「人間は、“思い込み”の動物である」。
これは、二十年前ぐらいから、人生訓のようにしてきた言葉だ。
私自身で“どれだけ自分勝手に思い込んでいるか”という・・・ゆるぎない現実のもと、
私は常に(様々なケースでもたらされる)“自分の判断”を疑ってきた。
ある意味では、自分の思考の特徴や傾向だと言えるだろう。
また、思い込みが助長しないように、自分が常日頃“気をつけていること”でもある。
そのおかげで、たくさんの発見をしたことがあったし、選択&決断の助けにもなった。
・・・良いことばかりではなく、“ふりだし”に戻らざるをえなくなったこともあるけどネ(笑)。
今日もまた、“思い込み”の加減を、父の動向によって知ることになった。
それは・・・今年の九月以降、お風呂に入らなくなっていた父が、何の“障害”も無く、
自宅の狭い風呂場で入浴できたから・・・だ。
これまでバスタイムを楽しめていなかった私が“これじゃいかん”と思い至り、
今日は・・・ゆっくりと入浴しようと思った。
バスダブにお湯をはって、のんびりと時間を過ごした後で・・・
びっくりするものを目撃した。
誘ってもいないのに、服を脱ぎだして入浴準備にはいった父――である。
それまでは、何度誘っても駄目だったし、サポートすると話しても動かなかったのに、
今日は自発的な行為だった。
完全にボケてしまって、「“過去の記憶”や“自分の意識”を忘れてしまったのかも」と
父に確認してみたが、そうでもないようだ。
動けなくなったことは記憶していて、入浴前には「ひきあげてくれよ」と一言かけられ、
入浴後も「あかんと思うたけれど、いけたなぁ」と感想をこぼしていた。
父は、何故・・・自発的に入浴したのだろう?
「時間」が経って、“父の記憶”が変化してきたのだろうか。
心の中で、ゆっくりと“わだかまっていたもの”が、解けてきたのだろうか。
はたまた、私が(自分の価値基準のもとに)入浴を強く誘っていたことが、
父の“不安”をかきたて“恐怖心”をあおっていたのだろうか。
それで、入浴を拒否しなくてはならないほどの“思い込み”を助長していたのだろうか。
本当に不思議なことだ。(よくわからん)
どちらにしても、無事に事なきを得て、本当に良かった!
ことの真偽は分からずとも、父の“思い込み”を“父自身が解いた”ことは事実である。
それが何よりも、嬉しいことだった。
人間は、常に思い込む。
その思い込みは、自己防衛を生む。
しかし・・・その自己防衛が間違った方向に働いてしまったら、
“自分自身”や“自分のあらゆる可能性”を阻んでしまうものである。
スタート地点から、達成率を下げているなんて、なんて馬鹿げたことだろう。
また、“思い込み”は、いろいろな“悩み”や“トラブル”を引き起こすことがある。
実際、それらの原因は、何気ない“思い込み”だったりすることが多い。
たとえちょっとした“思い込み”でも、自分では自覚がなかったりして・・・人間は、
不思議な心の癖で、そういう“様々な先入観”をつくり上げていくものなんだろう。
これまでの経験で・・・・・
自分自身の“思い込み”と向き合って感じたことは、
「自分の決め付けたレッテルの存在に気づくこと」が何よりも大切だということ――。
そして、その事実を見据えたら、我に返り・・・即座に「原点に戻ってみること」である。
これは、二十年前ぐらいから、人生訓のようにしてきた言葉だ。
私自身で“どれだけ自分勝手に思い込んでいるか”という・・・ゆるぎない現実のもと、
私は常に(様々なケースでもたらされる)“自分の判断”を疑ってきた。
ある意味では、自分の思考の特徴や傾向だと言えるだろう。
また、思い込みが助長しないように、自分が常日頃“気をつけていること”でもある。
そのおかげで、たくさんの発見をしたことがあったし、選択&決断の助けにもなった。
・・・良いことばかりではなく、“ふりだし”に戻らざるをえなくなったこともあるけどネ(笑)。
今日もまた、“思い込み”の加減を、父の動向によって知ることになった。
それは・・・今年の九月以降、お風呂に入らなくなっていた父が、何の“障害”も無く、
自宅の狭い風呂場で入浴できたから・・・だ。
これまでバスタイムを楽しめていなかった私が“これじゃいかん”と思い至り、
今日は・・・ゆっくりと入浴しようと思った。
バスダブにお湯をはって、のんびりと時間を過ごした後で・・・
びっくりするものを目撃した。
誘ってもいないのに、服を脱ぎだして入浴準備にはいった父――である。
それまでは、何度誘っても駄目だったし、サポートすると話しても動かなかったのに、
今日は自発的な行為だった。
完全にボケてしまって、「“過去の記憶”や“自分の意識”を忘れてしまったのかも」と
父に確認してみたが、そうでもないようだ。
動けなくなったことは記憶していて、入浴前には「ひきあげてくれよ」と一言かけられ、
入浴後も「あかんと思うたけれど、いけたなぁ」と感想をこぼしていた。
父は、何故・・・自発的に入浴したのだろう?
「時間」が経って、“父の記憶”が変化してきたのだろうか。
心の中で、ゆっくりと“わだかまっていたもの”が、解けてきたのだろうか。
はたまた、私が(自分の価値基準のもとに)入浴を強く誘っていたことが、
父の“不安”をかきたて“恐怖心”をあおっていたのだろうか。
それで、入浴を拒否しなくてはならないほどの“思い込み”を助長していたのだろうか。
本当に不思議なことだ。(よくわからん)
どちらにしても、無事に事なきを得て、本当に良かった!
ことの真偽は分からずとも、父の“思い込み”を“父自身が解いた”ことは事実である。
それが何よりも、嬉しいことだった。
人間は、常に思い込む。
その思い込みは、自己防衛を生む。
しかし・・・その自己防衛が間違った方向に働いてしまったら、
“自分自身”や“自分のあらゆる可能性”を阻んでしまうものである。
スタート地点から、達成率を下げているなんて、なんて馬鹿げたことだろう。
また、“思い込み”は、いろいろな“悩み”や“トラブル”を引き起こすことがある。
実際、それらの原因は、何気ない“思い込み”だったりすることが多い。
たとえちょっとした“思い込み”でも、自分では自覚がなかったりして・・・人間は、
不思議な心の癖で、そういう“様々な先入観”をつくり上げていくものなんだろう。
これまでの経験で・・・・・
自分自身の“思い込み”と向き合って感じたことは、
「自分の決め付けたレッテルの存在に気づくこと」が何よりも大切だということ――。
そして、その事実を見据えたら、我に返り・・・即座に「原点に戻ってみること」である。