あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

所沢航空記念公園のロウバイが見ごろに(埼玉)

2013-01-31 15:42:20 | 所沢だより
 2013年1月31日(木)

 今日の最高気温予想はひと桁ながら風も無く、引き続きの好天となりました。

 午前中、市内ウオーキングで所沢航空記念公園に入ったら、降ってからもう半月以上に
なるのに、日陰には1月14日(月)に降った雪が残っていました。


 寒さが続いていることが実感されます。


 でも、その南側のロウバイ園は、12日前に紹介したのに比べて、開花している木が多
くなり、全体としては見ごろになりました。










 木により、花の色は微妙に違っています。













 こちらは、花の形が細くて枝垂れ型です。


 花の写真を撮ろうと、数人の方がカメラを構えていました。


 ロウバイ園のすぐ東に1本だけあった若木のツバキも、見ごろの花を見せています。






 公園の南側の歩道際にも、たくさんのツバキが並んでいるのですが、そちらはやや盛り
を過ぎていました。




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アンコールワットとベトナム2都の旅 ①ホーチミン市内観光

2013-01-30 18:56:59 | 東南アジア旅行
 1月21日(月)~27日(日)、阪急交通社・トラピックスの「感動のアンコールワ
ットと魅惑のベトナム2都物語7日間」という旅行に参加しました。以下、行程に従い、
その模様を順次紹介します。

========================================

 2013年1月21日(月)

 == ホーチミン市内観光 ==

 自宅の最寄り駅、西武池袋線西所沢駅から1番電車に乗り、7時30分に成田国際空港
第1旅客ターミナルビルに集合する。今回の参加者は19人、添乗員のSさんから説明を
受け、9時30分発ベトナム・ホーチミン空港行きのベトナム航空VN-301便に乗る。
飛行機は9時40分に離陸した。


 飛行機は南西に向かい、台湾の首都・台北の南側上空を通過して、インドシナ半島南部
のホーチミン空港に予定より40分近く早い13時47分に着陸した。ベトナム時刻は日
本より2時間遅れ、飛行時間は6時間7分である。


 入国審査、荷物の受け取りなどして、出迎えてくれた現地ガイドのタイさんの案内でバ
スに乗る。日本は真冬だが、亜熱帯のホーチミンの気温は32℃くらいとか。バスは14
時43分に空港を後にした。

 市の中心部に向かうバスの中で、ガイドのタイさんからベトナムやホーチミン市(旧サ
イゴン市)についての説明がある。

 それによると、ベトナムの面積は3,324㎢で日本全体から九州を除いたのと同じくら
い、人口はおよそ9千万人。ホーチミン市はベトナム最大の都市で、人口は900万に対
しバイクが約500万台もあるとのことで、道路にはおびただしい数のバイクが走行して
いるのがまず目についた。

 季節は、日本のような四季は無く11月から5月が乾期で、最も暑い4~5月には気温
は39℃~40数℃、湿度80%になるという。

 空港はホーチミン市中心部の北西にあり、中心部までは10㎞足らず。南東に真っ直ぐ
伸びるカクマンタンタム(8月革命)通りを進んで中心街に入り、15時10分頃、最初
の観光地である統一会堂(旧大統領官邸)に着く。


 統一会堂の敷地は約12㏊あり、フランスにより建立されたという。


 建物の右手前には、ベトナム戦争当時使われたソビエト製と中国製の戦車が展示されて
いた。建物前の広い芝生広場の中央には大噴水がある。


 統一会堂は、ベトナム戦争時代の南ベトナムの大統領官邸を博物館にしたもの。爆撃で
崩壊したが1962年に再建され、1975年4月30日に人民解放軍の戦車が正面から
突入して占拠し、ベトナム戦争が終結したのだという。


 5階建ての建物内には、大統領司令室、通信センター、内閣会議室、応接室、地下司令
室など100以上の部屋があり、一部が当時のままの状態で公開されていて、1階から上
階へと順次巡る。


 こちらは大統領司令室。








 途中階の中庭。



 屋上にはヘリポートも設けられていて、ホーチーミン中心部の高層ビルや、近くを通過
するバイク群などが展望できる。




 統一会堂の観覧を終え、2日間の移動に使われたバスに乗る。


 統一会堂前の通り。


 バスで600mほど北東に移動して、「聖母マリア教会」とも呼ばれるサイゴン大教会
前の広場で下りた。

 サイゴン大教会はホーチミン市で一番重要な教会で、19世紀末に建てられカトリック
教会とのこと。


 高さ57mの2つの尖塔を持つネオ・ロマネスク様式の建物で、外壁の赤レンガなど建材
はすべてフランスから運び込まれたのだという。

 普段は閉鎖されているが、ミサの午後は一般公開しているとか。しかし到着したのは16
時を過ぎていたので、閉門されたあとだった。


 門のそばからのぞいてみると、戦争で破壊され、その後復元されたというステンドグラス
が何枚か見られた。

 教会の東側には、ヨーロッパの駅に似た雰囲気の建物がある。


 中央郵便局で、フランス統治時代の1886~1891年に建てられたもの。



 正面中央の時計の下から入ると、ガラスと鉄骨が大きなアーチを描いた天井が伸びていて、
観光客がたくさん訪れている。



 両側と正面が郵便局の窓口で、中央や入って左右には記念切手や土産物のコーナー、AT
Mのボックスなどが並び、フランス植民地時代のサイゴンの地図、ホーチーミン像などが掲
示されていた。


 16時40分に中央郵便局を出て再びバスに乗り、10分ほどのところにあるアオザイ
(Aodai)という民芸品店に行き、17時20分まで30分ほどショッピングの時間となる。



 1階にはサンダルやうるし絵、2階には菓子や茶、香木、ブランド品などが並ぶ。店には
皇太子殿下も来られたようで、記念写真が飾られていた。


 再びバスに乗り、フランス植民地時代の建物も残る通りを通過する。



 退庁時刻となり、通りに途切れなく続く帰宅を急ぐバイクの間を進んで、夕食会場のレス
トランに行き、サイゴン蟹(かに)づくし料理を味わう。

 18時45分に食事を終えて、バスで宿泊するモーベンピック(MOVENPICK)ホテルに
は、19時近くに到着した。





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日没前後の富士山(埼玉・所沢)

2013-01-29 20:59:28 | 所沢だより

 1週間ほど留守にしましたが、予定通り27日に帰宅しました。留守中の行動の模様
は、明日以降に報告します。今日は、夕暮れの富士山の眺めを…。

=======================================

 2013年1月29日(火)

 27日深夜の雪で、うっすらと白くなった昨日朝のわが家周辺でしたが、朝から快晴
となり雪は間もなく消え、今日も1日、快晴の青空が続きました。

 午後、いつものように市内ウオーキングに出て、自宅近くまで帰ってきたら、富士山の
ビューポイントから、日没前の富士山が望まれました。

 でも、右手にある太陽はまだ沈む前だったので、富士山は霞んでいました。

 少し時間がたってからと思い、近くにある西武池袋線の跨線橋に回りました。跨線橋
からの奥多摩の目印、大岳山から御岳山(みたけさん)奥の院周辺のスカイライン。


 その右手(北)には、秩父の子持山や大持山が望まれ、北に続く武甲山は右端のマン
ションに隠されています。


 跨線橋を下り、最初のビューポイントに向かう途中に振り返る跨線橋周辺。その向こ
うのクヌギ林にまもなく太陽が落ちるところです。

 

 日没直前の富士山。


 富士山の右手に落日する太陽。上空には高空を飛行する飛行機のジェット雲が。
   
 太陽を隠しているのは、西武池袋線の信号機。

 落日直後の富士山。


 素晴らしいあかね色となりました。

 
 明日も、穏やかな晴天になりそうです。

 でも、21時のNHK総合テレビ「ニュースウォッチ9」によると、中国では北京市な
どで猛烈な大気汚染になっており、それが明日にも西日本への影響が考えられるとか…。
被害の少ないことが望まれます。




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1週間ほど休みます

2013-01-20 21:17:32 | Weblog
 都合により、1月21日(月)から1週間ほど休みます。その間はコメントなどを
いただいてもお返しが出来ません。ご了承下さい。

 次は、1月28日(月)以降にご覧下さいますよう、よろしくお願いいたします
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まだ雪の残る所沢航空記念公園(埼玉)

2013-01-19 16:09:21 | 所沢だより
 2013年1月19日(土)

 1月14日(月)の降雪以来行ってなかった所沢航空記念公園に、今週初めてウオー
キングで出かけました。

 雪から5日たちましたが、以降の毎日の最高気温がひと桁のままなので、結構残雪が
残っています。

 公園の南側から入って、中央のタワーの方に向かいます。

 タワー近くに展示されている、もと航空自衛隊の練習機。


 所沢航空発祥記念館。現在、太平洋戦争中の主力戦闘機だったゼロ戦がアメリカから
一時帰還して展示中なので、そのうち入館して見ようと考えています(65歳以上無料)。


 航空発祥記念館の南側にあるロウバイ園に回ると、まだ見ごろとはいえないまでも、幾
らか開花していました。












 まだつぼみの木も多いので、月末頃までは花が見られそうです。


 ロウバイ園の西側に接する、日本庭園にも入りました。




 こちらも、まだ残雪が見られます。




 でも、ミツマタはもう花を見せ始めていました。


 庭園の中心に池があり、池の北側は華道や茶道の催しなどに使われる建物があります。




 日当たりの良い池の周辺にも、まだ結構雪が残っていました。






 建物の入り口付近にあるつくばい。


 今日は結構気温が上がったので、これらの雪もかなり溶けることでしょう。 



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この冬初の積雪に(埼玉・所沢)

2013-01-14 15:45:04 | 所沢だより
 2013年1月14日(祝・月)

 朝起きたときには雨だったのですが、9時頃から雪に変わり、午前中はかなり激しく
降り、この冬初の積雪となりました。




 11時過ぎの降雪の様子


 13時過ぎにはさらに激しくなってきました。


 西武池袋線の電車の屋根にも積雪が。


 15時過ぎ、庭隅の竹も首をかしげてお辞儀をし始めました。


 赤い花も冷たそう。


 門灯にも10センチ前後の積雪が


 柿の木の枝は細いので、そんなに積もりません。


 連れ合いが毎年手入れしているサクラソウの鉢も真っ白に。



 
 15時を過ぎて少し小降りになってきたので、そろそろ玄関先と私道の雪かきをしなけ
れば…。でも、3年前のように腰痛にならないよう、注意して作業するよう心がけます。



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関東百駅巡礼歩行 JR常磐線 取手駅(茨城)

2013-01-14 12:11:55 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年1月12日(土)

 最終年の10年目に入って最初の「関東百駅巡礼歩行」が開催された。集合はJR常磐線
の取手(とりで)駅。昨年12月、所沢市でのやまさんの講演会で知ったというNさんご
夫妻も初参加され、参加者は久しぶりに10人を超える。


 西口で記念撮影をして11時2分に出発し、南側の地下道を抜けて東口へ。取手二丁目
の商店街のすぐ背後が台地になっていて、階段を上がると広い境内に堂々たる堂宇が並ぶ
長禅寺(ちようぜんじ)である。


 臨済宗妙心寺派の古寺で、朱雀天皇の承平元(931)年に平将門が勅願所として創建
したと伝えられるという。


 大本堂のほか、外部は二層だが内部は三層になっていて、本尊十一面観音と坂東、秩父、
西国合わせて百観音が安置された三世堂↑、新四国相馬霊場の結願寺になる八十八番大師
堂、二階が鐘楼になっている山門など、皆見応えある造り。本堂の前には池もある。


 山門を下って水戸街道である県道11号に出ると、取手名産という奈良漬の新六本店が
あり、おいしそうな奈良漬けを販売していた。


 隣は、杉玉や「取手宿」のちょうちんの下がる、造り酒屋の田中酒造店。


 2階が「やねうら画廊」になっているというので、細い急階段を上がって拝見する。


 背の低い天井だが、骨組みのむき出た建物は年代を感じさせる造り。新年にちなみ、り
っぱな羽子板やきれいな刺繍を集めた額、中国の文学者、陶淵明(とうえんめい)の五言
絶句と天女を描いたふすま絵などが展示されていた。


 県道の少し先に「MEDIA BOX」と呼ぶ骨董(こつとう)店が目に入る。店の前も店内も、
ほとんど外国ものの時計や人形、彫刻、飾り物などが所狭しと並んでいる。


 その先の角を曲がり、利根川左岸河川敷に長く伸びる取手緑地運動公園に向かう。途中、
廃業した古い店を活用したらしい、ちょっと新鮮な感じのそば店があった。


 運動公園はJR常磐線鉄橋の下から下流に向かって伸びているが、鉄橋近くではテント
が張られ、市民のたこ揚げ大会をしている。




 その先では、10数mにもなる高く積んだ枯れ竹の周囲に、市民が持ってきたダルマや
正月飾りなどがたくさん積み重ねられていた。

 16時から火を点けて、どんど焼きで燃やすのだという。付近には露店も並んでいる。


 市民会館の南側辺りの川辺まで進むと「小堀(おおほり=こぼりではない)の渡し」の
立て札が立っていた。対岸の取手市の飛び地、小堀に向かう渡船場である。


 渡船場は上流の運動公園駐車場前にもあり、小堀との間をここと合わせて三角コースで
結んでいる。正午前後には運行が無く、乗船することは出来ない。そばの駐車場際の芝生
地で昼食にする。

 さらに枯れアシの続く河岸に沿って進んで、台宿集落からの流れが利根川に流入すると
ころで堤防に上がる。そばに、「海から83㎞」の標識が立っていた。


 流れ沿いに進んで車道に出て、吉岡バス停のところで本泉寺裏集落に入り、まずはそば
の浅間神社へ。創建は永禄元(1558)年と伝えられ、江戸時代にこの地、吉田村の氏
神となったとか。


 境内北側に、「富士浅間」と「大山石尊」と刻まれた石碑と、読めない字だが山の名を
記した参拝記念碑らしい石碑が並んでいた。


 少し北側には字名(あざな)のもとになる本泉寺がある。境内に樹木は少ないが、枯れ
枝の密生したイチョウとサルスベリの古木が目に付く。


 吉田小の西を進んで県道11号を横断し、次の青柳集落へ。県道229号に出て、すぐ
東北にある地図上の記念碑マークを確かめたら、「井野村耕地整理記念碑」だった。


 青柳一丁目に入って鹿島神社に寄る。寛文13(1672)年の創建で氏子は40戸ほ
ど、こぢんまりとした社殿と境内である。


 西南の井野中に向かう途中、畑のナノハナが咲き出していた。


 その先の井野小前には除洗作業の看板が立つ。この地にも東京電力福島原発の影響が及
んでいるのだ。


 40棟を超える中層住宅の並ぶ、井野団地の真ん中を西に抜ける。井野一丁目の古くか
らの住宅地に上がり、記念碑マークのところに向かうと、近くの交差点に「本多作左衞門
重次墳墓(ほんださくざえもんしげつぐふんぼ)」の標識が立つている。


 石塀に囲まれた一角、桜の古木の下に墓石や墓碑が幾つか並んでいた。墳墓は後方の五
輪塔のよう。本多作左衞門の名は知らなかったが、「一筆啓上火の用心お仙なかすな馬肥
やせ」の手紙で有名な徳川の旧臣であると分かった。


 重次は家康に仕えて当地で三千石を領し、文禄5(1596)年7月に病没したとのこ
と。お仙とは重次の長男・仙千代のことで、のち越前丸岡城4万3千石の城主になった本
多飛騨守(ひだのかみ)成重(なりしげ)だという。墳墓は県指定史跡である。


 台宿二丁目の住宅地に入り、民家の間の細い急斜面を下って下の道に出る。少し迂回し
て西側の台地上にある井野天満神社に上がる。


 室町末期の天正元(1573)年2月、祭神である天神様が昇殿された日に京都の北野
天満宮から分霊を申し受けて祭ったという。


 参道際にカシらしい古木が大きく枝を広げ、南面には天神様ゆかりの梅畑が広がる。社
殿前には、新しい牛の座像彫刻があり、そばの伐採された木株に、花キャベツが植え込ま
れていた。


 西側の取手一高際に出て南進する。高校の運動場でも除洗作業が進められていて、原発
汚染の現実を知らされる。


 ゴールの取手駅には14時30分に着く。寒中とは思えぬ穏やかな日和で、日中の気温
は10度を超えたと思われ、寒さを感ぜずに歩き終えることが出来た。

(参加 12人、天気 晴後快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 取手、歩行地 
 取手市、歩数 11,100)



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所沢市役所で田部井淳子さんの講演会(埼玉)

2013-01-09 22:31:04 | 所沢だより
 2013年1月9日(水)

 「世界の山々をめざして~山から見た自然環境~」と題する、登山家・田部井淳子さん
の講演会が所沢市環境クリーン部環境総務課の主催で開かれたので参加しました。

 会場は所沢市役所8階の大会議室。約200人収容の会場は、開会前にいっぱいになり
ました。


 会場内は撮影禁止だったので、田部井さん講演模様を撮ることはできませんでした。

 講師の田部井淳子さんは、女性で世界初の7大陸最高峰登頂者として知られ、いまも年
に数回は海外登山に出かけ、現在60カ国の最高峰・最高地点を登場されているとのこと
です。

 山岳環境保護団体であるNPO法人日本ヒマラヤン・アドべンチャー・トラスト(略称
HAT-J)の代表や、20~40代女性のための山の会、MJリンクの呼びかけ人など
もされているようです。
 
 講演の前半は山の環境を中心の話で、その要旨は以下のようなものでした。

 1975年に35歳で世界最高峰のエベレストに初登頂したが、その頃から親交のあっ
た世界最初のエベレスト登頂者ヒラリー氏から、山の環境保護組織を日本でも作ってとの
要請で、HAT-Jを立ち上げた。

 初登頂した当時はあまり環境のことは念頭に無く、残して行くことがその地に行った証
拠になるというシェルパの勧めもあり、8,700m付近に酸素ボンベを置いてきた。

 当時は、ネパール政府の政策でヒマラヤに入れるのは1シーズン1チームしか許可され
ず、ベースキャンプ周辺もきれいだったが、1985年からは何チームも入れるようにな
り、ゴミや屎尿(しにょう)処理が問題になっている。

 エベレストの環境問題を学ぶため、59歳で九州大学修士課程に入り2年間勉強した。

 日本の山もきれいにしようと考え、1990年から毎年、富士山のゴミ処理を始め、
HAT-Jのメンバー1500人が活動している。

 1991年頃は、5合目から7合目くらいまででゴミがいっぱいになったが、1995
年頃から理解者が増えて、最近はきれいになってきている。小さな一歩でも実行すること
が大事と思う。

 東日本大震災の発生により、地震、津波、原発に風評被害が重なり、福島県民は大変な
ことになっている。自分に何か出来ないかと考え、避難者に聞いたら、「1日中何もする
ことがない(のが辛い)」と言われ、「ではハイキングをしますか」と言うと、「やって
下さい」との声があり実行することにした。

 山の用具などは持っていないので、誰でも歩ける場所として裏磐梯の五色沼散策を最初
に実施した。

 行きのバスは静かだったが、現地に着くと浜通り(福島県の太平洋側)の人にとっては
初めてのきれいな景色に感激し、「元気が出た」、「気持ちよい」などの声が出て、帰り
のバスではすっかり賑やかになり、震災は過去のことでこれからは前向きに生きようとい
うような声も出た。

 高校生にも元気になってもらおうと富士登山を計画にしたら、希望者が60人もあった。
それらの高校生へのアンケートでは、震災により無情感におちいったり、夢も希望も無く
なったので、どうしたら良いかと思い応募したとの声があった。

 登山にあたりNPOの人など100人がサポートしてくれることになり、さらに地元の
富士吉田高校の30人も参加することになり、90人を10班に分けて登ることになった。

 8合目くらいで高山病になったり、歩けないから泊まりたいと言いだす高校生などがい
たが、大勢のサポーターのお陰で、正面しか見えない盲学校の生徒を含め全員登頂するこ
とが出来た。行きにはしょんぼりしていた人も、帰りには元気になり輝いて見えた。

 帰ってからの感想文の中には、震災で亡くなったお父さんの遺品の携帯電話を持参した
高校生が、いままで送ったことの無いお母さんに登頂を伝えるメールをして、お母さんを
感激させたこと、

 途中で歩けなくなったが、「1歩1歩続ければ頂上に行ける」という田部井さんの言葉
を思い出し、すぐ前の人に追いつこうと少しずつ進んだら、その人が手を出してくれて、
一緒に頂上に上がることが出来、1歩ずつのわずかな歩みも続けることが大事ということ
を感じ取ったこと、などが記されていたとのこと。

 後半はスライドを上映しながらの話。

 1975年の最初のエベレスト行き当時は、カトマンズは車が少なく交通機関は人力車
が主体で空気もきれいだったが、最近は車社会となりスモッグに覆われ、白いヒマラヤの
山並みも見にくくなっている。

 当時はベースキャンプまでの360㎞、11トンの装備を600人のポーターの力で運
んだが、現在はベースキャンプから頂上までも有料道路化していて、お金を払えばポータ
ーに容易に運んでもらえるし、装備も酸素ボンベが7㎏から3㎏以下となり、眼鏡も1/3
になるなどみな軽量化された。

 当時の氷河に比べ現在は温暖化で氷河が大きく後退している。

 1975年5月16日に初登頂したとき、中国の情報は全く分からなかったが、11日
後の5月27日に中国側から9人のメンバーが初登頂しており、そのなかに女性も1人い
て、中国側は田部井さんの情報を始終つかんでいたようだ。

 田部井さんはヒラリーの初登頂から22年後で38人目だったが、現在では1日に100
人以上が登頂を目指す日もある。

 ネパールの人たちへの恩返しのため、HAT-Jで15年前から植林を続けており、実
のなるものが良いとの要望でリンゴを植林し続け、ようやく12年たって実るようになり、
昨年は1900個の収穫が得られた。

 3年前から若い女性向けの山の会・MJリンクを立ち上げ、滝桜の時期に三春を歩いて
いる(田部井さんは、三春町の出身)。三春の桜は滝桜だけでなく、11あるお寺に皆、
シダレザクラがあるので訪ねてみて欲しい。 といった話がありました。

 最後の質疑応答の中では、「田部井さんの元気の源は?」との問に対し、「今日は何を
しようかではなく、毎日何かやることがあること、行くところがあること」と言われ、積
極的な行動が元気の源と理解しました。

 会場の様子が撮れなかったので、蛇足ながら会場入口付近から見た眼下の所沢航空記念
公園や、所沢中心街の写真を紹介します。


 高層ビルは全部マンション棟


 所沢駅周辺


 所沢航空記念公園


 ドームは所沢航空発祥記念館


 所沢航空記念公園の中央部付近


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隅田川七福神巡り(東京)

2013-01-08 20:38:38 | 七福神めぐり
 2013年1月6日(日)

 新春2度目の七福神巡りとして、隅田川七福神巡りに出かけた。

 隅田川七福神は、約200年前の文化年間(1804~17)に始まったといわれ、向
島文化園に集う文人たちが園主が愛蔵していた福禄寿像に目をとめ、お正月の楽しみとし
て七福神詣でをしたいと相談して周辺の寺社を探し、見つからないところは知恵をめぐら
せてコースを編んでいったという。

 東武伊勢崎線の堀切駅を9時56分にスタートし、線路を歩道橋で越えて線路の西に平
行する道を南下する。


 600mほどで右折すると、毘沙門天の多聞寺(たもんじ)である。創建は天徳年間
(957~60)の古寺で、400年ほど前にこの地に移ったとか。本尊の毘沙門天は、
弘法大師の作と伝えられているという。


 かやぶき屋根の山門をくぐり、本堂に祭られている毘沙門天に参拝する。境内には庭木
が多く、六地蔵の座像のほか、新しい永代供養塔である常楽塔や、映画人墓碑などが目に
付いた。


 隅田五丁目の住宅地を南下して鐘ヶ淵通りに出る。墨堤(ぼくてい)通りを横断して梅
若橋の手前を左折し、隅田川左岸沿いに細長い都立東白髭(ひがししらひげ)公園に入る。
この辺はゼロメートル地帯なので、震災時などの防災拠点として造成されたもの。

 園内の一角に、梅若寺とも呼ばれる木母寺(もくぼじ)がある。境内の梅若塚は謡曲な
どで知られた旧跡。

 「たづね来て問はばこたえよ都鳥(みやこどり)すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で
死んだ梅若丸は当時12歳だったとか。


 新しいお堂の隣に塚があり、境内には謡曲「隅田川」の碑など30基の石碑が並んでいる。

 公園の中ほどに、石造のまといがシンボルタワーとして立っていた。


 すぐ先、首都高速道路を背にした隅田川神社にも立ち寄り参拝する。境内の霜は寒さで溶けずに白い。


 防災拠点の一環として、公園の東側には屏風のように13階建ての高層住宅が並び、建
物には防災シャッターや避難用ゲートが設けられているという。


 公園の東端から明治通りに出て、白髭橋東詰交差点から墨堤通りへ。すぐ先に、セイコ
ーミュージアムがあったので入館する(無料)。

 館内には時と時計の進化、和時計のコレクション、セイコー時計の製品史などの展示、
スポーツ時計の体験コーナーなどがあり、時計に興味ある人は立ち寄りの場だ。

 白髭神社上交差点の先を入り、寿老神の白髭神社に行く。天暦5(951)年、慈恵大
師が近江国の白髭大明神の分霊を祭ったのが起源とされるという。


 境内には、墨田区保護樹木のケヤキやイチョウ、シイノキなどが立ち、富士講の講社が
建立した「山玉向島講社の碑」や、多くの句碑などが並ぶ。


 御輿蔵(みこしぐら)には、嘉永元(1848)年製で重量1,150㎏の大御輿など
が並んでいた。


 神社の先を南東に300mほどで、福禄寿の向島百花園である。江戸の町人文化が花開
いた文化、文政期(1804~30)に、花の咲く草花鑑賞を中心の花園として開園され
たもの。現在は国指定名勝・史跡になっている。


 冬期で花は少ないが縦横に巡れる遊歩道が設けられていて、東側には池もあり、都心と
は思えぬ静かなたたずまい。売店では甘酒や七草かゆなどが味わえる。



 福禄寿は、売店の先の小さいお堂に祭られていた。売店近くの東屋には、毎年皇室に献
上しているという春の七草を盛り込んだ「七草籠」が展示されている。


 隣接する児童公園の角から折り返すように西に向かい、左からの地蔵坂通りと合して墨
堤通りの交差点に出る。

 交差点際の小スペースにあるのが子育て地蔵尊の地蔵堂。文化年間(1804~18)
の隅田川堤防修繕工事で土中から発見されたものとか。

 天保3(1832)年には十一代将軍徳川家齊が鷹狩りに来て参拝したという。すぐ先
には、きびだんごを販売する小さい店もあった。


 墨堤通りを南進し、アサヒビール前を通過して少年野球場交差点まで行く。すぐ右手、
首都高速道路の手前に言問団子(ことといだんご)の店がある。


 交差点を渡った小公園には、隅田川七福神の案内石碑が立っていた。


 墨堤通りから伸びる見番(けんばん)通りに入ってすぐ右手が、弁財天の長命寺(ちょ
うめいじ)である。

 比叡山延暦寺の末寺で、三代将軍家光が鷹狩りの途中で腹痛になり休憩し、境内の井戸
水を飲むと快癒した。喜んだ家光は井戸に「長命水」の名を与え、寺にも長命寺の称号を
授けたとのこと。


 弁財天は琵琶湖の弁財天の分身で、通称「老女弁天」と呼ばれているという。本堂はコ
ンクリートづくり。境内には芭蕉雪見の句碑など石碑が多い。

 境内にはテント張りの店も出て、七草がゆや金太郎飴、縁起物などを販売していた。


 境内から西側の門を出ると、首都高速のそばに「長命寺桜もち」を販売する山本やの店
舗があり、参拝者などで賑わっていた。


 南に隣接しているのが布袋尊の弘福寺(こうふくじ)。

 見番通りが表門だが、西側の首都高速道路側にも門がある。関東には少なく中国色の強
い黄檗宗(おうばくしゆう)の寺で、中国風二層の本堂はこの七福神の寺社中で最大、東
側の山門も唐風の独特のものである。


 山門を入り右手の小さいお堂には、咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)といわれる男女
2体の石像が祭られていて、口中に病あるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快
したらいり豆と番茶をそえてお礼供養する風習が残っているという。

 境内のテントでは、せき止飴を販売していた。

 見番通りを先に進む。小さい通りの角に京小間物の店があり、京都のみやびな人形など
が並んでいた。


 次の信号の手前を右手に折れ、最後の恵比寿神と大国神を祭る三囲(みめぐり)神社に
入った。

 文和年間(1352~6)に近江の三井寺の僧が改築の際に老翁の像を見つけ、その像
の回りを白狐が3回回って消え去ったことから神社の名が生まれたとか。

 三井家が江戸進出時にその名にあやかって守護神とし、境内には三越呉服店の創始者、
日比翁助(ひびおうすけ)の歌碑や、2009年に三越池袋店から移設された青銅製のラ
イオン像がある。


 恵比寿神と大国神は、本堂左手の社殿に祭られていた。


 本殿前左手の狐像は目尻が下がった温和な表情で、「三囲のコンコンさん」と呼ばれて
いる。境内には芭蕉門下の第一の高弟、宝井其角(たからいきかく)の句碑や、伊賀上野
城主藤堂高睦奉納の記念銘石、老翁老嫗の石像、包丁塚、三角石鳥居など興味深いものが
多い。

 七福神巡りを終え、浅草駅に向かう。見番通りの少し先にある、すみだ郷土文化資料館
で新春イベントとして隅田囃子の演奏をしているというので入館する。



 入口近くで演奏を少し聴いた後、常設展示の「すみだのあゆみ」や、特別展示の「隅田
川の情景ー橋と渡し」、東京空襲の悲惨な様子を描いた区民の絵などを鑑賞する。

 言問橋東交差点からは、東京スカイツリーが間近に望まれる。


 すぐ先の牛島神社にも入って参拝し、南に接する隅田公園に入る。牛島神社の鳥居の向
こうにも、東京スカイツリーがよく見える。


 中心の池にはカモメなど水鳥が多く、周囲の松にはは金沢の兼六園のような雪吊りが施
されている。

 公園は水戸徳川邸旧跡で江戸時代は花見の名所として知られ、明治遷都後の明治8(18
75)年には明治天皇が花宴を開催したとのことで、天皇御製の碑もある。

 東武伊勢崎線の高架下を抜けて北十間川(きたじゆつけんがわ)を渡る。


 墨田区役所に沿って首都高速道路下に回り、隅田川沿いに出る。



 新しい勝海舟像の立つ市役所西側の広場を抜けて吾妻橋↓を渡り、東武伊勢崎線や東京
メトロ銀座線の浅草駅際に14時41分に着いた。




(天気 晴、距離 6.5㎞、地図(1万分の1) 青戸、上野、日本橋、歩行地 足立
 区、墨田区、台東区、歩数 12,700)

 このあと、初詣客で賑わう浅草観音・浅草寺にも回って参拝して、東京メトロ銀座線の
浅草駅から上野駅経由で帰途につく。




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所沢市消防出初式2013(埼玉)

2013-01-07 17:26:14 | 所沢だより
 2013年1月7日(月)

 新春恒例の「所沢市消防出初式2013」が、10時から12時の予定で所沢航空記念
公園で開催されたので、観覧に出かけました。

 ちなみに消防出初式の起源は、万治2(1659)年にさかのぼるとのこと。明暦3
(1657)年の大火によりまだ焦土の中、万治2年1月4日に老中稲葉伊予守り正則が、
江戸上野の東照宮で出初を行い気勢を上げたことが、当時大火の復興作業の中で絶望的な
状況にあった市民に大きな希望と信頼を与えたようです。

 このことが契機になり、定火消の「出初」は毎年1月4日に上野東照宮で行われること
となり、次第に儀式化されて恒例行事となって今日の出初式に受け継がれているようです。

 今日が出初式ということを忘れていて、気づいてから出かけたので、すでに前半のスケ
ジュール、第1部の式典の部は終わり、第2部の訓練の部のうち、徒列分列行進と救助基
本訓練は終了していました。


 次は、車両分列行進です。ポンプ車、はしご車、救急車など、消防本部と消防団の消防
車両のパレードです。まずは消防本部のポンプ車の行進。




 コンテナのような形の特殊車。


 私もお世話になったことのある救急車。


 はしご車が続きます。


 行進の最後は、市内消防団8つの分団のポンプ車が。


 本部席で答礼しているのは藤本市長と思われます。


 次は、所沢鳶(とび)組合の皆さんが木遣り歌に合わせて入ってきました。はしご乗り
が始まります。


 はしご乗りは、3間3尺(約6m)の青竹に14段の小骨(はしごの桟(さん))を
つけたはしごの上で、12本のとび口に支えられて妙技を披露します。


 はしごの先端部分を灰吹きと呼び、灰吹きや小骨を使って「背亀」「腹亀」「鯱(しゃ
ち)」といった技が演じられます。




 次々と妙技が披露されました。




 4人ほどはしごに上がりましたが、安心して見ておられます。




 とび口で支える仲間


 演技を終わり、新春を祝う木遣り歌と手拍子で締めました。


 出初め式のハイライトは、大がかりな消防活動訓練です。今回は、4階建ての雑居ビル
から火災発生という想定で、消防署、消防団、埼玉県防災航空隊が連携して、消火活動と
救助活動の訓練を行います。

 
 雑居ビルから煙が上がりました。

 消防車がサイレンを鳴らして駆けつけ、放水を始めます。


 はしご車が、4階屋上の人を救助に。


 けが人を、壁面から釣り下ろそうとしています。


 近くのテントには、けが人が運び込まれて手当を受けます。


 また火の手が大きくなりました。




 消防活動訓練が終了し、最後に参加車両の一斉放水が始まりました。




 県の防災航空隊も上空に飛来して、市民に防災のPR放送をしました。




 11時50分頃、消防出初め式は終了しました。


 なお、4月1日に所沢市消防本部、狭山市消防本部、入間市消防本部および埼玉西部広域消防
本部(飯能市と日高市)が広域再編して、「埼玉西部消防局」が誕生するとのこと。
 
 広域化により、災害発生時の消防活動体制の強化、現場到着時間の短縮、財政規模の拡大に伴
う高度資機材の計画的な配備などが実現されるようです。

 この合併による規模は以下の通りです。

  管轄人口約79万人(福井県、徳島県とほぼ同じ人口)

  管轄面積 406.43㎢、

  消防署数 5署14分署(現状のまま)、職員数 864名 

  配備車両 消防車76台、救急車 25台

  (会場で配布の出初式パンフレットから)




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