風呂好き親子

2005年11月06日 | 雑感 -
風呂好きの父が、自宅でお風呂に入らなくなってから久しい。

私たちは、風呂好き親子である。
昨年の父は、私の帰宅時間を見計らったように、たっぷりのお湯をはって
ゆっくりとお風呂に入っていた。
父は、一人で入るのは“もったいない”と思うらしく、自分が入った後に
「冷めるから、早く入れ」と、よくせかされた。
これは、毎日のことだった。
ほぼ毎日、この行為は繰り返されてきた。
今年に入って、父の具合は悪くなっていって、足の運びも極端に不自由になり、
自宅でお風呂に入らなくなった。
今年の九月に、入浴中に動けなくなってから、全然入っていない。

   ※父は、今「デイサービス」で入浴している。


私は、自分の好きな時間に入浴できるようになってから、気がついたことがある。
自由なはずなのに、“ゆっくりと入浴しなくなった”ということだ。
「お風呂でのんびりすると、父に申し訳ない」と思う気持ちは多少あるのだが・・・
過剰に気を遣うほどの関係ではない。
だから(正直に言うと)そのことは全然気にしていない。

それよりも・・・
父と同居をはじめてから、14ヶ月――
私の生活のリズムというのは、「父の影響をかなり受けていた」という事実だ。
私にとっての「入浴」は・・・父の入りたい時間に、父の入りたいと思う入り方で、
“常に入っていたんだなぁ”と思い知らされたのだ。

人は、誰しも・・・誰かの影響を自ずと受けているものである。
家族の間でも、お互いに気を遣ったりすることはあるし、
自覚がないままに何らかの制約を受けたり、束縛されていたり、
常に“周りにいる誰かに、様々な影響を受けている”ものなんだろう。

思い返せば・・・
一人暮らしの頃は、自由に、入りたいときに“お風呂に入っていた”。
真昼間から、本を持ち込んで、半身浴をしながら二時間近く入浴していたりもした。
入浴&サウナは、ストレス解消の一端を担っていて、私にとっては意義ある行為だから、
まさに“入りたいなぁ”と思ったときが“入り時”だったのである。

今は、どうだろう。
自由に入れるようになってからでも、一人暮らしの時のような“入浴”にはならない。
そういうことも可能なのに、自分では“そうしていない”。
何故だろう・・・と思う。
やはり、私の生活は「父の影響をかなり受けている」ということのようだ。
それは、きっと時間的制約ではない。
おそらく、目に見えない抑圧として、私の中に巣作っているものがあるのだ。
“自由でいながら、自由ではない状態”が、「今の私の日常」なのかもしれない。
そんな気がする。

お風呂好きの私が、ゆっくり入浴しないのは、良くないぞ!
疲れがとれない。(それは、よくないだろう?!)
第一、あれだけ大好きな「お風呂」なのに、“思い存分楽しんでいない”ということは、
“私自身の人生を楽しんでいない”ということでもある。
全く、困ったもんだ~なぁ~~。
反省すること至極である。


一人暮らしの長かった私は、「孤独」というものを熟知している。
常に隣り合わせに感じてきたし、「ひとりぼっち」の寂しさや心細さを痛感してきた。
そんなときは・・・“誰でも良いから、傍にいてほしい”と思ったものだ。
あの頃の私は、確実に「孤独」だった。
“孤独だった”けれども、その反面、明らかに“自由だった”のも事実である。
好きな世界で、やりたい仕事をして、日々の暮らしの中にも充足感を感じていた。

世の中には、“自由を手にしても、孤独を寄せ付けない人”がたくさんいると思うが、
私は不器用なところがあって、その上に生真面目だから、なかなか思うようにならない。
今は、自分の“感情のイロハ”を自覚し、“感情をコントロールする能力”を鍛えるため、
ただただ「“自己練磨に費やす時間”を大切にする」のみである。
これもまた、我が“健気な生き方”と割り切ってはいるのだが・・・
いつの日にか「“心豊かに活き活きと暮らせる日”が来る」ことを、願ってやまない。
それは、私にとって・・・すごく理想的な世界なんだ。
そして、同様に・・・私が“心から憬れている境地”なのである。