あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

中国・江南6都市巡り5日間のツアー③(2001年)

2009-01-31 22:00:29 | Weblog
 2001年2月4日(日) 曇り
 揚州、鎮江観光、蘇州泊
 =痩西湖、大明寺、金山、北固山=
 
 起床から出発まではきのうと同じ。今日の気温予想は3度~9度。
まず揚州市内観光に。出発前の揚州賓館の前庭。


 揚州市は2,470年の歴史があり、唐代に発展、杜甫が「きれいな
町」とうたったとのこと。

 人口60万人。一時は100万人いたが天南鉄道が揚州を外れたの
で衰退し、鉄道も空港もない。物資輸送は運河中心。姉妹都市は厚
木市と唐津市。大きな工業はなく、うるし、レーヨン、ギンナンなどが
産業。双子のアヒル卵でも有名という。

 市街地で目に付くのがプラタナスの並木。日本のように真っ直ぐに
伸ばさず、3m前後の高さで枝を横に広げている。夏の日陰づくりの
ためかと思われる。この後回った各都市の市街地にも、たくさん見ら
れた。

 まず痩西湖(そうせいこ)公園へ。ここが公園の入口。


 長さ3㎞の細長い痩西湖は、秦代の皇帝の離宮(ホテル)。湖は途
中2か所で直角に曲がっている。

 揚州はその名のとおりヤナギによい気候。ヤナギや枯れた落葉樹、
反りの多い青瓦の建物などが静かな湖面に映る。


 その湖面を前後に龍を付けた赤や黄色の船体のきらびやかな観光
船が行く…。

 いまは寒々とはしているが、中国ならではの風景である。

 湖の中ほどに、1915年徐氏が作った庭、徐園がある。園内には、
1900年代の作、治水用の3トンの水が入る大きなかめ、800年前
の小金山の鍾乳石、1200年前の唐代に雷で割れたという太いイチ
ョウなどがあった。


 上が3トン入るかめ、下が雷で割れたイチョウ。




 その先、湖畔には秦の玄宗皇帝が釣りをしたという建物・釣魚台が
立つ。1757年に出来た、そり屋根の東屋が五つ建つ石橋は蓮華橋
と呼び、「三国一の橋」と言われるとか、見どころが多かった。


 橋の横から車道に出てバスに乗る。そばの市場に市民がたくさん
集まり、生きたニワトリなど生活用品を求めていた。10分ほどで大明
寺(だいみょうじ)に着く。

 大明寺は秦の時代に開かれ、鑑真和尚が10歳から56歳まで住職
だった寺。山門にはきらびやかな四天王が立つ。



 大きな本堂(上)に金色の本尊、釈迦像を中心に薬師如来と阿弥陀
仏。周囲に十六羅漢が並ぶ。本尊の背は、孫悟空の伝説を彫り込ん
だ複雑な像になっている。

 正月の参拝に来た人達は、30㎝くらいもある太い線香を手に捧げ、
体を90度に曲げて何度も拝礼する。座って拝礼するために変形の座
布団が並んでおり、この後回ったほかの寺にもあった。

 本堂裏手は、日本から奉納された鑑真和尚の記念堂。規模は小さ
いが奈良の唐招提寺を模した造りである。


 その先に、ビルマのラングーンから贈られた高さ70mの九重塔が
立つ(手前左は公衆電話)。

 別の堂には、同じビルマからの大理石の寝釈迦像があった。

 次は市内のうるし細工工場。うるし細工は漢の時代から揚州の伝
統。精巧できらびやかな家具、壺、食器などがたくさん並んでいた。

 上は、うるし細工工場内の売店である。

 昼食地に向かう途中の揚州市街。

                      〈続く〉

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中国・江南6都市巡り5日間のツアー②(2001年)

2009-01-30 22:47:08 | Weblog
 2001年2月3日(土) 曇り後雨

 無錫~宜興観光(揚州泊)
 =太湖、真珠店、宜興陶壺博物館、古竜窯、陶器市場など=

 6時30分起床、7時朝食、8時出発。今日の気温は0度~7度の予
報とか。まず太湖(たいこ)遊覧に向かう。太湖は琵琶湖の3.5倍だが、
深さは3.5mで、水量は琵琶湖の3分の1。対岸まで67㎞あるという。

 農村の生活は1人月約300元で生活しており、月収は千元から2千
元。ガソリンは1リットル2元5角。車は10万元くらいとのこと。

 結婚式に向かう、赤い花で飾った乗用車5台ほどが行き違う。結婚
の際、男性から女性に無錫では2万元、宜興(ぎこう)では5千元~3千
元くらい贈り、女性から礼金を返す。山は少ないが、この辺の小さな山
の宝はクリと百合の根。百合の根は女性の宝で腎臓に良いという。

 8時30分太湖着。小雨模様となる。龍をかたどった遊覧船に乗る。

 われわれの他、日本人15人ほどの団体。同じ阪急交通のツアーだ。
ほかに中国人数人が乗った。

 線内では、民族衣装を借りて着用できる。ツアー仲間のご夫婦がさっ
そく借りて記念撮影していた。


 乗船場近くの古い建物は昔の皇帝の別荘。船が折り返した島の波
止場近くに、古いジャンクが係留されていた。


 両側を市の木であるクスノキの並木に挟まれた狭い車線を進み、近
くの真珠店に行く。太湖産の真珠の加工品がたくさん並ぶ。

 値段の交渉をすると可成り安くなり、粘った方が良さそう。

 無錫からバスは宜興(ぎこう)に向かう。枯れ枝の並木は水杉の木。
雨は本降りになってきた。

 中国は人も車も右側通行。ここも信号無視の自動車や自転車、反
対車線に出て追い越すトラック、横断歩道がないので至るところで
車の間を縫っての人の横断など、メチャクチャ。

 走っている自動車はバスとトラックばかりで、自家用車はほとんど
見ない。ほかに三輪自動車やリヤカーなど。なお、自動車は「汽車」、
ガソリンスタンドは「加油站」、スーパーは「超市」という。

 宜興市内に入ると、浸食されて複雑な形の石が、道路際に商品と
してたくさん並んでいる。太湖石といい、太湖の中で炭酸カルシウム
が溶けたもの。庭石などに中国全土から買いに来るそうだ。

 宜興市の人口は100万人、面積1,800k㎡。なお、中国では市の
下に県がある。

 宜興は陶器の町。陶器製の照明灯が郊外から市内まで中央分離
帯にズーッと続いている。また、大小の獅子の飾り、かめ、瑠璃(る
り)瓦、紫砂(しさ)、大理石の板など、陶器や石製品を売る店が数え
切れないほど軒を連ねている。

 最初の見学地は宜興陶壺博物館。

 紀元前6世紀頃~近世までの、かめ、壺、食器、茶器、装飾品など
著名な陶芸家の陶器がたくさん展示されている。

 日本では見たこともないような珍しい形や色の作品が多いが、古い
建物で暖房はなく、照明も少ないので薄暗く、寒々とした博物館だった。

 陶壺博物館内を観覧中の、途中の屋上から見た宜興市内の眺め。


 昼食は、宜興市内の宜興上海賓館というレストラン。おこげ飯という
のが出た。何かと思ったら、炊いた米を固めて四角に切って焼き、た
れをかけたもの。日本のおこげのイメージとは全く違う。


 宜興上海賓館前の通り。


 次の見学地は古竜窯(こりゅうがま)。長さ100m位もある竜の背の
ような古い登り窯。上部は壊れており現在は使ってない。中の温度は
2000℃になるという。

 登り窯への入り口付近は壺の工場で、褐色のつぼがたくさん積み
上げられていた。


 古竜窯の横を最上部まで上がると、煙突の多い宜興の町並みが望
まれる。煙突の下は、もちろん陶器を焼く窯である。


 バスは近くの陶器市場へ。広場を囲んでL字型に店が並ぶ。壺、か
め、食器、茶器、鉢などいろんな陶器が揃っている。

 店は間口1間くらいで奥行きが深く、中間に屋根のある通路が貫い
ている。その奥はどの店も戸があり、中に入ると買わなければ出られ
そうもない、見て回るだけにした。

 次は国営の紫砂(しさ)第2工場。紫砂というのは壺や茶器などの原
料となる紫色の砂。

 若い女性工員の急須などの手作り作業をのぞき、併設の売店へ。
著名な作家の作品は高いが、安い急須をひとつ買う。


 15時近く宜興観光を終える。来た道を無錫まで戻り、豊富な冗談
を交え、上手な日本語で案内してくれた張さんと別れる。

 無錫から南京や北京に通じる高速道路に乗り、今日の宿泊地、揚
州(ようしゅう)に向かう。高速道路といっても日本のような照明はなく、
中央分離帯も簡単。最高速度は乗用車120㎞、バス110㎞、トラッ
クは100㎞。上海~北京間1,300㎞を13時間~16時間で走ると
いう。

 揚州までは約4時間というが、雨の路面なのでどうか…。しかし、
ドライバー顧さんの腕前は相当なものと、丸1日の運転で分かった。

 16時過ぎ常州市に入り市街地を通過。17時45分揚子江の吊り
橋を渡る。思ったほど長くはなく、川幅は1㎞前後か。

 19時頃、高速のインターを降り、照明のある広い道路に入って揚州
市内へ。市内の道路は広く、高層の立派な建物が並んでいる。

 19時20分、宿に近い川沿いのレストランに着く。地元ガイド良(男
性)さんが迎えてくれる。食卓は1階の玄関を入ってすぐなので、暖房
が利かず寒い。

 約1時間、いつもの男性6人グループと揚州料理のテーブルを囲んだ。

 20時35分揚州賓館に着く。もと皇帝の迎賓館だったとかいう国営
の旅館。しかし、部屋や丁度は古く、湯飲み茶碗は汚れていた。
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中国・江南6都市巡り5日間のツアー①(2001年)

2009-01-29 20:32:23 | Weblog
 今からちょうど8年前の2001年2月初め、連れ合いと2人で、
阪急交通社主催、『ふたりの江南6都市巡り』という、中国・上海
周辺の主要都市を回る5日間の安いツアーに参加しました。

 このツアーでいう中国の江南6都市とは、上海、無錫、宜興、揚
州、鎮江、蘇州の各都市です。

 カメラはまだデジカメの時代ではなかったので、1眼レフのフィルム
カメラ・キャノンEOS Kissで撮りました。そのプリントをスキャナーで
読み込み、多少色修整の上、写真を掲載します。当時の色が再現
されていない可能性もありますが、雰囲気を少しでも感じていただけ
れば幸いです。

============================

 2001年2月2日(金) 晴
 上海空港~無錫市内のホテルへ

 成田発全日空747便に阪急交通社ツアー参加の25人が乗る。
定刻より遅れて12時過ぎ成田を出発。1時間ほどして外を見ると
五島列島だろうか、たくさんの小島の上を飛んでいた。

 中国時間は日本より1時間遅れ。現地時刻14時42分上海空港
に着く。天井の高い広くて新しい空港。機内で現地気温は7度と告
げられており、外に出ると寒い。

 出迎えてくれたガイドの呉(ご)(女性)さんの案内で30人乗りバス
に乗る。ガイドになりたてという呉さんの日本語はたどたどしいが、
一生懸命に話す。ドライバーは顧(こ)さんとのこと。

 車内で円と人民元の両替え。1万円で700元。工業団地や公団
住宅のような6階建てアパート群の並ぶ上海市街を抜けると、広々
とした畑作地帯が広がる。


 一般の住宅は2階建てが多く、隣の棟との間隔は3~5mくらい
で意外に狭い。庭はほとんどなく庭木なども見えない。洗濯物を棒
にさして干す様子は香港と同様の風景だ(上、下の写真はバス車
中からの撮影)。


 「江南」とは揚子江の南のこと。この辺りは物産が豊富なところ。
中国は少子政策で一人っ子のため、子どもを「小皇帝」と呼び大切
にしているという。

 退職年齢は男性60歳、女性55歳が普通、退職後は女性は孫の
面倒を見て、男性は早起き早寝で体を鍛えるとのこと。

 これから行く江州は生活レベルが高い方で、月収3千元~1万元
くらい。100㎡の家が30万元~100万元くらいのようだ。

 高速道路で1時間余りのサービスエリアでトイレ休憩。写真は、
SA付近にあった建物。


 5日間の移動は、すべてこのバスで回った。


 その先から3階建ての家が増える。畑、ため池、家といった同じ
様な風景がどこまでも続く。すきで畑の野菜の手入れをする人が
あちこちに見えた。農村地帯には広告はほとんどない。

 17時過ぎ東側から無錫(むしゃく)市街に入り、市街地を抜けて西
側にある夕食のレストランに向かう。帰宅するたくさんの自転車、
オートバイの群。車道へどんどん入り込み、交通規則無視の状態
にびっくり。

 無錫市は、その名のとおり2500年前からの錫(すず)の産地。
錫は青銅器の原料。各地から人が来て争いが絶えなかったため、
錫は無いという宣伝のため無錫という地名に。肥沃で水が多く自然
災害も少ないため、昔から豊かだったという。

 人口は400万人、うち市内人口100万人、周辺部が3百万人。
面積4千平方㎞、面積の2分の1は太湖の水面。亜熱帯気候で6月
から7月は雨が多い。夏は35度くらいになるという。

 産業は紡績、農業(米、野菜、養殖魚)など。山梨から巨峰を輸入
して栽培している。卓球が強いことでも知られ、小山ちれ選手は無
錫の出身。友好都市は相模原市と明石市。タクシーは3㎞まで8元、
以後1㎞ごとに1元5角とのこと。

 中国の五大商業・経済都市は、上海、天津、江州、蘇州、無錫。
中国では万里の長城、千里の運河と呼ばれるが、延長1千㎞の運
河が無錫に流れているという。

 無錫市の西にあるレストランで無錫料理の夕食。明日案内してく
れる地元ガイド張(ちょう)(男性)さんを紹介。雑然とした町中の2階
で食べる。テーブルは3卓。暖房が利かず寒い。


 奥の3~4卓で地元の若者のグループが正月の会食(中国は正月
の最中)。その人たちは、宴会の最後の方は全員立ち上がって賑や
かに話し込む。それが慣例のよう。

 18時40分、宿泊の錫州賓館着。新しい建物、部屋も広くて設備
も良い。洗面台は大理石だった。


 金庫、冷蔵庫、スリッパあり。ミネラルウオーターが1人1本ずつ
無料。TVは全部で19CH。NHKBS1と2,CNN、CCTVもあり、
PAL(13CH)、SECAN(1CH)、それにNTSC(5CH)と、異なる
3方式とも見られる受像機だった(下はTVのチャンネル表)。


〈第1日了〉
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与野七福神めぐり

2009-01-27 18:49:59 | 七福神めぐり
 2009年1月25日(日)



 JR京浜東北線の北浦和駅西口を11時25分に出発、活気ある商
店街、ハッピーロードに入る。大規模スーパー・サティで弁当を求め、
大戸小の横を北に進んだ。

 里見通りの北に入ると、桜やサザンカなどの木々に囲まれた二度
栗山と呼ぶ台地に、弁財天の弘法尊院(こうぼうそんいん)がある。

 弘法大師が関東行脚(あんぎや)の途中で立ち寄り、栗の実を年2
度実らせ、霊水もわき出させて災難を除去したといわれるところ。

 川崎大師、西新井大師と並ぶ関東三大師霊場のひとつとのことだ
が、お堂は改築中で、プレハブの小さな仮堂に本尊が祭られていた。


 境内の中心に、四国八十八か所の仏像が円形に積み重ねられて
いて、その周囲を4周すると四国霊場を巡拝したのと同じ功徳が得
られるのだという。

 琵琶を弾く石造毘沙門天像は、その横に屋根無しで鎮座していた。


 里見通りに戻って西へ、若いケヤキ並木の通りを与野中央公園の
テニスコートそばまで進む。鴻沼川の中里橋を渡り、JR埼京線や
東北・上越新幹線の高架下を抜けたすぐ先が、毘沙門天の鈴谷大
堂(すずやだいどう)である。

 石段を上がると左で、寛文7年(1667)造立という六地蔵が迎え
てくれる。


 正面の方形屋根の本堂は、嘉永2年(1849)の再建。小さな木造
毘沙門天像は、堂内に祭られていた。


 与野西中グランド横から、「彩の国さいたま芸術劇場」の北に回る。
ステーキ「どん」の角の小さい交差点を北に入り、布袋尊の円福寺
(えんぷくじ)へ。山門前の右手に、石造の布袋様が立っている。


 室町時代以来という古寺。正面の大きな本堂内にも鋳造の布袋
尊が立ち、釈迦堂には、市内でも古いもののひとつという鎌倉時代
後期の木造釈迦如来座像が祭られていた。

 境内にはほかに、鐘楼や石造の十三重塔などがある。

 東に少しで本町西1丁目の住宅地に入り、北に進んだ突き当たり
が、今は枯れ枝が広がるが木立の豊富な与野公園である。


 公園内にあるのが、寿老神の天祖神社(てんそじんじや)。白木造り
の簡素な社殿の隅に、寿老神の小さな社が置かれていた。


 神社の左手の池には銭洗(ぜにあらい)弁天があり、池の中央の噴
水の周囲で、カルガモがたくさん泳いでいた。

 園内の日だまりのベンチで昼食を済ませ、東の本町通りへ向かう。
途中、「彩の国七福神せんべい」の看板の立つ喜多山という店があ
ったが、この日は閉店していた。

 本町通り面して、新しい仁王門のあるのが大黒天の円乗院(えん
じよういん)。鎌倉時代の武将、畠山重忠が創建したという名刹(めい
さつ)だという。

 広くて樹木も豊富な境内には、大きな本堂を中心に、客殿、大日堂、
多宝塔、納骨堂など、幾つもの建物が並ぶ。特に目につく多宝塔は、
高さ30mあり、日本三大多宝塔のひとつらしい。


 本堂前には、「千代桜」と呼ぶ樹齢約3百年のエドヒガンザクラが
大きく枝を広げ、その下に、石造の大黒様がにこやかに座っていた。


 本町通を北に向かう。通りには、中山道脇往還をしのばせる蔵造り
などの建物が、何棟か残っていた。


 与野高入口の先まで進んで、恵比寿神の一山(いつさん)神社境内
へ。嘉永年間(1848~53)に木曽御岳講中が創立したものとか。

 冬至の日には、境内でユズなどを供えて火をたき、行者や参加者
が火渡りをする冬至祭があるという。


 鳥居のそばに、枯れ枝がいっぱい伸びた大イチョウが立ち、社殿の
周囲は、うっそうとした常緑樹に覆われている。

 さらに本町通りを進み、八幡通を越えた先に、最後、福禄寿の氷川
神社がある。現在の社殿は宝永6年(1709)再建とのこと。


 ヒノキの高木の多い境内は、入口から奥の社殿に進むにつれ、境
内が末広がりになり、「扇の宮」とも呼ばれているという。


 八幡通に戻り、両側に幅広い歩道のある通りを東に進む。交差する
国道17号を南に少しで、JR埼京線北与野駅がある。埼京線や東北・
上越新幹線の高架下を抜け、けやき広場に上がって、JR京浜東北線
さいたま新都心駅に15時02分に着いた。

(天気 快晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市)
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2㎞以上の歩きを禁じられる

2009-01-26 23:17:52 | Weblog
 昨日は与野七福神めぐりに出かけたのですが、帰宅後、右足
の足首付近が、曲げる角度によって、ちょっと痛みを感じたので、
今日午後、近所の整形外科に行きました。

 先生が、右足をいろいろな方向に曲げてチェックしたのですが、
痛みは感じませんでした。でも、レントゲン撮影の結果を見て、足
首の下の骨の間が少し弱っていると言われました。

 しばらくは毎日でも通って、超音波治療を受け、週に1度は診察
を受けるように言われ、今日はその超音波治療を受け、痛み止め
の湿布を薬局でもらい、足首に貼りました。

 普通に歩けば今日は痛みを感じないので、そう長く通わなくても
よいと思われるますが、先生からは、「当面は2㎞以内にする
ように」と言われました

 1日2㎞では、ウオーキングにならないので残念ですが、これ以
上悪化させないためには、しばらくは守るしかないと思います。

 幸い2月11日まではウオーキングに出かける予定もないので、
治療を受けて様子を見るしかないと思い、日々のウオーキングは
病院の往復程度とすることにします。

 したがって、当ブログでも、新しいレポートはお届けできないかも
しれませんが、古いウオーキングの話題などをできるだけ拾い出し、
紹介することにしたいと思います。
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武蔵一の宮・氷川神社へ参拝(埼玉)

2009-01-25 23:35:35 | ウオーキング
 8日ぶりに快晴に恵まれた今日、さいたま市内の与野七福神巡りに
出かけました。

 そのレポートは別途報告することとし、その後回った武蔵一の宮で
ある大宮の氷川神社への参拝の道筋を紹介します。

 さいたま市や周辺にお住まいの方には、おなじみのところですので、
退屈かもしれず、申し訳ありません。



 与野七福神のゴールは、JR京浜東北線のさいたま新都市駅としま
した。15時過ぎにゴールし、氷川神社に向かいます。


 駅から東側の県道101号に下り、線路に沿って北に少し進むと、
氷川神社参道の入口。一の鳥居が立っています。


 参道の両側には、大きく育ったケヤキ並木が続いています。


 右側が歩道で左側が車道になっていて、車道は手前から奥に向
かっての一方通行です。


 先日ご紹介した高野山町石道のようなりっぱなものではありま
せんが、この参道にも右側に、一の鳥居から1丁(約108m)ごと
に丁石(高野山は町石(ちょういし))が立っていました。

 この二の鳥居は、十四丁付近になります。


 さらに進むと、十八丁石の先に三の鳥居が近づきました。


 三の鳥居の手前には、いくつかの露店が軒を並べています。

 三の鳥居のそばには、十九丁石が立っていました。ここまでで、
入口から2070m余り、しかも北に向かって真っ直ぐな参道です。

 このように長い参道は、ほかの神社では数少ないのではないで
しょうか。

 その先は、玉砂利を敷き詰めた境内、敷地は約3万坪とのこと。

 ゆるやかな朱塗りの太鼓橋で、亀がたくさんいる池を渡ります。

 夕暮れが近づいていたので、今日は亀の姿は見えません。

 池のすぐ先で、山門をくぐります。


 山門と拝殿の間にある神楽殿。


 拝殿に参拝し、健康や安全、世界平和などを祈願しました。


 朱塗りの回廊の東側には、絵馬がたくさん奉納されています。


 その近くには、おみくじを結ぶ場所が長く続いていました。絵馬
納め所も、おみくじの場所も、このほかに何か所かありました。


 帰路はJR大宮駅へ向かいます。二の鳥居までは参道を戻ります。

 
 埼玉県内第1の鉄道ターミナル、大宮駅には、16時13分に着き
ました。


 さいたま新都心駅からの行程は、4㎞余り。多くの人は、大宮駅
から往復するか、北側の東武野田線大宮公園駅から参拝に訪れ
ます。

 

コメント (2)
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『熊野参詣道「小辺路」の魅力』セミナーへ

2009-01-24 22:52:38 | Weblog
 昨日の暖かさから一転、再び真冬の気温となった今日午後、東京・
有楽町駅前の東京交通会館で開催された、表記セミナーに参加しま
した。



 主催は、同館内にある、和歌山県のアンテナショップ・和歌山喜集
館。講師は、和歌山県世界遺産マスターの辻田さんです。

 なぜ、このセミナーに参加したか。それは、昨年10月下旬、熊野
古道中辺路を歩いた中で、熊野本宮大社から歩いた日に、伏拝(ふし
おがみ)まで行く途中で会った人が、「中辺路ではなく、今日は十津
川(とつがわ)村に行く」と言ったのを聞いたからです。



 奈良県最南部の十津川村と熊野本宮がそんな近くにあるあるとは
思っていませんでしたので、帰宅後、地図を見たら、確かに近くて、
十津川村を熊野古道小辺路(こへち)が通過していることも分かり、
小辺路とはどんな道なのかと、興味が湧いたからです。



 たまたま、その後訪ねた東京交通会館の和歌山喜集館にあった
リーフレットで、この催しを知り、申し込んだのでした。

 今日の話のあらましは、以下のようなことでした。

 熊野古道小辺路は、高野山と熊野本宮を結ぶ参詣道で、全長73
㎞、そのうち世界遺産に登録されているのは43㎞(それ以外は林道
や国道になり旧道は残っていない)。

 両端の高野山と熊野本宮は和歌山県だが、中間の大部分が奈良
県の野迫川(のせがわ)村と十津川村を通過している。

 標高1000mを越える峠道が、薄(すすき)峠、伯母子(おばこ)峠、
三浦峠、果無(はてなし)峠の4つもあり、急なアップダウンが多い。

 12~3月の積雪期は注意が必要で、地元ガイドの案内が要る。

 明治22年(1889)8月の大水害で壊滅的打撃を受けた十津川村
民の移民の道でもある(移民先は北海道の新十津川村(現在は町))。

 果無峠には、西国三十三観音の石仏三十三体がある。 

 歩くによい時期は、新緑の4月下旬~5月、紅葉の11月下旬。

 宿泊施設は極めて少なく、高野山の宿坊以外は、野迫川村と十津
川村の民宿あるいは旅館は限られている。十津川村五百瀬地区では、
農家民宿制度を試みている。

 通常はこの区間を3泊4日で歩くのがよいが、早い人なら2泊3日も
可能。その場合の宿泊地(宿のある場所)としては、

 3泊4日 高野山→大股バス停周辺泊→三浦口バス停周辺泊→
       十津川温泉(柳本橋周辺)泊→熊野本宮大社

 2泊3日 高野山→三浦口バス停周辺泊→十津川温泉泊→熊野
       本宮大社

 逆行の本宮→高野山に向かう場合も同様とのこと。

 行程の様子については、写真を映写して説明されましたが、古い
石仏があちこちに残っていること、全世帯が移住してしまった集落
跡を幾つか通過すること、世界遺産になっている部分は道幅50㎝
ほどとの狭いところが多いこと、中辺路などと同様杉などの植林地
が多く、熊野本来の植生である広葉樹林はほとんど見られないとの
ことでした。

 石畳道も、残っているところは1か所だけのようです。

 

 予想していた以上に、高い峠越えの厳しいアップダウンがあること
が分かりましたが、その間の、人は少ないが歴史のある里や、数多
く残る石仏、中辺路から眺めた果無山脈(上の写真)などに興味を
ひかれたので、機会を作って歩いてみたいものだと思いながら、セミ
ナー会場を後にしました。


 

  

 

 

 
 
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春の兆し

2009-01-23 21:45:55 | 所沢だより
 昨日、1日中続いた冷たい雨が上がり、午前中には青空が広がり、
首都圏は今日、季節外れの暖かさになりました。


 わが家の近くの麦畑と隣の畑では、昼前、雨に湿った土が太陽に
温められて湯気が立ち上っていました。


 所沢航空記念公園内にある市立図書館のそばのロウバイは、盛りを
過ぎ、間もなく散りそう。

 近くのケヤキ並木からは、今年初めてのシジュウカラの声が聞こえて
きました。


 アメダスの今日の最高気温は、所沢では15時に13.9℃と、報じ
られていましたが、外を歩いてみると、もっと暖かい感じでした。

 もう春が近づいたかのような今日の暖かさでしたが、西から寒気が
迫って冬型の気圧配置になり、明日はまた最高気温もひとケタに下っ
て真冬並みの寒さに戻るとか…。

 寒さは来週にかけて続きそう。あと2週間ほどが寒さのピークでしょ
うか。

 今日は、ほんのひとときの春の兆しでした。
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にほんの里100選

2009-01-21 22:26:32 | Weblog
 朝日新聞東京本社版の1月6日(火)朝刊で、「にほんの里百選」が
発表されました。

 日本に残るなつかしい風景や、誇るべき暮らしの文化を残している
ような場所を、昨年募集したのです。対象にした里は、集落とその周辺
の田畑や草地、海辺や水辺、里山などの自然からなる地域で、広さに
かかわらず、人の営みがつくった景観がひとかたまりになった地域との
ことです。

 昨年1~3月に募集した結果、4400件を超える応募があり、候補地
は2千か所以上に達しました。

 その中から約400点に絞り込み、「景観」「生物多様性」「人の営み」
を基準に現地調査し、集落や水田など、里を構成する要素ごとに利用や
管理の仕方などを評価し、約150地点のデータを選定委員に提出して、
選考委員会で議論して決めたようです。

 選ばれた里は、1都道府県あたり1~4か所となり、4か所は長野県、
3か所は岩手、石川、京都、奈良、山口、愛媛、長崎の各府県、そのほ
かは2か所か1か所でした。

 選定された里のうち、関東甲信越は以下のとおりです。

 茨城  持方、八郷
 栃木  茂木町北部地区、西下ヶ橋
 群馬  粕川町室沢、秋畑那須
 埼玉  風布、三富新田
 千葉  結縁寺、平久里下
 東京  小野路
 神奈川 上山口、藤野町佐野川
 山梨  牧丘・八幡、増富
 長野  栄村、小川村、遠山郷・上村下栗、根羽村
 新潟  片野尾・月布施・野浦、松之山・松代

 このうちのひとつ、昨年秋歩いた山梨県山梨市牧丘町のブドウ畑です。




 また、関西は以下の里が選ばれました。

 滋賀  白王・円山、甲南町杉谷新田
 京都  伊根の舟屋群、上世屋、越畑・樒原
 大阪  長谷、穂谷
 兵庫  円山川流域、黒川
 奈良  深野、奥明日香、桑畑果無
 和歌山 天野、口色川

 そのほかの県を含め、私が訪ねたことのあるのは、次のような場所
でした。

 福島 猪苗代湖、栃木 茂木町北部地区、埼玉 三富新田、東京
 小野路、新潟 松之山・松代、福井 三方五湖、山梨 牧丘・八幡、
 山梨 増富、奈良 奥明日香

 選ばれた里は、私が楽しんでいるカントリーウオーク向きのエリアで
はないかと思います。同じ思いは、当ブログのブックマーク欄の3番目、
「村上の野歩」の主、ヤマメさんも同じようで、さっそく1月12日(月)の
朝日新聞朝刊「声」欄に、以下のように投稿されました。



 私も、訪ねたところはわずかなので、機会を作って関東周辺など、
近くの場所からでも訪ね、これらの里をカントリーウオークしてみたい
なと思っているところです。

 「にほんの里百選」の詳細については、下記Webをご覧下さい。
 
    http://www.sato100.com/index.html
  

 

 
 
コメント (4)
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2008年の歩数

2009-01-19 22:37:46 | ウオーキング
 私の2008年中の日々記録していた歩数について、エクセルで集計
してみました。その結果は以下のとおりです。

     月間歩数  1日平均歩数 最高歩数 最低歩数
 1月  590,000  19,032  46,800  2,200 
 2月  538,900  19,246  49,900  1,300
 3月  618,000  22,071  46,500  1,100
 4月  630,900  21,030  54,900  2,000
 5月  555,600  17,923  47,900  1,000
 6月  471,400  15,713  30,000  3,400 
 7月  523,800  16,897  43,800  2,000
 8月  449,500  14,500  40,100  2,000
 9月  538,400  17,947  51,000  1,900
10月  693,400  22,368  51,600 10,000 
11月  574,300  19,143  41,800  7,300
12月  513,500  16,565  30,100  2,900 

 計  6,697,700  18,300   54,900  1,000  

 歩数計の測定誤差(余計な振動をカウント)を考慮し、100歩以下
の数値は切り捨てています。

 最高歩数は、国際ウオーキングトレイル実踏で山梨県北杜市白州
から27㎞歩いた4月16日の54,900歩、最低歩数はギックリ腰に
なった5月14日の1,000歩でした。 
  
 1日平均では18,300歩という結果になります。

 最近の10年余りの1日平均歩数は以下のとおりです。
 
 1997年  17,300
 1998年  19,000
 1999年  19,900
 2000年  20,000
 2001年  20,700
 2002年  22,300
 2003年  21,000
 2004年  22,900
 2005年  19,500
 2006年  20,800
 2007年  19,200
 2008年  18,300
 
 という結果で、2000年から2004年にかけては、1日平均2万歩
以上歩いていたのですが、昨年はかなり減っています。
 
 これは、日本ウオーキング協会及び関連団体の大会や例会への
参加回数が極めて少なくなったことと、ロングウオークとしては、10
月下旬の熊野古道中辺路への1週間が最長で、2004年などのよう
に3~4週間に及ぶ四国遍路のようなロングウオークがなかったこと
にもよります。

 今年は、昨年よりは多く歩きたいと思いますが、どうなりますやら…。

 
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