【デイゴの赤い花】
先日のこと。
知り合いが「KAORUさんのブログ、しばらく
見ていないわ。また今度遊びに行きますね!」と
言ってくれたので、すかさず、
「じゃあ最新の「お母さんを選ぶ赤ちゃん」を読んでみて!」
と、1才の母でもある彼女にオススメをした。
少しだけ概要を話したところ、
「へぇ~、赤ちゃんが3才ぐらいまでに
“自分の前世”を話すことは知っていたけれど、
“なんでお母さんを選んだのか”を話すのは初耳!」
だと驚いていた。
そして私もまた同様に、最近の若いお母さんの間でも
赤ちゃんが前世を話す、という説を知っていることに
ちょっぴり驚いた。
********************
私がまだ新米ママだった15年近く前、
「しゃべり始めた頃に、赤ちゃんに前世のことを
尋ねると答えることがある。」という話を
ラジオなのか、赤ちゃん雑誌なのか、
テレビだったか思い出せないのだが、
人から聞いたのではなく、
マスメディアからの情報で知っていた。
それは、だんだんと子どもが外界からの知識を
吸収すると忘れていってしまう、と聞いていた。
しゃべり始めが勝負なのだ、と。
前世やスピリチュアルにまったく縁のない生活を
していた当時、「へぇ、そうなんだ!
ウチの子も話すと面白いのにな。」という気持ちで
日々の育児に追われていた。
オムツを替えたり、離乳食をせっせと作ってみたり、
よちよち歩いたり、ひとことずつおしゃべりができるように
なるのを一喜一憂していた毎日。
子育てが自分の世界のすべてだった時間である。
********************
彼が3才になる少し前だったと思う。
ある日の夜、フローリングの床に
寝っ転がって一緒にテレビを見ていた。
突然、本当に唐突に「ママ、こうして!」と
私の両足を開いたかと思うと、
「ボクね、ココからこうやって
生まれてきたんだよ!」と身をかがめて、
もぞもぞっと出てくるようなポーズをした。
続けて「あのね、ボクがおなかの中にいる時ね、
ママがボンボ~ンって笑ったの。」と今度は
胎児の時らしき記憶。
あっけにとられていると、すっくと立ちあがり、
「ボクね、高校の教師だったんだよ。」と
2才児とは思えないような、大人びた表情で私の顔を見つめた。
その頃は、せいぜいスイミングで「ちぇんちぇぃ(せんせい)」
と呼んでいる人がいたぐらいで、「教師」という
初めて口にする言いまわしに、内心動揺していた。
たどたどしい赤ちゃん言葉ではなく、
断定するようなセリフ。
生まれた時から、胎児、前世と記憶が逆戻りしたのだ、と
20代半ばだった私は、その瞬間なぜか確信した。
「わぁ~、ついにウチの子もしゃべった~!」と、
大事件のように周囲に報告しまわっていたが、
「へぇ、そうなの。」と思った以上のリアクションは
得られなかったが、それでも今からひと昔以上前の出来事、
特に否定も肯定もされることがなかった。
赤ちゃん仲間として知り合って、今は仕事上でも
お付き合いのある「ケンちゃんママ」にメールで
当時の記憶を尋ねたところ、
「うん!覚えてるよ!その話聞いて
ウチも聞いてみたけどぜんぜん反応なかったのよ。」と
ついさっき返信メールが戻ってきた。
あれから現在に至る今でも、まことしやかに
「3才までに語る“前世の記憶”説」が
お母さん達をひそかにワクワクをさせていたのだと
思うと、なんだか楽しい。
単なる誰かの個人的な説やブームでは
なかったことを裏付けている気がする。
********************
そんな話を息子に話すと
「覚えてないな~。そんなこと言ったんだ。
へぇ。高校の先生だったんだ、オレ。」などと
特に感慨深くもなく、否定もせずに
自分の発言を受けとめているようである。
とかく、子どものために!!という気持ちと
我が子かわいさのあまりの、自分の感情とが
ごちゃ混ぜになり、境界線があいまいになってしまう。
…でも遠い昔、彼も大人だった時代がある、
とするならば、今回は母親として、今回の人生の先輩
として教えられることはなんだろうか?
私が母親として彼から学ぶべきことはなんだろうか?
と考えてみる。
教えることは、教えられること。
―――お花を教えていてわかったことである。
育てることは、育てられること。
―――母になって実感していることである。
先日のこと。
知り合いが「KAORUさんのブログ、しばらく
見ていないわ。また今度遊びに行きますね!」と
言ってくれたので、すかさず、
「じゃあ最新の「お母さんを選ぶ赤ちゃん」を読んでみて!」
と、1才の母でもある彼女にオススメをした。
少しだけ概要を話したところ、
「へぇ~、赤ちゃんが3才ぐらいまでに
“自分の前世”を話すことは知っていたけれど、
“なんでお母さんを選んだのか”を話すのは初耳!」
だと驚いていた。
そして私もまた同様に、最近の若いお母さんの間でも
赤ちゃんが前世を話す、という説を知っていることに
ちょっぴり驚いた。
********************
私がまだ新米ママだった15年近く前、
「しゃべり始めた頃に、赤ちゃんに前世のことを
尋ねると答えることがある。」という話を
ラジオなのか、赤ちゃん雑誌なのか、
テレビだったか思い出せないのだが、
人から聞いたのではなく、
マスメディアからの情報で知っていた。
それは、だんだんと子どもが外界からの知識を
吸収すると忘れていってしまう、と聞いていた。
しゃべり始めが勝負なのだ、と。
前世やスピリチュアルにまったく縁のない生活を
していた当時、「へぇ、そうなんだ!
ウチの子も話すと面白いのにな。」という気持ちで
日々の育児に追われていた。
オムツを替えたり、離乳食をせっせと作ってみたり、
よちよち歩いたり、ひとことずつおしゃべりができるように
なるのを一喜一憂していた毎日。
子育てが自分の世界のすべてだった時間である。
********************
彼が3才になる少し前だったと思う。
ある日の夜、フローリングの床に
寝っ転がって一緒にテレビを見ていた。
突然、本当に唐突に「ママ、こうして!」と
私の両足を開いたかと思うと、
「ボクね、ココからこうやって
生まれてきたんだよ!」と身をかがめて、
もぞもぞっと出てくるようなポーズをした。
続けて「あのね、ボクがおなかの中にいる時ね、
ママがボンボ~ンって笑ったの。」と今度は
胎児の時らしき記憶。
あっけにとられていると、すっくと立ちあがり、
「ボクね、高校の教師だったんだよ。」と
2才児とは思えないような、大人びた表情で私の顔を見つめた。
その頃は、せいぜいスイミングで「ちぇんちぇぃ(せんせい)」
と呼んでいる人がいたぐらいで、「教師」という
初めて口にする言いまわしに、内心動揺していた。
たどたどしい赤ちゃん言葉ではなく、
断定するようなセリフ。
生まれた時から、胎児、前世と記憶が逆戻りしたのだ、と
20代半ばだった私は、その瞬間なぜか確信した。
「わぁ~、ついにウチの子もしゃべった~!」と、
大事件のように周囲に報告しまわっていたが、
「へぇ、そうなの。」と思った以上のリアクションは
得られなかったが、それでも今からひと昔以上前の出来事、
特に否定も肯定もされることがなかった。
赤ちゃん仲間として知り合って、今は仕事上でも
お付き合いのある「ケンちゃんママ」にメールで
当時の記憶を尋ねたところ、
「うん!覚えてるよ!その話聞いて
ウチも聞いてみたけどぜんぜん反応なかったのよ。」と
ついさっき返信メールが戻ってきた。
あれから現在に至る今でも、まことしやかに
「3才までに語る“前世の記憶”説」が
お母さん達をひそかにワクワクをさせていたのだと
思うと、なんだか楽しい。
単なる誰かの個人的な説やブームでは
なかったことを裏付けている気がする。
********************
そんな話を息子に話すと
「覚えてないな~。そんなこと言ったんだ。
へぇ。高校の先生だったんだ、オレ。」などと
特に感慨深くもなく、否定もせずに
自分の発言を受けとめているようである。
とかく、子どものために!!という気持ちと
我が子かわいさのあまりの、自分の感情とが
ごちゃ混ぜになり、境界線があいまいになってしまう。
…でも遠い昔、彼も大人だった時代がある、
とするならば、今回は母親として、今回の人生の先輩
として教えられることはなんだろうか?
私が母親として彼から学ぶべきことはなんだろうか?
と考えてみる。
教えることは、教えられること。
―――お花を教えていてわかったことである。
育てることは、育てられること。
―――母になって実感していることである。