2013年12月22日(日)
冬至の日、案内はがきをいただいた「放浪のお絵描きおじさん」の作品展の鑑賞に、市
川市に行くことにした。
最寄り駅は京成本線の市川真間駅だが、周辺の寺社も回ってみることにして、一つ手前
の国府台(こうのだい)駅に10時40分に下りた。
江戸川に接する水戸街道・県道1号に出て、近くの春日神社へ。社殿前に山車蔵(だし
ぐら)があり、境内のイチョウは葉が少しだけ残る。
そばの民家は、昭和の日本建築の姿を留めた貴重な建物だ。
すぐ先を東に入ると安国院で、境内の冬桜が見ごろ。本堂前で大黒天がにこやかに迎え
てくれた。
国道14号・千葉街道の手前の三差路を左折して東へ。道路の両側に寺が相対し、北側
の玄授院は堂々たる本堂。
南側の龍泉院は小さめの本堂で、門際に穏やかなお姿のお地蔵さんが立つていた。
線路際を進んで踏切を渡り、市川真間駅の北口へ。細い路地を東北に進み、国府台女子
学院前の通りに出た。北に少しの「サロン・ド・グランパ」に相田みつをギャラリーと展
示コーナーなどがあり、今日の目的の「第4回 百田稔作品展」もここで開催している。
百田さんも居られ、今回は10月初めから1か月ほど歩いて描かれた、四国の高松から
出発して徳島、高知を経て松山までのスケッチを鑑賞する。
私が四国遍路で巡った寺院や道中の風景などのほか、行きたいと思いながら先を急いで
行けなかったところ、知らなかった場所など、葉書大の作品がたくさん展示されていた。
以前歩かれた東海道や山陰、能登、九州などのスケッチもファイルになっているので、
幾つか拝見し、百田さんの話も伺う。
その場での感動を忘れぬため、スケッチはすべて現場でされるとのこと。今回の旅では
台風に2度遭遇し、11年間のお絵描き旅の中でも初めて、まる1日宿に逗留したという。
高知県内を5日間同宿した延岡の遍路さんが、この作品展にお出でになったとも言われた。
ほかに、東かがわ市の手袋資料館で描いた作品が手袋工業組合の来年のカレンダーに使
われ、12月16日(月)にはNHK総合TVの「ひるブラ」で取り上げられたとのこと
や、昨年の東北の旅では五所川原市で猛烈な風に見舞われて立ち往生したことなど、貴重
な体験や数々の出会いのあった旅の模様をたくさん伺った。
ちなみに百田さんは、私も参加した中山道歩きのメンバーのひとりである大阪のKさん
とは旧知で、東海道を歩かれた2004年4月に、中山道と分岐する草津で、Kさんと出
会ったことが東海道の画集に記されていた。
作品を見たり話を伺ったりして1時余り経過し経過し、ご一緒に写真を撮らせていただ
き、12時半過ぎに会場を後にする。
国府台女子学院小の横から細道を南東へ、京成電車の踏切を越えた両側に、クロマツの
古木が続く。
古い街道かと思い、通りがかりの女性に聞いたら、以前この辺りは海辺だったとのこと。
千葉街道に近い新田神社境内にも、クロマツが何本か立っていた。
千葉街道に出て、次の三差路を東北に入る。菅野(すがの)駅の手前の諏訪神社周辺は、
平田特別緑地保存地区。かつての海辺地の黒松林の様相を残しているので、保存地区に指
定したことが記されていた。
諏訪神社は、信濃の諏訪大社の末社なので、平成18年の諏訪大社式年遷宮に習い、御
柱(おんばしら)奉上の神事を行ったとか。社殿前に2本の御柱が立っていた。
東京外環自動車道の大規模な工事が進捗中の、菅野駅の東側踏切を渡る。この通りにも
クロマツがかなり残っている。菅野一丁目の浄言寺(じょうごんじ)本堂はコンクリート
造り。墓地のそばに、大きな大慈悲観世音菩薩像が立っていた。
近くの白幡天神社は、治承4年(1180)源頼朝が安房国に旗上げの際、この地に白
旗を掲げたことから名付けられたとか。拝殿の社額は勝海舟の揮毫(きごう)という。
あまり大木は無いが広い境内には樹木が多く、社殿横には市保存樹木で樹高10mとい
うムクノキが立つ。
道路際には、この近くに移り住み神社のことも小説に描いた、幸田露伴の「文学の碑」
がある。
県道51号の西側にある不動院は、平成19年再建という新しい大本堂が目をひく。西
側の大師堂は、小さいが端正な造りだ。
交通量の多い県道に出て南下して不二女子校の北側を回り、山門横に樹齢約200年と
いう大クスが立っ葛飾八幡宮境内に入る。
創建は平安の寛平年間(889~98)、宇多天皇の勅願により下総国総鎮守として鎮
座したとか。平将門、源頼朝、太田道灌などゆかりの社で、徳川家康からは朱印地五十二
石を寄進されたという。
社殿右後方には、国天然記念物で「千本公孫樹」と呼ぶ呼ぶ樹高22m、根回り10.2
m、江戸名所図会にも記されている大イチョウが立っていた。
境内は広大で、ほかにも県指定文化財の元享の銅鐘、朱塗りの随神門、「源頼朝公駒ど
めの石」、市川市で梨栽培を最初に始めた「川上翁遺徳碑」、「八幡音頭」と「市川小唄」
の歌碑などが目についた。神社を囲む八幡神社の森は、国指定保安林である。
京成電車の踏切を渡り、国道14号・千葉街道に出て市役所↓前を東進する。
14時を過ぎたが昼食場所が見つからない。八幡一丁目の東昌寺には、大きな自然石の
手水鉢があった。
桜並木の下に沼田元知事の「治水とやすらぎ」と刻まれた石碑のある、真間川を渡る。
左岸横の空き地には、明治時代に欧米の体操を広め、ヨーロッパの留学先では滝廉太郎や
巌谷小波などと交流のあったという「坪井玄道(つぼいげんどう)生誕の地」の説明板が
立っていた。
鬼越(おにごえ)駅への三差路際にあったコンビニでおにぎりを求め、近くの常開寺に
入り、本堂左手のお堂↓の階段を借りて遅い昼食に。
その前にサルスベリの古木が立ち、その由来を木の板に記した「百日紅」という歌碑があった。
近くの高石神社へ。社殿前に2本のイチョウが、背後にはケヤキの古木があるが、開放
的な境内である。
東側の広い車道に下り、踏切の北から東北に延びる高石神地区の古くからの住宅地の細
道へ。
近代的な白亜の本堂の泰福寺の先から、台地に向かって上がって行くと中山安房神社が
あった。江戸名所図会には「安房須明神社」と記され、現在地に建立されたのは大正4年
(1915)という。
少し東進して、京成中山駅から北に伸びる参道に合したところに、思いがけず堂々たる
仁王門が立っていた。中山法華経寺である。
寺は、日蓮聖人が文応元年(1260)に創立した日蓮宗大本山の寺院。日蓮聖人が松
葉ヶ谷の焼打に遭われた折、大信者だった富木常忍(日常聖人)と中山の領主、太田乗明
が当地に聖人をおつれし、聖人自ら釈迦牟尼佛を安置して開堂入佛の式を挙げたのが法華
経寺のはじまりとか。
その後、文永元年(1264)には、日蓮聖人が眉間に傷を追う危急の際、鬼子母神の
救護により一命が救われ、中山に避難された折、養生のかたわら鬼子母神像を彫り開眼し
たという。
桜並木の長い参道を進むと、広大な境内の正面に国重要文化財の五重塔がそびえ立つ。
本阿弥光室により元和8年(1622)に建立したもの。
左手の大きなお堂は日蓮聖人を祭る祖師堂。やはり国重文で、江戸中期の延宝6年
(1678)に上棟されたとか。
屋根を二つ並べたような比翼入母屋造りが特徴で、ほかには岡山県の吉備津神社本殿だ
けという。
さらに法華堂、四足門、刹堂、荒行堂、鐘楼など幾つもの堂塔が広い境内に並び立つ。
このような大寺院が市川にあるとは知らなかった。
五重塔の近くには露座の大仏が、東側にはコンクリート造りの鬼子母神を祭る建物があ
り、道路を隔ててはイチョウの古木も立っていた。
日が傾いてきた。土産店の並ぶ参道を仁王門まで戻り、さらに真っ直ぐ南に延びる通り
を駅に向かう。
総門の近くにあった「いちかわ街案内所」の立て札の下がる清華園は、和風の建物と日
本庭園がある市の施設で、観光客に開放している。かなり時間が経過したので寄らずに通
過し、15時45分に無人の京成中山駅に着いた。
(天気 晴後快晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 船橋、歩行地 市川市、歩数
16,800)
なお、「放浪のお絵描きおじさん」が、毎日その日のスケッチをアップしたブログは、
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冬至の日、案内はがきをいただいた「放浪のお絵描きおじさん」の作品展の鑑賞に、市
川市に行くことにした。
最寄り駅は京成本線の市川真間駅だが、周辺の寺社も回ってみることにして、一つ手前
の国府台(こうのだい)駅に10時40分に下りた。
江戸川に接する水戸街道・県道1号に出て、近くの春日神社へ。社殿前に山車蔵(だし
ぐら)があり、境内のイチョウは葉が少しだけ残る。
そばの民家は、昭和の日本建築の姿を留めた貴重な建物だ。
すぐ先を東に入ると安国院で、境内の冬桜が見ごろ。本堂前で大黒天がにこやかに迎え
てくれた。
国道14号・千葉街道の手前の三差路を左折して東へ。道路の両側に寺が相対し、北側
の玄授院は堂々たる本堂。
南側の龍泉院は小さめの本堂で、門際に穏やかなお姿のお地蔵さんが立つていた。
線路際を進んで踏切を渡り、市川真間駅の北口へ。細い路地を東北に進み、国府台女子
学院前の通りに出た。北に少しの「サロン・ド・グランパ」に相田みつをギャラリーと展
示コーナーなどがあり、今日の目的の「第4回 百田稔作品展」もここで開催している。
百田さんも居られ、今回は10月初めから1か月ほど歩いて描かれた、四国の高松から
出発して徳島、高知を経て松山までのスケッチを鑑賞する。
私が四国遍路で巡った寺院や道中の風景などのほか、行きたいと思いながら先を急いで
行けなかったところ、知らなかった場所など、葉書大の作品がたくさん展示されていた。
以前歩かれた東海道や山陰、能登、九州などのスケッチもファイルになっているので、
幾つか拝見し、百田さんの話も伺う。
その場での感動を忘れぬため、スケッチはすべて現場でされるとのこと。今回の旅では
台風に2度遭遇し、11年間のお絵描き旅の中でも初めて、まる1日宿に逗留したという。
高知県内を5日間同宿した延岡の遍路さんが、この作品展にお出でになったとも言われた。
ほかに、東かがわ市の手袋資料館で描いた作品が手袋工業組合の来年のカレンダーに使
われ、12月16日(月)にはNHK総合TVの「ひるブラ」で取り上げられたとのこと
や、昨年の東北の旅では五所川原市で猛烈な風に見舞われて立ち往生したことなど、貴重
な体験や数々の出会いのあった旅の模様をたくさん伺った。
ちなみに百田さんは、私も参加した中山道歩きのメンバーのひとりである大阪のKさん
とは旧知で、東海道を歩かれた2004年4月に、中山道と分岐する草津で、Kさんと出
会ったことが東海道の画集に記されていた。
作品を見たり話を伺ったりして1時余り経過し経過し、ご一緒に写真を撮らせていただ
き、12時半過ぎに会場を後にする。
国府台女子学院小の横から細道を南東へ、京成電車の踏切を越えた両側に、クロマツの
古木が続く。
古い街道かと思い、通りがかりの女性に聞いたら、以前この辺りは海辺だったとのこと。
千葉街道に近い新田神社境内にも、クロマツが何本か立っていた。
千葉街道に出て、次の三差路を東北に入る。菅野(すがの)駅の手前の諏訪神社周辺は、
平田特別緑地保存地区。かつての海辺地の黒松林の様相を残しているので、保存地区に指
定したことが記されていた。
諏訪神社は、信濃の諏訪大社の末社なので、平成18年の諏訪大社式年遷宮に習い、御
柱(おんばしら)奉上の神事を行ったとか。社殿前に2本の御柱が立っていた。
東京外環自動車道の大規模な工事が進捗中の、菅野駅の東側踏切を渡る。この通りにも
クロマツがかなり残っている。菅野一丁目の浄言寺(じょうごんじ)本堂はコンクリート
造り。墓地のそばに、大きな大慈悲観世音菩薩像が立っていた。
近くの白幡天神社は、治承4年(1180)源頼朝が安房国に旗上げの際、この地に白
旗を掲げたことから名付けられたとか。拝殿の社額は勝海舟の揮毫(きごう)という。
あまり大木は無いが広い境内には樹木が多く、社殿横には市保存樹木で樹高10mとい
うムクノキが立つ。
道路際には、この近くに移り住み神社のことも小説に描いた、幸田露伴の「文学の碑」
がある。
県道51号の西側にある不動院は、平成19年再建という新しい大本堂が目をひく。西
側の大師堂は、小さいが端正な造りだ。
交通量の多い県道に出て南下して不二女子校の北側を回り、山門横に樹齢約200年と
いう大クスが立っ葛飾八幡宮境内に入る。
創建は平安の寛平年間(889~98)、宇多天皇の勅願により下総国総鎮守として鎮
座したとか。平将門、源頼朝、太田道灌などゆかりの社で、徳川家康からは朱印地五十二
石を寄進されたという。
社殿右後方には、国天然記念物で「千本公孫樹」と呼ぶ呼ぶ樹高22m、根回り10.2
m、江戸名所図会にも記されている大イチョウが立っていた。
境内は広大で、ほかにも県指定文化財の元享の銅鐘、朱塗りの随神門、「源頼朝公駒ど
めの石」、市川市で梨栽培を最初に始めた「川上翁遺徳碑」、「八幡音頭」と「市川小唄」
の歌碑などが目についた。神社を囲む八幡神社の森は、国指定保安林である。
京成電車の踏切を渡り、国道14号・千葉街道に出て市役所↓前を東進する。
14時を過ぎたが昼食場所が見つからない。八幡一丁目の東昌寺には、大きな自然石の
手水鉢があった。
桜並木の下に沼田元知事の「治水とやすらぎ」と刻まれた石碑のある、真間川を渡る。
左岸横の空き地には、明治時代に欧米の体操を広め、ヨーロッパの留学先では滝廉太郎や
巌谷小波などと交流のあったという「坪井玄道(つぼいげんどう)生誕の地」の説明板が
立っていた。
鬼越(おにごえ)駅への三差路際にあったコンビニでおにぎりを求め、近くの常開寺に
入り、本堂左手のお堂↓の階段を借りて遅い昼食に。
その前にサルスベリの古木が立ち、その由来を木の板に記した「百日紅」という歌碑があった。
近くの高石神社へ。社殿前に2本のイチョウが、背後にはケヤキの古木があるが、開放
的な境内である。
東側の広い車道に下り、踏切の北から東北に延びる高石神地区の古くからの住宅地の細
道へ。
近代的な白亜の本堂の泰福寺の先から、台地に向かって上がって行くと中山安房神社が
あった。江戸名所図会には「安房須明神社」と記され、現在地に建立されたのは大正4年
(1915)という。
少し東進して、京成中山駅から北に伸びる参道に合したところに、思いがけず堂々たる
仁王門が立っていた。中山法華経寺である。
寺は、日蓮聖人が文応元年(1260)に創立した日蓮宗大本山の寺院。日蓮聖人が松
葉ヶ谷の焼打に遭われた折、大信者だった富木常忍(日常聖人)と中山の領主、太田乗明
が当地に聖人をおつれし、聖人自ら釈迦牟尼佛を安置して開堂入佛の式を挙げたのが法華
経寺のはじまりとか。
その後、文永元年(1264)には、日蓮聖人が眉間に傷を追う危急の際、鬼子母神の
救護により一命が救われ、中山に避難された折、養生のかたわら鬼子母神像を彫り開眼し
たという。
桜並木の長い参道を進むと、広大な境内の正面に国重要文化財の五重塔がそびえ立つ。
本阿弥光室により元和8年(1622)に建立したもの。
左手の大きなお堂は日蓮聖人を祭る祖師堂。やはり国重文で、江戸中期の延宝6年
(1678)に上棟されたとか。
屋根を二つ並べたような比翼入母屋造りが特徴で、ほかには岡山県の吉備津神社本殿だ
けという。
さらに法華堂、四足門、刹堂、荒行堂、鐘楼など幾つもの堂塔が広い境内に並び立つ。
このような大寺院が市川にあるとは知らなかった。
五重塔の近くには露座の大仏が、東側にはコンクリート造りの鬼子母神を祭る建物があ
り、道路を隔ててはイチョウの古木も立っていた。
日が傾いてきた。土産店の並ぶ参道を仁王門まで戻り、さらに真っ直ぐ南に延びる通り
を駅に向かう。
総門の近くにあった「いちかわ街案内所」の立て札の下がる清華園は、和風の建物と日
本庭園がある市の施設で、観光客に開放している。かなり時間が経過したので寄らずに通
過し、15時45分に無人の京成中山駅に着いた。
(天気 晴後快晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 船橋、歩行地 市川市、歩数
16,800)
なお、「放浪のお絵描きおじさん」が、毎日その日のスケッチをアップしたブログは、
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