昨日、表参道のイタメシ屋で、はたと気がついた。
「げっ、お守りがない!」
いつもお財布にぶらさげていた「お守り」である。
その時は、バッグの底におちているだろうと思い込み、(探せば見つかるだろうと)
深く気に留めなかったのだが・・・・・どこを探しても見つからない。
「そんなはずはない。もう一度ゆっくりと探してみよう~!」と思い直し、
今日も、家中のいろいろな場所を探したのだが・・・何処にも見当たらない。
この事実は・・・ シリアスではないにしても・・・
密かに、「ショック!」だったりして・・・。
そのお守りは、大事にしていた「幸福の御守」だ。
白い袋の表に、「幸」という一文字が、大きく縫い付けられている。
とても目立つ幸文字は、決してオシャレなものではないが(ダサダサだったなぁ)、
何となく私の思い入れがあったりして、
あれを持っていると“幸福が舞い込んでくる”ような“根拠無き期待”があったりした。
だから、常に携帯するお財布にぶら下げて、肌身離さず持ち歩いていたのである。
「幸福の御守」は、
平成15年10月23日に、京都・清水寺にて授けてもらったものだ。
当時の私は、「幸福」というものを追い求めていて(今もそうだけど)、
「幸福の御守」という音には、「やられたぁ」とばかりに即座に購入を決めたのだった。
心底“シアワセになりたかったんだ”よね・・・・・・ホント。
【※】京都「清水寺」は、開創(奈良時代末期)千二百年。
金剛力士像で有名な仁王門、寄棟造り&入母屋造りの歴史的建造物など、
重要文化財に指定されている幾つもの建築物が並ぶ。
これらは、室町時代や江戸時代に建築されたというものばかりだ。
一昨年、清水寺に行ったのは、御本尊の御開帳拝観があったからだった。
それは、本当に“貴重な経験”となった。
33年に一度の割合で御開帳されている本堂御本尊と、243年ぶりの御開帳となる
奥之院御本尊とが、同時に拝観できたからである。
それもたった100円の料金で・・・。
得した気分の一日で、その締めくくりに手にした「幸福の御守」。
日頃つのっていた“幸福への渇望”が、この御守で満たされるかのように、
幻影のような“ある一つのイメージ”を抱いてしまったのだろう。
しみじみと、これまでのことを思い出したりしていると、一つの考えが浮かんできた。
「幸福の御守」は、きっと何らかの“お仕事(使命と言うべきか)”を果たして、
どこかへ隠れてしまったのかもしれない。
私のために、何か・・・とてつもない“お仕事”をしてくれたのかもしれない。
事実、当時の私には“良くないこと”が続いていて、
私自身の思考も生活そのものも、低迷を極めていた。
おみくじを引けば、「凶」をひくような日々だった(笑)。
だからこそ、あえて手にした「幸福の御守」ではあった・・・。
「御守は、私のために、とてつもない“お仕事”をしてくれたのかも!」――
“おめでたい発想”ではあるが、そう思えると「失くした事実」が受け容れられる。
「自分の過失で落とした」とか、「大事にしていたのに無くなった」とか・・・
そういう思考は、ちょっとばかり寂しすぎる。
おめでたい私のことだから、おめでたい発想をしても、「幸守」は許してくれるだろう。
今まで、ありがとう。
本当に、お疲れさま――そして、さようなら。
わたしの「幸守」へ
「げっ、お守りがない!」
いつもお財布にぶらさげていた「お守り」である。
その時は、バッグの底におちているだろうと思い込み、(探せば見つかるだろうと)
深く気に留めなかったのだが・・・・・どこを探しても見つからない。
「そんなはずはない。もう一度ゆっくりと探してみよう~!」と思い直し、
今日も、家中のいろいろな場所を探したのだが・・・何処にも見当たらない。
この事実は・・・ シリアスではないにしても・・・
密かに、「ショック!」だったりして・・・。
そのお守りは、大事にしていた「幸福の御守」だ。
白い袋の表に、「幸」という一文字が、大きく縫い付けられている。
とても目立つ幸文字は、決してオシャレなものではないが(ダサダサだったなぁ)、
何となく私の思い入れがあったりして、
あれを持っていると“幸福が舞い込んでくる”ような“根拠無き期待”があったりした。
だから、常に携帯するお財布にぶら下げて、肌身離さず持ち歩いていたのである。
「幸福の御守」は、
平成15年10月23日に、京都・清水寺にて授けてもらったものだ。
当時の私は、「幸福」というものを追い求めていて(今もそうだけど)、
「幸福の御守」という音には、「やられたぁ」とばかりに即座に購入を決めたのだった。
心底“シアワセになりたかったんだ”よね・・・・・・ホント。
【※】京都「清水寺」は、開創(奈良時代末期)千二百年。
金剛力士像で有名な仁王門、寄棟造り&入母屋造りの歴史的建造物など、
重要文化財に指定されている幾つもの建築物が並ぶ。
これらは、室町時代や江戸時代に建築されたというものばかりだ。
一昨年、清水寺に行ったのは、御本尊の御開帳拝観があったからだった。
それは、本当に“貴重な経験”となった。
33年に一度の割合で御開帳されている本堂御本尊と、243年ぶりの御開帳となる
奥之院御本尊とが、同時に拝観できたからである。
それもたった100円の料金で・・・。
得した気分の一日で、その締めくくりに手にした「幸福の御守」。
日頃つのっていた“幸福への渇望”が、この御守で満たされるかのように、
幻影のような“ある一つのイメージ”を抱いてしまったのだろう。
しみじみと、これまでのことを思い出したりしていると、一つの考えが浮かんできた。
「幸福の御守」は、きっと何らかの“お仕事(使命と言うべきか)”を果たして、
どこかへ隠れてしまったのかもしれない。
私のために、何か・・・とてつもない“お仕事”をしてくれたのかもしれない。
事実、当時の私には“良くないこと”が続いていて、
私自身の思考も生活そのものも、低迷を極めていた。
おみくじを引けば、「凶」をひくような日々だった(笑)。
だからこそ、あえて手にした「幸福の御守」ではあった・・・。
「御守は、私のために、とてつもない“お仕事”をしてくれたのかも!」――
“おめでたい発想”ではあるが、そう思えると「失くした事実」が受け容れられる。
「自分の過失で落とした」とか、「大事にしていたのに無くなった」とか・・・
そういう思考は、ちょっとばかり寂しすぎる。
おめでたい私のことだから、おめでたい発想をしても、「幸守」は許してくれるだろう。
今まで、ありがとう。
本当に、お疲れさま――そして、さようなら。
わたしの「幸守」へ