今日は、木曜日――。
父が日頃通っている医院が、お休みの日である。
そういう日に限って、急に具合が悪くなった父は、ベッドから起き上がれなくなった。
いつものように、急遽予定を変更して、三駅隣の大型総合病院まで車を走らせた。
そこは、今年の七月に休日診療にかかって、応急処置(点滴)をしてもらった病院である。
すでにカルテを作成してあるので、私自身は安心して、ぐったりとした父を促した。
「大きい病院じゃなぁ」
「人が、いっぱいおるわ」
「こりゃ、すごいなぁ」
父は、“かわいい感動”をしていた。
見るもの全てに興味をそそられ、視線は“きょろきょろ”と動きっぱなしだった。
具合が悪いのに・・・。
父は、七月のことを、すっかり忘れ去っていた。
勿論、具合の悪いときに来診しているので、記憶がないことは愕くべきことでもなく、
父と付き合うなかでは(比較的)頻繁にあることだったりもする。
父の反応を見ていると、過去のことはすっかり無かったこととして処理されており、
“今日初めて見ること”として、新鮮な感動を受けているようだった。
当然ながら、大きな感動ではないが・・・確実に“かわいい感動”は感じたみたいだ。
「一粒で、二度美味しい」――そんなキャッチフレーズのごとく、何度となく
感動や刺激、そして驚きなどを受けられる“得な状況なんだろうなぁ”と思った。
おそらく父の場合は、一度深く感動したものに対しても、ふたたび“新鮮な感動”を
覚えることができるのかもしれない。
「新鮮な感動」――。
これこそ、“欠乏感”を感じている現代人にとっては“宝石のような響き”かも・・・。
なんて刺激的な言葉だろう。
今や、この“新鮮な感動”というものは、“貴重なものになってしまった”と思う。
実際「大きな感動」であればあるほど、容易に経験することができなくなってきている。
「感動」は・・・・・
“当たり前のことを(当たり前に)繰り返す日常をおくっている人”にとってみれば、
経験することが厳しいのではないだろうか。
いや、「起こりにくい」「ほとんど起こらない」と断言できるかもしれない。
オートマティカルに物事が進んでいって、動作も結果も予想通りで、さして努力もない。
そんな日常を過ごしていると、「感動」というものには出会えないものである。
それに、“できて当たり前なこと”を、ただ自動的に(日々)繰り返しているだけでは、
“無感動人間になってしまう”――そんな危険性をはらんでいる気がする。
そうしているうちに、(そういう“当たり前ばかりの日常”を過ごしているうちに)
いつの間にか“意識的な行動”を忘れがちになって、通り一遍になってしまい、
挙句の果てには「感性」が廃れてきそうだ。(おぉ、こわっ!)
感性が廃れてくるということは、人間的魅力が半減することでもある。
“オートマティカルで、当たり前の日常”がもたらすものは、かなり大きそうである。
しかし、当然ながら、利点もある。
失敗はしないし、適度に手抜き可能で、余裕があるので余力が残っている。
何より“ヒヤヒヤ”“ドキドキ”がない分だけ、疲れることがない。
おそらく、ある種の“安定感”もあるだろう。
非常に楽な生活だと思う。
こういう日常には、憬れる部分があるけれども、やはり私の性分にはあわないようだ。
「自己成長」や「自己実現」、はたまた「内面的充実」に惹かれる自分自身の志向は、
オートマティカルな日常には“物足りなさ”をどうしても感じてしまうのだろう。
私は、「知的好奇心」がない生活には、興味がそそられない。
決して背伸びすることなく、それでいて“現状に満足しないで”チャレンジしていく―。
そうして、“やったことのないこと”や、“自分の関心事”に正面から向かい合い・・・
もしそのことが成功したら、「スゴイ!」「あたしって、やっぱりステキ!」てな風に
手前味噌に褒めちぎってあげたいものだ。
(これが、とにかく“ものすごい快感”である!)
それこそ、私が考える「感動」の一つでもあり、「生きる喜び」なのかもしれない。
父が日頃通っている医院が、お休みの日である。
そういう日に限って、急に具合が悪くなった父は、ベッドから起き上がれなくなった。
いつものように、急遽予定を変更して、三駅隣の大型総合病院まで車を走らせた。
そこは、今年の七月に休日診療にかかって、応急処置(点滴)をしてもらった病院である。
すでにカルテを作成してあるので、私自身は安心して、ぐったりとした父を促した。
「大きい病院じゃなぁ」
「人が、いっぱいおるわ」
「こりゃ、すごいなぁ」
父は、“かわいい感動”をしていた。
見るもの全てに興味をそそられ、視線は“きょろきょろ”と動きっぱなしだった。
具合が悪いのに・・・。
父は、七月のことを、すっかり忘れ去っていた。
勿論、具合の悪いときに来診しているので、記憶がないことは愕くべきことでもなく、
父と付き合うなかでは(比較的)頻繁にあることだったりもする。
父の反応を見ていると、過去のことはすっかり無かったこととして処理されており、
“今日初めて見ること”として、新鮮な感動を受けているようだった。
当然ながら、大きな感動ではないが・・・確実に“かわいい感動”は感じたみたいだ。
「一粒で、二度美味しい」――そんなキャッチフレーズのごとく、何度となく
感動や刺激、そして驚きなどを受けられる“得な状況なんだろうなぁ”と思った。
おそらく父の場合は、一度深く感動したものに対しても、ふたたび“新鮮な感動”を
覚えることができるのかもしれない。
「新鮮な感動」――。
これこそ、“欠乏感”を感じている現代人にとっては“宝石のような響き”かも・・・。
なんて刺激的な言葉だろう。
今や、この“新鮮な感動”というものは、“貴重なものになってしまった”と思う。
実際「大きな感動」であればあるほど、容易に経験することができなくなってきている。
「感動」は・・・・・
“当たり前のことを(当たり前に)繰り返す日常をおくっている人”にとってみれば、
経験することが厳しいのではないだろうか。
いや、「起こりにくい」「ほとんど起こらない」と断言できるかもしれない。
オートマティカルに物事が進んでいって、動作も結果も予想通りで、さして努力もない。
そんな日常を過ごしていると、「感動」というものには出会えないものである。
それに、“できて当たり前なこと”を、ただ自動的に(日々)繰り返しているだけでは、
“無感動人間になってしまう”――そんな危険性をはらんでいる気がする。
そうしているうちに、(そういう“当たり前ばかりの日常”を過ごしているうちに)
いつの間にか“意識的な行動”を忘れがちになって、通り一遍になってしまい、
挙句の果てには「感性」が廃れてきそうだ。(おぉ、こわっ!)
感性が廃れてくるということは、人間的魅力が半減することでもある。
“オートマティカルで、当たり前の日常”がもたらすものは、かなり大きそうである。
しかし、当然ながら、利点もある。
失敗はしないし、適度に手抜き可能で、余裕があるので余力が残っている。
何より“ヒヤヒヤ”“ドキドキ”がない分だけ、疲れることがない。
おそらく、ある種の“安定感”もあるだろう。
非常に楽な生活だと思う。
こういう日常には、憬れる部分があるけれども、やはり私の性分にはあわないようだ。
「自己成長」や「自己実現」、はたまた「内面的充実」に惹かれる自分自身の志向は、
オートマティカルな日常には“物足りなさ”をどうしても感じてしまうのだろう。
私は、「知的好奇心」がない生活には、興味がそそられない。
決して背伸びすることなく、それでいて“現状に満足しないで”チャレンジしていく―。
そうして、“やったことのないこと”や、“自分の関心事”に正面から向かい合い・・・
もしそのことが成功したら、「スゴイ!」「あたしって、やっぱりステキ!」てな風に
手前味噌に褒めちぎってあげたいものだ。
(これが、とにかく“ものすごい快感”である!)
それこそ、私が考える「感動」の一つでもあり、「生きる喜び」なのかもしれない。