのような感覚はもう味合うことは余りないと思います。

幸運なことに、このアルバムからナット・ロッカーという曲がシングル・カットされたので、シングル盤を試しにと購入してみました。そしてそのシングルのA面とB面から大まかにこのアルバムとELPの音楽性のイメージは掴み取ることができ、後日ようやくELPのアルバムを購入する決断が出来たわけです。

写真は1976年再発の展覧会の絵と記念すべき1972年発売のナット・ロッカーのシングル盤です。


それから、展覧会の絵について書くと、どうしても忘れてはならない日本の偉大なアーチストがいます。それが富田勲氏で、テレビドラマ、アニメ、ドキュメンタリーなどの音楽を数多く手がけられた、著名な作曲家かつシンセサイザー奏者であります。

1975年にシンセサイザーで展覧会の絵を発表され、これはアメリカのビルボード・クラッシック・チャートで第1位を取った作品です。写真は2007年再発の国内盤CDのジャケットです。







シカゴ交通局(CHICAGO TRANSIT AUTHORITY)

2015年02月10日 | Chicago

シカゴ交通局って?

それはジャズ・ロックもしくはブラス・ロックの雄と呼ばれた、シカゴが1969年発表された2枚組ファースト・アルバム発表時に使用していたバンド名です。その後シカゴ交通局よりクレームが付き、セカンド・アルバムからバンド名をシンプルにシカゴと変更しました。

いまだに、新譜を出しまたライブも行うなど非常に長くバンド活動を続けています。デビューから在籍していたコロンビア・レコード時代は 、ジャズ色の強いロック (末期にはディスコみたいなアルバムもありましたが)。その後、他のレコード会社に移籍しデビッド・フォスターがプロデュースする頃から、バラードの曲が多くなりました。

このアルバムは、ブラス・ユニットのパワーが炸裂するジャズ・ロック系サウンドが中心で、1曲目からシカゴの名曲が目白押しです。では、すべての収録された曲の出来はどうか? 

やっぱりありました。ビートルズのREVOLUTION NO.9のような拷問みたいな曲が2枚目の1曲目に。それはテリー・キャスが作曲した実験的なFREE FORM GUITARで エレキで演奏した大爆音が約7分延々と続きます。所謂、毎週末の真夜中に近くの駅のロータリー付近に出没するマフラーを外したバイクが立てるあの音です。(冬場は寒いのでほとんどお目にはかかることがなく、安眠できますが)

後のカーネギー・ホール・ライブやライブ・イン・ジャパンには、 FREE FORM INTROというタイトルの曲が見受けられますが、ギターの爆音はなくなり、ロバート・ラムのジャズ・タッチのピアノ演奏に差し代わっています。やっぱり評判が悪かったのでしょう。1-2分程度に編集し、他の曲のイントロもしくは曲間のブリッジなどに使えばこの曲の評価は変わったかもしれません。

デビューから3作目までが全て2枚組のレコード、そして4作目はカーネーギーのライブで4枚組を発売と、その後の常識破りの活躍を見ますと、まさしく全米2位の規模を誇るシカゴ交通局の名に恥じないバンドであったと言えるでしょう。


BYRDSとDYLAN

2015年02月10日 | West Coast Rock

バーズ といえばボブ・ディランのカバーが有名です。その編集物として、THE BYRDS PLAY DYLANというのがあり、ディランのカバーばかりを集めています。ディランのギター一本の弾き語り曲がフォーク・ロックのアレンジとなって全く違った曲のように聞こえます。特に、MY BACK PAGES は特に好きなアレンジとなっています。

MY BACK PAGESといえば、キース・ジャレット・トリオのカバーも見逃せません。バーズのカバーに似たメロディーラインでキースがゆったりとピアノを弾いています。

そしてディランのカバーといえば、ディランがデビューした頃から、彼に注目していたジョーン・バエズがBAEZ SINGS DYLANなる編集物を出しています。バエズの高い透き通った声で歌われるFAREWELL, ANGELINAを一度聴いて下さい。なかなかいけると思います。


THE BYRDS, THE BYRDS PLAY DYLAN


KEITH JARRET TRIO, SOMEWHERE BEFORE


JOAN BAEZ, BAEZ SINGS DYLAN


CREAM, GOODBYE

2015年02月08日 | Jeff Beck, Eric Clapton and etc.

クリーム最後のオリジナルアルバムGOODBYEのジャケットで、気に入っているデザインのひとつです。
特に裏ジャケットでは体をぴったりと引っ付けて3人とも微笑んでいるのは、バンド内の対立が原因で解散する直前とは思えないくらいです。

また内ジャケットのデザインは、お墓で、各曲の題名がそれぞれ墓石に刻まれています。そして右端の墓石に立てかけられた花輪の文字にはREST IN PEACE(安らかに眠れ)と記されています。現在ならともかく、69年頃の日本では、このようなデザインの採用はあり得なかったのでは。

これもロックの表現の一つということでしょうか?


FRONT DESIGN


BACK DESIGN


INNER DESIGN


ヘビークリームといっても乳脂分の多いクリームの話ではない

2015年02月08日 | Jeff Beck, Eric Clapton and etc.

ここでのヘビー・クリームとは、1972年に発売された3人組でヘビーなサウンドが売りのロックバンドCREAMのアルバム・タイトルのことで、彼らのスタジオ録音された曲の約3分の2(トータル22曲)がその2枚組のレコードに収録されています。

彼らの残したオリジナル・アルバムは計5枚で(WHEEL OF FIREを2枚と数えて)、解散後にさらに2枚のライブ・アルバムを出しています。68年の2枚組アルバムWHEEL OF FIREの1枚はライブ盤、そして翌年に出した最後のオリジナルアルバム”GOODBYE”は半分に当たる3曲がライブ録音となっています。こうしたことから、このバンドはライブ音源もスタジオ音源と同様に重視していたようでした。

皆さんは、彼らのライブ音源とスタジオ音源についてどのように思われるでしょうか?

写真は、1973年発売の2枚組 国内盤(ダブル・ジャケット仕様)です。
1972年先行発売されたアメリカ盤は、同じデザインですが、ジャケットの3人個々の写真が漫画チックなイラストに変更になっていました。
現在のところ、このアルバムは廃盤となり未だCDのフォーマットで再発されていません。


T. REX TANX

2015年02月07日 | BRITISH ROCK
1973年にTANXというアルバムが発表されました。

写真は、1974年リイシューされたCD(EDSEL RECORD UK)です。

このCDには、7曲のボーナストラックが入っていて、そのうち3曲(CHILDREN OF REVOLUTION、 SOLID GOLD EASY ACTIONと20TH CENTURY BOY)は当時シングルのみで発売されたヒット曲です。
特に、20TH CENTRY BOYは、映画やコマーシャルに使われたり、他のバンドにカバーされているT. REXの代表曲で、ご存知の方も多いと思います。

今度こそ、ぜひ爆音( TO BE PLAYED AT MAXIMUM VOLUME)で聞いて下さい。


TANX RE-ISSUED CD BACKSIDE COVER

MARC HAS PUT A MARK ON THE HISTRY OF ROCK

2015年02月07日 | BRITISH ROCK
前回がジギーだったので、今回は当然この人、T. REXのマーク・ボラン。

1971年“電気の武者”というアルバムを引っさげてデビッド・ボウイーより一足早くロック・スターとなった。T.REXはボランのギターと相方ミッキー・フィンが演奏するパーカッションにベースとドラムス加えただけのいたってシンプルなバンド編成でした。

このバンドが成功したのは、言うまでもなく、マーク・ボラン独特の音楽性とビジュアル面での個性がトニー・ビスコンティのプロデュースに上手く融合した結果だと思います。シンプルな構成の楽曲に独特のバイブレーションがかかったボーカル、ハイトーンのバック・コーラスと重厚なストリングスが絡んで出来た新しいグラマラスなサウンド、新音楽ジャンル、グラム・ロックの誕生となりました。

しかしながら、この後ベスト盤を含め複数のアルバムを出した後、人気も下降線をたどります。厳しい音楽産業の世界に於いて第一線で生き残っていくには、常に新しいものを生み出すことが必要だったわけで、試行錯誤を繰り返しなんとか転換を測ろうとした矢先、残念なことに事故死してしまいます。とはいえ、マーク・ボランは新しいロックのジャンルの創生に寄与し、ロックの歴史に確かな足跡を残したのは間違いありません。

同時期に人気が出たデビット・ボウイーの場合は、”ジギー”から”ダイアモンドの犬”まで、”YOUNG AMERICAN”から”STATION TO STATION”の頃、そしてベルリン三部作など、常に時代の流れを読みその都度自身の音楽の方向性の転換を図ってきたが故、今日まで第一線で活躍することが出来たのではないでしょうか。 もし存命していれば、マーク・ボランにも同様な可能性は十分あったと思います。

写真は、1972年発売のTHE SLIDER国内盤(ダブルジャケット仕様)です。
出だしがかっこいいアルバム1曲目のMETAL GURUはヘビロテ、裏面の4曲目にあったシンプルなBALLROOMS ON MARSもお気に入りです。火星が出てくるのでデビット・ボウイーを意識しているのかな?


T. REX ELECTRIC WARRIER 電気の武者

ジギー降臨

2015年02月06日 | BRITISH ROCK
その昔、馴染みの近所のレコード・ショップでレコードを買うと、必ずサービスでレコード・マンスリーという横長の小冊子をくれました。これがかなり便利なもので、1ヶ月以内に発売される洋邦ほとんどのジャンルのレコードのタイトルや収録曲目などのデーターが掲載されていました。また各レコード会社が近日中に販売する新譜や再発される旧譜の広告なども掲載されていたので、次に購入するレコードを決定する資料としては非常に重宝しました。

当時洋楽に関しては、アルバムや収録曲のタイトルは英文ではなく日本語表記で記載されていて、アーティストや収められている楽曲からの印象を参考としてレコード会社の担当者がかなり意訳?した邦題を付けていたケースがよく見受けられました。特殊な例としては、デビット・ボウイーの人気を一気に押し上げた“THE RISE AND FALL OF ZIGGY STARDUST AND SPIDERS FROM MARS”という長尺なアルバム・タイトルの邦題に、当初“屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群れ”とよく分からない直訳の邦題が付けられていました。

新譜に話題性を持たせるためわざと直訳の邦題を付けたのかもしれませんが、デビット・ボウイーをそれまで全く知らなかった人にとっては、意味不明のタイトルが前衛的な小難しい音楽に思えて、購入に二の足を踏む人もいたのではないかと思います。後日その邦題が適切でなかったと考えたのか、1976年の再発盤では、シンプルにジギー・スターダストと改題されています。

このアルバムに収録されている“スター・マン”というヒット曲について、曲中にあるサビで”スター・マン”と歌われる直前にエレキのソロでチャチャチャチャ、チャチャチャチャ、…と演奏されていますが、これは当時テレビで放映されていた“太陽に吠えろの”主題歌にそれと似たようなフレーズがあったことが思い出されます。このアルバムがリリースされたのが1972年6-7月頃、そしてテレビドラマの放映開始も1972年7月、なんという偶然でしょうか!

写真は、1976年再発の国内盤です。1972年初盤が出たときは例の邦題にビビって購入出来ませんでした。

また当時ジャケット裏には、TO BE PLAYED AT MAXIMUM VOLUMEと過激な文言が入っていました。その頃日本ではほとんどの家が木造モルタル作りであったので、そんなことをすれば苦情の山を見ることとなったでしょう。


英盤CDの裏カバーにTO BE PLAYED AT MAXIMUM VOLUMEと記載されている。

HEEPの1枚目のジャケット

2015年02月06日 | URIAH HEEP
HEEPのデビューアルバムについて、米盤では人間のような顔を持った巨大むかでのようなSFチックなイラストが採用されていましたが、英盤では人間の顔に蜘蛛の巣が纏わり付いたホラー映画のようなジャケットでした。

デビュー時のヒープの印象はアメリカとイギリスではかなり違っていたみたいですね。


米盤のジャケット


英盤のジャケット

HEEPだよ。裏声コーラスが心地よい、HEEPだよ。

2015年02月05日 | URIAH HEEP
その昔、深夜に勉強をしながらFM放送をなんとなく聴いていると、ある曲が耳の中に残ったのです。静かでゆったりとした演奏が、急にピッチを上げて暴れまくり、その後また静寂の中の演奏に変わり、最後にもう一度激しい演奏に切り替わりエンディングとなるクラッシックの交響曲にあるような展開でした。もう一度しっかりと聴いてみたいと思ったのですが、曲名とバンド名を聞き逃してしまいました。

手掛かりとしては、長尺物の曲を演奏するプログレ系のバンド? しかし、当時はインターネットがないため自身で検索することは不可能で、またヒット曲でない限り再びラジオでオン・エヤーされることはない不便な時代でした。

そこで不意に浮かんだのがユーライア・ヒープでした。以前にラジオで聴いたのですが、彼らのアルバムで”対自核”という訳のわからない邦題のタイトルがつけられたアルバムに“7月の朝”という曲があり、その曲に雰囲気がなんとなく似ていたのを思い出しました。

そこで、彼らのアルバム何か一つを購入してみることにしました。それが今回紹介する“悪魔と魔法使い”というアルバムです。当時の彼らのサウンドはケン・ヘンズレーのキーボードがアクセントとなっており、それに裏声を多用したボーカルとコーラスが被さったハード・プログレ系のロックでした。非日常的な世界を示したタイトルがついた楽曲が多いというイメージでした。

このアルバムの1曲目の“魔法使い”はアコースティック・ギターのスローテンポな伴奏から始まり徐々にボーカルや他の楽器の音が被さりながら厚みを増していくっていくフォーク・ロックのようなサウンドで、2曲目からギアが上がりロックのサウンドに変わり、そして3曲目のおなじみの曲“安息の日々”に繋が李最初のピークを迎えます。長短交えた楽曲がアルバム全体を通してヒープ・ワールドを展開していきます。

残念ながらこの手の音楽は、日本では爆発的ヒットすることは稀で、初盤のみのプレスが売り切れると廃盤となります。 今回は、発売から購入まで少し時間が立っていたので、国内盤はすでに近所のショップから姿を消しており、輸入盤専門のショップまで遠征し購入となりました。

ちなみに、このアルバムは日本でも人気アルバムだったので、下記のごとく英国BRONZE RECORDが日本での販売契約を新たなレコード会社と更新するごとに何度も再プレスされていたみたいです。
1972年 日本コロンビアより初盤発売
1975年 ワーナーパイオニアより再発
1978年 東芝EMIより再発
1982年 日本ビクターより再発
その後はCDのフォーマットで再発

タイトルが不明だった曲は、その後イエスなど他のバンドの楽曲もいろいろ聴いてみたのですが、結局判らず仕舞いとなってしまいました。

写真は、1972年販売の米盤(マーキュリー・レコード)と広告の入ったレコード・スリーブです。
ヒープの第1作や対自核(LOOK AT YOUR SELF米盤)そして懐かしのバディ・マイルスのアルバムの広告が掲載されています。

CCR、ジョンフォガティーとそのなかまたち

2015年02月05日 | CCR and John Fogerty

今回は、CCRことクリーデンス・クリアーウォーター・リバイバルの3作目にあたるGREEN RIVERです。

69年の発売ですが、当時我が家は電蓄と歌謡曲シングルの時代であったので、CCRの存在すら知りませんでした。その後、ベスト盤のCREEDENCE GOLDというアルバムが出て初めてその存在を認識した時には、バンドはすでに解散していました。

GREEN RIVERは彼らにとってターニング・ポイントのアルバムだったと思います。前2作比べると、歌詞の内容は別として, カントリー・タッチの曲などが加わり全体的に軽く明るい感じのサウンドに変化したと思います。 その結果、彼らのシングルカットがその後次々とトップ・チャートに送られるようになります。

CASHBOX TOP 100

CCRについて特筆すべき点と言いますと、彼らの活動時期が68年から71年とたった4年間の短いにもかかわらず、45年経った今でも、過去のLPやCDが何度も再発される記憶に残るバンドと言えるのではないでしょうか。シンプル且つ親しみのあるメロディーを用いた曲作りはいつの時代でも受け入れられるのでしょう。

写真は、再発米盤FANTASY 8393です。 ところで、このジャケットのグループ写真ですが、ジョン・フォガティーとその他という感じで写っていますが、当時この写真をジャケット表に採用することに関して、他のメンバーは誰も文句言わなかったのでしょうかね?


BBAて何?

2015年02月05日 | Jeff Beck, Eric Clapton and etc.

近所の行きつけのレコード・ショップの店主が “今月いいのが入ったよ。試聴してみる?” と強く薦められたのが、このレコードBECK,BOGAERT & APPICE LIVE。 72年のディープ・パープルのLIVE IN JAPANは当初日本限定での発売だったのが、本人たちが気にいり、MADE IN JAPANと衣替えをして欧米で発売され大成功を収めました。それが引き金になったかどうかは別として、70年代は大物の日本公演のライブ盤が続々と制作された時代でした。 主なところでは、シカゴの72年6月公演を録音したLIVE IN JAPANを皮切りに, 73年の当アルバム、そして74年にはサンタナの LOTUS3枚組が続き, 翌年の75年、なんとあのマイルス・デイビスが超大作のPANGEAとAGHARTAの各2枚組を、さらには、ボブ・ディランが78年にAT BUDOKANを発表しました。 このアルバムもディープ・パープルのLIVE IN JAPANと同じで、ライブ感溢れる内容で個人的に非常に満足できる仕上がりになりました。弱点であるボーカルに関しても、ジェフ・ベックを含めて各自それなりに健闘していて、肯定的に受け止めることが出来るのではないでしょうか。もちろん当時専任のボーカリストがいればアルバムの出来がさらに良くなったかもしれません。 ジェフ・ベック本人はその辺りのことをよく自覚していたのか、その後はインスト中心のアルバムの制作に専念し、ボーカルが必要な楽曲には適切なボーカリストをゲストとして呼ぶ形を採るようになりました。 短命に終わったことから世間一般、特に若年層に置いてその存在があまり認知されていないかもしれませんが、もしこのアルバムを一度でも聴いてもらい、このスーパー・トリオの演奏の実力が分かれば、BBAを今風にババアと読む人は必然的にいなくなるのでは? 写真は、1973年の国内初盤です。


元祖ロッケストラ、ムーディーブルース

2015年02月04日 | PROG ROCK
非常に早い時期にメロトロンを多用した“世界で最も小さいオーケストラ”というキャッチ・フレーズで当時宣伝されていたグループでした。

しかしながら当時は、”いや、そう呼ばれるべきなのはイエスだ、もしくはマハビシュヌ・オーケストラだ!” などの意見もありました。つまりムーディー・ブルースの最大の弱点は5人編成でのライブが弱かったためです。その後90年代に出したRED ROCKSでのライブではオーケストラやサポート・メンバーを使い、演奏に厚みが出たことによりかなり改善はされたと思うのですが。
 
個人的には、彼らのサウンドがオーケストラが演奏するクラッシック・ミュージックに近い雰囲気を出していたので、元祖ロッケストラの称号はムーディー・ブルースにあたえられてもよいのではと思うのですが。

このセブンス・ソジャーンというアルバムは、メンバー・チェンジをしてから7枚目のもので、当時クラス・メートから推奨され購入しました。 その頃ハード・ロック系の音楽を聴くことが多かったので、初めて聴いたときは、 まるで日本のムード歌謡のような響きの軟弱サウンドに聴こえ、特にコーラス・パートはクール・ファイブが歌っているような感じを受けたように記憶しているのですが、何度も繰り返し聴くことによって、そのまったり感にはまりなんとも心地よい気分になり、ムーディー・ブルースのファンとなった次第です。

このアルバムでは、ジャスティン・ヘイワードやジョン・ロッジらのメロディアスな曲もいいのですが、やはりマイク・ピンダーの淡々とした歌い方が印象的な1面1曲目と2面3曲目に特に惹かれました。

普通の日本人であれば英語の歌詞を瞬時に理解することができないので、どうしてもメロディーやリズム重視となるのですが、ムーディー・ブルースの曲は歌詞に非常にシリアスもしくは小難しい内容を持っている場合が多く、英米の方がそれらの曲を聴いて、歌詞に対してどのような印象を持つのでしょうか? 

一度その感想を聞いてみたいです。

写真は、1973年に再発された国内盤です。 初期アルバム専属のジャケット・デザインを担当していたフィリップ・トラバースのものです。アルバム・コンセプトの雰囲気良く出ています。