2012年6月25日(月)
私の、JR東日本「駅からハイキング」2日目は、青森県第3の都市の玄関、弘前
(ひろさき)駅からだが、受付は10時から11時の間になる。
宿泊した東横インは駅前すぐのところにあり、朝食後10時までには時間があるので、
その前にコース外の旧弘前偕行社(かいこうしや)まで往復することにする。9時ちょ
うどに弘前駅前をスタートした。
駅前広場から西に向かうバス通りを進み、交差する並木通りの先で南を平行する通り
へ。県道109号に入ると、分離帯のラベンダーが見ごろになっていた。
旧弘前偕行社の東側に、「太宰治まなびの家」があった。大正10(1921)年に
建てられた旧藤田家住宅で、「中廊下型住宅」と呼ばれるものとか。
のち太宰治となった津島修治が、旧制官立弘前高校に通学した昭和2年(1927)
から5年まで止宿した家だという。開館は10時からなので、中には入れなかった。
道路を隔てて西側の、弘前厚生学院構内に旧弘前偕行社がある。明治末期、日清戦争
後に増設された陸軍第八師団の親睦厚生施設として建設されたもの。
イタリアのルネッサンス様式を基調とした建物で、東北地方に現存する陸軍関係施設
の代表的遺構として、国の重要文化財に選定され、現在は弘前厚生学院の記念館になっ
ている。
帰路は、平行する道などを戻り、9時55分に弘前駅前に着いた。10時を待ち、駅
構内の弘前市観光案内所に入る。「駅からハイキング」の受付をして、10時5分にス
タートした。
駅前広場から、西に延びる自転車と歩行者だけの遊歩道に入る。すぐに公園があり、
緑陰に噴水やベンチが設けられていた。
幅広い遊歩道の両側には商店が並び、ところどころに大きなモニュメントも並んでい
る。遊歩道は700mほどで終わった。
品川町から住吉町へと進み、背後に大イチョウの立つ松尾神社の横を通過する。
弘前中央病院の南側で左折し、稲荷神社境内に沿って進む。鳥居には、太いしめ縄が
下がっていた。
その通りが終わったところに小屋があり、御膳水(ごぜんすい)と呼ぶ湧水が出てい
る。
貞享3年(1686)、津軽藩四代藩主の命により紙すき用の水源として設けられた
「紙漉座(かみすきざ)」のひとつ。
明治14年(1881)、明治天皇巡幸の折、この水をお茶や食事の用水として使用
したので、以来「御膳水」と命名されたという。水はよどんでいて、現在の湧水量は少
なそうだった。
そばの三差路を右折してすぐ先にも、「富田の清水」と呼ぶ湧水の小屋が設けられて
いる。やはり紙漉座のひとつ、昭和の初めまで紙すきに利用され、その後は生活用水と
して使用されたとのこと。
こちらは環境庁の「名水百選」に認定されていて、車で来た人が何本ものペットボ
トルにくんでいた。私もコップで飲んでみたら、まろやかな味わいだった。
弘南鉄道大鰐線の踏切を越えて、突き当たりの高台にある最勝院に上がる。桜や松、
モミジなどの古木に囲まれた広い境内には、幾つもの堂塔が並び立つが、いちばん目に
つくのが高さ31.2mの五重塔である。
津軽統一の際、敵味方の区別無く戦死者を供養するため、三代藩主信義から四代藩主
信政にかけて建造されたもの。完成は寛文7年(1667)東北一の美塔とたたえられ、
国指定重要文化財になっている。
ほかに、如意輪観音を祭る六角堂↑、密厳舎、聖徳太子堂、「平和の鐘」を吊す鐘楼、
最近再建らしい水屋などがあり、本堂は修理中。聖徳太子堂のそばには、大きな庚申塔
が並んでいた。
りっぱな山門を出て、北側の八坂神社に回り参拝する。約300年前に祈願所として
創設され、文武両道の神として崇敬されているという。
境内には桜の古木が何本か見られる。
神社の北から、新寺町寺院街に向かって伸びる通りを少し進み、県立弘前高入口の先
にある袋宮寺へ。
そう広くはないが緑の多い境内、本堂は延宝5年(1677)ころの建立と伝えられ、
本尊にあわせて天井が高く、県重宝になっている。
本尊十一面観音は、四代藩主信政が父の菩提をともらうために弘前城内の老木を使用
して造らせたものとか。像高は5.95m、県下最大級の木造物で、「背高観音様」と
して知られ、本堂同様に県重宝である。
正面の扉が閉じていたので、開けるまでこのような大きなご本尊があるとは気づかな
かった。堂内に、「駅からハイキング」のチェック用スタンプがあり押印する。
道路を隔てて北にあるのが稲荷神社↑。寛永5年(1628)の建立といわれ、当時
からのものと推定されるイチイの古木↓や、市内最大級というケヤキなどが保存樹林と
して管理されている。
袋宮寺の南西に回って報恩寺に入る。明暦元年(1655)11月、江戸で亡くなっ
た三代藩主信義の菩提を弔らうため四代信政が翌二年に創建したという。現在の本堂は
宝永元年(1704四)の再建で、県重宝となっている。
本堂前には、本尊釈迦如来の脇侍である獅子に乗った小さい文殊菩薩が祭られていた。
稲荷神社に戻り、西側を回って弘前大学医学部の前に出て、水の涸れた寺沢川沿いを
西に向かう。
下寺沢橋で川に分かれ、次の信号を西へ、すぐに右折して寺町の東側の通りを北進する。
中ほどまで進むと天満宮の大きなのぼりが立ち、さらに直進して天満宮境内に入った。
境内は桜が多く、良い緑陰となっている。
西側には、大正期の「全国大桜番付」にも記載され、県天然記念物で推定樹齢500
年以上という 、「天満宮のシダレザクラ」がある。
シダレザクラの西は断崖となっていて、残雪の岩木山が頭を雲に隠して望まれる。
参道の中ほどから土手のトンネルを東に抜けて、覚仙町の家並みを進む。突き当たり
を左折して、「趣のある建物」に指定された大阪屋前や消防署前を通過する。
道路を挟んで弘前市役所と相対する今日のゴール、近代的建物の弘前市立観光館に
12時35分に着いた。 (続く)
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私の、JR東日本「駅からハイキング」2日目は、青森県第3の都市の玄関、弘前
(ひろさき)駅からだが、受付は10時から11時の間になる。
宿泊した東横インは駅前すぐのところにあり、朝食後10時までには時間があるので、
その前にコース外の旧弘前偕行社(かいこうしや)まで往復することにする。9時ちょ
うどに弘前駅前をスタートした。
駅前広場から西に向かうバス通りを進み、交差する並木通りの先で南を平行する通り
へ。県道109号に入ると、分離帯のラベンダーが見ごろになっていた。
旧弘前偕行社の東側に、「太宰治まなびの家」があった。大正10(1921)年に
建てられた旧藤田家住宅で、「中廊下型住宅」と呼ばれるものとか。
のち太宰治となった津島修治が、旧制官立弘前高校に通学した昭和2年(1927)
から5年まで止宿した家だという。開館は10時からなので、中には入れなかった。
道路を隔てて西側の、弘前厚生学院構内に旧弘前偕行社がある。明治末期、日清戦争
後に増設された陸軍第八師団の親睦厚生施設として建設されたもの。
イタリアのルネッサンス様式を基調とした建物で、東北地方に現存する陸軍関係施設
の代表的遺構として、国の重要文化財に選定され、現在は弘前厚生学院の記念館になっ
ている。
帰路は、平行する道などを戻り、9時55分に弘前駅前に着いた。10時を待ち、駅
構内の弘前市観光案内所に入る。「駅からハイキング」の受付をして、10時5分にス
タートした。
駅前広場から、西に延びる自転車と歩行者だけの遊歩道に入る。すぐに公園があり、
緑陰に噴水やベンチが設けられていた。
幅広い遊歩道の両側には商店が並び、ところどころに大きなモニュメントも並んでい
る。遊歩道は700mほどで終わった。
品川町から住吉町へと進み、背後に大イチョウの立つ松尾神社の横を通過する。
弘前中央病院の南側で左折し、稲荷神社境内に沿って進む。鳥居には、太いしめ縄が
下がっていた。
その通りが終わったところに小屋があり、御膳水(ごぜんすい)と呼ぶ湧水が出てい
る。
貞享3年(1686)、津軽藩四代藩主の命により紙すき用の水源として設けられた
「紙漉座(かみすきざ)」のひとつ。
明治14年(1881)、明治天皇巡幸の折、この水をお茶や食事の用水として使用
したので、以来「御膳水」と命名されたという。水はよどんでいて、現在の湧水量は少
なそうだった。
そばの三差路を右折してすぐ先にも、「富田の清水」と呼ぶ湧水の小屋が設けられて
いる。やはり紙漉座のひとつ、昭和の初めまで紙すきに利用され、その後は生活用水と
して使用されたとのこと。
こちらは環境庁の「名水百選」に認定されていて、車で来た人が何本ものペットボ
トルにくんでいた。私もコップで飲んでみたら、まろやかな味わいだった。
弘南鉄道大鰐線の踏切を越えて、突き当たりの高台にある最勝院に上がる。桜や松、
モミジなどの古木に囲まれた広い境内には、幾つもの堂塔が並び立つが、いちばん目に
つくのが高さ31.2mの五重塔である。
津軽統一の際、敵味方の区別無く戦死者を供養するため、三代藩主信義から四代藩主
信政にかけて建造されたもの。完成は寛文7年(1667)東北一の美塔とたたえられ、
国指定重要文化財になっている。
ほかに、如意輪観音を祭る六角堂↑、密厳舎、聖徳太子堂、「平和の鐘」を吊す鐘楼、
最近再建らしい水屋などがあり、本堂は修理中。聖徳太子堂のそばには、大きな庚申塔
が並んでいた。
りっぱな山門を出て、北側の八坂神社に回り参拝する。約300年前に祈願所として
創設され、文武両道の神として崇敬されているという。
境内には桜の古木が何本か見られる。
神社の北から、新寺町寺院街に向かって伸びる通りを少し進み、県立弘前高入口の先
にある袋宮寺へ。
そう広くはないが緑の多い境内、本堂は延宝5年(1677)ころの建立と伝えられ、
本尊にあわせて天井が高く、県重宝になっている。
本尊十一面観音は、四代藩主信政が父の菩提をともらうために弘前城内の老木を使用
して造らせたものとか。像高は5.95m、県下最大級の木造物で、「背高観音様」と
して知られ、本堂同様に県重宝である。
正面の扉が閉じていたので、開けるまでこのような大きなご本尊があるとは気づかな
かった。堂内に、「駅からハイキング」のチェック用スタンプがあり押印する。
道路を隔てて北にあるのが稲荷神社↑。寛永5年(1628)の建立といわれ、当時
からのものと推定されるイチイの古木↓や、市内最大級というケヤキなどが保存樹林と
して管理されている。
袋宮寺の南西に回って報恩寺に入る。明暦元年(1655)11月、江戸で亡くなっ
た三代藩主信義の菩提を弔らうため四代信政が翌二年に創建したという。現在の本堂は
宝永元年(1704四)の再建で、県重宝となっている。
本堂前には、本尊釈迦如来の脇侍である獅子に乗った小さい文殊菩薩が祭られていた。
稲荷神社に戻り、西側を回って弘前大学医学部の前に出て、水の涸れた寺沢川沿いを
西に向かう。
下寺沢橋で川に分かれ、次の信号を西へ、すぐに右折して寺町の東側の通りを北進する。
中ほどまで進むと天満宮の大きなのぼりが立ち、さらに直進して天満宮境内に入った。
境内は桜が多く、良い緑陰となっている。
西側には、大正期の「全国大桜番付」にも記載され、県天然記念物で推定樹齢500
年以上という 、「天満宮のシダレザクラ」がある。
シダレザクラの西は断崖となっていて、残雪の岩木山が頭を雲に隠して望まれる。
参道の中ほどから土手のトンネルを東に抜けて、覚仙町の家並みを進む。突き当たり
を左折して、「趣のある建物」に指定された大阪屋前や消防署前を通過する。
道路を挟んで弘前市役所と相対する今日のゴール、近代的建物の弘前市立観光館に
12時35分に着いた。 (続く)
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