70年代になると、スタジオ・アルバムとは一味違う迫力のあるサウンドを聴いてもらうべく多くのライブ・アルバムが登場した。
特に、サザーン・ロックと言われる分野では、多くのアドリブ演奏を含んだギター・ソロを膨らませ10分、20分と長尺の曲を演奏するようになった。
これらの曲をがっぷりと四つに組みあって聴くとなると、相当消耗する。
若き日々だった頃であれば、ヘッド・フォンを装着し音量を上げて迫力のあるサウンドを聴くことが出来たのであるが、この歳になるととても無理。
ジャズの音源と同じように、バック・グラウンドとして聴く。延々と続くインプロビゼーションの箇所は流して聴き、主に当たるメロディーに戻ったところで曲に入り込むという形になる。
サザーン・ロック・バンドの目ぼしいライブ・アルバムとなると、もちろん他にもすばらしいライブ・アルバムは存在するが、だいたい下記のものが定番となるだろう。
1971年、ALLMAN BROTHERS BAND、AT FILLMORE EAST(全米13位)
デュアン・オールマンのスライドギターから始まるSTATEBORO BLUES にのっけからノック・アウトされ、お馴染みの長尺曲、YOU DON’T LOVE ME、IN MEMORY OF ELIZABETH REEDやWIPPING POSTに繋がっていく。
特に、ディッキー・ベッツの書いた、IN MEMORY OF ELIZABETH REEDはジャズのインプロビゼーションを使った、クロス・オーバー的な楽曲で個人的に非常に好きな楽曲である 。
1972年、ALLMAN BROTHERS BAND、EAT A PEACH (全米4位)
このアルバムは、半分がスタジオ録音で、あとの半分が、前回フィルモア・イーストライブに未収録の音源である。レコード時代は、33分に及ぶMOUNTAIN JAMがレコードのサイド2とサイド4の2面に分けられて収録されていたが、CDになって一曲に繋がった。
今、果たして MOUNTAIN JAMを聴き通すことが出来るだろうか?
1974年、MARSHALL TUCKER BAND、WE ALL BELONG(全米54位)
オールマンと比べると、知名度は 落ちるのであるが、サザーン・ロックの実力者である。このアルバムは、半分がスタジオ録音で、あとの半分がライブ録音である。
リード・ギター担当のリーダー、トイ・コールドウェルは、カントリー系の楽曲でボーカルを取り、ブルージな曲になるとダグ・グレイがボーカルをとると言う、大まかに分けて二つのタイプの楽曲を演奏する。
トイの親指だけで弾く高速ソロ・ギターやダグの伸びやかなボーカルが売り。
1972年、ALLMAN BROTHERS BAND、WIPE THE WINDOW, CHECK THE OIL, DOLLAR GAS (全米75位)
大ヒット・アルバム、BROTHERS AND SISTERSを受けてのライブ・アルバムである。
新加入のキーボード担当のチャック・リーベルは、頑張っているが、デュアンを亡くした後、ディッキーのギター1本でライブが行われたので、迫力は前回のライブと比べると欠けているのでは?
1976年、LYNYRD SKYNYRD、ONE MORE FROM THE ROAD (全米9位)
この当時のライブはトリプル・ギターの編成で、非常に迫力があり収録されている楽曲も、過去3枚から選んだベストの編成となっている。
特に、FREE BIRDはこのアルバム演奏が彼らの最高レベルに達していると思う。
1978年、OUTLAWS、BRING IT BACK ALIVE (全米29位)
LYNYRD SKYNYRDの弟バンドのような存在ともいえるが、カントリー調の曲やウエスト・コースト風のコーラスなども交えて、比較的すっきりとしたサウンドだと言える。しかし 最後の曲、GREEN GRASS AND HIGH TIDESは20分にも及ぶ長尺な曲で、これぞサザーン・ロックと言えるのでは…
スタジオ録音盤を3本のギターによるインプロビゼーションで大幅に延長された大作となっている。
あなたは、この長尺曲を大音量で聴くことに耐えられますか?
そこの若いお方、一度お試しあれ。
とは言え、このブログの読者に若いお方なる人が果たして存在するのだろうか?
北米でプログレッシブ・ロックが受け入れられる土壌といえば、真冬にキーンと寒さを感じる気候で且つ洗練された アーバン・エリアというようなイメージがあり、全国的にそれに当てはまる地域となるとかなり限られてくるのかも…
特にアメリカの中西部や南部ではカントリーやブルースなどが、 一方ヨーロッパではクラッシックがずっと聴かれてきた歴史がある。そのため当然ロックとクラッシックの融合という形で生まれてきたプログレッシブ・ロックは、ヨーロッパが発祥の地で、一日の長があると言える。北米のリスナーにとっては、このジャンルでわざわざ一周遅れのアメリカ出身のバンドを求めなくとも、成熟したヨーロッパのバンドを聴いておけば十分と考えたのかも…
だから、北米では純粋なプログレ・サウンドを継承するバンドは稀で、ほとんどの場合、その味付けを施した大衆受けするロック・サウンドがメインとなる 。例えば、カンサス、初期のジャーニー、ボストン、スティックスやトトなどがそれに当てはまるだろう。そして、ヨーロッパ・スタイルのプログレ・サウンドに近いバンドといえば、 アメリカのロック・バンド、スターキャッスルか、カナダ出身のラッシュぐらいだろう。(ラッシュの場合は、クラッシックというよりは、ハードメタル系?)
今回は、イエスの音楽に憧れて結成されたバンド、スターキャッスルについて手持ちのCDを参考にして簡単に書いてみる。
ボーカルは、REOスピードワゴンの初代ボーカルのテリー・ルトゥレルで、イエスのジョン・アンダーソンには全くそっくりではないが、その雰囲気は少なからずある。またバンドは、専任ボーカルに、2本のギター、ベース、キーボードそしてドラムの一般的な編成で、演奏の技量は結構高いと思う。
大手コロンビア傘下のエピックと契約後、1976年のファースト、STARCASTLEを発売。アルバムは、オープニングに10分を超える大作LADY OF THE LAKEを含んだアルバムで、かなりイエスのサウンドに近い。

1977年のセカンド、FOUNTAINS OF LIGHTは、ファーストと同様のコンセプトであるが、あのクイーンのプロデューサーだったロイ・トーマス・ベイカーを起用し、イエスよりはもう少し親しみやすいメロディも散見され、違いを出そうと試みたことが分かる。

同年発売のサード、CITADELは、前作及び前々作の売り上げが芳しくなく、レコード会社からのクレームもあり、ラジオでのオン・エヤーに不利な長尺の曲をなくし、各曲3-6分程度の長さの曲に纏められた 。プロデューサーは前回と同様のロイ・トーマス・ベイカー。

1978年のフォース・アルバム、REAL TO REELは、前作と販売が不振であったため、 プログレッシブの味付けを施した、 アメリカン・スタイルを継承した更なる親しみ易いサウンドに路線変更した。

残念ながら、オリジナル・メンバーでのスターキャッスルはこのアルバムも不発となり、その後消滅した。
2000年代に入り再結成の動きも出てきて、数名のオリジナル・メンバーとリックの息子のオリバー・ウェイクマンやルネッサンスの女性ボーカルだったアニー・ハズラムを起用し、新作に取り掛かり、その数年後オリバー・ウェイクマンの助けを借りてライブを行ったそうである。
エピックレーベルが、わずか3年の間に4作のオリジナルのレコードの制作を許可し、有名なプロデューサーを招聘した。また後年オリバーが新作を手伝ったことからも、彼らはデビュー当時からかなり期待され実力を伴ったバンドであったと言えよう。
イエスの存在を意識しないで各アルバムを改めて聴いてみれば、このバンドの評価はかなり良い方に変わるものではないかと…
STARCASTLE - Lady Of The Lake
実家の近くに、中規模のスーパーが新しくオープンしたらしい。以前その場所には市場があった。 それぞれの売り場が個人商店ごとに仕切られ個々に商売をするスタイルであった。
記憶では、私が小学校低学年の頃にオープンしたので、50年以上前の話である。昔は新規で市場がオープンすると、空にはアドバルーンと花火が上がり、街にはチンドン屋が繰り出し、芸能人が呼ばれ彼らの余興を楽しんだものである。
大昔の話なのに、結構覚えているもので、その時は、確かパンパカパーンで有名だった、漫画トリオがやって来た。そう! ノック(横山ノック)、フック(後の青芝フック)とパンチ(後の上岡竜太郎)の3人組でその時のネタの一部の記憶もある。
年をとると最近 の記憶でさえ曖昧になるのだが、この手の話はどのような訳か脳内の別枠の記憶みたいで、たわいもない出来事なのに本当に不思議とよくお覚えているものだ。
その市場は、2年ほど前に売り上げ不振で閉店となり、スーパーとして新しく建て替えらオープンに至った。
過去に商店街や市場などを埋め尽くした一般的な個人商店は、現代ではスーパーや通販によって淘汰される運命みたいである。
近所でも、昔ながらの個人経営の本屋さんは1店を残して消滅。CDショップに関しては、住んでいる沿線ではCDのレンタルと新譜販売をしている大型店舗のツタヤ除いて 全滅。
まあCDの場合は、繁華街の大型店舗でも置いていないような、ボックス・セットや輸入盤を買う事がほとんどなので、不便を感じることは全くないのだが、昔みたいにレコード屋の親父と“あれがお薦め”とか、“これはダメだ”とか言うような会話が無くなり、通販で購入する時はマウスで“ポチッ”と無言の一方通行アクションでなんとなく寂しい気分である。
そう言えば、学生時代近所のレコード屋の親父は毎月一回レコードを買いに行くと、お勧めの新譜をよく聴かせてくれた。そのレコードがその後他の客に販売されたかどうかは定かではない。
そんな中、購入したのがSX-68サウンドと呼ばれる西独ノイマン社の最新カッティング・マシーンでカットされた、サイモンとガーファンクルの日本編集ベスト盤(ALL ABOUT SIMON & GARFUNKEL)であった。
日本語のライナーが内ジャケットに記載
SX-68 西独ノイマン社の最新カッティングには賛否両論あったようだが、個人的にはキンキンしないアナログ・サウンドなので好感が持てた。
信頼のSX-68サウンド
多分1973-74年頃の購入と記憶している。当時ソニーのかぶせ帯仕様の洋楽LPは、シュリンク・パックされていたので、封が切られていない限り新品であった。ビートルズのホワイトアルバム(4000円)を除けば、他のレコード・メーカーの2枚組価格の設定は当時3000円だったと思う。
ちなみに 値段はCBSソニーの強気の価格設定3600円也、などと10代の記憶がどんどん蘇り嬉しい限りである。
しかし、現代の10代の若者が、いまどき自ら進んでサイモンとガーファンクルの音楽を聴くことがあるだろうか?
もし全く興味が無いのであれば、将来には絶滅危惧種に指定され、20年後には街の本屋やCDショップのような運命をたどるかもしれない。
何しろ、約50年ほど前に絶大な人気のあった漫画トリオの存在を知っている現在の若者は皆無と思えるからである。
T. REXの日本盤、SLIDERの付録のライナーには、大森康雄氏が調査及び編纂した年表が記載されている。
そこには、1964年マークは学校を 卒業後、ブティックで2週間働き、その後フランスで魔術師と過ごすと記載されていた。
このことが本当かどうか、今となっては確かめる術はないのだが、少なくともその後の活動において、魔術師絡みと言うかそれに準ずるようなイメージを出そうとしていたことは感じられる。
1967年に、リーガル・ゾノフォーン・レーベルからバンド名をティラノザウルス・レックスとして、パーカション担当のスティーブ・トゥックと2人組でデビューを飾る。
ファースト・アルバムは、MY PEOPLE WERE FAIR, AND HAD SKY IN THEIR HAIR… BUT NOW THEY’RE CONTENT TO WEAR STARS ON THEIR BLOWSと和訳しても何のことかわからないタイトルだが、ジャケットのイラストを見ると少し不気味な空想の世界が描かれている。
また、セカンド・アルバムは、PROPETS, SEERS & SAGES - THE ANGELS OF THE AGES(預言者、先見者と哲学者たち - 代々の天使たち) とこれまたよく分からないタイトルだが、ジャケットは放浪の魔術師という感じの出で立ちである。
アコースティック・ギターとパーカッションの2人組のシンプルなフォークサウンドであるので、エレキギターを使い始めた頃にファンとなった人には少し物足りなく感じるサウンドかもしれない。
しかし、現時点においてリーガル・ゾノフォーン時代に出したCDにアウト・テイクを付けた2枚組のデラックス・エディションなるものが出されていることから、ミュージシャンとマジシャンの境界に存在するようなマーク・ボランのイメージに惹かれるファンが、今尚多く存在するのではないかと想像するのである 。
このブログが始まった今年の2月にすでに2度取り上げたのだが、急に彼らの音楽を聴きたくなりレコードを取り出した。
ご存知1972年発売で、オンタイムで購入したTHE SLIDER国内盤である。
1970年初頭に、所属レコード会社をリーガル・ゾノフォーン・レーベルからフライ・レーベルに変更し、バンド名もティラノザウルス・レックスから、T. REX に変わった。その後人気もさらに高まった頃、自身のレーベル、T. REX WAX COMPANYを設立。その際、 EMIと3年契約を結び、それによって東芝音工が彼らのレコードの日本での販売権を得ることとなった。
イギリスでビッグになったT.REXを日本でも成功させるため、販売プローモーションに力を入れることとなり、その結果日本独自のダブル・ジャケット仕様と大盤振る舞いとなった。
内ジャケットのデザインは、表ジャケットに記載されたバンド名と同じ朱色を全面に使い、 その上に英文の歌詞が記載されている。あまり強烈な色使いなので、長く眺めることは出来ない。
また、表紙を含めた12ページのジャケットと同じ色使いのライナーが付いてくる豪華な仕様である。しかしライナーの内側は、同じ朱色が使われているのでこれまた長時間眺めると目が痛くなる。
白黒のポスターもアルバムに封入されていたとか聞いたことがあるが、行方不明みたいで見当たらない。その代わり、女子中学生が描いたような意味不明のイラストが付いていた。
この特別版のライナーには、3ページに渡ってバンドのヒストリーが書かれていて、これが突っ込みどころ満載で興味深い。
1947年9月30日 マークボラン誕生:何~!もし生きていたら、68歳に成るのか…
1964年 学校を卒業。卒業後、ブティックで2週間働く。その後フランスで魔術師と過ごす 。:何~! わずか17歳でフランスに渡るのは、凄い行動力だが、魔術師と過ごすって、意味不明。
1968年9月 ピンク・フロイドとアメリカの大学に公演旅行:初期はアコースティックギターとパーカッションのみのシンプルでまったりしたフォーク調アレンジだったから、サイケ時代のフロイドと一緒に公演を行なったのはなんとなく分かる気がする。
1970年 12月 初めてのエレクトリック・アルバム、T. REXを発売。:オー! ここで、アコースティック・サウンドに別れを告げるのか…
1970年6月 イタリアのテレビ出演後、病気になる。:誰でも一度は病気になる。
1971年10-11月 イギリス・ツアー中にギター3本が盗まれ、これらのギターの発見者に500ポンドの賞金。:今なら9万5000円だが、当時の500ポンドは非常に価値があったかと…
1971年11月 搭乗した飛行機に爆弾が仕掛けられたという噂があり、飛行機が飛行場に引き返す。:御難続きで…
1971年11月 フライ・レーベルがマークの許可なしに、シングルJEEPSTARを発売:フライ・レーベルとの契約を更新しないことから、仕返しみたいな形で勝手に出されたみたいで、この業界ではよくあること。
1972年1月 T. REX WAX COMPANYを設立。:儲けを第三者に多く渡らないようにする自衛手段。
1972年2月 シングル、TELEGRAM SAM、英国で1位獲得:さすが!
1972年2月 アメリカ公演:シカゴ公演で前座のURIAH HEEPがメインのT.REXを食ってしまったとか? 確かに当時のURIAH HEEPの方がアメリカ受けすると思う。それに、ライブでは、トニー・ビスコンティの鋭いストリングスや例の甲高い裏声のコーラスが入らない、4人組のシンプルな編成(ギター、ベース、ドラムそしてパーカッション)だった。そのためURIAH HEEPと比べた場合、どうしても音のバリエーションに欠け、アメリカ受けしなかったのでは? と思う。
1972年5月 シングル、METAL GURU英国で3週間トップとなる。:確かに、この曲は何度聴いても飽きない。
1972年5月 カンヌのリンゴのヨットで、リンゴやジョージと一緒に休暇を楽しむ。:T. REXの映画にリンゴが登場したり、リンゴのアルバムにマークが参加したり、結構仲がいいみたい。
1972年7月 アルバム、SLIDER発売:先行シングル2作が1位獲得の後、満を持してのアルバム発売。 全英4位、全米17位。なぜか、イギリスでは、前作のアルバムELECTRIC WARRIER(全英1位)より順位を落とす。
この後、21世紀少年を含むシングル4枚を全英チャートのトップ5に送り込むが、アルバムは、SLIDER以降売り上げはパッとしなくなる。
今日の結論:学校卒業後、17歳でフランスに行き魔術師と過ごすなんて、プロになる前からぶっ飛んでいた、マーク少年であった。
SLIDERのジャケットに使われている朱色といえば、日本では神社の境内にある建築物に魔除けとして使われる色である。
マーク少年がフランスで魔術師から教わったことなのだろうか? といつも通りいい加減なことを言って終わることにする。
T. Rex - Metal Guru
80年代は、仕事の関係でレコードやCDを買って音楽を聴くという趣味から遠ざかっていたので、1982年に発売されたこのレコードは買わなかった。
その当時はほとんどの場合、車を運転する際にカー・ラジオで音楽を聴くだけであった。
90年代に入り、少し生活にも余裕が出てきたことから、CDを買い始めた。1993年にリマスターされたCDを買ったのだが、スティービー・ワンダー とのデュオでヒットしたEBONY AND IVORYぐらいしか記憶になく、何故かほとんどこのアルバムを聴いた覚えがない。
今回アーカイブ・シリーズとしてCDがリミックス盤として再発されたので、じっくりと聴いてみることにした。
個人的な印象としては、今回ポールが作曲した楽曲に関しては、以前と相対的に比べてそれほど変わらない質を維持していると思う。一番の違いは、ジョージ・マーチンをプロデューサーに迎えたことであろう。
このことによって、各楽曲のアレンジは非常のすっきりしたものとなり、ポールの過去のアルバムで時折見られたオーバー・プロデュース気味の楽曲は今回見当たらない。
例えば、ポールのセルフ・プロデュース時代のRAMに収録されたTHE BACK SEAT OF MY CARなどは、これでもかこれでもかとアレンジされたエンディングが少しくどいとか、BAND ON THE RUN収録の1985もエンディングのオーケストレーションが少し大袈裟のように感じ、また最後にBAND ON THE RUNとアルバム・テーマを歌うリフレインも不要の様な気がしたのであるが…
もちろん、その様なアレンジに魅力を感じる人沢山もいると思うので、それらが全くダメだと否定をするつもりはないが、このアルバムに関する限り、最後まですっきりと聴き通す事が出来、なんとなくビートルズ時代の雰囲気を感じさせるのは、ジョージ・マーチンの手腕ではないかと思うのだが…
1曲目のTUG OF WARの綿密にアレンジされたコーラスとストリングス、アップテンポな2曲目、TAKE IT AWAYに施されたコーラスとブラスなどは、これ以上でもこれ以下でも曲にマッチしないと思える様な素晴らしいアレンジで、 楽曲にピッタリとフィットしていると感じる。そして3曲目には、ポールにしか思い付かない様な心惹かれるメロディーを持つSOMEBODY WHO CARESが続く。
アルバムの最終曲のEBONY AND IVORYまで聴かずとも、これら最初の3曲を聴いただけで十分満足する。
このアルバムは、1976年SPEED OF SOUND以来途切れていた英米両方でのチャート1位を獲得し、大ヒットとなる。
それまでソロやウィングス時代とビートルズでの活動時代と比較されることを好まないというポールのこだわりが、これで吹っ切れたのか、連作だったPIPES OF PEACEを翌年に出した後、1984年GIVE MY REGARDS TO BROAD STREETではビートルズの楽曲の再録を解禁、そして80年代の終わりには、今までコンサートでちょい出しだったビートル時代の楽曲がセット・リストの半分以上を占めるようなり、現在に至る。
ポールにとって、アルバムTUG OF WARはその後の音楽活動の方向性を転換させたきっかけになった重要なアルバムだったと思う。オリジナルのアルバムが発売されて30数年経った今、そのことに気がついた。
なんとなく見えない流れに沿って生きてきたように思うのだが、ちょっと過去を振り返ってみると、なんらかのきっかけで下した決断が今ある人生の転換点となっている。
もしその時、異なる決断を下したなら、今頃別の方向に形成された見えない流れに沿って過ごしているかも?
もちろん人生を巻き戻してやり直すことは不可能である。今となっては、HERE TODAYを聴き直し昔を思い起こすことぐらいだろか?
Paul McCartney - Somebody Who Cares