あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

新潟県中越地震前の山古志の棚田(新潟・長岡(旧山古志村))

2024-09-05 21:03:54 | アーカイブ
 2024年9月5日(木)

 右膝の痛みは、整形外科でのリハビリや湿布などを続けたことで、かなりよくなりまし
たが、まだ自宅周辺のわずかなエリアを行き来しているだけなので、今回も古い写真を御
覧頂くことにします。

========================================

 来月下旬の10月23日は、最大震度7を観測した新潟県中越地震から20年になりま
すが、さらに4年前の2000年9月4日から5日にかけて歩いた、その中越地方の山古
志村(現在の長岡市山古志地区)を歩いて眺めた刈り入れ直前の棚田の様子です。

 山古志村は震源に近かったのでかなりの被害が出て、村民全員が長岡市に避難するとい
うこちになり、棚田なども大規模な被害を受けており、現在は景観もかなり変わっている
かと思われますが、その後再訪する機会を得られなかったのが残念です。

 山古志のことは以前も紹介しており、それはこちらから御覧下さい。なお、その時に掲
載した写真3枚も今回の中に含まれています。


 2000(平成12)年9月4日(月)

 JR長岡駅から越後交通のバスで長岡市濁沢の落合橋で下り、山古志村種苧原(たねす
はら)から虫亀(むしかめ)集落に向かう途中の旧道からの眺め。


 こちらの水の入った溜池は、山古志特産の錦鯉(にしきごい)を飼育している池
 

 2000年9月5日(火)

 宿泊した虫亀の民宿・三太夫から朝食前、前夜おかみさんから勧められた棚田の展望の
よいという金倉山(かなぐらやま)下へ向かい、途中の好展望地から眺めた色づく棚田。






     



 朝食を済ませて民宿を後にして、虫亀集落にある大きな養鯉場や闘牛場を回った後、県
道を南へ桂谷集落方面に向かいます。その途中から見下ろした棚田など。
   

 この後は、村民が手彫りして貫通させた延長530mの羽黒トンネル、竹沢郵便局、錦
鯉総合センターなどを回り、竹沢バス停から小千谷行きバスでJR上越線小千谷駅に向か
いました。

 



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米国ケネディ大統領暗殺から60年と帝銀事件判決

2023-11-25 22:04:50 | アーカイブ
 2023年11月25日(土)

 一昨日、11月23日(木)は、60年前の1963(昭和38)年の同じ日に当時の
アメリカのケネディ大統領が暗殺された日でした。

 1963年というと、最初の東京オリンピック開催の前年になります。

 関係した新聞記事やテレビ番組などもあったかもしれませんが、私は気に留めてなかっ
たのでどんな特集や記事があったかは分かりません。

 ただ、私が保存していた新聞の号外や夕刊ガあったことを思い出し、その一部をコピー
してみました。

 朝日新聞東京本社版の号外 
 

 その裏面


 読売新聞の号外(裏面は白紙)


 私が覚えているのは、当日は衛星電波による最初の日米テレビ中継が成功し、その最初
の情報がケネディ大統領暗殺を伝える映像だったことです。

 これは、当日の朝日新聞東京本社版夕刊に掲載された記事です。


 この中に、『「日本のみなさま、この歴史的電波に乗せて、まことに悲しむべきニュース
をお伝えしなければなりません」と、8時58分からの中継では毎日放送前田特派員が沈痛
な声で事件のいきさつを簡単に伝えた。』と記されていますが、私も当日中継放送を視聴し
ていて、この最初のナレーションを鮮明に覚えています。

 なお、夕刊(全12頁)には何頁にもわたり関連の情報が掲載されています。

 ちなみに、この日のことを記した私の日記(山と渓谷社の「アルパイン・カレンダー」)
には、以下のように記されていました。

 『休日の朝はケネディ大統領の暗殺というニュースが、初の日米間リレー衛星によるテレ
ビ中継によってもたらされるという驚きと悲しみの日になった。

 若き世界の指導者として世界平和のための努力を惜しまなかった大統領も46歳で去り、
代わってスチブンソン副大統領が昇格した。

 一日中、タイトル作り(自作8㎜映画のタイトル)などで過ごす。日中20℃の暖かさ、
イチョウが散り冬せまる』

----------------------------------------

 話は変わり、昨日、24日(金)のNHKBSプレミアムで、22時から『松本清張と
帝銀事件』という番組の再放映があり、私は当ブログの次の内容の入力をしていたので視
聴しませんでしたが、帝銀事件はいつだったろうかと気になりました。

 確か古いスクラップブックに関係記事があったように思い、探したら以下のスクラップ
が残っていました。

 容疑者平沢貞通被告に死刑判決の記事で、1950(昭和25)年7月25日ですが、
事件の発生は2年前の1948(昭和23)年1月26日だったようです。

 このような第二次大戦直後の、古い出来事を知っている方は、もう少ないことでしょう
ね・・・

----------------------------------------

 蛇足ながら、同じスクラップブックには昭和25年10月1日に実施された国勢調査に
よる日本国内の人口統計の記事があり、それによれば日本の総人口は83,128,400人、
                                                                                                                                                                                                                
 主な都道府県人口は、北海道4,283,674人、宮城県1,648,024人、東京都
6,275,190人、愛知県3,390,579人,大阪府3,855,857人,広島県
2,081,281人、愛媛県1,523,834人,福岡県3,524,021人で、当時の
北海道は東京都に次ぐ全国第2の人口だったことがうかがえます。



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1980年代のエコーはがき

2022-09-25 18:00:27 | アーカイブ
 2022年9月24日(土)

 9月下旬になり今年も、毎年送付している県内深谷市の養護盲老人ホームへ、施設の改
善や修繕、入所者への生活内容改善などの支援のため、はがきや古切手などを送ることに
しました。

 使用済みの古切手が毎年多かったのですが、今年はわずかしかなかったので、古い段ボ
ール箱に保管して眠っていた、1980年代のエコーはがきを主に送ることにしました。

 エコーはがきとは、通常はがきの下部スペースの一部(1/3以内)をスポンサーの提
供する広告にあて、広告を掲載することで通常はがきの売価より5円分を差し引いた価格
で販売されるもので、現在のはがきでは1枚63円が58円で販売されます。

 1980年代のはがきの価格は40円だったので、売価35円で購入したものが結構フ
ァイルに保管してあり、2枚ずつ購入したあったものの各1枚を送ることにしました。

 広告を眺めてみると、当時の主要企業や官公庁、人気商品、技術、歴史などがわかるも
のもあり、それらをコピーしたので以下に紹介します。

 ファイルに入っていた順にコピーして2枚ずつ並べたので、発売年月日などは不明です。






 電電公社はその後民営化され、現在のNTTグループに。


 日本中央競馬会は昭和29(1954)年9月創立なので、昭和59(1984)年9
月頃の発売のよう。




 2枚とも、広告内容から1984年発売とわかります。






 国営昭和記念公園は、昭和58(1983)年10月開園なので、来年10月でもう開
園40年になるのですね。














 日本ダービーの開始は昭和7(1932)年のようですから、これは1982年5月の
発売かと思われます。

 左、埼玉県川口市の市制は昭和8(1933)年4月1日なので1983年4月発行か。

 右は、「1983年、間もなく日本の空に・・」とあるので、これも同年発行らしい。
 



















 海の記念日は昭和16(1941)年7月20日からというので、これらは1991年
7月発行だろうか。



 海の記念日は、現在は「海の日」と名を変えて国民の祝日となり、7月第3週月曜日に
変わっているのはご存じの通りです。

 右の「社会を明るくする運動」は今年で72回なので、これは1990(平成2)年と
思われます。














 世界人権宣言は昭和23(1948)年12月10日に出されているので、1988年
12月発行か。










 右のはがきの広告主「IDO」は日本移動通信、現在のKDDIの前身です。

 名称の変わった企業や公共企業体、その後の技術の大きな進歩を感じさせるものなど
あり、このようなものからも近代日本の変遷がわかるような気がします。




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22年前のウオーキング大会でのタイムカプセルが届く

2022-06-03 19:01:41 | アーカイブ
 2022年6月3日(金)

 市内ウオーキングから戻って郵便受けを開けたら、住居表示で変わる前の古い番地での
封書が届いていた。

 長野県茅野市の茅野市尖石(とがりいし)縄文考古館からのもの。


 はて、なんだろうかと開封してみたら、下のメッセージとともに、私が2000年7月
22日に書いたタイムカプセル用のメッセージを返してくれたのだった。
   

   
 当時、ウオーキングで茅野市に行ったことは覚えていたが、このようなタイムカプセル
に納めるメッセージを書いたことは全く忘れていた。


 20年後も元気に歩けるかと書いてあるが、現状は当時と全く違っていて、後半に記す
記録をたどってみたら、当日は20㎞のサイクリング、20㎞のウオーキング、さらに
500mのスイミングをしていたが、現状は加齢が進んで数㎞のよたよたウオーキングが
やっとで、当時の元気はもう遠いことになってしまっている。

 当時の記録が残っているので以下に記すが、写真を探してみたがみつからなかった。

========================================

 蓼科国際ジョイアスロン大会『2000年7月22日の記録』

 7月22日(土)~23日(日)、蓼科高原で開催された第一回蓼科国際ジョイアスロ
ン大会に参加した。2日間で、ウオーキング、サイクリング、スイミングの3つを楽しむ
大会である。

 22日はサイクリング(20㎞)とウオーキング(20㎞)に参加の予定で、8時半過
ぎに蓼科湖畔のサイクリング受付へ。

 あいにく乗り慣れたママチャリ(パパチャリ?)が出払っていて、マウンテンバイクに
乗ることになる。

 コースは、1周1.3㎞の蓼科湖畔を15周。最初は乗りにくかったマウンテンバイク
も、2~3周で要領が分かり、ほかの人を追い抜くようになった。

 湖畔なので傾斜が少ないのと、緑多い湖畔や蓼科山などを眺めながらの走行は快適。約
1時間で周回を終わった。

 弁当を受け取り、すでに何十人か出発後の20㎞ウオーキングコースへ向かう。ところ
が、もらったコース地図がかなり簡略。目標が少なく、行きと帰りの方向も書いてない。

 ゴルフ場の横を下ってハーブ園の先から田園地帯に出る。前後にはほとんど歩行者が見
えず目印の矢印もなく、この道で良いのやら分からなくなった。持って行った2万5千分
の1地形図と比べるが、新しい道路ができていて分かりにくい。

 電柱の標識で字名(あざな)を確認、さらに地元の歩行者やトウモロコシ畑にいた人に
聞いたりして、なんとか12時前、復元した縄文時代の竪穴住居が並ぶ裏側からチェック
ポイントの尖石縄文考古館に着く。

 考古館は前日にオープンしたばかり。周辺は記念セレモニーやチャリティバザールに来
た人でいっぱい。館の横で昼食をしてから、今日は無料の館内を見学する。

 帰りは用水沿いに行けば矢印があると言われて出たが、やはり見当たらず。熱い日差し
の中、少し回り道して途中からようやく見つかった矢印を頼りに進み、14時半頃蓼科湖
畔に戻った。

 スイミングは明日を予定していたが、16時まで泳げると聞いてプールへ急ぎ、屋外プ
ールで500m泳ぐ。疲れてはいたが、大汗をかいた後だったので冷たい水が気持ちよか
った。 (歩数 46,300)  〈以下は23日なので略〉


 なお、尖石縄文考古館のサイトに、タイムカプセル返還のことなどが記されています。

 



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太平洋戦争の開戦から80年、当日の新聞から

2021-12-08 18:36:10 | アーカイブ
 2021年12月8日(水)

 今日は、日本がアメリカやイギリスなどを相手に戦争を開始した太平洋戦争の開戦の日
から80年になります。

 わが家には、父が保存してくれた当日の東京日日新聞(現在の毎日新聞)が残っている
ので、その全面を紹介します。

 80年も過ぎているので紙面が変色しており、また現在の当用漢字とは違い難しい旧漢
字であり、紙面も縮小して小さいので読みにくいかもしれませんが、当時の雰囲気を感じ
てもら得ればと思い、まずは紙面全面の4頁文を。

  1面
 

  2面
 

  3面
 

  4面
 

 12月9日の夕刊になっていますが、12月8日発行とも括弧書きされています。

 これら各頁の上部を切り取ってのが、以下の4枚です。

 1面

 下部の地名のうち、新嘉坡はシンガポール、布哇はハワイ、比島はフィリピン、馬来半
島はマレー半島のことです。

 2面


 3面


 4面
 

 私は幼児だったので、開戦の日のことは全く覚えていませんが、わが家でも、翌年秋だ
ったかに胸の病気で勤めていた横須賀海軍工廠を退職して、埼玉県中部の寒村が生家だっ
た伯父一家の家に同居して厄介になっていた30代末期の父が、昭和19(1944)年
2月には招集されて、海軍下士官としてシンガポールに派遣されました。

 幸いなことに激しい戦闘には遭遇しなかったようで、敗戦とともに英軍の捕虜になった
ものの、英軍の扱いは友好的だったと聞いており、敗戦から1年後の昭和21(1946)
年夏に帰還することができました。

 一方、世話になった伯父の家の20代前半だった長男は陸軍軍人として招集され、南太
平洋のハルマヘラ島に送られて、補給の途絶えた前線で厳しい食糧事情に遭遇したと思わ
れ、戦病死して帰らぬ人となりました。

 なお、従兄の派遣されたハルマヘラ島には、映画俳優の池辺良さんも見習士官として中
国戦線から転戦されたようで、悲惨な現地のことなどを記したという「ハルマヘラ・メモ
リー」(中公文庫)を出版したことを知り、読もうと思いながらまだ果たしておりません。 

 太平洋戦争は開戦から4年8ヶ月余りに及び、昭和20(1945)年9月15日に敗
戦という形で終結しました。

 この戦争での犠牲者は、戦闘員が約230万人、民間人が約80万人と言われています。

 国民はこの戦争により大きな損失や被害、困難におちいり、戦死された方や空襲で亡く
なった家族の方などは、その後も長く深い悲しみに暮れています。

 このような悲惨な戦争は2度とくり返してはならないと考え、今月に入りNHKをはじ
め放送、新聞などでは回顧の報道が多数なされています。

 開戦の日を知る人も少なくなり、歴史の彼方に埋もれてしまいそうな開戦の日ですが、
もう一度ふり返り、いつまでも戦争のない日の続くことを祈りたいと思い紹介しました。




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伊勢湾台風から62年

2021-09-26 22:54:45 | アーカイブ
 2021年9月26日(日)

 今日は、東海地方などに甚大な被害をもたらした伊勢湾台風の襲来から52年です。

 伊勢湾台風は、昭和34(1959)年9月26日(土)に紀伊半島の潮岬に上陸し、
紀伊半島から東海地方を中心に全国に甚大な被害をもたらしました。

 特に伊勢湾沿岸の愛知県、三重県で大きな被害だったことから、伊勢湾台風と名付けら
れたのです。

 死者・行方不明者は5,098人に及び、明治以降の国内における台風被害で最悪の数
でした。2番目は昭和29(1954)年の洞爺丸台風の1,761人、3位は前年、昭
和33(1958)年の狩野川台風の1,269人なので、いかに大きな被害かが分かり
ます。

 死者・行方不明者の都道府県別では、愛知県3,378人、三重県1,273人の2県が
突出しています。以下、奈良県113人、岐阜県104人など、北海道から愛媛県まで、
東北、四国、中国地方の一部や九州全域を除く32都道府県に及んでいます。

 また、住宅被害でも、伊勢湾台風は833,965件で、2位の第2室戸台風(1961)
の499,944件、3位ルース台風(1951)の221,118件よりはるかに多いの
です。

 そのほか、負傷者38,921人、全壊家屋36,135棟、床上浸水157,858棟、
流出家屋4,704棟、船舶被害13,759隻などに及んでいます。

 被災者数は全国で約153万人に及び、そのうち三重県が約32万人、愛知県約79万
人で、それぞれ県人口の約2割が被災したようです。

 当時私は、半年前の3月末まで三重県鈴鹿市で1年間生活していたこともあり、数多く
の台風被害の中でも特に伊勢湾台風のことが強く記憶に残っているのです。

 私の古い段ボール箱のひとつに、台風通過翌日の9月27日(日)の朝日新聞東京本社
版夕刊がありましたので、以下に被害状況を報じた面の一部を紹介します(現在は夕刊は
日曜休館ですが、当時は発刊されていたよう)。

 1頁トップ


 以下1頁の記事の中から


      



 2~3頁は被害状況の写真で埋め尽くされていて、その幾つかを

   豊川の氾濫で水浸しになった豊橋市(中央が市役所)
  
   岸壁に衝突、タグボートに乗り上げた1万3千5百トンの名和丸(名古屋港中央波止場)

         水浸しになった名古屋港付近の家屋
        
         材木や流失物が市電道路上にあふれた名古屋市港区港本町通り
 
       濁流に洗われる山梨県韮崎市内の国道20号線
      
       倒れてケヤキでぺちゃんこになった都下昭島市の郷地稲荷神社社殿
 
   高波につぶされた静岡県焼津市の民家 
  
   鎌倉市長谷海岸の湘南有料道路に高潮で押し上げられた舟や材木

      静岡県吉浜浜町海岸で高波にたたかれ倒壊した民家
     
      下左・吹き飛ばされた屋根の下で朝飯の仕 事をする長野県下伊那郡上久堅村の農家 下右・
      不安な顔で一夜を明かした避難者(葛飾 区西小菅小で)     

 5頁は関東甲信越中心の被害や社会面で、その一部を




   



 テレビは放送開始して5年目かと思われ、もちろん白黒テレビのみでした。


 以上のコピーは、いつも利用しているコピー専門店で、地色除去という機能を使って色
あせた色を除去したこぴーですが、もとの新聞の色というと以下のように変色しています。

 4頁トップ


 5頁下面の広告のひとつ

 缶ビールはこの頃販売開始したようですが、1缶75円になっています。当時の物価を
考えると現在の価格では何円くらいになるのでしょうか・・


 なお、私はこの頃、都内・江東区大島町にあった木造2階建ての社宅(独身寮)に住ん
でいたのですが、当日の様子は以下のように記されていました(一部省略)。

 9月26日(土) 天気 雨風
「台風15号が接近し、雨もよう。夕方から風も出る。18時20分頃潮岬付近上陸、気
圧929mb、台風対策のため半日ではあるが午後出勤、いくらか台風の影響もあり、土
曜にかかわらず障害も多い。」

 9月27日(日)天気 暴風雨後晴
「昨夜半0時~1時頃、台風のため風強く2階の部屋も風のためミシミシゆれ、雨戸が弓
のようにしなった。初めての30m以上の風。だんだん治まり朝にはすっかり晴れ上がる。

 寝坊して8時半頃起床して顔も洗わずすぐ出勤し、9時15分着。昨夜半から大阪、福
岡、神戸、広島などが弥富~四日市間(三重県)の水害のためほとんどがやられ、切り替
えで急がし。徐々に回復するも帰りまでに半分は未回復、愛知、三重、岐阜を中心に大被
害の模様・・・。

 大相撲秋場所、若乃花14勝1杯で優勝、殊勲賞 鶴ヶ峰、敢闘賞 柏戸、技能賞 若
羽黒」
 
   大相撲については、同じ新聞の5頁に以下のような3賞の記事がありました。
    
  

 いま台風16号が近づいていて、今週後半には本州太平洋側にも影響が出そう。被害の
少ないことを祈りたいです。
 



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サンフランシスコ講和条約調印から70年、当時の新聞から

2021-09-07 21:54:51 | アーカイブ
 2021年9月8日(火)

 昨日、ネットでNHKや新聞4紙のでデジタル版を見ていたら、毎日新聞で、きょうが
サンフランシスコ講和条約に調印してから70年になると報じていた。

 昭和20(1945)年8月15日、日本は太平洋戦争を終えて敗戦国となり、マッカ
ーサー司令官をトップとする駐留軍に占領されて6年が過ぎ、講和条約の締結により再び
国際社会に復帰できるという大きな節目を迎えようとしたときのこと。

 このことに関連して、数日前、古い段ボール箱をひっくり返していたときに、当時の朝
日新聞のスクラップがあったのを思いだした。そこでもう一度探し、それらの中の記事の
トップ部分だけをコピーしてみた。

 調印する約2ヶ月前から調印までの記事の幾つかだが、ちょうど70年という節目の日
になるので、紹介することにする。

 70年も経過しているの新聞紙の変色がかなりあったが、行きつけのコピー屋さんで地
色除去機能を使ってコピーした。当時の活字の大きさは現在の新聞よりかなり小さくて本
文は読みにくいが、当時の情勢や旧漢字など感じていただければと考える。

  最初は2ヶ月前、昭和26(1951)年7月8日(日)
 

 調印に行くメンバーの情報、左は8月5日(日)、右は8月19日と思われる。


 講和条約の最終草案は8月17日掲載


    全権団が出発したのは8月31日のよう。翌9月1日(土)の新聞
      
     
 全権団がハワイ・ホノルルに到着した記事、9月2日版。当時の飛行機ではアメリカ本
土まで直行できなかったようで、ハワイ経由で行っている。


 全権団一行のサンフランシスコ到着は、9月4日(火)付けで報道された。


 講和会議会会当日の予想記事、9月4日(水)


 開会した9月4日の模様を告げる9月5日(水)



 第2日の模様を告げる9月7日(金)付け記事


 翌9月8日(土)版は、参加している3党の議員団(自由党、民主党、社会党)代表と
の座談会模様
   

 吉田茂全権代表による日本の態度表明記事は9月9日(日)


 最後は9月8日(土)に調印の9月10日(月)のトップ記事


 当時は埼玉県中部の寒村に住んでいたので、どのようにして入手したか記憶にないが、
同日の英文毎日の記事も

 
 以来70年、わが国も世界中も当時は想像も出来なかった変わりようである。

 



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1964年 東京オリンピック記録のグラフ誌に掲載の広告から

2021-07-31 17:41:44 | アーカイブ
 2021年7月31日(土)

 東京オリンピックが開催されて1週間、この間も新型コロナウィルスの感染者数は増大
の一途をたどっており、一昨日と昨日はついに全国で1万人を超えました。

 緊急事態宣言継続中の東京都は3000人を超え、まん延防止等重点措置継続中の埼玉
県でも800人以上となり、首都圏1都3県とも8月2日からは緊急事態宣言が8月末ま
で延長されることになりました。

 最新のニュースでは、今日の感染者は東京で4000人を超え、埼玉県では1000人
を超えたようで、8月に入ったらいったいどうなるのでしょうか・・・

 梅雨明け後の暑さも続いていることもあり、近郊でも市外に出かけることがためらわれ
ていて、相変わらず市内ウオーキングに終始しており、アップするものもありません。

 そこで、開催中のオリンピックにちなみ、前回1964年10月開催の東京オリンピッ
ク終了後に刊行されたグラフ誌、「朝日グラフ」と「毎日グラフ」のオリンピック特集号
(以下の4誌)に掲載の広告の中から、映像と音声に関連するものを拾い出してみました。
     

          

     

          

 現在は既に無くなった企業もありますが、当時の製品や価格などがどうだったかの参考
になるかとも思い、紹介するとします。

 最初にカメラやフィルム関係などを


     

          

     

         
         
          

     



     
 東洋現像所は、当時作成していた8ミリ映画の撮影に使用した、コダカラーフィルムの
現像を依頼したところでした。

          



     

 音響関係では
     

           

 次にテレビ受像機を。









 皆さんが使われたことのある製品はありましたでしょうか。私は、オリンピックより何
年か後に購入したアサヒペンタックスSPのみで、これが私にとっては初めての1願レフカ
メラでした。




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1964年10月開催の東京オリンピック用 電話番号簿

2020-10-12 21:11:58 | アーカイブ
 2020年10月12日(月)

 一昨日に続き今日も、1964年10月開催の東京オリンピックのコレクションです。

 前回紹介した東京オリンピック大会の記念切手は、お持ちの方もまだかなりおられる
かと思いますが、今日は東京オリンピック用の電話帳(当時は「電話番号簿」とよんで
いました)で、これを入手されて保存されておられる方は少ないのではないでしょうか。

 東京オリンピック関係者用に発行されたもので、市販もされたので私も購入しました。

      まずは表紙から
     
 サイズはA5判で149頁あり、言語は日本語、英語、フランス語の3カ国語で掲載
されています。
     

 掲載されているのは、利用案内と大会関係電話、外国公館、そして一般加入電話の中
では大会に関係の深い病院、ホテル、銀行、航空会社、船舶会社、旅行案内所、新聞社、
通信社、放送局、外国報道機関、劇場・寄席、ハイヤー、デパート、博物館・美術館の
電話番号などです。
     

 電話番号は省き、ところどころにある広告頁の幾つかを以下に紹介します。当時の商
品や建物などのことを思い出され方もおられるのではないでしょうか・・・

     

         

 東京にあった放送局は、ラジオ、テレビ合わせてこれだけでした。
     

         

     

         

     

      都心や観光地のホテルなど
     

         

     

         

 まだ全国どこへも自動ダイヤルで接続できる時代ではなく、一部の地域には交換手を呼び
出して接続してもらっていました。その申し込み番号など。
      

      発行者など
      

 最後は裏表紙、表紙とともに回転ダイヤルがデザインされていて、まだプッシュホンもあ
りませんでした。
      

 加入電話(固定電話)を申し込んでも需要に供給が追いつかず、家庭用電話などは何年も
待たされた時代、自宅に固定電話を持たずスマホだけの方も多い現代とは大変違う電話事情
でした。



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1964年10月開催の東京オリンピック記念切手

2020-10-10 15:09:48 | アーカイブ
 2020年10月10日(土)

 台風14号の接近でこの3日間はわが家周辺も雨が降り続き、外出もままなりません。
そこで今回は、半世紀以上も前の古い話題を。

 今日は、1964年に開催された東京オリンピック開会式から56年になります。

 あの日は、前日の冷たい雨が上がって快晴になりました。当日は私も開会式を当時の国
立競技場で見ることが出来ましたので、そのことを6年前に紹介しています。

 東京オリンピックの開催にあたっては、4年前の1961年からオリンピックにちなむ
記念切手が発行され、私も当時勤務していた大手町の職場から近い東京中央郵便局ですべ
て購入していました。

 それから何年か後に、記念切手のシリーズごとにまとめたファイルを作っていて、その
中に1963年6月から1964年10月までに発行された東京オリンピックの記念切手
が2枚のシートに保存されていました。



 
 ところが別の切手シートファイルを見直してみたら、このシリーズ切手は1961年か
ら発行されていて、それらのシートが少しずつ欠けてはいますが残っていたので、上のも
のも含めて、以下にシートごとに紹介することにします。

 最初の1961年は10枚ずつのシートだったようで、その3種のシートをまとめて。
開催された競技種目は20あり、それらが順次発行されました。

 左からレスリング、陸上競技、水泳・飛び込み

 1962年発行分

   体操競技 


   柔道


   水球


   フェンシング


   バスケットボール


   漕艇

 1963年発行のもの

   バレーボール


   ヨット


   射撃


   ホッケー


   自転車競技


   馬術


   ボクシング

 開催の年1964年発行分

   カヌー


   近代五種
  

   ウェイトリフティング


   蹴球、英語表記はFootballです。


    
       聖火


   国立競技場

    
 上から50円の駒沢体育館、40円の屋内総合競技場、30円の日本武道館で、ともに主
会場の国立競技場とともに主要競技会場でした。 

 さらに開会式に出かけた際に、国立競技場の最寄り駅である国鉄中央線の信濃町駅で求め
た20円区間の切符も見つかりました。
     

 さて、今年開催予定だった2回目の東京オリンピックは、全世界に広がった新型コロナウ
ィルスの感染拡大で来年に延期されましたが、依然として多くの国で感染拡大が治まりそう
にありません。はたして開催できるようになるのでしょうか・・・  




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