あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

塩の道 千国街道を歩く(松本から柏矢町)(2003年)

2009-07-30 21:38:25 | 塩の道を歩く
 日差しが出た今日の所沢市、昼前後、市内を歩きましたが、今年最高
かと思われる暑さ。それもそのはず、夜のニュースでは最高気温34.9
℃で、全国2位の高温だったと伝えていました。

 何年前かの今ごろ歩いた、塩の道・千国街道を紹介していますが、今日
は、6年前のコース、千国街道の北端です。

 写真は、フィルムカメラの一眼レフで撮ったものです。プリントが少し色
あせてしまったものもありますが、記録として紹介します。

=============================== 

 2003年7月28日(月)

 =松本~穂高町南部(柏矢町)=


 
 8時に松本のビジネスホテルを出た。今日は、昨年(2002年)7月の
2日間に大町市南部から白馬駅まで歩いた塩の道の、南側半分だけを
歩く予定である。

 コース地図は、昨年、初日に一緒に歩いたKさんに後から頂いた「古道
案内 塩の道千国街道」の、2万5分の1地形図上に詳細にポイントを記
してある地図を、拡大コピーして用意してきた。

 まずコースの出発点となる松本城に向かう。市の繁華街、中央二丁目
の交差点で「ぜん光寺道」と記された御影石の道標に気づく。明治26年
(1892)6月のものだが、ピカピカに磨き上げられていた。

 国宝松本城は、均衡のとれた姿を静かな堀に写していた。朝なので観
光客の姿はほとんどない。


 塩の道は、松本城から隣の豊科(とよしな)町に向かって、「飯田道」、
「養老坂道」、「真々部道」と名付けられた2本の道筋がある。今回は、標
高差はあるが展望のよさそうな養老坂道を行くことにした。

 一旦東に向かい、500m近く進んで国道143号に出る。朝の通勤時刻
なので車の交通量が多い。城東一、二丁目を過ぎ、豊栄寺の前で西に入
る。「この通りは北国西往還(旧善光寺街道)です」という表示があった。

 2本目の路地を北に向かうはずが、先まで進んでしまい、逆コの字形に
回り道して、桐一丁目の学校の横から塩の道に戻る。道はゆるい上りとな
り郊外の住宅地を西北に向かう。

 沢村三丁目を過ぎると家並みが途切れ、リンゴ畑が現れた。リンゴは大
きくなっているが、赤みはほんの少しだけ。

 徐々に高度が上がり、田んぼのかんがい用水の水源、塩倉池辺りまで
来ると、東側の展望が開けてきた。

 好天ならば美ヶ原などが見えそうだが、池に影を映すのは近くの山並
みと周辺の丘陵である。

 池のすぐ上に見えた海福寺は、上杉が武田に塩を送ったおり、塩荷を
一時庭に置いたといい、「塩倉」の地名もそれに由来するようだ。

 塩倉に残る、元治元年(1864)銘などの石仏群。

 道は塩倉集落の西を上がる。ししおどしの「ズドン」という音が間近に聞
こえてビックリ。リンゴ畑の間を進んでゆくと少し右に回り込み、小さい沼
の下に出た。

 気づかぬ分岐で道を間違えたようだ。沼の下にある棚田のあぜを下って
車道に出て、老根田の小集落を抜ける塩の道に戻った。

 リンゴ畑の間を上がり、畑が終わった辺りから林間を下る山道にかかる。
入口に「松本市城山遊歩道」の道標があった。

 「ようろう坂コース」の矢印に従って下り始めたら、草が伸びて道をふさ
いでいる。

 しかしそれはわずかの間で、赤松林から広葉樹林になった。

 右にカーブしてゆくと少しだけ樹林が開け、西側の梓川やその先、安曇
野の展望が広がる。


 しかし、あと2~300mほどで泣坂に下る車道に出るという辺りで、ツタ
や瓜類の葉のような木が一面を覆い、道が分からなくなった。

 地図と見比べ、前方のヘヤピンカーブの曲がったところに出ればよいと
考え、葉の上をはうようにして進む。一瞬足を踏み外して転倒したが柔ら
かい葉の上なのでケガはない。眼鏡が外れたので探したらすぐに見つか
りひと安心。

 アシが増えたので、湿地だとマズイと思ったが水気はなく、やぶこぎも
10分前後でなんとか車道に出た。

 その先も山道を少し下って国道254号を越えるのだが、分からないの
で車道を回り、松本トンネルの料金所下に出て国道に合する。

 国道下を横切る人道トンネルを西に抜け、島内の民家入口のりっぱな松
の木の下で休憩。


 昔の塩の道はこの先、泣坂を下ってJR篠ノ井線沿いに進み、川手番所
跡から熊倉の渡しで犀川を越えたが、渡しは現在は廃止されているので
南側の平瀬橋へ迂回(うかい)する。

 西側が開けた斜面を篠ノ井線の西に出て、国道の橋脚下から斜張橋の
平瀬橋に出た。橋脚下の田の横に、オミナエシやヒャクニチソウがきれい
な花を開いていた。

 草や木に覆われた自然堤防の間に豊富な流れを見せる奈良井川は、少
し下流の熊倉の渡し跡付近で左からの梓川と合して犀川となる。

 その奈良井川と犀川の間には、芝生と植栽の広がる平瀬公園と、松本
市の清掃センターがあり、その余熱を利用したラーラ松本と呼ぶ温水プー
ルやレストランなどの新しい遊興施設もあった。

 奈良井川に比べ3倍以上も川幅があるが、水量が少なく砂利ばかり目に
つく梓川は、自転車道、あづみの橋を渡る。


 橋の中ほどで、向こうからご夫妻のウオーカーが来た。お二人はいつも
自分達で計画したウオーキングを楽しみ、米国グランドキャニオンも歩いた
とか。

 旗を持ってぞろぞろ歩くウオーキング団体の歩きを毛嫌いしていたが、そ
んな歩きにも参加している私は、ちょっと気をそがれた。

 奈良井川から取水した拾ケ堰(じっかぜき)と呼ぶ流れが、橋のそばで梓
川をくぐるサイフォンになっていた。

 文化13年(1816)に約3ヶ月の突貫工事で完成したというが、当時として
は極めて高度な技術力を駆使し、その豊富な流れは今も安曇野の田園を
潤している。橋の西側に出た流れはきれいで、緑の藻をゆらしていた。

 その流れに沿った自転車道が塩の道の一筋、飯田道になっているので、
そのまま進めばよかったのだが、熊倉の渡し跡へ出るには、梓川左岸沿い
を進んだ方が近いと見て未舗装の車道に入った。

 先方に砂利を積んだダンプが見えたので怪しいと思ったが、川沿いに川
砂利のたい積場があり、それを運搬する大型ダンプが通過するたびに、道
路一杯に土ほこりが舞い上がる。数台に遭遇してたちまち、ホコリ高き男
になった。

 1㎞余りでダンプ街道は終わり、さらに進んで林が途切れたところで西側
の田んぼに抜け、宮下集落の南に出た。昼食に戻る農家の奥さんに場所
を確認、背の高い赤松が数十本並ぶ、近くの春日神社に入り、松の下で昼
食にした。


 神社裏手には「ぶたい保存庫と熊倉の渡し舟」という標石が立っていて、
そばに熊倉の渡しで使われた十数人乗りの木の舟が屋根付きで保存され
ていた。

 渡しは、昭和35年(1960)頃まで利用されていたらしい。

 少し進むと仏法寺の百体観音の標識があり、寺の参道両側に古い石の
観音像が並んでいた。


 寺の東正面が、松本藩百ヶ村あまりを結ぶ交通の要衝だった熊倉の渡
し跡である。

 渡し舟を形取った新しい「熊倉の渡し跡」碑が、犀川の清流に面して出
来ていた。

 川原田の集落を抜けると、道は次第に西に向きを変える。トンビが「ピー
ヒョロロ」と泣く田園地帯となり、日差しが暑く汗が増える。

 「手打ちそば処千利」の看板のある大原や長野自動車道を過ぎ、保健セ
ンターなどのあるサントピア豊科、豊科町役場前などを通過して豊科町の
中心部に入る。

 飯田道、真々部道と合して1本となった塩の道は、JR大糸線に平行す
る国道147号を進む。

 細萱の洲波神社の東側、国道際に古い双体道祖神が祭られていた。


 国道は、歩道はあるが車が多いのでうっとうしい。暑いので、SONYの
工場近くにあったコンビニでアイスを買い、裏手の日陰に回って緑の田ん
ぼを眺めながら食べた。

 コンビニの少し先に、「飯沼飛行士記念館」がある。昭和12年(1937)
4月、神風号により東京~ロンドン間を約94時間の世界新で飛んだ飯沼
正明飛行士の生家。

 その時の写真や飛行機の模型などを展示していたが、入館はせずにの
ぞいただけで通過した。

 安曇野の豊富な湧水を水源とする万水川(よろずいがわ)のほとりにあ
る、玄蕃(げんば)稲荷社に寄る。近くにある松本藩の群奉行などを勤めた
細萱(ほそかや)氏館跡の鬼門にあたり、厄よけの神として置かれた社だ
という。

 万水川を渡ると穂高町。すぐ先のY字路で国道を右に分け、左の旧道に
入る。この辺りから北は、近年何回かカントリーウオークをしており、おなじ
みの土地だ。

 大糸線上り電車にちょうどよい時刻なので、今回はここまでとし、柏矢町
(はくやちょう)駅に向かう。駅前の道路は拡張され、克彦美術館という新
しい施設も出来ていた。

 駅の南側、踏切際にある道祖神など。


 柏矢町駅には、14時48分に到着した。青春18きっぷ3枚目を使い、15
時発の電車に乗る。

 松本で中央本線に連絡、小淵沢、甲府、高尾と乗り継ぎ、20時50分に
帰宅した。   

 (天気 晴、距離 19㎞、歩行地 長野県松本市、豊科町、穂高町)
 〈注:歩行地名は当時のもの、豊科町、穂高町は現在は安曇野市〉     
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塩の道 千国街道を歩く(信濃木崎から白馬)(2002年)〈続き〉

2009-07-28 22:47:34 | 塩の道を歩く
 相変わらず首都圏も天気がぐずつき気味で、夏風邪に襲われたので、
午後、かかりつけの病院へ行って来ました。

 本日も、7年前の2002年7月下旬に歩いた、塩の道レポートの後半
です。

==============================

 =仁科三湖を経て白馬村へ=

 2002年7月21日(日)〈続き〉



 すぐ先が佐野集落。最初の三差路に、姫川源流への表示があったので
回ってみた。国道を越えた東側の林に柵の着いた遊歩道があり、その一
帯が姫川源流。木々の下から清涼な水が流れ出ている。

 姫川は、白馬連峰からの平川、松川と合して小谷(おたり)の渓谷を下
って新潟県に入り、糸魚川で日本海に注ぐ全長158㎞の清流。日本名水
百選の碑の先で林を出た流れは、ゆるいカーブを描いて佐野集落東側の
田んぼを潤している。

 源流一帯は、春になると一面福寿草の大群落が花を開くという。

 流れに沿った遊歩道は、北側が開けた気持ちよい田園地帯へ。最初の
橋を渡って佐野集落に入り、西側の高台へ上がって塩の道に戻ると、す
ぐ先に東徳寺があった。

 本堂は小さく無住だが、苔むした観音像など、趣ある石像が並ぶ。明治
7年(1874)には佐野学校が置かれたところとも記されていた。

 佐野集落にも、かやぶき屋根の民家が幾つか残っている。



 次の十字路には古い石仏が50体くらいあり、近くにも立派な大黒天や
双体道祖神などが立ち、この辺り、古くからの信仰が根付いていることが
うかがえる。


 これも、佐野集落に残る家。


 南神城(みなみかみしろ)駅の東を過ぎ、護岸された川を渡ると沢渡集
落。暑さで疲れが出てきたが、線路を越えて西側の山すそにある貞麟寺
(ていりんじ)に回る。

 弘治2年(1556)、仁科氏の支族、沢渡兵部盛賢の母、貞麟尼の開基
という古寺。境内の樹齢500年というイトザクラが見事な枝振りを見せる。


 満開のオカトラノオに、たくさんのヒョウモンチョウが止まって蜜を吸って
いた。


 このようなかやぶきの納屋も、いつまで残るであろうか…


 増築中の小学校の先で一旦国道に出て、すぐ線路際の草の道に入る。
線路が国道に近づいた辺りに道の駅白馬があったので立ち寄り、冷たい
牛乳でのどを潤した。

 神城駅入口の先まで国道を、少し先で右から左へと国道を横切って塩の
道は進む。

 飯田集落の民家。かやぶき屋根の家を見ると、貴重な民俗文化財と思い、
皆撮りたくなる。


 飯田北原庚申塚石仏群の説明板の近くに、大きな地蔵座像と7体の地
蔵立像があった。

 座像は延享元年(1744)の造立。おだやかなたたずまいで周囲の緑に
とけこんでいた。


 「炭火焼白馬茶屋」の看板があるかやぶきの家(上)の横で、大糸線の
西に出て、飯森集落に入る。ここも五竜とおみスキー場を控えて、民宿の
看板が多い。

 昨日の朝寄ったので今日は通過したが、一夜山(いちやさん)の山麓に
ある長谷寺(ちょうこくじ)は、明徳2年(1391)建立の曹洞宗の古寺。

 天和2年(1682)再建の本堂を中心に、庫裏、衆寮、かやぶきの山門
など重厚で落ち着いた建造物が並ぶ。参道の馬頭観音や整った庭園も
必見だ(写真は前日朝撮影)。

 集落を出て、展望が広がる田んぼの中に、飯森神社の森がある。神社
は、飯森氏により南北朝時代の承徳年間(1097~9)に創建、雨乞い、
水乞いの社として知られる。


 南側の流れのそばに、大きな庚申塔や石橋供養塔、馬頭観音などが並
び、きれいな流れには「ホタルの里」の表示がある。


 広々とした田んぼが終わるとKさんの別荘がある林。別荘地の入口にな
っているオリンピック道路でKさんに電話して、2日間の御礼と、時間がな
いので寄らずに、白馬(はくば)駅に向かうことなどを告げる。

 塩の道は、平川橋を渡ってY字路でオリンピック道路に分かれる。深空
(みそら)や、白馬町の角にある庚申塚や百番巡礼供養塔(下)などの石
仏群を見ながら道を急ぎ、16時15分白馬駅に着いた。


(天気 晴、距離 22㎞、歩行地 大町市、白馬町、地図(1/2.5万) 大町、
 神城、白馬町)
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塩の道 千国街道を歩く(信濃木崎から白馬)(2002年)

2009-07-27 21:24:54 | 塩の道を歩く
 今日も、7年前の2002年7月に歩いた最初の塩の道・千国街道、2日
目のレポートです。

==============================

 =仁科三湖を経て白馬村へ=

 2002年7月21日(日)


 
 2日間大変お世話になったKさんの別荘を7時20分に出る。今日は
一人で昨日のコースの先を歩くことにした。

 8時19分、ここも無人の信濃木崎駅に下車。西側は木崎の集落が並
ぶが、東側は安曇沓掛駅と同様、緑あふれる田んぼで、すぐ先に山が迫
っている。



 大きなイチイの木のある木崎集落を抜け、ゆーぷる木崎湖までは前日
の道をたどる。森集落の南西から田んぼの西、山すそへ回り、塩の道の
西ルートに入る。

 アオサギが飛び、ノカンゾウ、ヒメジョオン、ムラサキツメクサなどがたく
さん咲く野道は、向かい風が爽やか。

 山麓の木立の中、太い木の下に「鬼穴古墳」の石碑が立っていた。

 鬼塚とも呼び、直刀などが出土したところのようだ。林でウグイスが競っ
てさえずっている。

 木崎湖西岸に出るとキャンプ場があり、湖畔にはキャンパーや釣り人が
何人か姿を見せていた。


 500mほどで塩の道は山道に入るが、草が茂って通過しにくそうなの
でそのまま湖畔の車道を進む。唐松林の先は杉木立の上りとなり、陽は
差さぬが汗が出る。林床にオカトラノオがたくさん咲いている。

 南平集落からは、木崎湖北面が見下ろせ、展望が気持ちよい。集落に
は3戸のかやぶき民家があった。宮沢の神社で小休止。杉木立の下に
ある手水鉢に、石垣からきれいな水が勢いよく落ちている。

 宮沢に残るかやぶき屋根は、穀物倉だろうか。



 湖を離れ、田んぼや民家をを見ながら北村集落を抜ける。集落内に咲き
競う夏の花。


 木陰が無くなり、日差しが強く暑い。大糸線の東に出て、棚田の間を勢
いよく流れる清流沿いに進んで国道に上がった。

 高速で通過する車に注意し、1㎞余り国道を進む。大町やなば信号を
左へ、中綱集落に入り車から開放され、ほっとする。水神社(下)で小休
止。冬はスキー客で賑わう集落も今は静か。


 民宿が続く中綱集落を縦断する。下は民宿中屋の納屋。


 オタマジャクシがたくさん泳ぐ田んぼの畔から、中綱湖西岸へ。この小さ
い湖にも釣り人がいる。聞くと、ブラックバスが釣れるとのこと。塩の道の
湖から、ブラックバスの追放はできないのだろうかと思う。

 両側から山が迫る糀原から振り返る中綱湖。



 糀原を抜けると、仁科三湖で最大の青木湖。青木集落の入口で、小さ
なかやぶき屋根のかやを10数人で、はいでいた。

 仁科三十三番札所15番の堂崎観音堂の屋根、集落の人が総出で、
1週間かけてふき替えるのだという。

 説明してくれた方が、横に外してあった古い掲額を見せてくれた。堂の
ことを読んだ歌のようだが、達筆で読めない。東側には、たくさんの石仏
が並んでいた。

 青木集落も民宿が多い。集落を出て、西岸に細く突き出た岬、秋葉崎
に向かう林には、ドクダミやオカトラノオ、ガクアジサイなどが咲いている。


 サンアルビナ青木湖スキー場のゲレンデ下付近はキャンプ場で、家族
づれや若いキャンパーの姿が見える。


 キャンプ場が終わる辺りから、杉木立の下を佐野坂に向かっての上り、
佐野坂三十三番観音が道の左側に並んでいる。

 およそ20~30m間隔、最後の方は100m間隔くらいで、文政12年
(1829)に高遠石工によって彫られたという苔むした観音像が続く。

 この2日間で、最も塩の道らしい雰囲気を感じたところであった。

 4番観音が坂の頂上。思ったより楽に佐野坂を越え、白馬村に入る。
2番観音と道を挟んで鬼石というのがあった。西行法師が巡礼の際、休
息された腰掛け石とか、鬼が投げようとして爪を立てた石とかの伝承が
ある。道は佐野に向かって杉木立を下る。
 
 ほぼ下りきって大糸線の東に出た。そばの流れを越えたところに蚕彰
社と呼ぶ小さい社がある。

 木陰で風も通りそうなので、草の上にシートを敷いて昼食にした。(続く)
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塩の道 千国街道を歩く(安曇沓掛から木崎湖畔)(2002年)

2009-07-26 23:11:33 | 塩の道を歩く
 古く神話時代から「塩」を運んで信州の人々の生活を支え、上杉謙信が
敵方、武田信玄の窮状を察して、牛馬により塩を運ばせたと伝えられる、
塩の道・千国(ちくに)街道は、松本から糸魚川までの約30里(120㎞)。

 北アルプスの東側を平行して南北に伸びる道は、どこも景観が素晴ら
しいという。以前から歩いてみたいと思っていた塩の道。思いがけず、こ
の春からのウオークで知ったKさんから、「歩きませんか」とお誘いをいた
だき、参加することにした。

 これが、私が塩の道・千国街道を全コース歩くことになったきっかけ、
今から7年前の夏のことである。

==============================
 
=安曇沓掛から木崎湖畔まで=
 
 2002年7月20日(土)


 
 Kさんと一緒に、白馬村(はくばむら)神城(かみしろ)のKさんの別荘を
出て、JR大糸線飯森(いいもり)駅から上り電車に乗る。隣の神城駅で、
この歩きの主催者でペンション経営のTさんと、ペンションに宿泊してこの
歩きに参加するHさんも乗り込む。

 8時37分、無人の安曇沓掛(あづみくつかけ)駅で下車。ホームは一面
だけで駅舎はない。駅の東側は田んぼが広がり、北の雲間から爺ケ岳が
顔を見せる自然が一杯の駅である。


 塩の道は、東に見える標高1,000m前後の山並みのふもとを南北に走
っている。

 踏切を越えて東に向かい、「日本海へ292㎞」と記された高瀬川の宮本
橋を渡る。大きな石がたくさん堆積された川原、幾つかの川筋に急流が音
を立てて流れる。

 「昔はたびたび氾濫したので川の周辺には住めず、塩の道は山すそにつ
くられたのだ」とTさん言う。

 緑あふれる田んぼの間を進んで宮本集落に上がり、まず仁科(にしな)
神明宮に詣でる。大町地方の豪族仁科氏が、伊勢から勧請した鎮守。

 うっそうとした杉木立に立つ檜皮葺(ひわだぶき)の社で、鳥居や本殿
などの配置は伊勢神宮にならい、日本最古の神明造りの様式を伝える国
宝である。

 20年ごとの式年遷宮が、600年間にわたり守られているという。荘厳な
境内の一隅に、山菜の逸品コシアブラの小木があった。


 十字路まで戻り北に向かう。かやぶきの家が残る宮本から、信州独特
の本棟(ほんむね)造りの家(下)も見える曽根原にかけては、大町市郊
外の家並みや田園の展望が気持ちよい。


 その向こうに北アルプスも望めるはずだが、今日は雲に隠れて前衛の
山々しか見えないのが残念。


 曽根原の北には「ホタルの里」と記された清流が里の方に下っていた。
たくさん並ぶ馬頭観音やキキョウの咲く閏田(うるうだ)集落を抜けると、
大町市民俗資料館があった。

 昭和53年(1978)3月で閉校した社(やしろ)小の建物を利用したもの。
江戸から昭和30年代まで、この地の主要産業だった宮本紙・松崎紙と呼
ばれた二つの和紙の資料や、民具、農具、小学校の古い教科書などが展
示してあった。

 馬頭観音や双体道祖神の残る山すそを更に進む。山下集落を過ぎると、
大町市街の展望が広がる。田園地帯に下り、昭和電工の工場群の横を通
過、農具川の橋近くにある松崎和紙の工房を訪ねる。

 松崎和紙は、長久3年(1042)に仁科神明宮の祭り用に製造したのが
始めとされ、その後、農家の冬の副業として発展したが、現在はここ、腰原
康雄さんご一家だけが伝統を守っておられる。

 腰原さんから、原料のコウゾが和紙になるまでの工程を詳しく説明して
いただく。一定の厚みで漉けるようになるのに年期がいるようだ。

 ご主人が漉いたばかりの和紙に奥さんがモミジの葉を並べ、その上に薄
く漉いた和紙を重ねるという、独自の製法も拝見した。

 農具川を越えると市街地。信濃大町駅の北に出て、塩の道博物館のそ
ばにある「タカラ」というそば屋で昼食にした。

 歩き始めは風もあったが、市街に近づくにつれ気温が上がり、かなりの汗
をかいた。冷たい水とビールがのどにしみる。注文したそばも美味しかった。

 昼食後は、斜向かいの塩の道博物館の見学。建物は、庄屋であり塩問
屋でもあった平林家の母屋と奥行きのある土蔵。平林家は味噌、醤油の
製造販売も行い、庄屋よりも商家という感じが濃い。

 接待の場だった奥座敷、いろり、帳場などに残る古い道具や装飾、牛に
荷を背負わせて塩などを運んだ歩荷(ぼっか)の装具や道具、土蔵にある
塩のにがり溜、農具や民具など、多数の資料をゆっくり見た。

 隣接する流鏑馬(やぶさめ)会館では、京都の加茂神社、鎌倉の鶴岡八
幡宮とともに、伝統を伝える大町の流鏑馬と、夏祭りに関する資料を展示
していた。大町の流鏑馬は、射手が少年というのが珍しいという。

 アーケードのある本通り商店街を北へ。大町市一番の通りだが、閉店し
ている店が目につき、車や人通りも少ない。この時期は同じ市内でも、
アルプス銀座の方が賑わっているようだ。

 アーケードが終わるとナナカマドの街路樹。中にはもう紅葉した木もある。

 大黒町のY字路には、大きな大黒天石像と太いしだれ桜がある。大黒天
像は高さ172㎝、江戸末期の嘉永5年(1852)の建立。松本平で最も古
く、最も大きい像だという。

 推定樹齢約150年というしだれ桜は、樹高8.5m、目通り周囲3.05m、
市内最大のしだれ桜である。

 少し先を標識に従い左に入り、若一王子(にゃくいちおうじ)神社へ。立派
な杉木立を背にした神社は、垂仁天皇の御代にこの地を守った仁品王が
建立、鎌倉時代初期、仁科盛遠宿禰が熊野権現の若一王子を勧請して、
若一王寺の宮となったという古社。

 承応3年(1654)に大修理した、春日造りで檜皮葺の本殿、宝永3年
(1706)建立、かやぶき屋根の観音堂、宝永8年(1711)建立の三重
塔が風格と落ち着きを見せて立つ。


 スギを中心とした広い神社の森は県の天然記念物。流鏑馬会館で見た
大町流鏑馬は7月29日、この神社の夏祭りに奉納されるものである。

 一旦国道に戻り、大黒天のある借馬(かりま)のY字路を左に入る。道路
沿いの水路はコンクリート護岸だが、清流が音を立てて流れ、暑さを和ら
げてくれる。


 借馬から木崎にかけては、何体かの大黒天と、二、三のかやぶき農家が
残っていた。田園の向こうに広がる、蓮華岳などの展望が気持ちよい。






 15時15分、今日のゴール、木崎湖南岸の「ゆーぷる木崎湖」に着く。
プール棟と温泉棟に分かれていて、夏休み最初の土曜日とあって、どちら
も賑わっている。われわれは温泉棟で、1日の汗と疲れを洗い落とした。

(天気 晴、距離 15㎞、歩行地 大町市、地図(1/2.5万) 大町南部、
 信濃池田、大町)
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蓼科国際ジョイアスロン大会で八子ヶ峰へ(2000年・長野)

2009-07-25 16:39:14 | ハイキング
 8月中旬から下旬にかけて2週間ほど留守にするので、その準備など
もあり、このところ外出を控えています。

 そのため、最近のウオーキングレポートがありませんので、過去、この
時期に出かけた記録を引っ張り出して、幾つか報告します。

 今日は、9年前の2000年7月下旬のレポート、前半は写真が見つかり
ませんので、文章だけになります。

==============================

 =蓼科国際ジョイアスロン大会へ=

 2000年7月22日(土)~23日(日)



 7月22(土)~23日(日)、信州・蓼科高原で開催された「第1回蓼科
国際ジョイアスロン大会」に参加した。

 2日間でウオーキング、サイクリング、スイミングの三つを楽しむ大会で
ある。

 7月22日(土)は、サイクリング(20㎞)とウオーキング(20㎞)に参加
の予定で8時半過ぎ、蓼科湖畔のサイクリング受付へ。あいにく乗り慣
れたママチャリ(パパチャリ?)が出払っていて、マウンテンバイクに乗る
ことになる。

 コースは1周1.3㎞の蓼科湖畔を15周。最初は乗りにくかったマウン
テンバイクも、2~3周で要領が分かり、ほかの人を追い抜くようになった。

 湖畔ので傾斜が少ないのと、緑多い湖畔や蓼科山などを眺めながらの
走行は快適。約1時間で周回を終わった。

 弁当を受け取り、すでに何十人か出発後の20㎞ウオーキングコースへ
向かう。ところがもらったコース地図がかなり簡略。目標が少なく、行きと
帰りの方向も書いてない。

 ゴルフ場の横を下って、ハーブ園の先から田園地帯に出る。前後にほと
んど歩行者が見えず目印の矢印も無く、この道でよいのやら分からなく
なった。

 持っていった2万5千分の1地形図と比べるが、新しい道路が出来てい
て分かりにくい。電柱の標識で字名(あざな)を確認、さらに地元の歩行者
や、トウモロコシ畑にいた人に聞いたりして、なんとか12時前に、復元し
た縄文時代の縦穴住居が並ぶ裏側から、チェックポイントの尖石(とがりい
し)縄文考古館に着く。

 考古館は、前日にオープンしたばかり。周辺は記念セレモニーやチャリ
ティバザールなどに来た人でいっぱい。館の横で昼食をしてから今日は
無料の館内を見学する。

 帰りは、「用水沿いに行けば矢印がある」と言われて出たが、やはり見
あたらず。暑い日差しの中、少し回り道をして途中からようやく見つかった
矢印を頼りに進み、14時半ころ蓼科湖畔に戻った。

 スイミングは明日を予定していたが、16時まで泳げると聞いてプール平
へ急ぎ、屋外プールで500m㍍泳ぐ。疲れてはいたが、大汗をかいた後
だったので、冷たい水が気持ちよかった。

 7月23日(日)、宿からウオーキングスタート地への途中にプール横を
通過するので、もう一度泳ぐことにした。8時過ぎプールに入り、前日同様
500m㍍泳いだ。

 湖畔のスタート地に着いたら出発式の最中。今日の20㎞は八子ヶ峰
(やしがみね)に登る里山コースなので、リーダーについての団体歩行。
9時半過ぎ伊藤浩史リーダのもとに、20数人がスタートする。

 プール平から瀧の湯川に下り、別荘地横から山道に入る。伊藤左千夫
句碑の横を通過、樹木に覆われた林道をゆっくり上がる。

 1,800mを超えると展望が開ける。ヒュッテの下でスイカのサービスを
受け、12時前、三角点のあるヒュッテアルビレオに着いた。

 周辺の草原はニッコウキスゲ、ハクサンフウロ、タカネナデシコ、ヤナギ
ランなどが咲く。

 展望もすばらしく、八ヶ岳(上)、南アルプス(下)、中央アルプス、穂高や槍
など残雪の北アルプスなどが一望である。


 八ヶ岳北部のアップ


 それに続く八ヶ岳南部のアップ


 間近に蓼科山も望まれる。


 昼食後は、見晴らしの良い尾根を八子ケ峰山頂へ。下は、山頂付近から
八ヶ岳の横岳方面。


 山頂付近に咲くニッコウキスゲ。


 下りは、東急別荘地に出る。別荘地をしばらく下って国道に出て、15時
半過ぎ湖畔にゴールした。

 快晴で日差しは強かったが、高原に吹く風ははさわやか。グリーンシャ
ワーをいっぱいに浴びて、快適なウオークであった。
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カタツムリ歩行 秋津(東京)

2009-07-22 22:05:14 | カタツムリ歩行
 今日、7月22日(水)、国内では46年ぶりという皆既日食でしたが、
雨のところもあり、せっかく数日前から遠路出かけて用意しても、見ら
れなかった島もあったようですね。

 皆さんのところは、部分日食でもご覧になれたのでしょうか。首都圏
のわが家は曇り空で見ることは出来ず、TV中継での皆既日食の模様
を、「もう次は見られないな…」と思いながら見ていました。

 レポートは、3日前の7月19日に歩いたカタツムリ歩行の模様です。

=============================

 2009年7月19日(日)



 カタツムリ歩行の第186回例会に参加した。集合は西武池袋線の
秋津駅。北口と南口があるのだが、全員、乗降者の多い南口に降りた
ようだ。10時過ぎにスタートする。

 駅前を南へ、野塩五丁目の住宅地を進む。わずかに残る畑の一角
に、ゴマに似た花が咲いていた。


 横の通りに入ると、廃屋があり、崩れかけた壁は木舞(こまい)が
むき出しになっている。


 その奥に竹やぶが見えたので回ってみたら、東村山市の緑地保護
区域になっていた。

 もとの通りに戻って東北に向かい、駅東側の踏切を越える。秋津駅
北口を過ぎ、東村山市と所沢市の都県境付近の道路を進む。地図上
より、所沢市のエリアが東に入っているようだった。

 最初の十字路を右折して東に進むと、「キッコーマス」という名の学生
寮がある。近くの明治薬科大の学生向けのものらしい。

 変わった名の学生寮だなと思いながら進むと、かすかに醤油の香り
のする古い大きな建物がある。背後には太いケヤキが数本立つ。

 表の方に回ってみたら、道路を挟んだ両側は「キッコーマス」の醤油
工場跡。

 敷地の隅に、醤油を入れるカメが置いてある。

 これで学生寮の名のナゾも解けた。廃業したのは近年のことらしく、
敷地の一角を駐車場や学生寮に転用したらしい。

 その先の民家の庭先に、ごつごつした実の下がる柑橘の木がある。
なんの実なんだろうか…。


 台地から北に下り、右に斜面林を見ながら都営野塩団地内を東端ま
で進む。団地に続く明治薬科大の南側を回って行くと、車道と歩道を
仕切る敷石のところどころに飾りがある。

 
 こちらが、明治薬科大の正門を入ったところ。


 近くの空堀川(からぼりがわ)の梅坂橋を渡る。

 川の右岸、斜面林の下には「柳瀬川回廊」と記された遊歩道が設け
られている。橋の傍らに、あまり見たことのない花が咲いていた。

 ご一緒したjunjunさんからのメールでは、ニガクサではないかとの
こと。ネットの花の図鑑で調べたら、どうもそのようだ。

 清瀬四中の西側を進んで、新しい大きな仁王像が立つ円福寺へ。
 

 境内は広くて木々も多い。まず階段を上がって薬師堂に参拝。そば
に「ビワかけの松」というのがあるようだが見つからなかった。


 薬師堂の前に、コンクリートの円筒に祭られたお地蔵さんが、階段下
には重そうな石造りの摩尼車(まにぐるま)が二つあり、いずれもほか
ではない珍しいもの。


 大きな本堂は新しく、その前に背の高いイチョウの古木が大きく枝を
広げていた。

 開山四百年を記念して立てたという三重塔はさらに最近のもののよう
で、柱や壁面の白木は真新しく光っている。


 これもピカピカの新しい山門を出て、南側の広葉樹林に付けられた
遊歩道を進む。薄暗い林の中に、ノカンゾウかキツネノカミソリのよう
な花が咲いていた。


 林が尽きた西武池袋線の線路際にある八幡神社が今日のゴール、
12時10分に着いた。

 神社の境内もうっそうとした広葉樹に囲まれ、りっぱな桜やモミジな
ども繁る。

 蚊に食われながら昼食を済ませ、社殿の前で記念撮影とミーティング
をして、13時前散会となった。


 かなり蒸し暑いので午後の寄り道・回り道は止め、駅に向かう。空堀
川を渡って野塩一丁目に入ると、三差路に大きな地蔵さんが立っていた。

 西武池袋線秋津駅から、二つ先のわが家の最寄り駅、西所沢に向かう。

(天気 薄曇り、距離 4㎞、地図(1/2.5万) 所沢、歩行地 東村山市、
 所沢市)
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夏の奈良近郊古社寺巡り③(室生寺と長谷寺)〈続き〉

2009-07-20 12:12:45 | 奈良を歩く
 8年前のレポート、3日目は写真が多いので前半、後半に分けました。
その後半、長谷寺のレポートです。

=============================

 ◇◇◇ 室生寺と長谷寺へ ◇◇◇

 2001年7月18日(水)〈続き〉



 上本町行き急行に乗り長谷寺へ向かう。ところが停車駅を確認せずに
乗り、外の景色(下)を眺めていたら長谷寺を通過、桜井まで行ってしま
った(「シマッター」と思ったがもう遅い…)。


 間もなく来た下り電車で折り返し、長谷寺駅で下りた。

 階段を下りて国道と大和川を渡り、右折して長谷寺の門前町へ。古い
旅館、草もち、酒、三輪そうめんなどの店が並ぶ。


 天神橋の手前を左折し、狭い道の両側に並ぶ土産物店の間を上がる
と、正面に長谷寺の山門が見えてきた。


 長谷寺は、飛鳥川原寺の道明上人が朱鳥(あかみどり)元年(686)に
開山。真言宗豊山派の総本山で、西国三十三観音霊場第8番札所であ
る。

 重文の仁王門をくぐると登廊(とうろう)と呼ぶ屋根の着いた回廊式の石
段(下)が続く。


 登楼の最上部には、鐘楼が設けられている。


 登楼周辺には150種、7000株のボタンが植え込まれ、日本一のボタ
ン園だという。今は、咲き残ったアジサイが境内で見られる。

 スピーカーで寺の案内を聞きながら、399段の登廊を上がり本堂横に
出た。

 重文の本堂は慶安3年(1650)、徳川家光公寄進による再建。舞台
造りの建物は東大寺大仏殿に次ぐ大きな木造建造物。建物の中心を貫く
通路の北側に高さ10m、楠ので造られたわが国最大の木造仏、本尊十
一面観世音菩薩がある。

 観音・地蔵の御徳を併せ持つ長谷型観音と呼ばれる尊像は、金色に輝
き慈悲深いお姿で立つていた。

 外舞台からは眼下に広がる広い寺域や、緑あふれる周辺の山並みの展
望がすばらしい。



 東側の能満院(上)、西側の御供所、弘法大師御影堂などを回り五重塔
の下に出る。


 校倉造りの建物は、写経堂である。


 大きな建物の本坊(下)そばまで行き、西参道を下って1時間近い拝観を
終えた。


 緑に埋もれた境内は、桜、ボタン、アジサイ、モミジなどが多く、花の寺と
呼ばれるだけに、四季折々いつ来てもよいと思われた。

 長谷寺駅に戻り15時34分発上本町行き電車で帰途につく。

 梅雨明け直後で連日暑かったが、修学旅行生の姿は無く、観光客も極め
て少なく、数多い仏像などもゆっくり拝観できたのが何よりであった。

 (天気 晴、地図(1/2.5万) 大和大野、初瀬、距離 5.5㎞)
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夏の奈良近郊古社寺めぐり③(室生寺と長谷寺)

2009-07-19 22:50:16 | 奈良を歩く
 今日、7月19日(日)は、カタツムリ歩行の例会で、西武池袋線秋津
駅周辺を歩いてきましたが、かなり蒸し暑かったです。このレポートは
明日以降にいたします。 

 本日も、8年前の今ごろ訪ねた、奈良の古社寺巡りレポート、その最
終日(3日目)です。

==============================

 ◇◇◇ 室生寺と長谷寺へ ◇◇◇

 2001年7月18日(水)



 8時前、奈良市内の宿を出て近鉄奈良から西大寺、大和八木と乗り継
ぎ、室生口大野に向かう。途中、榛原で乗り継ぎが悪く、30分余り待つ。
室生口大野10時5分発バスは、水の少ない室生川沿いに15分ほどで
室生寺に着いた。

 旅館や土産店の並ぶ川沿いに進んで、赤い欄干の太鼓橋を渡ると、緑
あふれる室生寺境内である。

 室生寺は8世紀末期、興福寺の僧賢憬(けんえい)が勅命により国家
のために建立した寺。女人禁制の高野山に対し、女性の参詣を許したの
で「女人高野」と呼ばれる。



 檜皮葺(ひわだぶき)の大きな仁王門を入り、弥勒堂(上)の前から国宝
の金堂(下)へ上がる。

 内陣には高さ2m38㎝、堂々とした一木造りの本尊・釈迦如来立像を
中心に、薬師如来像、地蔵菩薩像、文殊菩薩像、十一面観音菩薩像など
国宝や重文の像が立ち、その前に運慶作と伝えられる力強い十二神将像
が並んでいた。

 石段上には灌頂堂と呼ばれる鎌倉時代建築の本堂があり、日本三如意
輪の一つ、平安初期の重文・如意輪観音像が安置されている。

 年代を重ねた檜皮葺の西側屋根には草木が伸びていた。

 本堂奥に1998年9月の台風7号で被災、昨年秋修復を終えた五重塔
が立つている。天平時代建立の国宝で、高さは16.7m、屋外に立つ五
重塔の中では最小である。

 軒の出の深い檜皮葺屋根と、朱塗りの柱や白壁が鮮やかな彩り。西側
斜面には、五重塔に倒れたと思われる太い杉の根が数本残っていた。

 塔の横から奥の院に向かって、太い杉木立の間に参道が延びている。

 この辺りはシダも多く、暖地性シダの北限にあたり、天然記念物に指
定されている。

 最後に、390段余りの石段を上がると汗が増える。奥の院には、舞台
造りの位牌堂と重文・御影堂、位牌堂横の大岩上には七重石塔(下)が
ある。


 御影堂は、厚板段葺きという屋根上に石造の路盤を乗せた、他にない
珍しい建物だ。


 古い位牌が並ぶ位牌堂(上)の舞台で休憩。涼風を感じながら木の間越
しに見える室生の集落や緑の山並みを眺める。

 位牌堂の下には穏やかな顔の古い地蔵さんがあった。

 境内にはシャクナゲやモミジが多く、春のシャクナゲ、秋の紅葉の見事
さが想像される。

 1時間あまりの室生寺拝観を終え11時55分のバスで往路を戻る。駅
の一つ手前の大野寺で下車。小さい山門を入って大野寺へ。

 大野寺は天武10年(681)、役行者(えんのぎょうじゃ)が開山し、のち
弘法大師が室生寺の西の大門として再興した。境内は広くはないが、樹
齢300年など、立派なしだれ桜が数本あり、花の時期は賑わいそう。


 ここでの必見は、宇陀川の対岸岩肌に線刻された弥勒菩薩の磨崖仏
(まがいぶつ)。

 承元3年(1209)開眼で高さ11.5m。一昨年3月に保存修理工事
が終わり、柔和な仏様の表情がかなり分かるようになった。

 真崖仏は、下のようなお姿だという。


 室生村役場を右に見て、室生口大野駅までは歩いて5~7分である。
                                (続く)
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夏の奈良近郊古社寺めぐり②〈斑鳩の里〉

2009-07-18 21:05:21 | 奈良を歩く
 前日に続き、8年前の2001年7月に訪れた、奈良近郊の古寺めぐり
のレポートです。

==============================

 ◇◇◇ 斑鳩の里を巡る ◇◇◇

 2001年7月17日(火)



 寝坊してしまい、8時半過ぎ奈良市内の宿を出る。さっそくシンシンシン
シンと鳴く西日本特有のセミの声が暑さを感じる。

 電車で近鉄郡山駅まで行き、少し離れたバス停から法隆寺行きバスに
乗り10時1分終点で下車する。

 松並木が続く参道入口にある法隆寺 i センターに入り、斑鳩(いかるが)
の里のジオラマなどを見て短時間で出る。車の多い国道を、西に役場前
まで進み、北側に平行する旧道を500mほど進んで龍田神社へ。

 神社前の通りは大坂と奈良を結ぶ街道筋。龍田は浪花、奈良、伊勢、
当麻(たいま)への分岐点として、龍田神社を中心に商家、旅籠が軒を並
べ商業の中心地だったところ。

 神社周辺には当時の面影をしのばせる家並みが残っている。

 龍田神社は聖徳太子が法隆寺建立の際、法隆寺の鬼門守護神として
祭られた。有原業平が古今集で詠んだ紅葉の名所でもある。



 境内には楠大明神のご神体で樹齢1,000年の楠の大樹(上)、樹齢
1,200年のソテツの巨樹(下)、能楽の大和猿楽の一つ、金剛流発祥
の地の碑などがある。


 神社の北に出て、水田や古い民家の間を東に進み、役場の北側山す
そにある藤ノ木古墳へ行く。

 草木に覆われた円墳は、6世紀後半のものと推定され、昭和60年
(1985)と63年の発掘調査で一躍脚光を浴びた。

 埋葬当時の姿がほとんど残され、被葬者は2人、豪華な副葬品が数
多く発掘されたという。そばに家形石棺のレプリカ(下)があった。


 古墳入口の三叉路には、「くさでんば」と呼ぶ瘡地蔵、病気身代わり
地蔵、延命地蔵、道祖神のような双体地蔵など、20体以上の小さな地
蔵さんが並んでいる。


 古墳付近から法隆寺までの間は「西里」と呼ばれ、かつて法隆寺を
支えた大工集団の本拠。長い築地塀で囲まれたT家、N家など、宮大
工の家ではないかと思われる家があった。


 いよいよ、修学旅行以来40数年ぶりの法隆寺へ。1993年12月、
日本最初の世界遺産に登録され、1,300年前の飛鳥時代の姿を現在
に伝える世界最古の木造建築群である。


 境内図を見てこんなに広く、こんなにたくさんの建物があったとは…。
広さ約18万7千㎡の境内に40以上の建物が並んでいる。

 金堂、五重塔を中心とする西院、夢殿中心の東院、さらに中間にある
大宝蔵院が拝観の中心。時期がら修学旅行や大口団体の人たちの姿
が全くないのがなにより。

 まず中門を入って五重塔、大講堂、金堂(下)などを回る。

 大講堂で国宝・薬師三尊像や四天王像を、金堂では釈迦三尊像、薬師
如来像、阿弥陀如来像などの国宝仏を拝観した。

 鏡池の前から、綱封蔵という細い建物の横を入って、3年前に落成した
大宝蔵院に入る。白鳳時代の夢違観音像、飛鳥時代の玉虫厨子、阿弥
陀三尊像、百万塔、金堂小壁画など法隆寺の貴重な宝物類が多数安置・
展示されている。

 中心の百済観音堂には、わが国仏教美術の代表として世界的に知ら
れる飛鳥時代作、八頭身のすらりとした百済観音像が優美で慈悲深い
姿で立つ。拝観の人たちもじっくりと見入っていた。

 暑さが厳しい。途中の休憩所で冷たいものを飲んで一休みする。


 古い築地塀の通りを東に進んで東院の夢殿(上)を拝観。聖徳太子の
遺徳をしのんで天平11年(739)に建立した八角形の伽藍。中央の厨
子に、聖徳太子等身の秘仏、救世(くせ)観音像を安置している。

 夢殿の北から東に回って中宮寺へ。聖徳太子の母、穴穂部間人(あな
ほべのはしひと)皇后の発願により、西の法隆寺と対照的な位置に創建
された。現在の建物は耐震耐火建築により昭和43年(1968)落慶の
もの。

 国宝の本尊如意輪観世音菩薩半跏像は、飛鳥彫刻の最高傑作であり、
エジプトのスフィンクス、ダ・ヴィンチのモナリザと並んで「世界の三つの
微笑像」とも呼ばれているという。

 スピーカからの説明を聞きながら、気品あるお姿をゆっくりと拝観した。

 13時を過ぎたので昼食とする。法隆寺門前に戻り、民家風で古い農
具などが吊してある茶房・松鼓堂という店に入り、赤米御飯つきのざる
そば定食を食べた。

 西院と東院の間を北に抜け、山すその天神池に向かう。畑の一角に夢
殿を形取った、野菜を無人販売する建物があり、いかにも斑鳩らしい。


 南の空が暗くなりゴロゴロと鳴り出した。片野池の東にある斑鳩神社
に寄る。

 天慶年間(938~)に、旧法隆寺の守り神として建立され、元享4年
(1324)現在地に移したといわれる。

 神社裏を東に進み片野池の横から北に向かうと、正面に三重塔が見
えてきた。地名にちなんで三井寺とも呼ばれる法輪寺である。

 聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の建立で、創建
当時の三重塔は昭和19年(1944)に落雷で消失し、現在の塔は昭和
50年(1975)に再建したもの。

 講堂で薬師如来座像、虚空蔵菩薩立像、弥勒菩薩立像、地蔵菩薩立
像など、飛鳥時代や平安時代の重文を拝観した。

 上空が暗くなり、雷鳴が近づき雨も落ちてきた。傘を差して600mほど
東の法起寺(ほうきじ)に急ぐ。間は田んぼと畑、寄り道するような建物は
無い。

 途中から本降りとなり、急いで法起寺にかけ込む。間もなく激しい雷雨
になった。

 庭の一角にある休憩舎でしばらく雨宿り。小降りになった頃、受付の方
が来て、法起寺や法隆寺などにつきいろいろ説明して下さった。

 法起寺は、聖徳太子が法華経を講説した岡本宮を寺に改めたと伝えら
れ、太子建立の七ケ寺の一つ。幾度かの火災で荒廃したが、国宝の三
重塔は慶雲3年(706)建立の日本最古の三重塔。世界遺産でもある。

 1時間ほどで雨も上がった。三重塔、講堂、聖天堂などを回り、収蔵庫
の木造十一面観音菩薩立像を拝観し、寺を出る。

 芦川を越え、東1㎞ほどの庭園が見事だという慈光院にも寄りたかった
が、拝観時間の終了間近だったのあきらめ、小泉町からの細道を入って、
16時40分にJR関西本線大和小泉駅に着いた。

(天気 晴曇一時雷雨、地図(1/2.5万) 信貴山、大和郡山、距離 8㎞)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〈注〉最初にお断りした通り、これは8年前の写真です。

 現在の藤ノ木古墳の様子は、当ブログ・ブックマーク欄のトップ、「冬青
(そよご)風」の「竜馬16」さんが、7月12日付けで投稿されていますの
で、以下をクリックしてご覧下さい。
 
 http://blog.goo.ne.jp/ryouma16_october/d/20090712


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夏の奈良近郊古社寺めぐり①〈西の京〉

2009-07-17 19:01:49 | 奈良を歩く
 暑さに弱い私は、7~8月はあまり積極的にウオーキングには出か
けません。したがって最近のレポートがないので、いつもは開けない
押し入れから探し出した写真と、パソコンの古いファイルから探した、
8年前の2001年7月に奈良県内を3日間歩いたレポートを…。

 まず初日のものです。

============================

 ◇◇◇ 西の京を訪ねる ◇◇◇

 2001年7月16日(月)

 東京駅8時10分発こだま407号に乗る。今回はJR東海限定発売
「奈良の遊々きっぷ」の、こだまグリーンプランを利用した。

 東京~京都間こだまグリーン車利用、近鉄の京都~飛鳥間と、奈良
市周辺の奈良交通バスが乗り放題で、2万1千円という割安キップで
ある。

 2階建てグリーン車の乗客は数人だけ。広い座席と2階からの展望は
快適。新横浜~小田原間で夏顔の富士山が裾野近くまで見えた。




 京都から近鉄の快速急行と普通電車を乗り継ぎ、13時過ぎ西ノ京駅
で下りる。小雨模様だがたいしたことはなさそう。駅の近くで軽い昼食を
すませ、まず、30数年ぶりの薬師寺へ。

 天平2年(730)建立、国宝の三重塔・東塔(上)のほか、昭和50
年代(1975~)再建の西塔、金堂(下)、中門、回廊などが白鳳の
昔をしのばせてくれる。大講堂も再建中である。


 金堂にある国宝・薬師三尊像を拝観。台座に浮き彫りされた文様は、
ギリシャ、インド、中国、ペルシャなどの文化を伝え、奈良時代の文化
が国際的な広がりを持っていることを証明している。

 一旦南門を出て、小さな流れの乾川の南にある薬師寺の鎮守、休岡
八幡宮に参拝。本殿の左右に脇殿を備えた朱塗りの社殿は慶長8年
(1603)豊臣秀頼の再建という。



 薬師寺に戻り境内を北に抜け、蓮の咲き出した世尊院横から、玄奘
三蔵院伽藍(げんじょうさんぞういんがらん)にある大唐西域(だいとう
さいいき)壁画殿へ入る。


 今年(2001年)1月1日0時、二十一世紀の幕開けの瞬間、日本画
家・平山郁夫氏が描いた「大唐西域壁画」が完成し、公開されたもの。

 中国の嘉峪関(かよくかん)、高昌古城(こうしょうこじょう)、須弥山
(しゅみせん)、アフガニスタンのバーミヤン石窟、インド・デカン高原の
夕べなど七つの大壁画が、現地に立っているような迫力を感じる。

 平山画伯が、構想から30年以上費やして完成したという、超大作で
ある。

 静かな住宅地を北に進んで唐招提寺に入る。南大門から距離があっ
たように思った金堂が意外に近い。「天平の甍」で知られる金堂は残念
ながら解体修理の調査中。修理の終わる8年後まで拝観はできないよ
うだ。


 緑あふれる境内は雨に濡れてみずみずしい。西側のインドの古塔を模
した戒壇(上)から、ハスの咲く水辺を回って講堂へ。重文の本尊・弥勒
菩薩や持国天、増長天などを拝観。鼓楼横から東室と礼堂の間を抜ける。

 天井のツバメの巣から4羽の子ツバメが顔を出していた。



 天平時代の二つの校倉(あぜくら)、経蔵と宝蔵(上)、鑑真和上御廟
(下)、芭蕉句碑、風情ある古い土塀など、樹木に囲まれた広い境内には
見どころが多い。修学旅行ではこんな奥まで見学する余裕はなかった。


 最後に新宝蔵へ入り、奈良時代の重文・薬師如来、大日如来、観音菩
薩など10数体の立像や、鎌倉時代の法会所用具、絵巻、聖徳太子立像
などを拝観して寺を出た。

 なお、薬師寺、唐招提寺ともに世界遺産である。

 近鉄橿原線の西に出て、線路沿いに北に進む。青々とした田んぼの向
こうに、こんもりとした森が見えてきた。

 周囲を水壕に囲まれた全長227mの大きな前方後円墳・垂仁天皇陵で
ある。岸辺のくいにアオサギが止まっていた。

 陵内の木にも何羽かのアオサギが見える。

 東側の壕に沿った遊歩道を北に抜けたが、草が茂っていて雨上がりな
のでズボンが少し濡れた。平行する二つの国道を信号と地下道で越えて
菅原町に入る。

 小さい流れのそばに菅原天満宮遺跡天神堀というのがあった。菅原道
真公産湯の地と伝えられる小さい池があり、説明板が立つている。


 手前の住宅地の細道を西に進んで菅原神社へ。

 菅原道真と祖先の野見宿禰(のみのすくね)、始祖の天穂日(あまのほ
ひ)命を祀る。神社の狛犬は牛で、3対あった。


 直ぐ南西に大きな屋根が見えた。菅原寺とも呼ばれる喜光寺(きこうじ)。
拝観時刻を過ぎていたが、受付の方に話して少しだけ拝観させてもらう。

 本堂は東大寺大仏殿のモデルとして造られたというが、なるほど大仏殿
に似ている。庭には約200個あるというハスの鉢が並び、雨でしっとりし
た花びらを開いていた。

 西大寺南町の新興住宅地や、拡幅中の道路を北に進んで、17時42分
に近鉄西大寺駅に着いた。

(天気 曇一時雨、地図(1/2.5万) 奈良、大和郡山、距離 5㎞)
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