大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

タキさんの押しつけ映画評・6『アメージングスパイダーマン&臨場』

2012-07-01 09:19:40 | 評論
タキさんの押しつけ映画評・6

☆アメイジングスパイダーマン
 いやはや、10年前のサム・ライミバージョンが「滓」に見えます(実際、カスでしたけどね アハッ)  以前有った映画シリーズをリセットして新たに作り直すのをリメイクと区別してリブート(再起動)とか申しますが、別にそんなことはどうでもよろし。
 今回、3Dを見るつもりやったんですが、時間の関係で2Dになりました。結果、大正解。スパイダーマンが飛び回るシーンが3Dにうってつけだと思ったのですが、画面を見る限りそう効果的なシーンは有りませんでした。3Dはきれいさっぱり無かった事にしましょう。
 画像が良く出来ているのは当然として、今作はストーリーとキャスティングが抜群です。前シリーズに比べ、今作は初期スパイダーマン原作を充分にリスペクトしており、これこそが原作ファンが本当に見たかったスパイダーマンだと断言出来ます。サム・ライミバージョンを見た時に「なんでこんな半端な話にしてしまう?」と不思議に思ったり、フラストレーションが生じたものですが、今回は大丈夫でした。大体が前シリーズのパンフレットには、その辺の話は皆無(そらそうやろね)でした。
 なら、原作を知らないと楽しめないのかっちゅうとそんな事はゴザンセン。そこいらはストーリーが上手いのと、キャストの格が違います。見事なものでございます。これ以上は止めときます、華丸オススメ!
 バットマンが「私と公の間で悩めるヒーロー」だとすれば、スパイダーマンは「極私的な悩み」の中にいます。その分、スケールの小ささが指摘されたりするのですが、ここで発揮されるのが役者の上手さ、キャラクターの掘り下げと抜群の演技力でリアルワールドを構築しています。
 唯一不満をぶち上げるとすれば、スパイダーマン以外に怪物が目視されているのに、スパイダーマンだけが警察の捕捉目標となる事で、これは原作の設定と同じですが、50年前の原作発表時はそれで良くとも、現在では不自然です。その点バットマンには物語の中に理由が組み込んであるので、まんま受け入れれば良いのですがスパイダーマンにはそれが納得できる工夫がいります。ところが、無いんですなぁ本作には…ここまで作っておいて、なんでこの点だけマヌケなんでしょうねぇ?

☆臨場
どうか最後まで一気に見ていただきたい。ラスト1/3くらいから納得の作品になります。導入部はまぁったくアキマヘン、どないもナリマヘン。実際見ていて「なんでこんなん作ったん?」と?マークが10個程、私の頭上を飛び回っておりました。
 冒頭の殺人現場、リアルの対局にある…っちゅうかまるっきりのウ・ソ…ようまあこんなヒドいシーンが取れたもんで、恐らくは現実に同じシチュエーションの事件が有ったから配慮したのかもしれないが、それはこの映画の意味を半減させる事になる。殺人・事故・災害…実際に遭遇した人々には忘れ去りたい事実である。しかし、映画がそれに配慮してリアルに撮らないならば、その映画は存在の意味が無くなる。悪趣味にそっくり同じに設定する事もないが、見ていて嘘っぱちにしか見えない映画で何が表現できるというのか?
 しかも、本作はテレビシリーズを見ていないと魅力が半減する。シリーズのお約束が判っていないと充分に楽しめない。キャラクターのアクがあまりにも強い為、映画で初めて見ると面食らう。それにしても松下由樹と平山浩行の下手くそ加減は呆然とする。高嶋政伸は359度歪んではまり込んでいるのだが、松下・平山はテレビでの演技すら忘れてヤッツケで演技している、全く度し難い。
 主演の内野・平田満・長塚京三がガップリ組み合う辺りから見応えが出てくるのだが、本作はもっと巧く作れた筈である。脚本・演出に半分ずつ責任があるとおもうが、キャストにも責められる部分がある。松下・平山の救いがたさは別格として…あっもう一人、若村麻由美もド下手で、彼女の演技力の無さは定評あるのになんでキャスティングしますかねぇ。柄本佑がなんでこんなに鈍臭いのかも不明、この人天才なんですけどねぇ…やっぱ監督の責任っすかねぇ。この作りで、最終的に見られる作品に仕上げた内野・平山・長塚のお三方を褒め千切るのが正しい評価だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劇団すせん・駅 約束の・・

2012-07-01 07:11:46 | 評論
劇団すせん・駅 約束の・・

 間口4間、奥行き3間ほどのこぢんまりした、平戸間の舞台で、観客席の最前列と舞台との距離は1間ほどしかない。
 舞台と、観客席の結界は、舞台の地ガスリ1枚だけで、テレビのスタジオに似ている。
 セットは奥に「立原」と、ささやかな看板が掛けられた田舎の駅。中央下手寄りに駅の出入り口。壁面は、出入り口を除いて紗幕になっており、裏からの照明で様々な色合いになる。また、時に月が映し出され、狭い舞台空間を叙情的な空間にしている。舞台ばな上手寄りにベンチがある。このベンチと観客席のかぶりつき(最前列)との距離が1間しかない。

 わたしは、芝居を観るときは、上手の最後尾と決めている。観客の反応ごと芝居を観るためである。しかし、その日は道を間違え、小屋に着いたのは、開幕5分前で、最前列の席しか空いておらず、わたしは上手の一番前に座るハメになった。
 本ベルが鳴って、明かりが入ると、ビックリした。ベンチに老人が座っていて、その距離は1間。電車の向かい側のシートほどの距離でしかない。

 このテーマの主題は「待つ」ことの切なさと、人の心の深さにある。深さは、心の傷と言っても、優しさと言ってもいい。

 老人が「待って」いて、数十秒後に駅の出入り口から電車の到着音がして、男がフラリと出てくる。
 肩から画材を入れた鞄を提げ、所在なげにあたりを見渡す。
 特段の目的があって、駅に降り立ったわけではなく、いつしか老人との会話になる。この田舎の駅には、日に何本の列車が停まることもなく、次の列車に乗らなければ、男はその日のうちに帰ることもできないことが、老人との会話で分かり、男は困惑する。男は一応絵を描くという目的を持っている。すぐに帰るわけにもいかず、しぶる老人の家に泊めてもらうことになる……。

 芝居は、明くる日になり、男を追って女がやってくることにつながる。男は私学の美術の教師で、学校に無断で、絵を描きに飛び出して来たことが、同じ職場の体育教師の女と老人の会話から知れる。
 女は、男の無責任さと、弱さをなじるが、男のことを憎からず思っている。女は、村に一軒だけの万屋に泊めてもらい、男の絵の仕上がりに付き合う。

 芝居の途中ベンチの老人の横に、スーツ姿の男が座る。ネクタイをせず、その下の開襟シャツの襟をスーツの襟の上に出していることで、どうやら、昔の人間の幻影であることが知れる。
 良平という、この男の前に和服の若い女が現れ、二人は結婚する仲であると分かり、話しは適度に飛躍して、良平の出征になり、それまでに、良平が国民学校の教師で、子供たちに自由で満足のいく教育ができないことを嘆いたりする。
 出征にあたり、良平は新妻の「しの」と1年の新婚生活しかなかったことや、妻が良平の子どもを身ごもっていることなどが分かり、良平は妻と引き裂かれるように出征していく。
「ボクは生きては帰れないだろう」
 良平は、そう言葉を残して出征していくが、昭和24年に復員すると、皮肉にも行方が分からなくなってしまっていたのは「しの」と、その子どもの方であった。
 以来、良平は、帰らぬ妻子を駅前のベンチで待ち続けている。その良平が老人であることは、比較的容易に知れる。
 男と女は、そんな老人の人生を知り、共感すると共に、「待つ」ことの崇高さと、確かさを知り、互いに通い合わなかった気持ちに気づき、二人の気持ちをより確かなものにしていく。
 男は、最初、村の適当に景色のいいところを描こうとするが、老人の人生を知り、絵のテーマを変える。
 絵は、老人が復員して妻子と再会する穏やかな絵になっているのだが、その絵の中味はラストまで、観客には、明らかにされない。
 絵の中味が分かるのは、老人の葬儀の日である。
 男と女は、老人の人生に共感し、感化されることで結婚に踏み切り、女のお腹には男の子どもが宿っていることが語られる。
 最後に、万屋の婆さんが、ベンチに、その絵を掛け、絵の中味が観客に初めて分かる。
 婆さんが、最後にベンチに語りかける。
「しのさん。これで約束は果たしたからね……」

 あまり、正面から反戦をむき出しに語ったりせずに、「待つ」ことに、やるせなくもピュアな人間の有りようを見せてくれたことに好感が持てた。
 反戦や憲法改正反対を正面から言われることは、もう十年以上前に終わった前世紀でヘキエキしている。演技的には隙間の見える舞台ではあったが、観客の多くは自然に、この「待つ」世界に同化、共感していた。

 ただ、何人かの観客は、途中で居眠りをしていた。
 ドラマが静かな進行であったせいもあるが、演技的な弱さが原因であると、わたしは感じた。
 役者が、人の台詞を受け止めて、それで内的な葛藤や、変化を表現するようには演じられてはいない。

 最初のシーンで、男が駅によそ者として着いたときに、老人は男の登場前(役として、自分の「待つ」を阻害される前に反応し、男が立つはずの場所に目線を送ってしまった。
「ああ、ダンドリ芝居かなあ……」
 ほぼ的中した。役者は台詞は喋るが、相手の台詞を聞いて、やまれずに出てきた台詞ではなく、ダンドリで、他者と関係なく情緒の外形だけを作って表現しているに過ぎない。
 男が、老人に絵を見せたとき。万屋のお婆さんが絵を見たときに心が動いていない。キャンパスには何も描かれていないのではないかと思ったが、ラストで絵を見せられたとき、「ああ、ほんまに描いたあるんや」と思った。きちんと描かれた絵に対しても、このリアクションの弱さである。芝居の中味での葛藤も、同程度であったと申し上げておく。

 細かいことであるが、パンフレットに載っていた「太平洋戦争」の呼称である。「太平洋戦争」とは米軍の呼称であり、正確には「大東亜戦争」である。
 これは単なる、重箱の隅ではない。「太平洋戦争」と言った場合、アジアでの戦争が欠落してしまう。この用語の使い方は重要であると思う。
 また、2000万人を死においやったとあるが、この数字の根拠はどこにあるのだろう。我が国の戦争犠牲者は、国の発表では300万人である。当時「元亀天正の兵器」と軍人自らが言った装備で、2000万人を殺せたのであろうか。
 また、中国やアメリカの普通の認識では、日本軍による犠牲者の数は3000万人というのが並になっている。
 先の大戦を扱う場合、当事者の大半が鬼籍に入っている現状では、かなりしっかりした調査が必要である。分からなければ、分かっている範囲で、作劇するべきであり、井上ひさし氏などは、この枠からはみ出ることは無かった。「父と暮らせば」などを読めば明白である。

 そして、この『駅 約束の・・』には、そんな描写は、ほとんど無い。非常に抑制のきいた、「待つ」ことの叙情的な清らかさと、人としての想いが静かに表現されている。パンフ原稿を演出が見落としたのだろうと思う。

 最前列で観た、勝手な感想であるが、劇団がお持ちになっている、人の想いや優しさを、掌(たなごころ)で慈しむように作っていこうという姿勢は、大変共感が持てた。
 しのと良平の描写が、やや類型的であるので、そこに手を加えられれば、この作品はいっそうの光を放つであることだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする