2008年7月20日(日)午後
カタツムリ歩行のゴール、神明神社で昼食をして散会の後、
南側をもう少し歩いてみることにした。
神明神社から川越街道の旧道に入って少し進むと、亀久保
3丁目に地蔵院がある。
亀久保地蔵院は、正和3年(1314)の開基。昭和27年
(1952)の火災により、文化年間(1804~)建立の本堂は
焼失したといい、現在の本堂は近代的な造り。
新しいがりっぱな鐘楼が目につく。
山門を入ると、大きなシダレザクラがある。ふじみ野市文化
財になっているエドヒガンザクラの変種で、樹齢は350年前
後と推定されているという。
開花のころ、もう1度来てみたい。
本堂前の水がめに、ハスが花を開いていた。
本堂際には、心地よい音を響かせる、水琴窟(すいきんくつ)
があった。
地蔵院を出て、旧川越街道を南に進む。広い道路との交差
点に「角(かど)の常夜灯」と呼ぶ、古い常夜灯が立っていた。
旧川越街道と地蔵街道の交差点を「角」と呼び、丹沢・大山
の阿夫利神社へ参詣する際に、亀久保村から最初の曲がり
角に立つので、この名がついたようだ。
常夜灯は、享和2年(1802)の建立、明治30年(1897)
年に笠石と台石が再建されているという。
さらに南に進むと、川越街道は再び新旧が合流して1本に
なる。すぐ先の交差点を過ぎ、そばの大井小の北東端に旧
大井村役場庁舎があった。
昭和12年(1937)の建設で、昭和47年(1972)まで約35
年間使用され、その後、東入間警察署や大井小の特別教室、
埋蔵文化財整理室として使用され、現在は国の登録文化財に
指定されている。
大井2丁目まで進むと、「池坊いけばな教室」の看板のある
広い敷地の道路際に、こんな標識が立っていた。
大井宿は、川越街道の6宿場の一つとして、江戸から約8里、
川越城から2里半にあり、江戸中期の宝永2年(1705)には、
家数94軒、人口479人だったという。
明治14(1881),15,25年の3度の大火で、町並みは
ほとんど焼失したといい、付近に宿場らしい面影は全く見られ
ない。
しかし、当時の名残か、近くの古い民家の入口には祭礼の
提灯(ちょうちん)が下がっていた。
豊富な花を見せるカシワバアジサイなど、緑いっぱいの庭を
見せる住宅もある。
近くの徳性寺(とくしょうじ)本堂。 徳性寺は、室町時代の
開山で、大井宿の中心的存在だったが、明治14年(1881)
の大火で、本堂、庫裡などは焼失し、現在の本堂は昭和48
年(1973)の再建という。
本堂前の仏足石に参拝して、石に触れた後、その手で自分
の足をさすり、これからも元気に歩けるよう、祈願する。
山門の内側にある「弘安の板碑」と呼ぶ板石塔婆。
市内最古の弘安4年(1281)のもので、高さ117cm、幅
31cmも、ふじみ野市内最大の板石塔婆である。
ほかに20数基の板石塔婆が出土しているという。
寺の南側で、川越街道を地下道でくぐり、東に抜ける。東川
(あずまがわ)の右岸沿いに、「大井弁天の森」と呼ぶ斜面林
が東に伸びている。
その中ほどに、名前の由来の弁天池があった。
大井弁財天は、江戸時代初期、上野不忍池の弁天様より
分霊したと伝えられているという。
寛政年間(1789~)に建てられたお堂に、参拝する人は
多く、明治中期の縁日には露店が並んだという。
その弁天堂も老朽化し、平成元年(1989)に解体された
とのこと。
対岸に公園が見えたので、橋を渡って回ってみた。公園の
手前に土器が飾ってある。
「西の原の土器」と記され、区画整理事業によりここ西の原
遺跡から出土した、約4500年前の縄文時代中期の土器だと
いう。
そばの公園は、東原親水公園。日陰は少ないので、立ち寄
らずに駅に向かう。
市沢三丁目から一丁目へと新しい住宅地を抜け、日本最初
のアウトレットモール、「リズム」のそばを通過した。
東上線の線路際に回ると駅は近い。14時35分に、東武
東上線ふじみ野駅に着いた。
厳しい暑さの中を歩いてきたので、のどが渇いた。駅構内
のコンビニでアイスバーを買って下りホームに下りる。
ふと上りホームを見たら、先ほど「角の常夜灯」のところで
別れた、カタツムリ歩行の事務局、Doiさんご夫妻も、電車を
待っておられた。