2014年10月29日(水)
朝は冷え込んだが快晴に恵まれた今日、さいたま市中央区で開催されている、カントリ
ーウオークの仲間Tさんと、もう一人Kさんとの水彩スケッチ二人展を見ようと出かけた。
会場の最寄り駅は、JR埼京線の与野本町駅。12時15分に駅を出て、東側のJR京
浜東北線与野駅に通じる通りを、さいたま市中央消防署や与野郵便局前を通過する。
その先にあった交番の次の角を入ると、氷川神社がある。
氷川神社の創建時期ははっきりしないようだが、江戸時代の「新編武藏風土記稿」に記
され、旧社殿の改築時の棟札(むねふだ)に明和7年(1770)と記されており、それ
以前からあることは確からしい。
水彩スケッチ二人展の会場は、そばの緑に囲まれた軽食・喫茶の「墨流亭」。
お店の壁面に、2人合わせて12枚の水彩の風景スケッチが展示されていた。
画展を見終わった後、店のコーヒーを味わい、周辺の社寺や与野公園も巡ることにした。
下落合五丁目の北端の道路を西進して、JR埼京線と東北・上越新幹線の高架下にあっ
たラーメン店で昼食をした。
高架下を抜け、すぐ先の鴻沼川右岸沿いの細い遊歩道を北進して落合橋まで進む。落合
橋近くからは東側に、さいたま新都心の高層ビルが間近に眺められる。
落合橋で川を離れて与野八幡小前を西進し、最初の寺、本町東五丁目の長伝寺へ。本堂
はコンクリート造りで西向きなので、西側から入る。
墓地には、寛保3年(1743)に本町に生まれて江戸で儒学を学び、郷里に戻って近
在の子弟教育を行い、天明の大飢饉では私財をなげうって窮民救済にあたり、後生に「与
野聖人」とうたわれたという西沢嚝野(にしざわこうや)の墓がある。
県道165号の西に回り、本町西四丁目の正園寺の山門をくぐる。
改築して新しい本堂の右手前には、さいたま市の天然記念物で、樹高約4m、枝張り
5mを越える大きなドウダンツツジが色づいていた。
県道の東に戻った本町五丁目の住宅地には、たくさん実をつけてピラカンサが。
南側の本町西三丁目にはひとつ神社があったが、柵があり入れない。さらに南の通りか
ら再度県道の西に進むと、与野高の正門前に出る。門の横に、最近参加した大会名などを
記した幕がたくさん並んでいた。
高校の南側にあるのが御嶽神社、石段上に小さい社殿が祭られている。
与野は江戸時代から木曽御嶽講の盛んな地域だったようだが、江戸時代の文政4年
(1821)に幕府は御嶽講に禁圧を加えたとか。その後解禁になり、与野の名主・井原
平八が造った社とも、あるいは明治初年の創建ともいわれているようだ。
社殿に参拝して、木曽御嶽山の噴火が沈静すよう祈る。
御嶽神社の手前の社務所の建物には、与野七福神の弁財天が祭られていた。
弁天堂は、南側に広がる与野公園北側の弁天池にある。
社務所前の空き地には、「御神(みかみ)の大井戸」と呼ぶ新しいつるべ井戸が出来て
いた。
昔この地に、祈りと修行のための井戸があり、お神酒造りにも使われたようだが、いつ
の間にか無くなり、その名残の地に今年再建したと「御嶽社」の名で記されていた。
その南側、豊富な樹林に覆われた一帯が与野公園で、色づく葉も見られる。
弁天池の中心には、噴水が設けられていた。
公園の西側、首都高の高架に接してバラ園がある。
先週だったか、NHK総合TVの首都園ニュースでは見頃と報道されていたので、期待
して来たが、もう盛りは過ぎていた。
バラ園のそばに立つモニュメント
公園の東側高みにある天祖神社は、かつて神明社と称し、文政年間(1818~30)
の「与野町並絵図」には、両側に家屋が並ぶ鎌倉街道から西に入った田畑の中にあったと
書かれていたようで、明治8年(1875)にに与野町の町社になったのを機に、天祖神
社と改めたという。
天祖神社には、与野七福神の寿老人が祭られていた。
与野公園の東側は、広い境内にりっぱな堂塔の見える円乗院。寺の塀に沿って南側を少
し進むと、「喜多山」というせんべい店があった。
「久助の日」の旗が出ていて、特売日のようなので入ってみたら、美味しそうなせんべ
いがたくさん並んでいる。
私は、目的の久助せんべいだけ求め、店を出た。
その通りの先、県道165号に面して「いちごいちえ」という居酒屋があり、南側の壁
面にはこんなものが描かれていた。
円乗院は、その横の県道側の仁王門から入れる。入ろうとしたら、「境内撮影禁止」の
表示が出ている。
せっかく入っても、りっぱな建物などが撮れないのではと思い、入るのは止めて仁王門
の手前から、正面の本堂と門を入って右手にある多宝塔を撮り、先に向かうことにした。
円乗院の前、与野本町駅方面への道路と県道との三差路際にあった、壁面に独特なデザ
インを施した建物。
その横を駅方向に少し進み、本町東二丁目から本町東一丁目の中心部へ南下し、さらに
タツミ通りを横断して鈴谷(ずすや)八丁目へ。
与野西中の南東端には鈴谷天神社が祭られていた。
参道には、稲垣田龍の碑がある。
稲垣田龍は、この地、鈴谷に生まれて幼少から武道を志し、剣術棒術柔術に励み、31
歳のときにその奥義を極め、一刀流兵法目録を伝授されたとか。
さらに江戸で西洋流天文学を学び、数多くの貴重な天文暦学天体図などを書き残し、文
武両道に優れた高潔な人物として郷土の誇りとなり、文久元年(1861)に72歳で没
した人という。
近くにある鈴谷大堂は、墓地の中にポツンとお堂だけがあり、何年か前の正月、与野七
福神巡りで来たときの記憶が蘇る。
お堂には、与野七福神の毘沙門天が祭られている。
かやのき通りを鈴谷七丁目から鈴谷四丁目に入り、今日の最後、妙行寺へ。創建年代は
不明だが、境内の正元2年(1260)の板碑などから鎌倉中期と推定されるという。
新しく堂々たる本堂の右手には、これも再建新しい庫裡かと思われる建物がある。
本堂の裏手に回ると、県指定文化財で幹回り3.5m、高さ約7m、樹齢600年余り
と推定されるモッコクの古木が1本だけ立っていた。
道路を挟んで南側には、やはり新しい金比羅天堂がある。
そばに樹齢約1,000年と推定され、樹高21.5m、目通り周囲7.28m「新・
日本名木百選」にも選定されているという、「与野の大かや」と呼ぶカヤの巨木が立って
いた。
応永年間(1394~1427)には、すでに関東随一の巨木として知られていたよう
で、「榧木金比羅(かやのきこんぴら)」と呼ばれ、古くから信仰の対象でもあったとの
こと。国指定天然記念物である。
今日の最後に、思いがけずの素晴らしい巨木を見ることができた。
さらに南下して国道463号を越え、JR埼京線南与野駅に16時19分に着いた。
(天気 快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市中央区、
歩数 14,700)
埼玉県 ブログランキングへ
にほんブログ村
朝は冷え込んだが快晴に恵まれた今日、さいたま市中央区で開催されている、カントリ
ーウオークの仲間Tさんと、もう一人Kさんとの水彩スケッチ二人展を見ようと出かけた。
会場の最寄り駅は、JR埼京線の与野本町駅。12時15分に駅を出て、東側のJR京
浜東北線与野駅に通じる通りを、さいたま市中央消防署や与野郵便局前を通過する。
その先にあった交番の次の角を入ると、氷川神社がある。
氷川神社の創建時期ははっきりしないようだが、江戸時代の「新編武藏風土記稿」に記
され、旧社殿の改築時の棟札(むねふだ)に明和7年(1770)と記されており、それ
以前からあることは確からしい。
水彩スケッチ二人展の会場は、そばの緑に囲まれた軽食・喫茶の「墨流亭」。
お店の壁面に、2人合わせて12枚の水彩の風景スケッチが展示されていた。
画展を見終わった後、店のコーヒーを味わい、周辺の社寺や与野公園も巡ることにした。
下落合五丁目の北端の道路を西進して、JR埼京線と東北・上越新幹線の高架下にあっ
たラーメン店で昼食をした。
高架下を抜け、すぐ先の鴻沼川右岸沿いの細い遊歩道を北進して落合橋まで進む。落合
橋近くからは東側に、さいたま新都心の高層ビルが間近に眺められる。
落合橋で川を離れて与野八幡小前を西進し、最初の寺、本町東五丁目の長伝寺へ。本堂
はコンクリート造りで西向きなので、西側から入る。
墓地には、寛保3年(1743)に本町に生まれて江戸で儒学を学び、郷里に戻って近
在の子弟教育を行い、天明の大飢饉では私財をなげうって窮民救済にあたり、後生に「与
野聖人」とうたわれたという西沢嚝野(にしざわこうや)の墓がある。
県道165号の西に回り、本町西四丁目の正園寺の山門をくぐる。
改築して新しい本堂の右手前には、さいたま市の天然記念物で、樹高約4m、枝張り
5mを越える大きなドウダンツツジが色づいていた。
県道の東に戻った本町五丁目の住宅地には、たくさん実をつけてピラカンサが。
南側の本町西三丁目にはひとつ神社があったが、柵があり入れない。さらに南の通りか
ら再度県道の西に進むと、与野高の正門前に出る。門の横に、最近参加した大会名などを
記した幕がたくさん並んでいた。
高校の南側にあるのが御嶽神社、石段上に小さい社殿が祭られている。
与野は江戸時代から木曽御嶽講の盛んな地域だったようだが、江戸時代の文政4年
(1821)に幕府は御嶽講に禁圧を加えたとか。その後解禁になり、与野の名主・井原
平八が造った社とも、あるいは明治初年の創建ともいわれているようだ。
社殿に参拝して、木曽御嶽山の噴火が沈静すよう祈る。
御嶽神社の手前の社務所の建物には、与野七福神の弁財天が祭られていた。
弁天堂は、南側に広がる与野公園北側の弁天池にある。
社務所前の空き地には、「御神(みかみ)の大井戸」と呼ぶ新しいつるべ井戸が出来て
いた。
昔この地に、祈りと修行のための井戸があり、お神酒造りにも使われたようだが、いつ
の間にか無くなり、その名残の地に今年再建したと「御嶽社」の名で記されていた。
その南側、豊富な樹林に覆われた一帯が与野公園で、色づく葉も見られる。
弁天池の中心には、噴水が設けられていた。
公園の西側、首都高の高架に接してバラ園がある。
先週だったか、NHK総合TVの首都園ニュースでは見頃と報道されていたので、期待
して来たが、もう盛りは過ぎていた。
バラ園のそばに立つモニュメント
公園の東側高みにある天祖神社は、かつて神明社と称し、文政年間(1818~30)
の「与野町並絵図」には、両側に家屋が並ぶ鎌倉街道から西に入った田畑の中にあったと
書かれていたようで、明治8年(1875)にに与野町の町社になったのを機に、天祖神
社と改めたという。
天祖神社には、与野七福神の寿老人が祭られていた。
与野公園の東側は、広い境内にりっぱな堂塔の見える円乗院。寺の塀に沿って南側を少
し進むと、「喜多山」というせんべい店があった。
「久助の日」の旗が出ていて、特売日のようなので入ってみたら、美味しそうなせんべ
いがたくさん並んでいる。
私は、目的の久助せんべいだけ求め、店を出た。
その通りの先、県道165号に面して「いちごいちえ」という居酒屋があり、南側の壁
面にはこんなものが描かれていた。
円乗院は、その横の県道側の仁王門から入れる。入ろうとしたら、「境内撮影禁止」の
表示が出ている。
せっかく入っても、りっぱな建物などが撮れないのではと思い、入るのは止めて仁王門
の手前から、正面の本堂と門を入って右手にある多宝塔を撮り、先に向かうことにした。
円乗院の前、与野本町駅方面への道路と県道との三差路際にあった、壁面に独特なデザ
インを施した建物。
その横を駅方向に少し進み、本町東二丁目から本町東一丁目の中心部へ南下し、さらに
タツミ通りを横断して鈴谷(ずすや)八丁目へ。
与野西中の南東端には鈴谷天神社が祭られていた。
参道には、稲垣田龍の碑がある。
稲垣田龍は、この地、鈴谷に生まれて幼少から武道を志し、剣術棒術柔術に励み、31
歳のときにその奥義を極め、一刀流兵法目録を伝授されたとか。
さらに江戸で西洋流天文学を学び、数多くの貴重な天文暦学天体図などを書き残し、文
武両道に優れた高潔な人物として郷土の誇りとなり、文久元年(1861)に72歳で没
した人という。
近くにある鈴谷大堂は、墓地の中にポツンとお堂だけがあり、何年か前の正月、与野七
福神巡りで来たときの記憶が蘇る。
お堂には、与野七福神の毘沙門天が祭られている。
かやのき通りを鈴谷七丁目から鈴谷四丁目に入り、今日の最後、妙行寺へ。創建年代は
不明だが、境内の正元2年(1260)の板碑などから鎌倉中期と推定されるという。
新しく堂々たる本堂の右手には、これも再建新しい庫裡かと思われる建物がある。
本堂の裏手に回ると、県指定文化財で幹回り3.5m、高さ約7m、樹齢600年余り
と推定されるモッコクの古木が1本だけ立っていた。
道路を挟んで南側には、やはり新しい金比羅天堂がある。
そばに樹齢約1,000年と推定され、樹高21.5m、目通り周囲7.28m「新・
日本名木百選」にも選定されているという、「与野の大かや」と呼ぶカヤの巨木が立って
いた。
応永年間(1394~1427)には、すでに関東随一の巨木として知られていたよう
で、「榧木金比羅(かやのきこんぴら)」と呼ばれ、古くから信仰の対象でもあったとの
こと。国指定天然記念物である。
今日の最後に、思いがけずの素晴らしい巨木を見ることができた。
さらに南下して国道463号を越え、JR埼京線南与野駅に16時19分に着いた。
(天気 快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市中央区、
歩数 14,700)
埼玉県 ブログランキングへ
にほんブログ村