2009年2月28日(土)
![](http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=35/44/14.768,139/14/28.891&scale=250000)
地図愛好グループの例会で、東京・奥多摩の日の出町を訪ねた。
集合は、JR五日市線の武蔵増子(ますこ)駅に10時。
まず、駅の近くにある三角点を探すことにする。駅から線路沿いを
東に向かい、踏切を渡って線路際の畑道を少し進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/3f/955b93f829fcdb75dd3c3080589a3f7e.jpg)
畑の隅に、177.1mの四等三角点があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/0a/c4098dacd127e987a1f6cd208159052f.jpg)
ここからは360度の展望が良い。企画者のNさんにもらって地図で、
周辺の三角点のある地点を皆で同定し合う。
次に2台の車に分乗して、西北西の日の出団地南側の稜線にある
279.1mの三角点を目指す。だだ、ここは最近の地形図からは抹消
されていることを私は前日把握していたので、無いはずだが一応確認
することにした。
戸建て住宅が整然と並ぶ日の出団地の西端まで行き、横沢東尾根
と呼ぶそばの稜線を南東に上がる。写真は、稜線からその団地を見下
ろしたところ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/4e/a4f6ace0d1f6b8e734bb28dd2572d556.jpg)
一帯は、横沢入里山保全地域になっていて、稜線に遊歩道がついて
いる。
そのピークが、279.1m三角点の位置だが、やはり三角点の痕跡
は見つからなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/5a/cc4ca82688f6cd0599a7a58af14b7828.jpg)
車で都道185号を少し北上し、平井にある秋川霊園の一角で昼食と
する
都道184号を西へ、萱窪交差点から秋川街道を坂本まで進み、都道
251号に入る。北大久野川沿いの集落には梅の木や梅林が多く、見ご
ろ花があちこちで見られた。
標識に従い、次第に人家の少なくなった細道を上がって行くと、集落の
尽きたところに中曽根・レーガン会談で知られた日の出山荘があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/a5/a08ea022e20406a453856dc5127aa9e3.jpg)
もとは中曽根康弘元首相の別荘だが、平成18年(2006)11月11日に
中曽根氏から日の出町に寄贈され、1年後の平成19年の同日から日米
首脳会談記念館として公開されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/1c/a46b5dd5adbb2fcba357ec9932e8986f.jpg)
建物は3棟あり、青雲堂と呼ぶかやぶき屋根の建物は、昭和58年
(1983)11月11日到着したレーガン大統領夫妻に、いろりを囲んで
中曽根首相が抹茶をたててもてなしたところ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/0c/fe938403c4972d92da6cc7aa9b403ecd.jpg)
その先の天心亭では、昼食後、中曽根首相とレーガン大統領が日米
友好協力、世界の安全保障について首脳会談(ロン・ヤス)会談を行っ
たという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/5d/6c95fe3c45016cc10ca62f8af24eb1d3.jpg)
一番奥の書院(上)には、レーガン大統領夫妻の写真をはじめ、ここ
を訪れたゴルバチョフ元ロシア大統領ほか各国の来賓や、中曽根首相
の写真、自筆の書、各国首脳からの贈答品などが展示されていた。
これは、1996年5月27日、韓国の全斗煥大統領から贈られた半鐘。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/91/96a2070cc0266039fcdeec19297640f6.jpg)
ひととおり見て回った後、記念撮影をする。今日の参加者は、カメラ
を入れて10人だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/6c/09ee152cba286f94cbe17f4683319950.jpg)
広い邸内の一角で紅梅が満開、入口付近にはフクジュソウがたくさん
咲いていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/51/4550cf872edc832fe51f7df76e8c9a72.jpg)
ちなみに日の出山荘の入館料は、一般200円、65歳以上と高校生
100円、中学生以下無料。休館日は月、火(祝日の場合は翌日か翌々
日)、開館は10時~15時30分(入館受け付15時まで)である。
再び車に分乗し、武蔵増子駅と武蔵五日市駅の中間、JR五日市線
の線路の北側にある古寺、大悲願寺へ。草創は鎌倉時代とのこと。ここ
は、あきる野市になる。
堂々たる楼門(仁王門)は、安政6年(1859)の再建。天井には、梵
字を囲んで草木の花が描かれ、左手の袖天井には、みごとな雲龍図が
描かれていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/a7/d796306bb9232491b65462c2c17bfaa9.jpg)
楼門を入った正面にあるのが「無畏閣(むいかく)」とも呼ばれる観音堂。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/57/8b1bd367c987e9694fcf583dc591529d.jpg)
寛政6年(1794)の建立で、最近大規模な修復工事が行われ、屋根下
の彫刻も鮮やかな彩色が復元されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/64/b5717c801e9ea33330d95d3d53308e80.jpg)
堂内には、国指定重要文化財の「木造伝阿弥陀如来及び脇侍、千手
観世音菩薩・勢至菩薩座像」が安置されているという。
観音堂の右手にある本堂は、元禄8年(1695)の建築。特に内部は
建築当初の姿をよく保っていて、方丈系本堂建築としては、この地方の
代表的な建物のひとつらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/ca/dbfca89045cee90b4b345fa5676c1d12.jpg)
境内には、安永9年(1780)に建築の中門(朱雀門)、あきる野市
保存樹のサルスベリの古木、四国八十八か所お砂踏み霊場など、見
るべきものが多い。
余談だが、この大悲願寺には、第2次世界大戦末期の昭和19年
(1944)晩秋、新宿、中村屋の創立者・相馬愛藏と良(国光)夫妻が
離れの一棟に疎開したという。
当時ほかに、本堂には世田谷区の疎開児童が100人ほど、観音堂
には陸軍の衛生班など、多数の住人がこの寺にいたことが、臼井吉見
の大河小説「安曇野」に記されている。
15時近く、JR五日市線の終点・武蔵五日市駅に着き、解散となった。
地図愛好グループの例会で、東京・奥多摩の日の出町を訪ねた。
集合は、JR五日市線の武蔵増子(ますこ)駅に10時。
まず、駅の近くにある三角点を探すことにする。駅から線路沿いを
東に向かい、踏切を渡って線路際の畑道を少し進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/3f/955b93f829fcdb75dd3c3080589a3f7e.jpg)
畑の隅に、177.1mの四等三角点があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/0a/c4098dacd127e987a1f6cd208159052f.jpg)
ここからは360度の展望が良い。企画者のNさんにもらって地図で、
周辺の三角点のある地点を皆で同定し合う。
次に2台の車に分乗して、西北西の日の出団地南側の稜線にある
279.1mの三角点を目指す。だだ、ここは最近の地形図からは抹消
されていることを私は前日把握していたので、無いはずだが一応確認
することにした。
戸建て住宅が整然と並ぶ日の出団地の西端まで行き、横沢東尾根
と呼ぶそばの稜線を南東に上がる。写真は、稜線からその団地を見下
ろしたところ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/4e/a4f6ace0d1f6b8e734bb28dd2572d556.jpg)
一帯は、横沢入里山保全地域になっていて、稜線に遊歩道がついて
いる。
そのピークが、279.1m三角点の位置だが、やはり三角点の痕跡
は見つからなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/5a/cc4ca82688f6cd0599a7a58af14b7828.jpg)
車で都道185号を少し北上し、平井にある秋川霊園の一角で昼食と
する
都道184号を西へ、萱窪交差点から秋川街道を坂本まで進み、都道
251号に入る。北大久野川沿いの集落には梅の木や梅林が多く、見ご
ろ花があちこちで見られた。
標識に従い、次第に人家の少なくなった細道を上がって行くと、集落の
尽きたところに中曽根・レーガン会談で知られた日の出山荘があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/a5/a08ea022e20406a453856dc5127aa9e3.jpg)
もとは中曽根康弘元首相の別荘だが、平成18年(2006)11月11日に
中曽根氏から日の出町に寄贈され、1年後の平成19年の同日から日米
首脳会談記念館として公開されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/1c/a46b5dd5adbb2fcba357ec9932e8986f.jpg)
建物は3棟あり、青雲堂と呼ぶかやぶき屋根の建物は、昭和58年
(1983)11月11日到着したレーガン大統領夫妻に、いろりを囲んで
中曽根首相が抹茶をたててもてなしたところ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/0c/fe938403c4972d92da6cc7aa9b403ecd.jpg)
その先の天心亭では、昼食後、中曽根首相とレーガン大統領が日米
友好協力、世界の安全保障について首脳会談(ロン・ヤス)会談を行っ
たという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/5d/6c95fe3c45016cc10ca62f8af24eb1d3.jpg)
一番奥の書院(上)には、レーガン大統領夫妻の写真をはじめ、ここ
を訪れたゴルバチョフ元ロシア大統領ほか各国の来賓や、中曽根首相
の写真、自筆の書、各国首脳からの贈答品などが展示されていた。
これは、1996年5月27日、韓国の全斗煥大統領から贈られた半鐘。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/91/96a2070cc0266039fcdeec19297640f6.jpg)
ひととおり見て回った後、記念撮影をする。今日の参加者は、カメラ
を入れて10人だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/6c/09ee152cba286f94cbe17f4683319950.jpg)
広い邸内の一角で紅梅が満開、入口付近にはフクジュソウがたくさん
咲いていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/51/4550cf872edc832fe51f7df76e8c9a72.jpg)
ちなみに日の出山荘の入館料は、一般200円、65歳以上と高校生
100円、中学生以下無料。休館日は月、火(祝日の場合は翌日か翌々
日)、開館は10時~15時30分(入館受け付15時まで)である。
再び車に分乗し、武蔵増子駅と武蔵五日市駅の中間、JR五日市線
の線路の北側にある古寺、大悲願寺へ。草創は鎌倉時代とのこと。ここ
は、あきる野市になる。
堂々たる楼門(仁王門)は、安政6年(1859)の再建。天井には、梵
字を囲んで草木の花が描かれ、左手の袖天井には、みごとな雲龍図が
描かれていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/a7/d796306bb9232491b65462c2c17bfaa9.jpg)
楼門を入った正面にあるのが「無畏閣(むいかく)」とも呼ばれる観音堂。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/57/8b1bd367c987e9694fcf583dc591529d.jpg)
寛政6年(1794)の建立で、最近大規模な修復工事が行われ、屋根下
の彫刻も鮮やかな彩色が復元されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/64/b5717c801e9ea33330d95d3d53308e80.jpg)
堂内には、国指定重要文化財の「木造伝阿弥陀如来及び脇侍、千手
観世音菩薩・勢至菩薩座像」が安置されているという。
観音堂の右手にある本堂は、元禄8年(1695)の建築。特に内部は
建築当初の姿をよく保っていて、方丈系本堂建築としては、この地方の
代表的な建物のひとつらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/ca/dbfca89045cee90b4b345fa5676c1d12.jpg)
境内には、安永9年(1780)に建築の中門(朱雀門)、あきる野市
保存樹のサルスベリの古木、四国八十八か所お砂踏み霊場など、見
るべきものが多い。
余談だが、この大悲願寺には、第2次世界大戦末期の昭和19年
(1944)晩秋、新宿、中村屋の創立者・相馬愛藏と良(国光)夫妻が
離れの一棟に疎開したという。
当時ほかに、本堂には世田谷区の疎開児童が100人ほど、観音堂
には陸軍の衛生班など、多数の住人がこの寺にいたことが、臼井吉見
の大河小説「安曇野」に記されている。
15時近く、JR五日市線の終点・武蔵五日市駅に着き、解散となった。