「八重の桜」の脚本はとても良く出来ていて(上から目線でごめんなさい)、毎回とても楽しみにしているのですが、今回の尚之助との再会シーンが今後の八重さんのお話の中で必要だったのか、ちょっと疑問に感じてしまいました。というより、
正直「要らなかったのでは…」の印象なのですね。
作中での八重と尚之助の描き方(演じ方?)は結構淡白で、夫婦というより「お互いを思いやる同士」みたいな印象でした。結局京都で新島襄と結婚してしまうのなら(庄之助が亡くなったのが1875年3月、新島襄と婚約したのが1875年10月 -ウィキペディアより)わざわざ「会わせる」必要なんてなく、ましてや「京都で待っている」なんて八重の台詞もなんかしっくりきませんのです。
まぁ「二人にきちんと決別させてあげたい」という制作者側の意図、ファンの希望があるのかもしれませんが、別の物語にしても良かったのではないでしょうか。例えば、
覚馬が尚之助からの手紙を預かり八重に渡す(自分には構わず八重さんらしい新しい人生を歩んで欲しいとかなんとか)→八重からの返事を受け取った尚之助は(証拠が残ってはいけないので)涙ながらにその手紙を燃やす→ナレーションで尚之助の最後が語られる とかね。
とにかく、あの締めくくり方では八重が「淡白過ぎ」(^_^;)はるかちゃんだから仕方ないのか。。
私は別に尚之助さまのファンではないですが、「ここに女がいるぞ!」と八重を手放した尚之助さまの、零落した姿を再会させてまで見せる必要はなかったのに、と強く感じた次第なのです。
さて、次回からはいよいよオダギリジョー本格参戦です。「京都で待っています」と尚之助に言ったその後の八重の立場と心の変化を脚本がどう表現してくるのか(辻褄を合わせるのか(^_^;)意地悪)。ちょっと気になるところです。
意外と完全スルーだったりして(笑)
正直「要らなかったのでは…」の印象なのですね。
作中での八重と尚之助の描き方(演じ方?)は結構淡白で、夫婦というより「お互いを思いやる同士」みたいな印象でした。結局京都で新島襄と結婚してしまうのなら(庄之助が亡くなったのが1875年3月、新島襄と婚約したのが1875年10月 -ウィキペディアより)わざわざ「会わせる」必要なんてなく、ましてや「京都で待っている」なんて八重の台詞もなんかしっくりきませんのです。
まぁ「二人にきちんと決別させてあげたい」という制作者側の意図、ファンの希望があるのかもしれませんが、別の物語にしても良かったのではないでしょうか。例えば、
覚馬が尚之助からの手紙を預かり八重に渡す(自分には構わず八重さんらしい新しい人生を歩んで欲しいとかなんとか)→八重からの返事を受け取った尚之助は(証拠が残ってはいけないので)涙ながらにその手紙を燃やす→ナレーションで尚之助の最後が語られる とかね。
とにかく、あの締めくくり方では八重が「淡白過ぎ」(^_^;)はるかちゃんだから仕方ないのか。。
私は別に尚之助さまのファンではないですが、「ここに女がいるぞ!」と八重を手放した尚之助さまの、零落した姿を再会させてまで見せる必要はなかったのに、と強く感じた次第なのです。
さて、次回からはいよいよオダギリジョー本格参戦です。「京都で待っています」と尚之助に言ったその後の八重の立場と心の変化を脚本がどう表現してくるのか(辻褄を合わせるのか(^_^;)意地悪)。ちょっと気になるところです。
意外と完全スルーだったりして(笑)