あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

関東山の辺の道(9) 真岡市北山~高根沢町文挟

2007-04-10 12:58:20 | 関東山の辺の道
 2007年4月5日(木) 

 昨年4月24日以来ほぼ1年ぶりに、私のオリジナルウオーク、
「関東山の辺の道」歩きに出かけた。

 「関東山の辺の道」とは、関東平野の周辺の山すそを反時計
回りに歩いてみようという試みである。



 「青春18きっぷ」で、JR武蔵野線 新秋津駅から水戸線下館
駅まで行き、さらに真岡(もおか)鐵道に乗換え、無人の北山駅
で下車した。


 駅の北を走る国道294号を横断、民家の間の細道に入る。
麦畑と広葉樹や杉、ヒノキ林の間を北に向かう。ウグイスがさえ
ずるが、日陰はヒンヤリとする。

 500mほどで左からの車道に出て、さらに北へ。田んぼや畑の
間に民家の点在する道で、車も少ない。麦畑の向こうの林の縁に
雄キジが歩いていた。

 東京電力清水変電所横を通過、国道121号を横断し、小田井
の集落を抜ける。道路際にスイセンがたくさん咲き、ナノハナも
花盛り。畑の隅にツバキ、桜、ハクモクレンが並んで咲き競う。


 麦畑が増え、上清水の集落に入り、星宮神社に寄る。真岡市
から市貝町に入って最初の集落、鴻之宿には、りっぱな長屋門
を構えた家が2戸あった。


 麦畑や雑木林の多い、静かな道をさらに北に向かう。


 車の多い国道123号を横断した辺りから、左手に、昨日冠雪
したのか、白い山容を見せる男体山や日光連山が少し霞んで見
える。

 さらに1.5㎞ほど先の広葉樹林で、キジが歩くのが見えた。

 南西から北東に走るT字路に合し、北西側の麦畑の向こうに、
花王栃木工場の大きな建物が望まれる。ハガ工業所の先の変
則十字路から、県道255号へ。歩道のある広い通りとなった。
この辺りは芳賀町となる。

 上野原交差点の先で、上野原緑地公園のグランド横を通過し、
北側の稲荷神社に寄る。数mの盛り土の上にあり、この地が
前方後円墳の二子塚古墳であることが記されていた。


 すぐ先、赤坂で南東から北西に走る車道の横断点、北に向かう
行く手の道すじに「立街道」の表示があった。

 間もなくの右側一帯は、栃木県畜産試験場。総面積27.4ha、
建物面積13.7haあり、研究用飼育家畜は肉牛、豚、鶏と表示
されていた。正門への道のソメイヨシノは3分咲きくらいか。

 正午を過ぎたので、近くにあった芳賀町総合運動公園のベンチ
で昼食とする。広いグランドは4面の野球場になっていた。

 南郷と稲毛田の交差点を通過、稲毛田の来迎寺に2本のしだれ
桜が花開いていたので立ち寄る。

 法事から一時戻ったご住職が居られ、『この寺が「檸檬のころ」
という映画のロケ地になり、来る人が増えた』とのことだった。

 芳賀秩父観音2番札所で、小さい山門の前に、安永3年(1774)
銘の二十三夜塔が22基並んでいた。

 近くにかやぶき屋根の民家が1戸残り、その先のY字路の左手
に、広い境内の崇真寺があった。

 満開近いしだれ桜やソメイヨシノが10数本あり、境内は桜に彩
られている。一番見事なしだれ桜は、町天然記念物に指定されて
いた。南側から撮影が出来ず、逆光で色がいまひとつなのが残念。

 不動堂に祭られた不動明王は、大同2年(807)、弘法大師一夜
の作と伝えられ、それにまつわる民話から、犬切不動と呼ばれ、
60に一度開帳されるという。

 Y字路の間には、坂上田村麻呂が蝦夷を平定後の、同じ大同
2年、この地の安定を祈願して創立したという八雲神社がある。

 右側の神楽殿では、年3回、慶長年間(1596~)に創起された
という太々神楽(だいだいかぐら)が奉納されるという。 

 社殿の背後は太い杉を中心に、町天然記念物で樹齢300年
というケヤキの大木や、エノキの大樹が立つ。

 立街道の延長、神社の左手の道を進むと、周辺は開花目前の
梨畑が増え、その間に麦畑が点在する。


 芳志戸の集落に入り、杉木立に囲まれた星宮神社で小休止。
西側には、ヌカ塚古墳と浅間城古墳が並んでいる。

 西側が段丘下の田園地帯となり、市の掘用水路沿いとなる。
広々とした展望が開け、男体山や日光連山の北に、那須連峰も
見えてきた。

 段丘側に杉林に囲まれた一角があり、般若寺跡と記されて
いた。弘仁11年(820)弘法大師の開創、広大な伽藍が建立
されていたが、明治35年(1902)にことごとく焼失したという。

 杉木立の最北部に、江戸幕府10代将軍徳川家治の五輪塔
形納経塔や、8代将軍吉宗の二男、田安宗武の宝塔形納経塔
があり、由緒ある寺だったことが推察される。

 その北側には、5世紀頃の古墳と見られる浅間山古墳が
残っている。

 台八ツ木集落を過ぎ、芳賀町から高見沢町に入り、用水路は
左に分かれる。太陽が西に傾き、那須連山がよく見えるように
なった。



 最初の集落、宿には、大きなしだれ桜とソメイヨシノが花開く
大安寺があった。


 ナノハナが咲き、大きなこいのぼりが泳ぐ集落を進み、台地
上にある「高根沢町元気あっぷむら」に入る。

 新しい施設のようで、若木の色濃いしだれ桜と、その上に
泳ぐこいのぼりが青空に映える。

 大きな日帰り入浴施設のある本館を中心に、手打ちうどんや
そばなどのレストラン、農産物直売所、宿泊施設などが並んで
いる。高台なので、西側の展望がよい。

 北側を走る車道を東北に上がって、台地上に出る。亀梨の
妙福寺にも桜が2本あったが、花は4分咲きくらいだろうか。
見ごろは数日先になりそうだ。


 熊野、星の宮、山の神の3つの神社が合併したという三神社の
先で再び台地下に下り、田んぼとの境界を走る車道を飯室から
本郷へと進む。

 JR烏山線沿いに走る県道10号に出て西に向かい。17時48
分に仁井田駅に着いた。

 18時10発宇都宮行きに乗り、大宮駅構内で夕食を済ませ、
21時過ぎ帰宅した。

(天気 快晴後晴、距離 28㎞、地図(1/2.5万) 真岡、祖母井、
 仁井田、歩行地 栃木県真岡市、市貝町、芳賀町、高根沢町)
コメント (2)
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関東山の辺の道(8) 桜川市真壁町~真岡市北山

2006-05-06 23:26:23 | 関東山の辺の道
 東京スリーデーマーチが終わり、今日はちょっと疲れが出た感じです。

 本日のレポートは、先々週歩いた「関東山の辺の道」8日目のレポートです。
昨年10月の中断以来、半年ぶりの歩きでした。


4月24日(月)
 前日宿泊した下館市のビジネスホテルを出て、下館駅8時発のバスで真壁駅
終点まで行く。

 前夜からの雨が上がり、青空も見えてきた。ウグイスのさえずりに送られ、
バス停そばの「つくばりんりロード」真壁休憩所を、8時40分にスタートした。

 りんりんロードは、筑波鉄道筑波線の廃線跡を活用した全長約40㎞の自転車
道。田んぼの横でカエルがにぎやか。

 「土浦31㎞、岩瀬9㎞」の表示近くに、ナノハナやしだれ桃が咲く。2㎞ほど
で旧樺穂駅跡。ホームが残り、太い葉桜が覆い被さるように並んでいる。


 田園地帯を抜けるりんりんロード沿いに植えられた、八重桜の若木は、ちょう
ど花が見ごろである。

 東側の筑波山から加波山(かばさん)に続く山並みは、上部を雲に覆われて
姿は見えない。間もなく田植えか、水の入った田んぼが多い。

 4㎞ほど先の東飯田でりんりんロードに分かれ、西方の集落を抜ける。この
辺りは、穂の出始めた麦畑が多い。

 桜川の支流を越えて阿部田集落へ。5差路に大きな馬頭尊が4基、回りは
シバザクラに彩られていた。屋根が痛んではいるが、かやぶきの家があった。

 集落を抜けると桜川が近づく。加波山から採掘した石を加工する石材所が
あり、加工した石がたくさん干してある。この先でも何か所かで見た。

 県道343号に出て桜川の羽田橋を渡る。木崎集落に后(きさき)神社があった。
平将門の后・須勢理毘売命を祭り、木崎の地名はここから来ているらしい。

 県道148号との交差点にあった農産物・加工品直売所に入る。地元や県内
産のこだわり商品のみを販売しているという。


 大岡小北側の細道を入って大国玉神社に参拝。続日本書紀に記された古社で、
慶長年間に徳川幕府から御朱印20石を賜ったという。ケヤキ、イチョウ、サカキ
など豊かな緑に囲まれた境内で小休止する。

 木崎集落の先の畑にキジがいた。近辺でも何か所かでキジの声を聞く。


JR水戸線が近づき、線路の南にある大池に出た。淡い新緑が池に影を映し、
池は静まりかえっている。


 雲が切れて加波山がほぼ全容を見せてくれた。東には雨引山らしい穏やかな
ピーク(写真)も見える。

 水戸線の北に出て古郡集落を抜ける。広々とした畑の辺りは、国史跡の新治
郡衙(にいはるぐんが)跡である。

 奈良時代の常陸国(ひたちのくに)新治郡の郡役所跡で、昭和16年(1941)
と18年の調査で51棟の建物群が確認され、その範囲は12haに及んでいた
と推定されるという。

 400mほど先、国道6号の北側一帯は国史跡・新治廃寺跡。梅畑や畑の中
に東塔、金堂、西塔、講堂跡の土壇が残り、これらをめぐる回廊や中門、食堂、
僧坊、経蔵などの遺構もあるという。

 金堂跡には、幹回り10mを超す大きな広葉樹がいっぱいに枝を広げていた。

 すぐ先の神社の角を右折、北に進む細い車道へ。神社の裏手にアシの茂る池
があり、そばに10数本の八重桜が咲く。木の下で花を眺めながら昼食をした。

 この道は、桜川市で設定した「いきいきロード」とよぶ散歩道。右に淡い新緑
の林、左に水田が4㎞近く続き、キジやウグイス、コジュケイが鳴いた。

 県道45号に出て、旧協和町の町並みの北側へ。緩やかな峠の頂上が茨城県
桜川市と栃木県二宮町の県境。歩き始めて8日目で茨城県を抜けた。

 
峠を下って行くと北方の展望が開け、水戸部集落の先で小貝川を渡る。橋の北側
で北関東自動車道の延長工事中。田んぼの中に高い土堤が伸びていた。

 次の高田集落の西側に、4つの寺が隣接していた。一番南が高田泰澄寺。緑に
囲まれた境内の一角に、上部が仏舎利塔、下部が国宝や古文書を収めていると
いう宝物殿があった。
 
 北側には真宗の遍照寺と大屋根の寿松寺が道を隔てて並んでいる。

 寿松寺の北が真宗根本道場の専修寺(せんじゅじ)。親鸞聖人が52歳の時
この地に来て、長野の善光寺から一光三尊仏を迎えて本尊としたのがこの寺の
草創という。

 国重文の山門、かやぶきで国重文の総門、同じく国重文の如来堂(写真)、大きな
かやぶきの庫裡(くり)、風格ある鐘楼堂や鼓楼(ころう)など、幾つもの建物の並ぶ
境内は1400坪を越し、境内自体が国史跡である。

 寛保3年(1743)頃の建築という大きな御影堂(みえどう)にお参りし、さらに
新涅槃堂にも上がって、3mに及ぶ日本一といわれる大涅槃像にも手を合わせる。

 親鸞聖人お手植えと伝わる大ケヤキが門前に立っていた。広い境内なので拝観
を終えるまでに約30分を経過した。


 西北西に2㎞ほどには、二宮尊徳を祭る二宮神社があった。
 二宮尊徳は、文政6年(1823)に着任、荒れ果てたこの地の復興のため、
村民に勤勉を説き、表彰制度を設けて生産意欲を高め、自らも先頭に立って、
道路や用水路、堰(せき)の改修を行った。

 その仕事は36歳から26年間に及び、その結果、豊かな村に生まれ変わり、
二宮尊徳の名は、全国に知れ渡ったという。

 二宮神社は、遺徳を尊崇するため、尊徳50年祭の明治38年(1905)に
創建された。遺徳にふさわしいシンプルな社殿である。境内の一角に、二宮尊徳
資料館があるが、この日は月曜で休館日だった。


 神社西側は桜町陣屋跡。二宮尊徳が居住したというかやぶきの陣屋跡の建物
が修復して復元されており、一帯はサクラなどの植え込みや芝生地。満開の
シバザクラが鮮やかな色を見せていた。

 神社の南にある蓮城院の墓地には、二宮金次郎の墓があった。

 桜町の十字路から県道166号を東北に向い、真岡(もおか)市に入る。歩道の
ない2車線の車道をダンプが高速で通過するので、東大島の十字路で平行する
東側の道に回った。

 山前南小の東からしばらくは、広々とした田園地帯。向かい風がやや強くなり、
ちょっと涼しくなってきた。

 散在する根本の小集落を抜け、柳久保から山根へと山すそと田んぼの間を急ぎ、
17時45分に今日の終着地、真岡鐵道北山駅に着いた。

 片側ホームだけで駅舎はない。乗客のほとんどが高校生の、17時57分発
下館行き1両のディーゼル車で下館に向かった。

(天気 曇り後晴、距離 31㎞、地図(1/2万5千) 真壁、岩瀬、真岡、歩行地
 茨城県桜川市、栃木県二宮町、真岡市)
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関東山の辺の道(7) つくば市北条~桜川市真壁町

2006-04-28 11:51:21 | 関東山の辺の道
 八重桜もそろそろ終わり、木々の新緑が日増しに濃くなってきました。
 今夜は、3月8日のブログで紹介した、金井さんの本の出版記念祝賀会に
出席するため、早めにアップします。


05年10月21日(金)
 「関東山の辺の道」歩きの7日目は、筑波山の南麓、つくば市北条をスタート
し、桜川市と変わった旧真壁町まで歩いた。今回は、4月以来2度目の取手の
Sさんとの2人旅である。

 土浦駅9時発真壁行きバスに乗り、9時32分、つくば市の北条仲町バス停で
下りた。

 三差路の、「これよりつくば道」の標石に従い県道139号に入る。ザクロやナツメ
の実が色づく民家の並びが途切れると、正面に筑波山が近づいてきた。

 1㎞ほどで広い車道に出て、すぐ先で「関東ふれあいの道」に入り、赤町集落に
ある普門寺に寄る。

 山を背にした境内は木立に囲まれ静かなたたずまい。滝や石灯ろう、池などの
ある日本庭園も趣がある。尊皇攘夷を唱えた水戸天狗党の田中愿蔵らの一隊の
陣営跡であったことを記した石碑があった。

 近くの高台からは、木の間越しに筑波山がよく見える。

 土蔵づくりや長屋門など、古い民家の多い西町から上町へ。上町の十字路には、
穀物倉庫として使われていたという大谷石造りの古い建物が残されていた。
  

 逆川の白滝橋を渡る。正面に筑波山が一層迫り、アンテナ塔やロープウェイの
駅の建物などもよく見える。辻赤塚の休耕田では、ソバの花が花盛りだった。

 山ろくの集落を西北に進んで沼田へ。旧関東鉄道筑波線の筑波駅跡に、廃線
跡を活用した全長約40㎞の自転車道「つくばりんりんロード」の「筑波休憩施設
が設けられていた。

 ホーム跡のベンチで、さわやかな秋風を感じながら休憩、隣接して路線バスの
筑波駅とタクシー乗り場があった。

 筑波山神社に上る車道・県道42号を横切り、山ろくを下郷から上郷へと進む。
上郷からの筑波山は双耳峰が重なり、富士山を小さくしたような単峰に見える。

 つくば市の最北、大島の家並みへ。なまこ壁の民家や長屋門の家などが残り、
街道らしいふんいきを残している。家並みは桜川市となった旧真壁町の南端、
金井集落に続き、市境ははっきり分からない。次の酒寄には、黒瓦屋根のりっぱ
な民家が多い。

 県道41号を斜めに横切り、つくばりんりんロードに入る。土浦から24㎞の表示
があった。両側は一面田んぼだが、休耕田がかなりを占めている。ソバ畑にする
とか、大豆を作るとか、もっと活用の方法はないものだろうか。

 りんりんロードのカーブ点に揚水施設らしい建物があったので、日差しを避け
て昼食とする。行く手に加波山の山並みも見えてきた。

 りんりんロードに分かれ、車の少ない車道を遠西へ向かう。ひこばえの伸びた
緑の田んぼと、筑波山の好展望が気持ちよい。
 
 東山田の県道41号との交差点に、はにわと日用雑器の店があり、花鉢や大小
幾つものはにわが並ぶ。近くの土管工場には、褐色の土管がたくさん積み重ね
られていた。この地区は以前、山田焼きという焼き物の生産地で、現在も窯業が
盛んなようだ。

 「筑波登山本道」の石標が立つ桃山で再びりんりんロードに入る。車道との交差
部分2カ所には線路が残っていた。

 加波山の手前に真壁の家並みが近づく。県道7号を横切り、14時12分、今日
のゴール、りんりんロード真壁休憩所に着く。
 
 8年前の1月下旬、カントリーウオークの仲間と来たときには、旧真壁駅ホーム
(写真)しか無かったが、屋根のある休憩施設やトイレ、説明板などが設けられて
いた。

 バスの時間待ちの間、真壁の町並みに残る古い民家などを訪ねる。真壁駅バス
停16時45分発下館行きに乗る。下館駅で、関東鉄道で取手に向かうSさんに
分かれ、JR水戸線小山経由で帰宅した。

(天気 晴、距離 15km、地図 筑波、真壁、歩行地 つくば市、桜川市(旧真壁
町))

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関東山の辺の道(6) かすみがうら市下佐谷~北条

2006-04-27 12:09:12 | 関東山の辺の道
05年9月9日(金) 
 台風14号が去った前日は35℃近い残暑だったが、この日は曇りの予報。青春
18きっぷの残り1枚を使い、4ヶ月ぶりの「関東山の辺の道」歩きに出かけた。

 JR常磐線土浦駅に9時着、9時20発柿岡車庫行きバスに乗り、9時42分、
下佐谷(しもさや)バス停で下車する。

 県道53号を西へ、500m余り先の3差路までは前回歩いた。この県道は、大型
トラックやダンプなど交通量が多く、歩道はあるが歩く道ではない。

 新治村(にいはるむら)に入り、「新治浄水場」の看板に従い、一般農道本郷へ。
クズの花が咲き、ツクツクボウシが鳴く。車からも開放された。

 色づく田園が広がり、寄居のY字路を左に入ると、実の熟す前の柿畑が多い。
 本郷の集落で少し回り道して名前の分からぬ寺で小休止する。

 田んぼの間を上がって大志戸へ。火の見やぐらの下に、文化9年(1812)の十九
夜塔が立つ。集落の西から南北に走る車道を北の山すそに向かう。休耕田が梨や
柿畑に変わっていた。

 三方を山に囲まれた田園地帯、山から吹き下ろす風が気持ちよい。山すその
清滝集落を上り詰めると、江戸時代のものという色あせた古い山門があった。

 阪東三十三カ所第26番札所、清滝観音で知られる清滝寺である。急階段を
上って本堂に参拝する。

 清滝寺は、推古帝15年(607)の創建、大同年間(806~10)徳一上人により
移設されたという古寺。七堂伽藍(がらん)を備えた大きな寺は2度の火災にあった
とか、現本堂は昭和52年(1977)再建のコンクリート造りである。

 ツクツクボウシやアブラゼミが鳴き、緑がいっぱいだが、阪東札所とは思えぬ
こぢんまりとした境内。今後、ほかの阪東札所巡りの機会もあるかと思い、納経
帳を購入し最初の納経印を押してもらった。

 山すその道を西へ進むと小野小町ゆかりの小町集落、東端に「小町の里」という
のがあった。

 小野小町は絶世の美女とうたわれた平安時代の歌人、京都から奥州に旅する
途中で清滝観音にお参りした後倒れ、この地の村長、小野源兵衛宅で元慶7年
(883)7月7日、69歳の生涯を閉じたという。

 小町の里には、小町の館、そば処、農産物直売所、直径7mの水車小屋などが
あり、小野小町文芸賞の短歌や俳句を記した歌碑も並ぶ。農産物直売所そばの
芝生で昼食にした。
 
 小町の里からほど近い小野家の奥に進むと、山ふところに立つ杉の大木の下に
小野小町の墓という五輪塔がある。婦人病に悩む人や、美人願望の年頃の娘が
よく訪れたようだ。

 次の東城寺集落の北まで進み、大きな山門をくぐる。常緑樹に覆われた谷間と
石段を上がり、山の中腹に立つ東城寺に参拝する。

 本堂は最近再建されたようで新しい。寺には、県文化財の木造の仏像、石造
灯籠、経塚群などが残されているようだ。中の島のある池も、山を背になかなか
趣ある造りだ。

 黄金田の間を南に進み、音をたてる採石場横を通過して、県道53号の交差点へ。
ダンプや大型トラックの激しい県道を700mほど西に進み、「にいはり園」の矢印を
入る。

 にいはり園の先からつくば市。池のほとりに高崎山古墳群西支群第2号古墳が
あった。全長35m、前方後円の横穴式石室で6世紀後半の古墳とか。人形や
馬形の埴輪(はにわ)が出土したという。

 西側にも水田潅漑用のため池があり、ブラックバスを釣るという釣り人が数人、
桜並木の下で池に糸を垂れていた。

 宮前集落に入り、長屋門の並ぶ集落の西側にある鹿島神社でで小休止。覆屋に
保護された本殿は、色あせてはいたが全面に精巧な木彫が施されている。延享2年
(1745)完成のもので、茨城県指定建造物である。

 色づいた田園地帯に出ると、しばらく隠れていた筑波山の双耳峰が現れた。
小田の町並に入って間もなく、国史跡の小田城跡に回る。

 鎌倉~戦国時代、常陸国(ひたちのくに)南部に勢力をもった小田氏の居城跡で、
現在残る遺構は戦国時代末期のもの。方形の曲輪(くるわ)を中心に3重の堀と
大小の曲輪が取り囲み、史跡の範囲だけでも東西500m、南北600mあるという。

 つくば市では、国史跡の小田城跡を街づくりの一環として保存整備中で、発掘
調査中の場所もある。東北端には、高さ3m近い大きな五輪塔(写真)や、草に
埋もれた20基近い五輪等が並んでいた。

 町を貫く通りに戻って西北に向かう。つくば小田郵便局で風景印を押して
もらい、町外れまで進むと筑波山の山並みが近づいてきた。

 新田集落を抜け、国道125号を横断、大池公園前バス停の交差点を右折すると、
2つの池があった。筑波山の影を映す大池の広い水面に、たくさん水草が浮いて
いる。遊歩道には500本の桜があり、春は花見によさそう。

 もう一つのハス池の北側が、国史跡で千年以上前の奈良・平安時代の筑波郡の
郡役所跡、平沢管衙(かんが)遺跡である。
 
 遺跡は、平成5・6年の調査で、一般の遺跡では考えられない大型の高床式倉庫
が並んでいて、これらの倉庫は当時の税である稲や麻布などを納めた郡役所の
正倉跡と考えられることが分かったという。

 広い芝生地の入口にある案内所で、出土した土器の展示や遺跡案内のビデオが
見られる。芝生の丘陵上には、復元された校倉、土壁双倉、板倉の3棟が、筑波
山を背に並んでいた。

 交差点に戻り、北条の街並みを西へ。鍵の手を曲がって中心街に入り、16時
38分、北条仲町バス停に着いた。本日はここまで。1分後に来たバスで土浦駅
に向かった。

(距離 22km、天気 曇り、地図 常陸藤沢、上郷、筑波、歩行地 かすみが
うら市、新治村(現、土浦市)、つくば市)
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関東山の辺の道(5) 岩間~かすみがうら市下佐谷

2006-04-26 21:37:10 | 関東山の辺の道
 今週後半は、昨年歩いた「関東山の辺の道」のレポートを続けます。


05年4月30日(土)
 連休2日目だが、朝の常磐線普通電車は空いていた。9時16分、岩間駅に
降りる。眼前にそびえる愛宕山(257m)めざして、駅前通を西に向かう。

 国道355号を越え、八重桜やツツジ咲く住宅地を進むと、八幡太郎義家が
勧請(かんじょう)したという六所神社があった。明治5年(1872)の布告で、
村内5社を併合して六所神社と改称したとか。わが家の近くにも六所神社が
あるが、同じ理由なのだろうか。

 緩やかな上り道を、三社神社やホテル、天正宮という神教風の建物を過ぎ、
愛宕山のすそを回って五霊集落南側の田園地帯へ。

 山根集落の山根池周辺は八重桜が満開。集落の最奥にある龍泉院へ上がる。
山を背にした静かな寺。本堂前に古い鐘が置かれ、鐘楼には別の鐘が下がって
いる。境内には、樹齢200年を越すというモクセイがあった。

 戻り道で、すぐ下の家の親父さんに「一服していかないかい」と声を掛けられ
た。もとブリキ職人だったという方。この先の道筋などの話をうかがい、お手製
の七味トウガラシをいただく。

 山根池の先を南に向かうと、花盛りの梨畑が広がり、その先には新芽の柿畑。
山すそでこいのぼりが泳ぎ、新緑がやわらかな彩りを見せる。

 中村の四差路に、弘化4年(1847)の銘で、高さ2.5mほどの二十三夜供養
塔が立つ。道しるべにもなっている。集落が途切れて栗畑が増える。

 つくば健康センター前を過ぎて真家(まえ)集落へ。右手にあった金龍寺には、
平成5年に再建したというりっぱな本堂が出来ていた。近くに、かやぶき長屋門
の家がある。地名と同じ真家家で、近くには真家姓が多い。この通りは高速で
通過する車が多く歩きにくい。

 集落のはずれから、水の入った水田沿いの農道を南に進む。静かな水田に、
近くの森や山並みのやわらかな新緑が影を映す。農水省石岡台地第3揚水機
の横から新谷に進み、谷地田やヒノキ林を抜けて宮ヶ崎の栗林を抜けた。

 八郷町と石岡市の境を走る道に三角点近くまで進むと、右手前方に筑波山が
見えてきた。この辺りでは左右対称の単峰に見える。

 「ふれあいの里石岡・ひまわりの館」と記された新しい施設前を通過する。
柏原工業団地の西側で県道7号を越え、大砂農村集落センターの先でもう1本の
県道7号を通過。西側の竜神山は真ん中が砂利採取で姿を変えている。

 竜神山南麓の旧道に入ると、やわらかな新芽の柿畑が広がる。山ろくを進んで
13時半、常陸風土記の丘に着いた。風土記の丘は八重桜が満開、好天の週末
なので家族連れなどで賑わう。花の下にシートを広げて遅い昼食をした。

 常陸風土記の丘は、鹿の子遺跡周辺の自然豊かな丘陵に造られた歴史、体験
学習、スポーツなどの余暇活用施設。水際公園、ふれあい広場、ちびっ子広場、
展示研修施設、古代家屋復元広場などがある。

 昼食後、風土記の丘を一周し、八重桜、ドウダンツツジ、シバザクラなどの
花や、移築復元された会津の民家、高さ14m、幅10mという日本一の獅子頭
などを見る。

 14時25分に出発、石岡海洋センター前を南に向かい、恋瀬川の粟田橋を
渡る。筑波山を見ながら田植えを終えた水田の間を進み、中志筑集落に入った。

 志筑城跡の表示に従い台地に上がると、緑豊かな志筑小が城跡だった。志筑城
は、源頼朝の家臣、下河辺政義が養和元年(1181)に築城、出羽から移封され
た本堂茂親が正保2年(1645)に陣屋を構え、廃藩置県まで12代の居城となった
という。

 南に下り、八重桜咲く池の先にあった長興寺を訪ねる。慶長7年(1602)の開祖
で、本堂氏の菩提寺とのこと。本堂内に篭が下がっていた。境内には、下半身が
シンプルな五百羅漢が並んでいた。

 県道138号に出て少し先の雲集寺は、解放的な境内、よく手入れされた庭木
がある。この通りは、 本堂氏の城下町の面影をしのばせるりっぱな長屋門の家
や、古いかやぶき家屋、白壁の塀を巡らす屋敷などが残っていた。

 しかし、狭い道に高速で通過する車がわずらわしい。ガソリンスタンド横から
裏道に回って国道64号に抜け、上志筑へ。こちらは庭木が豊かな家が多く、
梨畑には清楚な花が花盛りだった。

 森林総合研究所の研究林沿いに進む。カエルが鳴く田んぼや、新治地方環境
クリーンセンター横を通過、ビニールハウスが並ぶあぜ道や、穂の出た麦畑を
過ぎて、上佐谷集落を抜ける。

 県道64号に出たが車が多いので、すぐ先で左手に入る。栗畑や田んぼの間を
進んでくつぞう橋を渡り、老人ホームそばのY字路を右に向かう。県道を越えて
山本集落を抜け、果物直売店やセブンイレブンのある県道53号に出た。今回は
ここがゴール点とする。

 帰路は、県道を東に500mほどの上佐谷交差点から土浦駅に向かうことにした。
17時13分に着いたが、最終バスまで時間があるので、もう少し歩くことにする。

 県道64号を南へ、常磐自動車道を越えて七合小前バス停まで歩き、17時51分
発土浦駅行きバスに乗った。

 好天で爽やか。あちこちで八重桜、ナノハナ、梨の花などが花盛り、やわらか
な彩りの新緑をたっぷり眺め、春らんまんのウオーク日和だった。

(距離 24km、天気 快晴、地図(1/2万5千) 岩間、石岡、柿岡、常陸藤沢、
歩行地 岩間町(現、笠間市)、八郷町(現、石岡市)、石岡市、かすみがうら市
(旧千代田町))




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関東山の辺の道(4) 内原~岩間

2006-04-21 22:14:23 | 関東山の辺の道
 少し間が空きましたが、昨年4月に歩いた関東山の辺の道のレポートです。


05年4月7日(木)
 四国遍路の後半と、その記録整理などで昨秋以来中断していた、「関東山の
辺の道」歩きを、再開することにした。今回は、茨城県取手市に住む従姉妹の
連れあいとの2人旅である。

 JR常磐線内原駅を9時50分に出発、駅北側の旧道を西に向かう。近くの
住宅のミツマタが花を開いていた。
 
 三湯集落先の松林でウグイスがきれいな声で鳴く。雨が落ちてきたがすぐに
止んだ。友部町最初の集落・原の秋葉神社には、大きな甲子塔、二十三夜塔、
光明真言塔が並んでいた。

 常磐線が近づいた辺りに一本松古墳がある。一辺20mほどの方墳で、墳丘
上に開花前の桜が10数本立っていた。三角点もあるはずだが見つからない。

 こいのぼりの泳ぐ小原集落に入り、県道193号との交差点にある小原神社に
参拝。杉木立の境内に、大きな「小原神社敬神講碑」が立ち、根本にこぶのある
永徳元年(1381)からという友部町文化財の大ケヤキがあった。

 県道を100mどで、お堂の横を右折して北へ。ナノハナの向こうに豊かな屋敷
林に囲まれた旧家が見えるのどかな道、突き当たりが廣慶寺である。

 新秩父8番札所で、曹洞宗らしい落ち着いたたたずまい。門前に、6地蔵を
描いた手前に6本のローソクを立てた、L字形の板木が数枚立っていた。この
地域独特の信仰なのだろうか。

 車道を少し西に進むと、両側にかやぶきの家があった。集落はずれのY字路を
右に入る。槐山集落では太陽が出てきた。南側は田んぼで、土手にナノハナが
きれいな花を見せている。

 涸沼前川を越え、バス道路を久保バス停で横切り、栗畑になっている段丘上に
上がる。宿集落に下ると小さな社があった。

 南に向かう集落の中ほど、右側の深谷家に町文化財サルスベリがあった。集落
の南端にある吉祥院には、小さなお堂の横に、町天然記念物という高さ20mの
イロハモミジが、芽芽生え前の枝を広げていた。

 田んぼ道を少し進んで左折、ブドウ畑沿いに南東に向かう。近くの畑でキジと
ウグイスが鳴く。

 太田町の住宅地に入る。行く手にシダレ桜が見えてきた。台地のすそに完全寺、
光明寺、唯信寺の3寺が並び、それぞれ、ピンクのしだれ桜が5~7部咲きである。

 まず手前の完全寺へ。創建は元亀元年(1570)という。本堂前の桜は一番
大きいだろうか。柵がしてあって境内には入れない。

 隣の光明寺のシダレ桜は山門横にあり、5部咲きくらい。木の下に新しい石造
の観音菩薩像が立つ。本堂西側にももう1本のしだれ桜が、傘を開いたように
咲いていた。

 一番西は唯信寺。鎌倉時代、親鸞聖人に帰依した宍戸藩主宍戸義治の開基で、
800の歴史があるという。若木の白いシダレ桜が満開。明日ははなまつりなので、
本堂前には小さなおしゃかさまが用意されていた。

 境内にはほかに友部町天然記念物のシイがあり、太い幹の上に大きく枝を広げ
ている。シダレ桜のそばのベンチで昼食をした。
 
 国道355号に入って南進、JR水戸線宍戸駅の横を通過する。旧陣屋集落の
小丘陵に神社があり、宍戸城址土塁の表示が立っていた。

 友部町民俗資料館があったので、入館して見学する。建物は木造の洋風建築、
旧宍戸町と友部町役場として昭和33年(1958)まで使われたもので、昨年2月
に国の有形文化財に登録されている。

 館内には、町内から出土した土器、古墳や民族資料、宍戸城、宍戸焼き、町内
にあった筑波海軍航空隊の資料などが展示されていた。

 南に進んでT字路を左折、旧家も残る平町の町並みを200m余り進んで次の
T字路を右折する。南に向かって下加賀橋を渡り、東関東自動車道下をくぐる。

 すぐ先で舗装が途切れ、落ち葉がいっぱいの山道となる。ぬかるみと倒木で
廃道同様だ。でもそのまま進んだら、国道355号に出た。

 国道を斜めに横断し、南側にメタセコイヤの並ぶ池の横を進んで、宍戸国際
ゴルフ場沿いに上がる。
 
 クラブハウスそばの三差路を左折し、ヒノキの下の草道へ。2~3百mで横断
する車道に出た。右折して東北に進んだら、先ほどのクラブハウスの西端付近に
戻ってしまった。

 そのままゴルフ場沿いに西に進み、池の横の三差路を左に入る。滝尻からの
車道に出て、砂利採取場の手前から山道へ。堂山集落北端を東に向かうと滝尻に
出た。

 古い道筋を南に進み、古山の鹿嶋神社境内にある古山地区公民館で休憩。この
先、予定した羽鳥駅まではまだ10㎞以上ありそう。少し早めだが、今日は岩間駅
をゴールとすることにした。

 りっぱな長屋門の家が並ぶ古山から横関を抜け、桜川上流の2つの橋を渡って
国道355号に出た。国道を横断し、岩間小西側から線路沿いを進み、15時46分、
JR常磐線岩間駅に着いた。

(天気 曇後晴、地図(1/2万5千) 笠間、岩間、歩行地 水戸市(旧内原町)、
友部町、岩間町)
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関東山の辺の道(3) 茨城県瓜連町~内原町

2006-04-06 20:00:07 | 関東山の辺の道
 わが家の近くにある神社の、ソメイヨシノが散り始めました。

 さいたま市役所へ、saikoroのNさんが出展しているという写真展を見に行き
ました。近くの玉蔵院のしだれ桜も、もうほとんど散っていました。

 今日は、一昨年秋歩いた関東山の辺の道の3日目のレポートです。


04年10月15日(金) JR常磐線 静駅~内原駅
 台風22号のあと、ぐずついた天気が8日ぶりに上がった快晴の朝、水郡線静
駅に降りる。真っ青な空がすがすがしい。

 前回、薄暗くなってから寄った静神社に、もう一度参拝することにした。途中の
畑にはソバの花が咲き、サツマイモの収穫中。

 改めて静神社に参拝。本殿下に瓜連町(うりづらまち)天然記念物のヒノキが
ある。高さ30mで、県内一の巨木と記されていたが、台風の被害か、10m余り
で折れていた。

 南側にある静留池の東から山すそを進み、玉栗坂を越える。古徳上から古徳中
へ、かやぶきの家やりっぱな長屋門の民家などが残っている。

 集落の先に古徳沼があった。関東最大の白鳥越冬地で、最近は200羽を越える
という。いまは対岸の森が影を映し、静かなたたずまいを見せる。

 「ふれあいの杜公園」や、二つの池の間の先に、町史跡「宥尊の墓」の説明板が
ある。場所は私の進もうとしている93.1m三角点の近くらしい。

 杉やヒノキの薄暗い林間を上がると、携帯電話のアンテナ塔があったが、三角点
も墓も見つからない。あきらめて反対側の車道に下り、瓜連町から那珂町に入る
(現在は両町が合併して那珂市に)。

 ブラックバスを釣っている洞前溜池の南側から、田んぼのあぜ道を進んで内郷
集落へ。ひこばえの伸びた田んぼに吹く、爽やかな風が気持ちよい。

 内郷集落の南端から茨城県植物園に入った。12haあるという園内、芝生の緩
斜面を中心に、植物造形園、岩石園、落葉植物園、温室などが遊歩道で結ばれて
いる。

 植物園は有料だが、北側には面積64.7haという広大な県民の森もある。暑い
日差しを避けて、色づき始めた桜の木陰で昼食にした。

 植物園を出て、林業試験場沿いに進むと那珂総合公園。テニスコート、野球場、
室内体育館、歴史民俗資料館などがあるが、寄らずに通過した。

 公園の南側は、那珂西部工業団地になっているが、まだ工場の建物は少ない。
田んぼや畑などが続く草の道を進み、大規模な鶏舎の先で水戸市内に入った。

 南台集落を抜けた坂の途中、コンクリート製の円筒の縁から遊水があふれて
いる。飲用できるようなので飲んでみた。さほど冷たくはないがうまかった。

 下国井町の園田幼稚園入口に、高さ20m近い大きな柳が立っていた。樹齢
170年で、明治22年(1889)に、ここに出来た学校に移植されたという。

 常磐自動車道をくぐり、那珂川の国田大橋を渡る。流れの両岸は、ススキや
セイタカアワダチソウで埋め尽くされていた。

 飯富町の真佛寺に寄る。句佛上人お手植えのイチョウというのがあり、足の
踏み場もないほどギンナンが落ちていた。

 田野川を渡り、はさ掛けの残る谷地田の間を進み、ひんやりする林間を抜けて
田野町の台地に上がる。

 点在する農家と畑の間を進み、広大な水戸市営浜見台霊園を抜ける。浄水場横
から西側の丘陵に上がると、南側に水戸市街地の展望が広がる。

 原集落を過ぎ、杉や広葉樹林を抜けて田園地帯に下り、水戸市から内原町へ。
さえぎるもののない畑作地帯を、落日間近い夕日に向かって進む。

 田島に入ると日が落ち、冷えてきた。車の多い県道52号を進むうちに、暗く
なってきた。中原で国道50号に入り、すっかり暗くなった17時41分、常磐
線内原駅に着いた。

(距離 26㎞、地図(1/2.5万) 常陸大宮、石塚、水戸、笠間、歩行地 
瓜連町、那珂町(両町は現在、那珂市)、水戸市、内原町(現在は水戸市))  
  

 
 
 

 

 

  
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関東山の辺の道(2) 常陸太田市~瓜連町

2006-04-05 19:56:22 | 関東山の辺の道
 日中、冷たい雨となったので、予定していた外出を中止し、来週の旅行計画を
練りました。おかげで、どこかの国宝ではありませんが、「門外不出」の1日でした。

 そこで今日は、一昨年秋の「関東山の辺の道」2日目の報告とします。


04年9月4日(土) 常陸太田市~瓜連町
 前夜は、日立市のビジネスホテルに泊まった。朝、再びJR水郡線河合駅に
下り、9時に出発する。

 車中では雨模様だったが、駅を出て間もなく止んだ。昨日の帰路を逆に戻り、
セグロセキレイやチュウサギの飛ぶたんぼ道を進んで、改めて佐竹寺へ。

 本堂には、古い千社札が所狭しと貼ってある。坂東三十三観音札所めぐりの
バス団体客が来ていた。

 西側の旧道を南西に進むと、うっそうとした杉木立の中に稲村神社があった。
日本武尊が東方征討の折、戦勝を祈願したと伝えられ、徳川光圀が社殿を修造
したという。
 
 間坂集落を出て、土道を下って田園地帯へ。黄金田が広がり、何となく明るさ
を感じる。きれいな流れで、少年がザリガニ取りをしていた。流れをのぞくと、
10数匹のザリガニと、小魚がいっぱい泳いでいた。

 常陸太田市から金砂郷町(現、常陸太田市)に入る。宮下の農家に、オミナエシ
や百日草が鮮やかな彩り。ザクロも大きな実を付けていた。

 田んぼに突き出た岬のような台地に、丸山農村公園の標識があったので上がる。
桜などの木立の間から黄金田が一望できる。「御統監記念碑」があり、昭和4年
(1929)11月17日に昭和天皇が特別大演習をご覧になったことが、北側の
赤城神社に記されていた。神社には、樹齢500年というご神木の杉があった。

 清水内集落を回って山田川左岸に上がり、すぐ上流の薬谷(くすりや)橋で川
を渡る。南側の浅川との間は、南北に一面の黄金田。浅川を越えて青木集落へ。

 古い赤レンガの蔵が残る集落西端を抜け、ゆるい切り通しを越える。

 次の小集落を通過し、県道に出たら「栗原」という食堂があった。ちょうど
正午過ぎだったので入り、昼食をする。カウンターに、いまは珍しい黒電話機
(4号電話機)が置いてあった。夜は近在の人が集まる居酒屋になるようだ。

 台組の旧道から国道293号に出て、久慈川の左岸堤防に上がり、大宮町
(現、常陸大宮市)に入る。雲が明るくなって気温が上がり、蒸し暑くなった。

 田園地帯を抜け、山すその農道を北に向かう。日向神社と宇留野城跡の説明
板があった。宇留野城は、佐竹氏の一族、宇留野氏の居城跡で、久慈川低地に
突き出た台地にあり、堀や土塁も残っているという。

 上宿集落には、かやぶきの平屋が残っていた。近くの民家は、改築のための
上棟式が始まろうとしており、太い丸太の梁が、その建物の大きさを想像させて
くれる。

 上宿集落が尽きる辺りにあった宇留野公園に入る。桜が多く、展望所からは、
久慈川や、対岸の集落、田園地帯などが一望できる。

 国道293号を越えると甲(かぶと)神社。大宮町の大宮は、甲大宮にちなんだ
ものとか。同じ境内にある素鵞(そが)神社は、疫病封じで知られているようだ。

 近くの松吟寺は、佐竹義胤が建治2年(1275)に開基した寺。朱塗りの山門
は、江戸期の寺院建築様式を留めている。

 部垂(へたれ)城跡の説明板がある大宮小の北には、西方寺がある。佐竹義元
の菩提寺で、本堂前に太いしだれ桜が立っていた。

 常陸大宮駅前を通過、国道118号を越え、大宮二中の南にある常光寺に行く。
親鸞聖人ゆかりの二十四輩二十番霊場。急勾配の屋根の本堂と大鐘楼が目に
ついた。

 水郡線に平行して進み、杉やヒノキの林を抜け、田園地帯に出る。那珂集落を
抜け、まもなく瓜連町(うりづらまち・現、那珂市)に入る。気持ちよい里山風景
が広がる。

 再度針葉樹林を抜け、上組集落から東組集落へ。畑の中の小さな神社に大木が
見える。集落の人に聞くと、葛木稲荷神社のムクノキだという。県天然記念物で、
平安末期に後三年の役に向かう源義家が休憩した際、挿したむちが根づいたのだ
という。

 帰りの列車が気になったが、近くの静神社に入り、大杉に囲まれた荘厳な神殿に
参拝。常陸二宮として古くから信仰を集め、江戸時代、水戸光圀、水戸斉昭により
再建されたとのこと。

 静集落を抜けて畑の間を急ぎ、17時16分、無人の静(しず)駅についた。
17時30分発、2両のディーゼルカーで水戸経由、帰途につく。

(距離 26㎞、地図(1/2万5千) 常陸太田、常陸大宮、石塚、歩行地  常陸太田
市、金砂郷町(現、常陸太田市)、大宮町(現、常陸大宮市)、瓜連町(現、那珂市)) 

 

  





  

  

 
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関東山の辺の道(1) 日立市南部~常陸太田市

2006-03-29 22:18:13 | 関東山の辺の道
 冬の間中止していた企画をそろそろ再開したいと考えています。名付けて「関東
山の辺の道」、関東平野の周辺部をグルッと回るウオーキングです。距離の見当
はつけていませんが、1000㎞前後にはなるものと思われます。冬と夏を除き、
月1~2日ずつ歩きつなぎ、数年かけて達成できればと思ってはじめた、私の
オリジナルウオークです。

 奈良県の「山の辺の道」には及ばないにしても、関東平野の山すそには、古い歴史
を残す町並みが多く、豊かな田園、そしてそれらを囲む緑の山並みが広がっています。
これら歴史と自然、そして地元の方とのふれあいを求めて歩こうというものです。

 歩く方向は、自宅からは遠方の茨城県からとし、栃木、群馬、埼玉、東京、神奈川
と反時計回りに進むことにしました。海岸部は別にして、おおむね標高50m~70m
くらいの、関東山地の山すそにもあたる、車の少なそうな道を結んで歩く計画です。

 今日は第1日目を紹介します。


04年9月3日(金) 晴
 JR常磐線大甕(おおみか)駅に10時23分に降りた。出発点は駅から東北にある
水木浜海岸である。ここは、前年3月下旬に行われた72年に1度の祭典、「磯出
(いそで)大祭礼」で、茨城県水府村(現在は常陸太田市)の2つの金砂神社からの
大行列が、3日かけて到着し、折り返す会場になったところ。私も祭礼期間中、ウオ
ーキング仲間のMさんと、水府村や常陸太田市内で、この祭礼の行列を観覧した。

 水木浜の砂浜には、テトラポット幾重にも並んでいた。

 海岸沿いに南に進み、田楽鼻(でんがくはな)と呼ぶ岬の公園に回る。磯出大祭礼
の行列は、途中何か所も田楽舞いの奉納をするのだが、ここもその場所。昭和6年
(1931)の第16回と昨年の第17回記念のモニュメントが残されていた。

 駅に戻り跨線橋を越え、国道6号沿いにある大甕神社に詣でる。スダジイなどの
古木の豊かな森に囲まれた神社は、元禄2年(1689)に水戸光圀公により、この地
に遷宮されたという。社殿はそう大きくはないが、精巧な彫刻が施されていた。

 旧岩城相馬街道を西に進んで国道に合し、石名坂で再び分かれる。石名坂榎木元
バス停そばに、「金砂神社磯出大祭礼記念植樹」の榎が植えられていた。72年後、
この木を地上1.2mで切り、切り株に祭礼のみこしを乗せ、祈願の神事が行われる。

 町並みが終わる頃、下り坂となり、日立工場の揚水場横を通過し、県道156号に
合する。大和田町1丁目の通には、大きな長屋門の家などが残り、旧岩城相馬街道
の街道筋だったことがうかがえる。

 東北自動車道を越えた本内集落の前後には、特産の香水などを並べた梨の直売
店が数店出ていた。

 左からの国道293号に合し、日立市から常陸太田市へ。国道は歩道があるが、
高速で通過するトラックなどが多く、わずらわしい。平宿の民家には、ヒマワリ、
ケイトウ、マツバボタンなど夏の花が鮮やかな彩り。2㎞余りで国道の車から解放
された。

 茂宮川の周辺では、早くも稲の収穫を始めた田んぼもあり、2つの田ではさ掛けを
していた。古い赤レンガの煙突の立つ家が見えたので、通りがかりの人に聞いたら、
造り酒屋だったが現在は廃業しているという。そのそばで里川を渡る。

 国道343号を横断して常陸太田市役所前に出る。次の東バイパス交差点を横断、
根谷坂にかかる。交差点角には、重厚な瓦屋根の旧家があった。

 常陸太田の中心街は、この急坂を上がった丘陵上にある。大きな木札の看板が
上がった薬局や、郷土資料館、白壁土蔵の郷土資料館別館など、古い家並みが
残っていた。

 十王坂を西に下り、源氏川を渡って太田二高の北の坂を回り込んで久昌寺へ。
水戸光圀公建立の寺だが、現本堂はコンクリート造りである。

 寺の先から、桜やアジサイの間を西山公園に上がると、義公廟がある。徳川光圀公
の生母の菩提を弔う法華経を納めた宝塔や、明版一切経が納められているという。

 裏手の「歴史の散歩道」に入る。展望台があったので上がってみたら、北から東側
にかけての展望がよい。

 桃源集落に入り、光圀公が元禄13年(1700)、73歳で没するまで過ごしたと
いう西山荘(せいざんそう)に行ったが、閉門時刻の16時30分を過ぎていた。

 薄暗くなった林間を上がって西側の車道に出て、白馬寺に行く。光圀公から朱印
20石を賜り、元禄9年(1696)にこの地に移されたという。夕方やって来た怪しい
人と見られたか、庫裡前の犬2匹がしきりにほえる。

 林を抜けて天神林町に入る。日が傾き、ツクツクボーシや秋の虫がにぎやか。
集落内の里道に「山寺の水道」の標識があった。光圀公が命じて造らせた2㎞ほど
の水路だが、300年前にトンネル式の水路とした工法は、ほかに類例がないという。

 県道61号に出ると、佐竹寺の仁王門が見えてきた。佐竹寺は、寛和元年(985)
花山天皇の勅願で創建したという古寺。坂東33観音第22番札所である。

 天文15年(1546)再建の本堂は、かやぶき寄棟造り。桃山時代の遺構を残す
重厚あふれる造りに圧倒される。

 車の多い県道を避け、猪ノ手集落を下って田園地帯に出る。黄金田の間を進み、
JR水郡線河合駅に18時29分に着いた。

(距離 25㎞、地図(1/2.5万) 日立南部、常陸太田、歩行地 日立市、常陸太田市)
 

 

 



 
 


 


 
 


 

 






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