邪気眼少女忍者イスカの失踪
①『蛍のように輝き』
気配が絶えて一刻になった。
「……お頭、もう頃合いでは?」
ムササビが唇も動かさずに呟く、忍者の会話方である闇語りである。
「もう半刻」
「死なせては、元も子もありません」
「完璧な死域に入らせねば、あの邪気眼とて先を見通せぬ」
「しかし」
「おまえの声は大きすぎる」
「……黙しまする」
虫ほどの気配が消え、魍魎ヶ峰の羅刹杉は地獄のような緑に溶け込んだ。
イスカは半ば沢の流れに沈んで、指の先も動かせずにいた。
沢を飛び越えようとし、跳躍したところで力が尽きた。
イスカほどの忍びになると、次第に弱まるということがない。気力体力の限界を超え、死域に入ると常の倍ほどの力が出せる。その倍ほどの力で魍魎ヶ峰を一刻あまり走り回った。常の忍びの働きならばここまでである。これを越せば十に九つ命が無い。イスカは死域の向こうに超えて、沢の真ん中で糸が切れるように尽きてしまった。いまで言う心肺停止状態である。
イスカには生まれついての邪気眼が有る。
その邪気眼で、戦国の世の帰趨を見通してきた。
天下の流れが奔流のように信長という滝つぼに落ちて行くのを、イスカは見守った。そして潮目をとらえては頭に伝え、そのつど十鬼一族を滅亡の危機から救ってきた。
大きくは、土岐頼芸→斉藤道三→斉藤義龍→織田信長の潮目を読み取り、盛衰激しい美濃国で忍びの一族を守ってきた。
むろん、十六にしかならないイスカが、この長い戦国の世全てを読み取って来たわけではない。この邪気眼の術はイスカの母、祖母、さらにそれ以前の女たちから血縁で繋がれてきたものである。
そして、三日前。京の本能寺で信長が討たれた。
この先は、いつもの邪気眼では読み取ることができなくなった。
お頭はイスカに命じた。
「先を読め」
イスカは魍魎ヶ峰の森に入った。
いつもなら一昼夜で死域に入り潮目が見えてくる。
だが、今回は流れが大きすぎる。命の火を消すところまでいかないと見えてこない。
――秀吉の天下になる――
そこまでは読めた。
だが、そこに至る紆余曲折が読めない。そして、イスカの邪気眼は秀吉の後の騒乱まで見通しているが、朧に霞んで見えてこない。
なんでここまで……イスカは思った。祖母は母を、母はイスカを産んで間もなく亡くなっている。邪気眼というのは、その力を持つ者の命を削ってしまう。祖母にも母にも女としての人生は無かった。死ぬまで潮目を読まされ、娘一人を産んだところで命の火を消している。一族のため……そこまではいい。しかし、イスカは跡継ぎの娘さえ産んではいない。希望の火であったタケルは長篠の戦で行方不明になってしまった。せめてタケルと……その想いをかみ殺しながらイスカは駆けてきた。
森に入って三日、幾たびも転び木や茨に引っかけられ、イスカの衣はズタズタになっている。沢に転落して、そのズタズタの衣もあらかた流されてしまった。
「もう読めません……あとは、お頭のお力で……切り抜けて……ください……」
きのう飛騨で降った雨が沢の水かさを増やした。
沢は奔流となってイスカを流し始めた。
流れに飲み込まれる刹那、イスカの体が大きな蛍のように輝き、次の瞬間……消えてしまった。
※ 登場人物
イスカ 戦国時代の美濃の女忍者 その邪気眼で十鬼(とき)一族を導いてきた。
①『蛍のように輝き』
気配が絶えて一刻になった。
「……お頭、もう頃合いでは?」
ムササビが唇も動かさずに呟く、忍者の会話方である闇語りである。
「もう半刻」
「死なせては、元も子もありません」
「完璧な死域に入らせねば、あの邪気眼とて先を見通せぬ」
「しかし」
「おまえの声は大きすぎる」
「……黙しまする」
虫ほどの気配が消え、魍魎ヶ峰の羅刹杉は地獄のような緑に溶け込んだ。
イスカは半ば沢の流れに沈んで、指の先も動かせずにいた。
沢を飛び越えようとし、跳躍したところで力が尽きた。
イスカほどの忍びになると、次第に弱まるということがない。気力体力の限界を超え、死域に入ると常の倍ほどの力が出せる。その倍ほどの力で魍魎ヶ峰を一刻あまり走り回った。常の忍びの働きならばここまでである。これを越せば十に九つ命が無い。イスカは死域の向こうに超えて、沢の真ん中で糸が切れるように尽きてしまった。いまで言う心肺停止状態である。
イスカには生まれついての邪気眼が有る。
その邪気眼で、戦国の世の帰趨を見通してきた。
天下の流れが奔流のように信長という滝つぼに落ちて行くのを、イスカは見守った。そして潮目をとらえては頭に伝え、そのつど十鬼一族を滅亡の危機から救ってきた。
大きくは、土岐頼芸→斉藤道三→斉藤義龍→織田信長の潮目を読み取り、盛衰激しい美濃国で忍びの一族を守ってきた。
むろん、十六にしかならないイスカが、この長い戦国の世全てを読み取って来たわけではない。この邪気眼の術はイスカの母、祖母、さらにそれ以前の女たちから血縁で繋がれてきたものである。
そして、三日前。京の本能寺で信長が討たれた。
この先は、いつもの邪気眼では読み取ることができなくなった。
お頭はイスカに命じた。
「先を読め」
イスカは魍魎ヶ峰の森に入った。
いつもなら一昼夜で死域に入り潮目が見えてくる。
だが、今回は流れが大きすぎる。命の火を消すところまでいかないと見えてこない。
――秀吉の天下になる――
そこまでは読めた。
だが、そこに至る紆余曲折が読めない。そして、イスカの邪気眼は秀吉の後の騒乱まで見通しているが、朧に霞んで見えてこない。
なんでここまで……イスカは思った。祖母は母を、母はイスカを産んで間もなく亡くなっている。邪気眼というのは、その力を持つ者の命を削ってしまう。祖母にも母にも女としての人生は無かった。死ぬまで潮目を読まされ、娘一人を産んだところで命の火を消している。一族のため……そこまではいい。しかし、イスカは跡継ぎの娘さえ産んではいない。希望の火であったタケルは長篠の戦で行方不明になってしまった。せめてタケルと……その想いをかみ殺しながらイスカは駆けてきた。
森に入って三日、幾たびも転び木や茨に引っかけられ、イスカの衣はズタズタになっている。沢に転落して、そのズタズタの衣もあらかた流されてしまった。
「もう読めません……あとは、お頭のお力で……切り抜けて……ください……」
きのう飛騨で降った雨が沢の水かさを増やした。
沢は奔流となってイスカを流し始めた。
流れに飲み込まれる刹那、イスカの体が大きな蛍のように輝き、次の瞬間……消えてしまった。
※ 登場人物
イスカ 戦国時代の美濃の女忍者 その邪気眼で十鬼(とき)一族を導いてきた。