タキさんの押しつけ演劇評論・三谷幸喜『桜の園』
タキさんは、今時、パソコンをやらないIT原始人。わたしはパソコンはやるけども、携帯電話を持たないIT原始人。で、原始人同士でつるんで……いえ、わたしが代理店になって流している演劇評です。
三谷演出、チェーホフ作「桜の園」見て来ました。
全く、この芝居はこう演るのが正しいっていう見本みたいな芝居でした。
「桜の園」は悲劇として、連綿と伝わってきたのですが、 とは言え、これら悲劇も、正統歌舞伎と同じく、日本演劇の宝である事に間違いは無く、そこまで否定はしませんが、このままでは観客は減るばかりなのは自明でありました。
マイナーな舞台で喜劇として演じる事は、これまでもあったのかも知れませんが、今回、三谷幸喜というメジャー中のメジャーが「桜の園」を喜劇として蘇らせたのは、この芝居にとってどれだけ幸せな事であったか、どれだけエポックメイキングな事件であったか、計り知れないものがあるのです。今後、本作を上演するに際して、この演出が、一つの指標になるのは間違い有馬線。
さて、今回の芝居そのものですが、まず、青木さやかにヴォードビルを演じさせて、劇場の空気を和らげておいて、それでも足りず、観劇に対する注意をまずロシア語で流し、通訳文をその後に付ける。曰わく「携帯の電源は切って下さい」云々。ところが、途中で「ピロシキには二種類有ります」なんぞと入りだし、つまり「あなた方がこれから見る芝居は今までのとはチョトチガウヨ」と二重の仕掛けで伝えている。これで劇場は完全に喜劇モード、見事な導入です。
今回の公演で、三谷幸喜がどれくらい改変したのか、どこまでギャグをかましてあるのかが、観劇の見所でした。照明が入り、そこは、桜の園の屋敷の子供部屋。パリから戻って来る、ラネーフスカヤを待ちわびる人々…第一声が入る…意外や、殆ど原作のままである。
しかし、これまでの芝居とはセリフのニュアンスが違っている。ギャグなど入れずとも自然に笑いが起こる。一言一句覚えている訳ではないが、これは見慣れた「桜の園」の冒頭シーンに違いない。しかも、驚いた事に、人間関係が一目瞭然に理解出来る。
ロシア戯曲のネックは人物の名前に馴染みが無く、また、やたらと重々しく演じられる為、セリフに込められた意味がなかなか解らない……ちゅうことは、当然人間関係を理解するまで暫く時間がかかる。この枷が、少なくとも半分無くなっている、これだけでも事件であります。以後、ちょっとしたギャグ的セリフは入るものの、基本、元のテキストのままです。やはり、チェーホフは本作を喜劇として書いたのだと確信しました。
三谷幸喜のこの芝居の読み解き方は間違っていませんでした。以降、登場する人物たちが、皆さん少しずつズレた人々で、それが明確に示されるので、各人がそれぞれにそこはかとなく可笑しい。
筆頭は、やはりラネーフスカヤ/浅丘ルリ子、天然と言うより、自然…故に、彼女は自分の立場が解らない、理解する気もない。ただ無邪気に、無防備に、今や大きくうねる社会を渡って行こうとする、そこに彼女の悲劇が有るのだが、浅丘はそれこそ自然体で演じている。まるで、ラネーフスカヤその人が、そこに佇むようである。まさに、絶品。
次いでは、これも無邪気ではあるが、新しい世界を積極的に生きようとするアーニャ/大和田美帆とトロフィーモフ/藤井隆が初々しい、これまでも藤井を単なる芸人と思った事は無かったが、彼は、この芝居で間違いなく1ランク上に上がった。
三谷は、何もかもを笑いに変えた訳ではなく、例えば、三幕幕切れ、ロパーヒン/市川しんぺーが「桜の園を買い取ったのは、農奴の倅のこの俺だ!」と叫ぶシーンはそのままにしてある。ただ、ここに至るまでが笑いの連続なので、かえってこのシーンの残酷さが浮き上がる。ロパーヒンが始めから終わりまで、ただ一人状況を正しく捉えている。しかも、善意の人であるのに、全く受け入れられない。市川氏は、この役を極めて誠実に演じたが、この日は少々お疲れだったようで声が飛んでいた。それが力みに繋がったようで、声が正常であれば違う演技だったとおもう。
これも没落貴族のピーシク/阿南健次、この人、何をやっても飄々と渡って行くのだが、今一乗り切れていなく感じた、或いは旧来のやり方に引きずられているのか? 本人は、そんな事はないと言っているが…
旧来のやり方に拘りが有りそうなのは、ワーリャ/神野三鈴、しかし、彼女は三谷演出に添おうと努力しているのが良く解る。今後、大化けするとすれば、この人だろう。
藤木孝/ガーエフは、完全に旧来の演出で演じているのだが、今思うと、これも三谷の計算なのかも知れない。
江幡高志さんが老召使いフィールスを演じている。私は、この滅び行く旧秩序を体現するこの役が大好きです。誰も居なくなった桜の園に一人取り残され、あきらめたように子供部屋で眠ってしまう老人の姿に涙が止まらなく成るのですが、今回は不思議な事に涙は出ず、ほのかな安らぎを感じました。それだけ、三谷の、この芝居の世界に対する優しい視線が、本作の一番深い部分を見つけていたのだと思います。それはそのまま、チェーホフが自分の生きた時代に向けた視線だったのかな…なぁんて思ったりしとります。
この芝居の、いつの分がディスクになるのか判りませんが、その時には、桜の園の台本を手に、どこにレジが入っているのか、三谷演出を解剖するように見てやろうと、手ぐすね引いて待っておりますです。
「桜の園」を良くご存知の方々へ、本来一幕と終幕が子供部屋で、二幕が庭、三幕広間なんですが、本作は、全て子供部屋で展開します。その分、違和感を持つ向きもおられるかもしれませんが、全く自然な運びに成っていますし、今回その方が良かったように思えます。桜の園の幸せな思い出は、総てこの部屋に由来する訳ですから、かえって象徴的な扱いだとも考えられると思います。
まだまだ書きたい事はあるのですが、この辺にしておきます。際限が有りませんし、後は、機会があれば、ご自分の目と耳でご確認下さい。長々とお付き合い、ご苦労様でございました。では、また週末に、今週は アニメが二本、乞う!ご期待
タキさんは、今時、パソコンをやらないIT原始人。わたしはパソコンはやるけども、携帯電話を持たないIT原始人。で、原始人同士でつるんで……いえ、わたしが代理店になって流している演劇評です。
三谷演出、チェーホフ作「桜の園」見て来ました。
全く、この芝居はこう演るのが正しいっていう見本みたいな芝居でした。
「桜の園」は悲劇として、連綿と伝わってきたのですが、 とは言え、これら悲劇も、正統歌舞伎と同じく、日本演劇の宝である事に間違いは無く、そこまで否定はしませんが、このままでは観客は減るばかりなのは自明でありました。
マイナーな舞台で喜劇として演じる事は、これまでもあったのかも知れませんが、今回、三谷幸喜というメジャー中のメジャーが「桜の園」を喜劇として蘇らせたのは、この芝居にとってどれだけ幸せな事であったか、どれだけエポックメイキングな事件であったか、計り知れないものがあるのです。今後、本作を上演するに際して、この演出が、一つの指標になるのは間違い有馬線。
さて、今回の芝居そのものですが、まず、青木さやかにヴォードビルを演じさせて、劇場の空気を和らげておいて、それでも足りず、観劇に対する注意をまずロシア語で流し、通訳文をその後に付ける。曰わく「携帯の電源は切って下さい」云々。ところが、途中で「ピロシキには二種類有ります」なんぞと入りだし、つまり「あなた方がこれから見る芝居は今までのとはチョトチガウヨ」と二重の仕掛けで伝えている。これで劇場は完全に喜劇モード、見事な導入です。
今回の公演で、三谷幸喜がどれくらい改変したのか、どこまでギャグをかましてあるのかが、観劇の見所でした。照明が入り、そこは、桜の園の屋敷の子供部屋。パリから戻って来る、ラネーフスカヤを待ちわびる人々…第一声が入る…意外や、殆ど原作のままである。
しかし、これまでの芝居とはセリフのニュアンスが違っている。ギャグなど入れずとも自然に笑いが起こる。一言一句覚えている訳ではないが、これは見慣れた「桜の園」の冒頭シーンに違いない。しかも、驚いた事に、人間関係が一目瞭然に理解出来る。
ロシア戯曲のネックは人物の名前に馴染みが無く、また、やたらと重々しく演じられる為、セリフに込められた意味がなかなか解らない……ちゅうことは、当然人間関係を理解するまで暫く時間がかかる。この枷が、少なくとも半分無くなっている、これだけでも事件であります。以後、ちょっとしたギャグ的セリフは入るものの、基本、元のテキストのままです。やはり、チェーホフは本作を喜劇として書いたのだと確信しました。
三谷幸喜のこの芝居の読み解き方は間違っていませんでした。以降、登場する人物たちが、皆さん少しずつズレた人々で、それが明確に示されるので、各人がそれぞれにそこはかとなく可笑しい。
筆頭は、やはりラネーフスカヤ/浅丘ルリ子、天然と言うより、自然…故に、彼女は自分の立場が解らない、理解する気もない。ただ無邪気に、無防備に、今や大きくうねる社会を渡って行こうとする、そこに彼女の悲劇が有るのだが、浅丘はそれこそ自然体で演じている。まるで、ラネーフスカヤその人が、そこに佇むようである。まさに、絶品。
次いでは、これも無邪気ではあるが、新しい世界を積極的に生きようとするアーニャ/大和田美帆とトロフィーモフ/藤井隆が初々しい、これまでも藤井を単なる芸人と思った事は無かったが、彼は、この芝居で間違いなく1ランク上に上がった。
三谷は、何もかもを笑いに変えた訳ではなく、例えば、三幕幕切れ、ロパーヒン/市川しんぺーが「桜の園を買い取ったのは、農奴の倅のこの俺だ!」と叫ぶシーンはそのままにしてある。ただ、ここに至るまでが笑いの連続なので、かえってこのシーンの残酷さが浮き上がる。ロパーヒンが始めから終わりまで、ただ一人状況を正しく捉えている。しかも、善意の人であるのに、全く受け入れられない。市川氏は、この役を極めて誠実に演じたが、この日は少々お疲れだったようで声が飛んでいた。それが力みに繋がったようで、声が正常であれば違う演技だったとおもう。
これも没落貴族のピーシク/阿南健次、この人、何をやっても飄々と渡って行くのだが、今一乗り切れていなく感じた、或いは旧来のやり方に引きずられているのか? 本人は、そんな事はないと言っているが…
旧来のやり方に拘りが有りそうなのは、ワーリャ/神野三鈴、しかし、彼女は三谷演出に添おうと努力しているのが良く解る。今後、大化けするとすれば、この人だろう。
藤木孝/ガーエフは、完全に旧来の演出で演じているのだが、今思うと、これも三谷の計算なのかも知れない。
江幡高志さんが老召使いフィールスを演じている。私は、この滅び行く旧秩序を体現するこの役が大好きです。誰も居なくなった桜の園に一人取り残され、あきらめたように子供部屋で眠ってしまう老人の姿に涙が止まらなく成るのですが、今回は不思議な事に涙は出ず、ほのかな安らぎを感じました。それだけ、三谷の、この芝居の世界に対する優しい視線が、本作の一番深い部分を見つけていたのだと思います。それはそのまま、チェーホフが自分の生きた時代に向けた視線だったのかな…なぁんて思ったりしとります。
この芝居の、いつの分がディスクになるのか判りませんが、その時には、桜の園の台本を手に、どこにレジが入っているのか、三谷演出を解剖するように見てやろうと、手ぐすね引いて待っておりますです。
「桜の園」を良くご存知の方々へ、本来一幕と終幕が子供部屋で、二幕が庭、三幕広間なんですが、本作は、全て子供部屋で展開します。その分、違和感を持つ向きもおられるかもしれませんが、全く自然な運びに成っていますし、今回その方が良かったように思えます。桜の園の幸せな思い出は、総てこの部屋に由来する訳ですから、かえって象徴的な扱いだとも考えられると思います。
まだまだ書きたい事はあるのですが、この辺にしておきます。際限が有りませんし、後は、機会があれば、ご自分の目と耳でご確認下さい。長々とお付き合い、ご苦労様でございました。では、また週末に、今週は アニメが二本、乞う!ご期待