あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

関東百駅巡礼歩行 東武日光線 新大平下駅(栃木)

2011-06-28 15:48:02 | 関東百駅巡礼歩行
 2011年6月25日(土)

 6月に2回目となる、やまさんの関東百駅巡礼歩行に参加した。集合は東武日光線線の新大平下
(しんおおひらした)駅。一日中雨の予報のためか、参加者はやまさんと私のみ。10時51分に駅西口
をスタートした。


 北に少しで最初の角を左折する。近くにあったのが、大ケヤキが目につく如意輪寺。下野(しもつけ)
観音霊場の二十五番札所で、創建は宝亀元年(770)という古寺である。

 延徳2年(1490)にこの地に移され、のち、徳川家康が立ち寄り十石の朱印を賜り、徳川家ゆかり
の寺となったという。境内のアジサイが見頃。六地蔵と北向き地蔵などの地蔵群が並んでいた。

 例幣使(れいへいし)街道に出て、ご神木の大イチョウが目につく八坂神社へ。

 境内を清掃していたのは女性の神主さん。県内には40人の女性の神主がおられるとのこと。夫の急
死後、先代神主を務められたというお母さんも出てこられ、冷たいお茶をいただいた。

 交通量の多い県道11号を横断、内宿の新しい住宅地を抜けると、トウモロコシ畑が現れ、緑濃くなっ
た水田の向こうに晃石山(てるいしさん)(419m)の山並みが広がる。


 JR両毛線に沿って田園地帯を西に進む。前方に、採石のためだろうか一部をざっくり切り取られた山
が見える。踏切を越えて片岡集落に入った。


 北側の山田集落にかけてぶどう園が多く、道路際には直売場が並んでいる。



 ブドウ棚には、かなり大きくはなったがまだ熟す前の緑の実がたくさん見られた。この辺り一帯に、
ぶどう園が70余りもあるようだ。

 集落の北端から山すそに入り、「山田かかしの里」に行く。上部に県内一長いというローラースライダー
が見え、その下のバーベキュー広場には、車で来た人たちが、バーベキューを楽しんでいる。近くにあっ
た東屋で昼食にした。


 農産物直売所を少しだけのぞき、広域農道を北東へ、晃石山ろくの小荷田集落に入った。ブドウ畑に
混じってナシ畑も見られる。


 集落の最奥まで上がると、豊富な緑に覆われた清水寺(せいすいじ)がある。下野観音霊場二十六番
札所で、東国花の寺百か所霊場でもある。


 境内では、今が見頃のアジサイのほか、季節によりスイセンやツツジ、シャクナゲ、ボタンなどの花が見
られるようだ。標高130mほどの高台なので、南面の展望が開けている。



 ほぼ等高線に沿った林道山田線を東に向かう。沿道にはアジサイが続き、まだ若木もあるが、白、青、
紫などの彩りを楽しませてくれる。それらに混じってトラノオやホタルブクロも咲いていた。


 林の切れ目から田園地帯を見下ろし、竹樋から冷水の流れ落ちる地を過ぎ、さらに続くアジサイの道を
少しずつ下って池上集落へ。

 集落を貫く道を北に上がり、うっそうとした杉木立の下にアジサイの咲く参道を大中寺(だいちゆうじ)に
入る。1月生まれという乳児を抱いた宇都宮の若ご夫婦が、アジサイとお子さんを携帯電話で撮っていた。


 大中寺は延徳元年(1489)の再興、のち越後の上杉家に守られ、徳川幕府からも高い位を与えられた
由緒ある寺だという。上田秋成作の「雨月物語」にある七不思議の伝説でも知られているようだ。

 石段を上がった本堂下、七不思議の一つ「油坂」の斜面に、アジサイや何色かのユリが咲き、本堂前に
はカエデの古木が立っていた。


 本堂東側下には、七不思議の一つ、「不開の雪隠(せつちん)」と呼ぶかやぶき屋根の建物がある。

 もとの道を林道まで戻り、少し先で旧東山道だった道を下って、峰町谷集落へ。りっぱな門構えで庭の
広い民家が並び、このあたりもブドウ畑が多い。


 広域農道に出て、おおひら歴史民俗資料館へ。館内には旧大平町の原始から現代までの考古、歴史、
民俗資料などを展示している。

 企画展示として、近県を含めた各地の寺の野仏を切り絵にした「野仏賛歌」が展示されていた。

 隣接する郷土資料館「白石家戸長屋敷」にも入る。江戸後期の文政年間(1818~29)に整備された大
庄屋の屋敷。かやぶき屋根の大きな母屋(おもや)、味噌蔵、離れ屋敷など趣ある建物が並ぶ。




 長屋門近くの土蔵は、「ぎゃらりい蔵」と呼ばれ、こけしや人形、だるまなどが数え切れないほど展示され
ていて、週末には、飲物をいただくことも出来る。

 奥にある大きな木造スピーカーからの素晴らしいジャズの音を聴きながら、コーヒーをいただいた。


 広域農道を東へ、中山の西麓に並ぶ向堀集落を南に向かう。南麓の神の倉集落を回ってJR大平下駅の
西側踏切を渡り、大平西小の校門際に出た。

 「富田城跡」の説明板があり、この一帯東西400m、南北500mに、嘉吉元年(1441)~元和3年(1617)、
富田氏などが支配した平城(ひらじろ)があったことが記されていた。

 県道11号を横切り、旧例幣使街道から県道311号に回って、新大平下駅に16時06に戻った。

 一日雨の予報だったがほとんど降られず、気温もさほど上がらず、梅雨時としては快適なカントリーウオー
ク日和だった。

 (参加 2人、天気 曇、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 栃木、歩行地 栃木市(旧大平町)、歩数 22,400、
  累積標高差 約450m)


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梅雨時に咲くわが家の庭の花

2011-06-27 20:23:53 | 所沢だより
 引っ越して明日で20日になり、少しずつではありますが、家の内外とも片付いてきました。

 1月上旬に仮住まいに引っ越すときに、庭に置いたままだった植物は、手入れもできないので
寒さで負けてしまうかと思われましたが、何とか生き延びてくれました。

 そんな中から花を開いたものも出てきましたので、それらの幾つかを紹介します。

 鉢植えのハイビスカス。




 連れ合いが、挿し木で増やしたスミダノハナビも、花を見せてくれました。


 挿し木のもとになった木も、わずかながら花をつけました。


 これは、グズマニア・マグニヒカというパイナップル科の小さい植物です。


 やはり連れ合いが挿し木で増やしたアジサイも、花は小さめながらも咲いてくれました。


 アジサイの咲く頃に一緒に咲く、カシワバアジサイ。
 

 皆さんのお宅のようなりっぱな花は見せてくれませんが、真冬から春先にかけて、放って置いたのに
がんばって咲いてくれたので、感謝しながら眺めています。

 この夏の暑さ対策として、あちこちで勧めているので、わが家も最近、ゴーヤーの苗を買ってきました。

 よく育って、南側の部屋に日陰をつくってくれるとよいのですが…。


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カタツムリ歩行 西武池袋線 保谷駅(東京・西東京市/練馬区) 

2011-06-21 11:37:47 | カタツムリ歩行
 2011年6月19日(日)

 JR武蔵野線沿線とその周辺の駅を歩いている、カタツムリ歩行の6月例会に参加した。

 集合は西武池袋線の保谷(ほうや)駅。何年ぶりかに下車した保谷駅の改札口は高架
化され、狭かった北口にはロータリーが出来ていた。10時5分にスタートする。


 まずは、線路際の古くからの細い通りを西へ。200m足らずで右折して北東への細道に
入ると、瀟洒(しようしや)な造りのイラストショップがあった。


 近くの民家の庭先に、熟した梅の実がたくさんついている。周辺のガクアジサイも見頃で
ある。


 東西に走る新しい通りの北側に、うっそうとした屋敷林に囲まれた家があり、公開されて
いるというので門を入る。Tさんの家で、りっぱなケヤキやモミジなどの広葉樹が豊富で、
駅前とは思えぬ閑静なたたずまい。


 広い邸内の東側には、切ったケヤキの太い切り株がベンチのように並んでいた。


 そばの新しい公園は「あらやしき公園」と呼ばれ、公園の下は駐輪場になっている。


 駅前から伸びる通りに出て北に向かい、下保谷三丁目の住宅地へ。新しい住宅地の一
角に、古くからお住まいの農家らしい、ケヤキなどの屋敷に囲まれた住宅があり、入口の
横に、野菜を直売するボックス型の自動販売機が設けられていた。

 傍らのハクウンボクが実を付けている。


 北に進んで福泉寺に入る。本堂はコンクリート造り。寺には、江戸時代に日蓮宗が独自の
守護神として信仰したが明治の神仏分離で信仰が禁止された、木彫彩色三十番神神像が
残っているという。境内の、アジサイやハギが花を見せていた。


 東側の森林公園には、子どもの遊具が色々とあり、その上を大きな広葉樹が枝を伸び伸
びと広げて覆っていた。


 公園を東に抜けて練馬区に入り、野菜や柿畑の横を進んで大乗院へ。タチアオイが穏や
かな彩りで咲き競う。本堂はコンクリート造りだが、南側には趣ある木造の山門が残る。


 西大泉五丁目の細い通りには、思いがけず「いずみ商店会」と呼ぶ商店街があり、7月2日
の七夕祭りの飾り付けが並んでいた。


 東側の常勝院と思われるあたりは、道路拡張予定地の金網が張られていて見つからない。
でも、後から来た人はあったという。

 都道24号近くまで進んで西に向かい、西大泉五郵便局前の通を南に進む。西東京市に戻
る通りのすぐ北側に、ケヤキの大木数本に囲まれた広い敷地の民家があった。

  I さん宅だが、三つもある門の周辺に、いろいろな飾り付けや花などが並んでいて、いずれ
もこの屋敷にマッチしていると思われるものばかり。

 東側の大きな2本のケヤキは、夫婦ケヤキと呼ばれ、この通りの名も「めおとけやき通り」と
名づけられていた。



 南側には、農具や能面などが並んでいる。このような広い敷地に、趣ある飾りに囲まれた民
家を見たのは、初めてのことだった。



 たくさん見える武藏野変電所の鉄塔群を眺め、サトイモやトウモロコシ畑などの横を通過して
南東に進む。


 ケヤキの古木など広葉樹の森に囲まれた昼食地の天神社に、12時15分に着いた。

 社殿のそばには、ご神木の大イチョウが立っている。

 天神社は、初めに訪ねた福泉寺にも記された、日蓮宗の法華神道にもとづく三十番神だった
のが、明治維新による神仏分離令に基づく「法華三十番神禁止」により、天神社に改めたという。

 ちなみに三十番神とは、天正時代(1573~92)から江戸時代にかけて、日本の神の中から
善神三十座を選んで、その神々が1か月代わりに日蓮宗の信徒を保護するという信仰思想だと
いう。


 神社の狛犬は、明治20年代に奉納されたものだが、なかなか精巧な石彫で一見の価値があ
ると思われた。


 昼食後のミーティングでは、来月初めから3か月ほどスコットランドを自転車で巡るという、やま
さんから、地図を広げて計画の概要などの話があった。


 (天気 曇、距離 4㎞、地図(1/2.5万) 吉祥寺、志木、歩行地 西東京市、練馬区、歩数
  6,500) 

 13時前に散会となり、私は皆さんと別れて西に向かい、1時間半近く歩いて2つ先の東久留米
駅から帰路についた。(天神社~東久留米駅 3㎞)


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見沼田んぼ周辺をカントリーウオーク(埼玉)

2011-06-18 21:54:08 | カントリーウオーク
 引越後の後片付けで、なかなか時間がとれず、ブログへのアップも遅れがちになってしまいました。
数日前には荷物を持ち上げようとして、軽いぎっくり腰にもなったのですが、病院に行くほどでもなく
回復に向かっており、ホッとしています。

==========================================

 2011年6月12日(日)

 カントリーウオークグループの第184回例会に参加する。集合地は埼玉高速鉄道の新井宿(あらい
じゆく)駅。10時13分にスタートした。
 
 ==川口グリーンセンターから北へ==

 まずは全員で赤山の建長寺へ。関東軍代伊奈忠治(ただはる)により元和4年(1618)、伊奈家の
菩提寺として再興された寺。山門脇に川口市保存樹木のヒマラヤスギが立ち、正面に堂々たる本堂が
ある。境内左手に、小さめながら10数基の板碑が集められていた。


 新井宿の集落を西に向かう。県道105号を挟んで4つの寺社が集り、道路際の神社は2つとも氷川
神社。西側の宝蔵寺は、サクラなど豊富な緑に囲まれていた。


 アジサイの咲き競う宝蔵寺北側の細道を国道122号の西に抜け、給水塔の横を回って川口グリーン
センターの北側に出た。ここで、見沼代用水(みぬまだいようすい)を回る遠距離グループと、直接北に
向かうグループに分かれる。


 遠距離グループは、グリーンセンター↑入口前を通過し、根岸橋から見沼代用水東縁(ひがしべり)沿
いの道に入る。その先で代用水はV字状に回っているので、ゴルフ練習場のある台集落の南側台地下
を直進する緑陰の道をショートカットし、台橋のところで見沼代用水沿いに戻る。

 すぐ先の台地側、緑に囲まれてツツジの咲き残る妙蔵寺には、日蓮上人の立像が立っていた。


 代用水東縁に沿って、緑のヘルシーロードを北へ。代用水の流量は豊富で、流れに沿ってアジサイや
栗の花が咲き、色づいたビワの実がたくさん実っている。コンフリーも花盛りだった。


 東京外環道の下を抜け、マンション群の先からは、右側に広葉樹に覆われた斜面林が、代用水沿い
には桜並木が続き、豊富な緑陰の小道は気持ちよい。


 代用水から木曽呂の台地に上がり、薬王寺に入って小休止する。本堂は寺らしくないコンクリート造り
だが、境内は緑がいっぱいだった。


 北側の住宅地を進むと、桑の実がたくさん色づいている。


 県道103号を信号で横断し、木曽呂の富士塚と見沼通船堀の間を抜ける。通船堀には草が生い茂り、流
れは見えなかった。


 クヌギやシラカシが多いという金崎斜面林に沿って進み、JR武蔵野線の線路下を抜ける。昼食地の川
口自然公園に12時53分に着き、池のほとりにある東屋で昼食にした。


 池の北側、アシなどの茂る湿地には遊歩道が巡らされ、西側の広い芝生広場とともに家族連れや子ど
もたちのよい憩いの場になっている。流れに沿ったアジサイも、かなり開花していた。


 ==芝川調整池から浦和くらしの民家園を経て大崎公園へ==

 14時過ぎ、午後のコースに向かう。代用水沿いを大鳥居の立つ東沼神社の先まで進み、見沼ふれあい
農園の横を経て、芝川第一調整池のほとりに出る。


 ここで再び、調整池を南から迂回するグループと、東側を回るグループに分かれた。


 迂回グループは、広大な芦原の真ん中に見える水辺などを眺めながら南に回ると、桑の木が何本もあり、
色づいた実がたくさんついていた。

 新しい揚水場の建物の横を通過し、芝川左岸沿いを北へ。近くに「本多静六博士の森」があり、何種もの
若木が植えられていた。

 本多静六は、埼玉県出身で明治の森や日比谷公園などを造った日本初の林学博士。この森は、博士の
考えを取り入れ、自然の力を生かした森造りを目指しているという。


 芝川の洪水の際に、流れを調整池に流入させる溢水堤(いつすいてい)を通過し、国道463号の南側に
ある浦和くらしの博物館民家園に入った。ここで東を回った皆さんと合流する。


 休憩をかねて、園内に移築された古民家や商家、国登録文化財の旧浦和農協三室支所倉庫などを見て
回る。かつてこの辺りに、ホタルがたくさん飛んでいたことを記した、新しい「蛍の碑」もあった。


 クリーンセンターの東まで国道を進み、北側にあるさいたま市園芸植物園に入る。


 民家の庭の見本園などを眺め、シモツケソウやアジサイの咲き並ぶ園路を北に抜け、大崎公園へ。ここも
緑が多く、池の周辺や芝生広場などに、多くの人が訪れていた。



 この公園も北に抜け、たくさん実のついたブルーベリー畑の横を過ぎ、浦和大の東で国道463号バイパス
や県道105号を横切る。さいたま市とは思えぬ、カントリーウオーク向きの緑陰の土の道を進む。


 東北自動車道浦和ICの北側で地下道をくぐって東に出て、浦和レッズ戦の日には混雑するという、埼玉高
速鉄道の終点、浦和美園駅に16時42分にゴールした。

 (参加 17人、天気 曇、距離 15.5㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 川口市、さいたま市緑区、
  歩数 28,200)


 引っ越して4日後のことで、前日の関東百駅に出かけたこともあり、疲れがかなり蓄積していて、帰宅したら
四国遍路などでも経験したことのない、強い疲労感に襲われた。無理は禁物のようだ…。


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関東百駅巡礼歩行 東武伊勢崎線 境町駅(群馬)

2011-06-16 16:12:56 | 関東百駅巡礼歩行
 2011年6月11日(土)

 関東百駅巡礼歩行の第75番は、東武伊勢崎線の境町駅。日韓友情ウオークに参加された山浦敬子さん
も久しぶりにお顔を見せ、6人が10時40分に駅を出た。


 境町は、合併して現在は伊勢崎市境となっている。駅前から、暗渠(あんきよ)となった佐波新田用水路沿
いを西に向かい、まずは境よしの記念公園に入った。

 背の高いタイサンボクが大きな花をたくさん付け、公園内には柵に囲まれたお堂もあり、緑がいっぱい。
どうやら公園の名前になっている「よしの」という方の、広大な屋敷跡ではないかと思われた。

 南に進み、旧日光例幣使街道である国道354号に出て、萩原諏訪神社へ。文久元年(1861)に建て直さ
れたという道標があるが、半分に折れていた。その横には、八十貫目(300㎏)と刻まれた力石もある。


 国道を東に向かう。スーパーFRESSAY構内の隅に「日光例幣使街道 織間本陣跡」碑があり、周辺には、
古い宿場だったことをしのばせる、りっぱな蔵造りの建物が何棟も残っていた。

 駅前通の先で南に入り、長光寺に行く。お堂の前に伝教大師の立像があり、「春も漸(やや) けしき調(とと
の)う 月とむめ」の芭蕉句碑が立つ。ほかにも句碑が幾つかあり、庭木もよく手入れされている。


 その先には弁天池があり、中の島に祭られた弁天堂は、小さいながらもきらびやかな木彫が施されていた。


 養護学校に転用された旧境高校の前を西に向かう。民家が途絶えて畑作地帯となり、大きな葉に覆われた
ゴボウ畑が目につく。


 色づいた小麦畑が広がり、上水道の浄水場横を進んで広瀬川の中島橋際に上がる。橋の下にあったベンチ
で昼食にした。

 ベンチには、バーベキュー禁止の表示があるが、珍しくスペイン語とポルトガル語でも書かれ、この近辺には
これらの国語を話す住人の多いことが推察される。


 ビオウヤナギの咲き競う河川敷から橋に上がり、右岸の高崎伊勢崎自転車道を下流に向かう。


 広い河川敷はヨシキリのさえずりが賑やかで、キジやウグイスも鳴く。


 右からの韮川との合流点付近に桑の木があり、桑の実が色づいていた。


 韮川の北向橋を渡って島村集落に入った。この地域は、古くからの養蚕地帯ようで、県道295号の交差点
際に「島村養蚕農家群」の標識があり、周辺には養蚕農家らしい造りの民家が多い。

 それら民家の北と西側は、上州名物の空っ風を防ぐ「かしぐね」と呼ぶ、カシの木を高く刈り込んだ防風林で
囲まれていた。

 利根川水辺プラザ公園の横を進んで、島村渡船船着場に向かう。島村渡船は、利根川の築堤によって分断
された島村集落を結んでいて、県道295号の一部として、無料で乗船できる。

 渡船場よりかなり手前の小屋に船頭さんがいて、声をかけるとバイクで船着場に先行して準備し、乗船させて
もらえる。私たちが、今日最初の乗船者とのことだった。

 ちなみにこの渡船は、江戸時代中期から行われていたようで、現在はエンジン付きだが、昭和年代までは竿
(さお)でこぐ船だったという。運行時間は8時半から17時(冬期は16時半)までである。

 きのうの雨で濁り、かなりの水量があったが、数分で対岸に渡る。渡し終えると船は、常駐場所の対岸にすぐ
戻って行った。


 利根川右岸河川敷には、色鮮やかなナヨクサフジがたくさん咲き、一面に広がる芦原でヨシキリが鳴き競って
いる。


 青空が増えてきて、霞んではいるが東方に筑波山や加波山が望まれる。


 境島小のそばに「島村蚕種業績の地」碑があり、この地から、明治初めに全国に先駆けて蚕種輸出を図った
ことが記されていた。


 境島小構内には、明治32年(1899)に建てられた「島村沿革碑」があり、養蚕業を発展させた島村の人々の
歴史が記されている。なお、この小学校の校章は、桑の葉、蛾(が)、繭(まゆ)を組み合わせた珍しいデザイン
だという。

 県道際に標識のあった「島村の板倉」は見つからず、埼玉県深谷市との県境際にある日本基督教団島村教会
のところに行く。

 この教会は、明治30年に建てられたもので、県内で2番目に古いものとか。当時の島村文化の一面を象徴する
建物で、国の有形文化財に登録され、一部は島村めぐみ幼稚園に使われていたようだ。

 県境になっている農道を東に向かう。周辺には深谷名産のネギ畑や、よく育ったゴボウ畑が多く。ゴボウ問屋の
建物もあった。点在する民家は、養蚕農家の面影を残す建物が多い。

 10戸前後だけの狭い深谷市飛地の横から、利根川自転車道になっている利根川右岸堤防に上がる。海から
175㎞の標識があり、間もなく県道14号の上武大橋南詰へ。前橋からサイクリングで来たという親子が休んで
いた。


 長さ1㎞前後ある、車道に平行した自転車と歩行者専用橋を渡り、県道の西に平行する平塚の里道を進む。
早川の薬師橋を渡って、世良田(せらだ)の集落に入った。

 すぐ先に広々とした薬師公園があり、並木になっているタイサンボクが大きな花を見せている。

 ケヤキ並木の通を東に少しで、太田市歴史公園へ。このあたりは12世紀中頃に成立した新田(につた)氏の
荘園があったところで、「新田荘遺跡」として国史跡に指定されている。

 公園の一角に新田荘歴史資料館↑があるが、入館は省略した。

 この地は徳川氏発祥の地でもあるようで、徳川家康が関東に入国後、将軍家の厚い比護を受けており、資料
館の西側一帯が世良田東照宮の境内である。

 東照宮は、寛永20年(1644)に、3代徳川家光が日光東照宮古宮を移築して祭り、神領200石を寄進したと
いう。境内の一角で休憩したが、時間がないので拝観は省略した。

 東照宮の御黒門や太鼓門、承久3年(1221)創建で東日本最初の禅寺という長楽寺の前を通過して、北に向
かう。国道354号の先には、背の高い屋台庫が2棟並んでいた。


 田園地帯に出ると、色づく麦畑の上でヒバリがさえずる。

 休耕田にカモの群れが遊ぶ農道を進み、県道14号の東側にある世良田駅に16時14分に着いた。

 どこにあるのかも知らなかった境町駅だが、日光例幣使街道の宿場町、島村渡船と蚕の里、新田荘遺跡と東照
宮など、多くの歴史を認識する機会が得られ、盛りだくさんのウオーキングだった。

 (参加 6人、天気 曇後晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 上野境、(伊勢崎)、深谷、本庄、歩行地 伊勢崎
  市、太田市、歩数 22,00)


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所沢市役所8階からの眺望(埼玉)

2011-06-13 22:03:38 | 所沢だより
 自宅引越のため、1週間投稿ができませんでしたが、予定通り6月8日(水)移転を終え、
翌9日(木)午前中には光フレッツ回線の工事も済んで、光電話は開通しました。

 ネット接続については引越後の片付けに追われ、10日(金)に接続できるようになったの
ですが、投稿の時間はとれず、11日(土)と12日(日)は、予定のウオーキングに出かけ、
ようやく今日13日、久しぶりのアップとなりました。

 11日正午過ぎ、住居移転の届け出のため、市役所に向かったところ、家の近くの市民農園
に、ソバを栽培している方がおられたようで、ちょうど花盛りになっていました。




 私の日頃の市内ウオーキングコースでは、ソバ畑は見たことがありませんでした。わずかな
面積ですが、よい実をつけて欲しいものです。

 さて、市役所で住所移転の届けや、印鑑証明、健康保険証の書き換えなどの処理を済ませ、
13時半を過ぎていたので、8階の食堂で昼食をすることにしました。

 もう昼食時刻からかなりたっていたので、食堂は閑散としていました。品切れになったメニュ
ーもあり、私はカツカレー(510円)を注文して食べました。

 この食堂は市役所の8階にあり、南側の展望を楽しみながら食事や喫茶ができます。南側は、
当ブログで何度も紹介している所沢航空記念公園で、新緑がいっぱいに広がっています。

 手前のレンガ色の建物は公園内の市立図書館、向こうの高層ビルは、30年くらい前に市役所
のあった元町方面の、通称銀座通りに再開発でできたマンション群です。、


 その左手、公園の緑がいっぱいの辺りは、日本庭園・彩翔亭(さいしょうてい)のあたりか。その
向こうの鉄柱とネットは、高校野球県大会の予選会場にもなる、所沢航空記念公園野球場。


 さらに左手の眼下に、100年前に開設された日本最初の飛行場の、滑走路だった辺りの沈床
茶園が見下ろせます。


 半円形のドームは、所沢航空発祥記念館。


 東南の方角はるかには、新宿副都心のビル群がかすかに望まれますが、お分かりでしょうか…。
画面中ほどから左側です。


 久しぶりに、市役所食堂からの眺望を楽しみながらの食事でした。


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引越しのため数日休稿します

2011-06-06 21:35:40 | Weblog
 家の建て替えのため、1月9日(日)に、自宅と同じ所沢市内の仮住まいに引っ越してきて、
ちょうど5か月となりました。

 自宅の建て替えが終わったので、6月8日(水)に、もとの場所に戻ります。そのため、仮住
まいの室内は再移転の準備で、段ボールの山となっています。




 なんとか荷物の箱詰めも進み、残る品物はあとわずかとなり、1月のときのように前夜、日付
が変わっても詰め込みが終わらないと言うことには、ならずに済みそうです。


 とはいえ、当ブログの投稿は、明日(7日)パソコンの梱包をして使えなくなり、光回線の開通
が6月9日(木)になりますので、3~4日はお休みとさせていただきます。

                                      これが↓ わがパソコンです。


 したがって、固定電話もパソコンメールも、同様に使えなくなり、さらにブログへのコメントを
いただいてもお返しできませんので、あらかじめご了承下さい。
 
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ウオーキングや散歩によい「散歩で出会う花 ポケット図鑑」

2011-06-05 21:15:08 | ウオーキング
 ウオーキングや散歩に出かけたときに、足下に咲くいろいろな花を見つける機会が多い
ことでしょう。

 そんなとき、この花は何という名前だろうか、知りたいと思ったことはありませんか?

 なかなか花の名を覚えられないのが私ですが、皆さんの中にもそんな方も居られるので
はないでしょうか(失礼)。そのような方にお勧めするのだ、4月に発売されたばかりの、こ
のポケット図鑑です。


 本書では、自分たちの住む住宅地周辺、隣接した丘陵地や自然公園などで見られる、
身近な野の花を数多く紹介しています。

 このようなところは、開発などで在来種が減って、外来種がたつさん入り込んでいたり、
園芸品種が野生化した花などもありますが、それらの花もたくさん紹介されているので、
ウオーキングや散歩の時に持ち歩くと、すぐに花の名が探せるので便利です。

 大きさも文庫本なので、携帯にもかさばらずに済みます。

 わが家のそばで見つけた、このユウゲショウも、図鑑を見て名前を知りました。


 こちらはホソバナオオアマナ、5月15日(日)のカタツムリ歩行会の例会のときに、玉川
上水緑道に咲いていたものです。


 図鑑に掲載された花の数は580種。ひととおり見ていると、家の周りで見かける野の花
の多くが、分かるような気がします。

 図鑑の配列は、科や属単位にまとめられていて、それぞれの特徴が分かるよう、巻頭に
代表的な花のイラストがあり、理解しやすいようになっています。

 (新潮文庫、久保田 治著、文庫判174頁、全頁カラー、本体590円)


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埼玉県立歴史と民俗の博物館で「ごぜ唄の話と演奏」

2011-06-04 21:57:16 | Weblog
 1日中雨だった5月27日(土)、さいたま市大宮区の埼玉県立歴史と民俗の博物館
で開催された「ごぜ・うた・がたり」と題した、三味線奏者、月岡祐紀子(つきおかゆきこ)
さんの講演会に参加しました。

 会場ロビーです。


 月岡さんは幼い頃から民謡を学び、高校生の時、盲目の女芸人の芸能である、ごぜ
唄、ごぜ三味線に出会って感銘を受け、最後のごぜといわれる、現在の新潟県上越市
の方々と交流を重ねました。

 大学卒業時に、ごぜの旅を追体験しようと、三味線を奉納演奏しながらの四国八十八
か所の歩き遍路に挑戦し、翌年も歩き遍路を行い、三味線や尺八、琴、唄などでの合奏
曲「遍路組曲」を作曲しました。

 さらに、作家・早坂暁氏の紹介で、2回の遍路旅を綴ったものを「平成娘巡礼記」(文春
新書)として刊行されました。

 私が月岡さんの演奏を聴いたのは、初回の四国遍路前半の2004年3月13日(土)と
翌14日、愛媛県内海村(現在の愛南町)の「DEあい21」という村のホールと、柏坂越え
の遍路道における峠の上での演奏が初めてでした。

 この時のことは、当ブログ、2006年10月26日と27日の投稿を参照下さい。カテゴリ
ー「四国遍路(前編)」からも参照できます)

 その後、東京都内や大阪市内での演奏会などに出かけて、月岡さんの演奏や話を聴く
機会が何度かありましたが、今回は、ごぜさんの話が中心とのことで、今まで聞いたこと
が無かったので出かけました。



 今回は、そのごぜさんの話とごぜ唄の幾つかを織り交ぜて、予定を30分近く越えて2
時間に及ぶプログラムとなりました。その話の要旨は、以下のようなものでした。



 ごぜは、室町時代にから昭和年代まで続き、拠点は新潟県長岡市や上越市(高田)な
ど、雪国が中心。雪国では冬、室内で過ごすので、いろりを囲むことから目の不自由な人
が増え、女性はごぜかあんまさんの修行をして、家計を助けるために旅に出る互助制度
ができた。

 旅に行くときには、「手引き」と呼ぶ、目の見える子どもか弱視のごぜさんが先頭になり、
その後に、手を前の人の肩に乗せて従ったという。

 ごぜさんが最初に唄う「門付け唄」とは、訪れた村の庄屋などの門の前でまず唄うので、
そのように呼ぶ。

 ごぜさんは関東各地にも回っており、月岡さんの住む目黒区にも、出入控帳の記録に
残っており、江戸時代に1人のごぜさんがいたとか。会場に近いさいたま市大宮区宮原町
の弁財天にも奉納記録があるとのこと。

 特に多くの記録が残るのが東京・江戸川区で、農閑期を中心に年間100人以上来たと
いう。ほかに、北海道と沖縄を除いて、全国にごぜの記録が残っているようだ。

 ごぜさんの演目は、民謡、端唄、小唄、くどき(心中や地震のことなどニュース)、段物
(物語唄)、昔話(昼間に子ども向けに)、漫才(お笑い)など、現在のテレビの役割を担っ
ていたという。

 ごぜさんにとっての打撃は、明治維新や幾たびかの戦争、そして戦後の農地改革、さら
にラジオやテレビの普及といったことがある。越後・高田(上越市)には明治30年代に
100人のごぜさんがいたが、昭和30年(1955~)には、杉本家の3人だけになった。

 ごぜさんが、ほとんど居なくなった頃、画家の斉藤真一さんが高田を訪れて描き、「ごぜ
高田の旅芸人」という著書も残した。それを見て作家・水上勉が「はなれごぜおりん」を書
き、映画化された。また、新潟日報の写真担当者が写真で記録に残し、ごぜというものが
注目されたが、すでに遅きに失したようだ。

 話の最後に、新潟日報の写真担当者が記録した写真数枚も上映されました。



 月岡さんは、これらの話の合間に何曲ものごぜ唄の演奏を行いました。その演目です。



 ・門付け唄  ・雨降り唄(雨の日の門付け唄) ・かわいがらんせ(春の門付け唄)

 ・古調おけさ(ごぜが歌ったおけさ節)  ・佐渡おけさ  ・新磯節  

 ・花の数え歌(ごぜ唄「朝広大寺節」を福曲したもの)

 ・葛の葉の子別れ一段目(ごぜ唄を代表する曲・鶴の恩返しの狐版)

 ・三河万歳・柱仕立て(家の建前などに2人1組でうたわれた祝い唄)

 ・遍路組曲(月岡祐紀子作詞作曲)



 なお、これらの歌詞は参加者に配布されました。 

 ごぜさんについて、これまでほとんど知りませんでしたが、この日の話と演奏で、当時の
農村においては、今日のテレビと同様、大きな役割を果たしていたことが理解できました。

 会場ロビーから見た庭園風景。
   

 ちなみに、画家・斉藤真一のごぜを描いた絵が、5月17日(火)のテレビ東京の番組「開
運!なんでも鑑定団」に出展され、高値に鑑定されたことをご覧になった方も居られるかと
思います。


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