あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…
2015年10月25日(日)
宿泊した、甲府駅北口のビジネスホテルを8時30分に出た。駅北口のファミリーマー
トで昼食を調達後、駅前から4台のタクシーに分乗する。
武田神社横を経て、標高約700mの積翠寺(せきすいじ)温泉・古湯坊(こゆぼう)
の駐車場で下りる。
積翠寺温泉は信玄の隠し湯のひとつと伝えられ、要害山の北側山間にあり、泉温は15
~20℃度と低温だが、リュウマチや神経痛などに効果があるという。
ここには、やまさんの国際ウオーキングトレイル実踏で2008年11月12日、西側
の千代田湖畔のYHを出発して興因寺山(こういんじやま)を越えて下り、太良峠(たら
とうげ)を越えて東の山梨市牧丘町に向かった時以来で、約7年ぶりである。
今日は、武田神社を経て甲府駅まで、南南西へ向かうほとんどが下り道。今朝は快晴だ
が冷え込み、まだ陽の差さない駐車場はヒンヤリとして涼しい。記念撮影後、9時21分
に出発する。
舗装路に滑り止めの横筋の入った結構急な斜面を下って行くと杉林が途切れ、眼下の甲
府市街や南アルプスなどの展望が開ける。
車道が広がったところで東側に回り込み、要害温泉に接する積翠寺に入る。
積翠寺の標高は約530m、行基(ぎょうき)の開祖といわれ、古くは石水寺と呼ばれ
たとか。南北朝時代に夢窓(むそう)国師の高弟、竺峰(じくほう)が中興開山し、戦国
時代に武田信虎がそばの要害山に築城し、嫡男の晴信(信玄)が要害山城にて誕生した際、
この寺の境内にある井戸から産湯(うぶゆ)をくんだという。寺は、甲斐百八霊場の61
番札所でもある。
その産湯の井戸は、本堂背後にある日本庭園の東側に残されていた。
本堂左手には武田不動尊が祭られ、境内には、付近の道路拡張で移設したという「蠶神」
碑や石造のほこらなどが並んでいた。正面の参道入口でもう一度、記念撮影をした。
積翠寺の南東、すぐ近くに瑞岩禅寺がある。
天平18年(746)、聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺を発願に際して行基菩薩を
伴い各地を巡幸の途次、当地の風景が殊に勝れていることを賞賛してここに一宇を創建、
随行の行基が十一面観音菩薩を作り、本尊として安置したとか。現在の本堂は、平成22
年の再建である。
さらに進んで、集落東端にある日吉神社に行く。祭神は大山咋神、近江国日吉神社の分
霊を勧請したもので、旧上積翠寺村の氏神として篤く崇敬されているという。
秋祭りが近いのか拝殿には紅白の幕が張られ、開放的な境内の一隅にモミの大木がそび
える。
その下には大きな「蠶神」碑があり、この地がやはり養蚕の盛んだったことがうかがえ
る。そばに大きな柿の木もあり、たくさんの実が色づき始めていた。
神社の背後からさらに東へ、東沢川右岸沿いの車道に出ようとしたが見つからない。畑
の人に聞いたら、廃道になっていてもう少し下からしか無いとのこと。集落内を南に下り、
車道の終端に入る。
集落の西側から、生活道路になっている広い車道があるので、この旧道は車の通行を気
にすることなく安心して歩ける。
少し下ると甲府市街や南アルプスの展望が開け、さらに下ると西側の尾根の上に、わず
かに冠雪した北岳(3,193m)の上部が姿を見せた。
それらの展望を楽しみながら、高度はどんどん下がる。
1.5㎞前後下った辺りで休憩した。
カリンが実り、ツタが色づく道、正面から暖かな日射しを受けて気持ちよく下る。
標高450m付近で右カーブし始め、左手の森に若宮八幡神社が祭られていた。
創建年代は不明だが、鳥居には寛文9年(1669)と記され、貞享元年(1684)、
代官に差し出した書に若宮八幡の名があるとか。かやぶきらしい屋根にはトタンが被され
ているが、スギなどの木々に覆われた古びた社殿が、その歴史を感じさせてくれる。
西に回り込んだ車道は古府中町の家並みへ。十字路を左折して南に向かい、石積みの龍
華池の下を通過し、国史跡・武田氏館跡(やかたあと)の東側、大手門周辺ゾーンに入る。
武田氏館跡は、武田氏3代(信虎、信玄、勝頼)の本拠として築かれ、一辺約200m
の正方形の居館。東に位置する躑躅ヶ崎(つつじがさき)と呼ばれる尾根のふもとにある
ので、一般には「躑躅ヶ崎館」で親しまれているという。
大手門周辺ゾーンは戦国時代の正面玄関にあたり、広い草地の一角に↑厩(うまや)跡
が復元されていた。
堀割に囲まれた館跡に大手門から入ると、豊富な木々が伸び伸びと枝を広げ、その中心
に武田神社が祭られている。
神社の祭神は武田信玄、大正4年(1915)、大正天皇即位に際して信玄公に従三位
追贈が報告されたのを機に、県民に武田神社創建の機運が沸き上がり、大正8年に社殿が
竣工し、以来、甲斐国の総鎮守として崇敬を集めているという。
拝殿には早めの七五三詣での家族など次々に参拝者が訪れ、柏手を打っていた。
神楽殿の横を抜けて11時50分頃、西側の広い草地に回り、芝生にシートを広げて昼
食をする。
食事を済ませ、南側から西へと巡らす水堀の内側の土塁に上がって見たら、東南方向に
冠雪した富士山の上部が望まれた。
12時35分に出発し、堀の西南端近くから東へ。
正面の朱塗りの橋の前を通過し、堀の東南端まで行くと、永禄4年(1563)の川中
島の戦いなどで活躍した、高坂弾正忠昌信(こうさかだんじようのじようまさのぶ)の説
明板があった。
大手町三丁目の北部を進み、護国神社境内に入る。護国神社は、明治12年(1879)
に招魂社(しようこんしゃ)として創建、昭和19年(1944)に護国神社としてこの
地に遷座された。戦争で尊い命を捧げた山梨県出身の約2万5千余人を、神様として祭っ
ているという。
大鳥居を出た南側の参道では、骨董品などの市がそろそろ店じまいをはじめたところ。
県道119号を東へ、県道が90度左折するところを右折し、すぐ先で折り返すように
右折した岩窪町に、武田信玄の墓があった。
天正元年(1573)4月、信州伊奈で53歳の生涯を閉じた信玄は、臨終に際して3
年間の秘密を命じ、嫡子勝頼はこれに従い3年後、武田二十四将の一人、土屋右衛門邸で
荼毘(だび)に付したとのこと。この場所がその土屋邸跡、思いのほか簡素な墓地である。
墓地のそばに「岩窪のヤツブサウメ」と呼ぶ、山梨県天然記念物で樹高約7m、根回り
約0.8m、3個結実するものが多いという梅の古木が立っている。
岩窪町の住宅街を南西に進み、寺の西側、垣根の切れ目から大泉寺に入る。大本堂では
法事が執り行われていた。
本堂の左手奥には、信玄の父、武田信虎の墓である五輪塔を祭る小さい建物があり、墓
は山梨県指定史跡となっていた。
信虎は、永正4年(1507)武田氏の家督を継ぎ、武力で甲斐国内の統一に成功した
が、嫡子晴信(信玄)と対立して駿河に追われ、流浪の末に天正2年(1574)信濃国
高遠(たかとう)で病没し、ここ大泉寺に葬られたという。
寺には国の重要文化財の「絹本著色武田信虎像」も所蔵され、境内の大イチョウが色づ
き始めていた。
境内を南に抜け、黄檗宗(おうばくしゆう)様式の門として甲府市指定文化財になって
いる惣門を出て休憩する。
愛宕山山麓を走る旧道を南進し、元紺屋町を抜ける。県道6号が愛宕トンネルに入る辺
りは寺院が多く、広大な墓地が眼下に見下ろせ、街並みの西方には、甲斐駒ヶ岳や鳳凰三
山などの稜線が望まれる。
トンネルの先の台地の縁にある八雲神社境内を抜けて、下の道に下りる。
堂々たる本堂の妙遠寺前を通過して小さい流れを渡り、北口二丁目を南下、甲府駅北口
の歴史公園に山手渡櫓門(やまてわたりやぐらもん)から入る。
山手渡櫓門は、甲府城にあった3つの出入口のひとつで、武器庫としての役割も果たし
ていたといわれているとか。1700年頃の絵図をもとに、柳沢吉保が城主だった時代の
姿に復元したのだという。
公園内には、国重要文化財の旧睦沢(むつざわ)学校校舎が移築復元されていた。
旧睦沢校舎は、明治8年(1875)に巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建設された学校の
校舎。当時の県令、藤村紫郎にちなんで藤村(ふじむら)記念館ともいわれている。
公園の南側の線路沿いには、木造の大きな火の見櫓(やぐら)や明治か大正期のものら
しい建物が幾つか並ぶが、観覧する時間は無い。
今日のゴール、JR中央線甲府駅に14時33分に入る。土産物など購入する時間も少
なく、14時48分発の高尾行き上り電車で帰途についた。
(天気 快晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 甲府北部、歩行地 甲府市、歩数
17,700、累積標高差 上り約90m、下り約500m)
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2015年10月24日(土)
カントリーウオークグループの、「特別例会」と呼ぶ1泊のカントリーウオークに参加
した。
JR中央線高尾駅に集合し、8時44分発小淵沢行きに乗る。途中、追い抜きの急行列
車の遅れがあり、小淵沢駅に11時12分に着いた。
小海線ホームに急ぎ、11時19分発小諸行2両編成の下り列車に乗り、次の無人駅、
甲斐小泉に11時27分に下車する。
駅舎は、北杜市(ほくとし)の蝶で国蝶でもあるオオムラサキが型どられ、駅のそばに
平山郁夫(ひらやまいくお)シルクロード美術館がある。好天でこの時期としては暖かめ、
歩くには絶好の日和である。近くにコンビニは無いかと少し探し、11時40分に駅前を
出た。
今日のコースは、2007年10月3日の午前中に、やまさん、茅ヶ崎のIさんと国際
ウオーキングトレイル実踏で歩いたのと、ほぼ同じになるはず。
駅前の平山郁夫通りを西へ少しで「北杜市史跡・小荒間(こあらま)古戦場跡」の説明
板がある。
天文9年(1540)2月、信濃の村上義清が押し寄せた軍勢を武田晴信(信玄)が討
ち、勝利を得た場所らしい。背後には、武田信玄腰掛石↓が残されていた。
小荒間郵便局の先の変則交差点際にコンビニ・Yショップがあり、弁当の無い人は購入
し、交差点の南西側、カラマツなどが色づき始めた森の中の「三分一(さんぷいち)湧水
公園」に入り、かやぶきの東屋や、その周辺で昼食にした。
道路の東側には、大きなかやぶき屋根の建物が見える。
三分一湧水は、豊富な水量の湧水を農業用水として利用するための堰(せき)。戦国時
代、水争いをしていた三つの村に等配分するために武田信玄が築いたという伝説が残り、
堰の真ん中には三角の石柱が設置されている。
八ヶ岳の伏流水が公園の林の中から1日に約8,500トン湧出しており、水温は年間を
通じて約10℃とか。「日本名水百選」に選定されており、流れに手を入れてみたら冷た
かった。
公園内の林間には、「大荒れの碑」と呼ぶ大石もあった。昭和18年(1943)9月
5日の山津波で押し上げられたもの。三分一湧水も土石流で埋まったが、旧六ヶ村の人々
が掘り出して元の通りにしたのだという。
昼食を終えて線路沿いの道に回り、最初のT字路を北に入る。すぐ先のT字路際に「小
荒間口留番所跡(くちどめばんしょあと)」の説明板があり、小さなほこらなどが祭られ
ている。
口留番所は、国境で旅人や物資の移動を監視するところ。江戸時代に甲斐国には25か
所置かれ、この番所は天文年間(1532~55)、信州大門峠に通じる棒道に設置され
ていたものといわれているという。
色鮮やかなコスモスの咲く道、すぐ先の法性寺に入る。
無住で開放的な寺、南側の展望が広がるが、今日は霞んでいて甲斐駒ヶ岳など南アルプ
ス北部の山並みは判然としない。
西側の墓地付近からは、背後の八ヶ岳連峰南面の山並みが望まれた。
小荒間中集落の北西端に進む。家並みが途絶えた辺りの小公園に、養蚕の盛んな頃に建
立したらしい「蠶玉太神」碑があり、その前後の路傍には古い観音像が立っている。
観音像は、江戸末期に旅人の安全を願い、村人々が1町(約109m)ごとに安置した
のだという。
小さな流れの古杣川(ふるそまがわ)を渡ると舗装が途切れ、「信玄棒道コース」の道
標が立っていた。
棒道(ぼうみち)は、八ヶ岳山麓から信州に抜ける古(いにしえ)の道で、棒のように
真っ直ぐに伸びているので「棒道」と呼ばれている。
江戸時代の書「甲斐国志」によれば、棒道は上・中・下の3本あり、このうち上の棒道
が武田信玄が作った軍用道路と考えられるとか。これから歩くのは、その上の棒道の一部
である。
木々の紅葉、黄葉が始まった信玄棒道を西北西に向かう。間もなく路傍に西国三十三観
音の32番千手観音の石像があった。
この棒道には、西国三十三観音の石像が1町毎に立ち、その先には坂東三十三観音が1
番観音から一部を除き16番まであるという。
少し先に廃屋らしいログハウスが残り、その前に木彫のトトロが立つ。
さらに進むと坂東1番十一面観音立像↓があり、その先も1町毎に古い観音石像が続い
ていた。
ところどころに小さな流れも見られ、林間の緩やかな傾斜の気持ちよい道が続く。
別荘地の北側を過ぎると、両側が10mくらい切り開かれている。7番聖観世音文字塔
の先辺りで、10分ほど休憩した。
11番聖観音立像前を通過して間もなくのT字路に、南に延びる「まきばの郷遊歩道」
の看板が立っている。
その先、南側一帯は小淵沢カントリークラブのエリアとなり、林間コースでプレイする
ゴルファーの姿も望まれ、切り開かれていた道も狭まる。
標高1133m地点周辺には、ダンコウバイの黄葉があちこちで目に入る。
ゴルフ場の西北端まで進むと、火の見櫓(やぐら)跡の表示と「歴史の道百選 棒道」
の説明板がある。
それによれば、「上の棒道は、韮崎から穴山、渋沢、小荒間、柏原などを経て、長野県
長門町の大門峠までのコース」であることなどが記されていた。
ここは地図上の標高1140.8m三角点の地点。三角点を探したが見つからない。
ここで棒道から離れるので小休止していたら、乗馬の女性2人が通過し、後からさらに2
人の乗馬女性も過ぎる。
左折して、南東へ下る舗装路を進む。右側に平行して交通量の多い県道11号・八ヶ岳
高原ラインが走るが、こちらは車の通行はわずかである。
大東豊集落のUカーブ状交差点際に「開拓之碑」があり、裏面に昭和21年(1946)
からこの地の開拓で入植した人の名簿が刻まれていた。傍らのナナカマドの実が色づく。
そばの空き地で小休止した。
さらに下ると、ウラシマソウの実もよい彩り。
右からの県道11号に合し、その歩道を下る。赤松林が増え、歩道沿いのモミジやスス
キなどが逆光に映える。
標高1004m地点の先にある「道の駅こぶちざわ」に入り、45分ほど休憩とする。
道の駅には、地元や近隣の特産品を中心の売店や、観光案内所、足湯などがあり、マイ
カーの人達で賑わう。
構内には、昨年のNHK朝のドラマ「花子とアン」に登場し、大正天皇の従妹にあたる
柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)が、昭和30年(1955)にこの地を訪れた時に詠
(うた)った歌碑もある。
歌碑には「八ヶ岳に 夏の日させど 小淵沢 秋はやくして ひぐらしのなく」と刻ま
れている。
道の駅の東側にも、宿泊施設や温泉、レストラン、会議・研修室、体験工房↓などあり、
一帯は「スパティオ小淵沢」と呼ばれている。
それら施設の前を東に抜ける道路には、平成になって設置された観音像が短い間隔で並
んでいた。次の交差点を左折して、車の少ない旧道を南下する。
カラマツに絡むツタの葉がよい彩り。ハロウィンを来週末に控え、カボチャを並べた家
もある。
見覚えのある建物があった。やまさん、Iさんと8年前の10月3日に昼食をした「ふ
らい屋 杣(そま)」という食堂。味もサービスも良く、近くの会社の人も次々に訪れて
いたことを思い出す。
JR小海線の踏切りを渡り、「花パーク フィオート小淵沢」の横を過ぎる。
花パークの駐車場のコスモスが鮮やかな彩り。
前方には、霞む甲斐駒ヶ岳など南アルプル北部の山並みが広がり、背後に八ヶ岳連峰南
部の編笠山や権現岳などが、秋色の彩りを見せる
中央自動車道下をトンネルで抜け、左への旧道を進むと小淵沢町の家並みが増える。
なまこ壁の長屋門に囲われた木造3階建ての建物があり、門には「泉園」の標札が架か
り、大きな土蔵もある。長屋門の中にはりっぱな老松が目に入った。
帰宅後調べたら、料理の宿「泉園(いずみえん)」と呼ぶところ。3階建ての建物は明
治中期の建築で、その座敷で地元食材を生かしたこだわりの料理が味わえ、別棟4室のコ
テージに宿泊も出来るという。
駅西側の線路下をガードで南に抜けて、今日のゴール、JR小淵沢駅には15時40分
に着いた。
15時48分発、始発のホリデー快速ビュー山梨号はオール2階建て車両。2階席に座
って今夜の宿のある甲府駅に向かう。
(天気 晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 小淵沢、歩行地 北杜市、歩数
16,600、累積標高差 上り約130m、下り約290m)
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2015年10月18日(日)午後
続カタツムリ歩行の例会が、ゴールの越谷市東町二丁目の水神社で13時頃散会となり、
帰路は中川の吉川橋を渡り、東側の吉川市内を少しだけ巡ることにした。
東町二丁目を東へ、中川の吉川橋近くに小さな笠門神社が祭られている。
吉川橋に近い県道52号際の墓地前には新しいお堂が出来ていたが、南面は草地になっ
ていた。
その背後で西北からの元荒川が北からの中川と合流し、そばに架かる吉川橋を渡る。中
川の水量は豊富で、ゆったりと流れていた。 こちらは上流。
下流の眺め。
川が市境で、越谷市から吉川市に入る。渡り終えてすぐのところに「まるしん」という
和菓子屋があり、吉川名産のなまずにちなむ最中(もなか)があったので、購入した。
東にすぐ、南北に走る県道67号と交わる吉川交番前交差点の手前に、延命寺の大きな
本堂が目に付く。
延命寺は、永仁3年(1295)に清仙が開基したと伝わる古寺、3代将軍徳川家光の
頃には、祈願所として朱印地10石を賜っているという。武蔵国新西国三十三霊場の1番
札所でもある。
本堂前にその札所第第一番標石が立つ。天明6年(1786)に、吉川観音講の54名
により建てられたもの。当時は、3年前の浅間山の噴火で天明飢饉(ききん)だったとか。
境内には文安3年(1446)銘の十三仏板碑と文安4年銘の六字名号板碑があるとい
うが、確認は出来なかった。
山門前には、江戸時代と推定される青面金剛石や庚申塔などが並んでいた。
吉川交番前交差点を通過して、その先の芳川神社に背後から入る。芳川神社は、文治3
年(1187)に吉川氏が土着神を氏神諏訪神社として再興し、この地域の総鎮守とした
もの。
境内には八坂神社、古峯神社、稲荷神社、吉川天満宮なども祭られている。
社殿の背後にご神木の大きなクスノキ木が立ち、南面の鳥居際にはタブやクスノキが何
本か、大きく枝を広げていた。
寺の南側から、県道67号との交差点へ。県道沿いには、古くからの米屋さんが残って
いる。
西進して吉川小の北にある神社を探したが、住宅地に変わったらしい。芳川小の東には、
吉川名物うなぎを味わえる料亭がある。
南に向かい、次の十字路を左折したところには銭湯があった。
その隣が智勝院だが、境内に樹木は少ない。智勝院は江戸時代に火災にあい、寺歴を証
する資料などは堂宇とともに焼失し、開山や開基年代などは不詳らしい。武蔵国新西国三
十三ヶ所の第2番札所である
県道西側の細い通りを南へ、県道に合するところには鷲神社の小さめの社殿が祭られて
いた。
県道を横断して東へ、すぐ先の駐車場北側の広い民家に数本の柿の木があり、実がたく
さん色づく。
その先の南側に大きな本堂が見えたが入れず、東からコの字状に回って日蔵院へ。コン
クリート造りの本堂は東向き。東側には幼稚園が併設されていた。
本堂前面の屋根下に新しい薬師如来像が祭られ、傍らに弘安7年(1284)の板碑の
標柱が立つている。寺の方に聞くと、板碑は本堂内に保存さられているとのこと。いただ
いたリーフレットでは、吉川市最古の板碑らしいが、上部、下部とも欠損しているようだ。
南側の県道52号を横断し、県道67号の東に平行する細い通りを南進して、JR武蔵
野線の吉川駅に14時35分に着いた。
駅南口広場には、1995年5月に設置したという、金色で体長約5mと約1mの親子
なまずが輝いていた。
14時46分発、府中本町行きの上り電車で帰途につく。
(天気 快晴、距離 4㎞弱、地図(1/2.5万) 越谷、歩行地 越谷市、吉川市
午前からの合計距離 8㎞、同 歩数 17,500)
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2015年10月18日(日)
JR武蔵野線の沿線を中心に歩く、「続カタツムリ歩行」の第28回例会に参加した。
集合はJR武蔵野線の越谷(こしがや)レイクタウン駅。駅の開設は、越谷レイクタウン
の「町開き」と同時の2008年3月15日である。
駅北口を9時56分にスタートして、すぐ前の見田方(みたかた)遺跡公園へ。
遺跡の説明板などは無く、公園の北西端近くに、レイクタウン町開きの記念碑が立って
いた。
公園の北側には大相模(おおさがみ)調整池の北池がある。地域を洪水被害から守るた
めに造られたもの。
池の南西端から出る川のこあじさし橋を渡り、西側の新しい住宅地へ。
対岸には、イオンレイクタウンの大規模商業施設が望まれる。
住宅地の中ほどに、越谷市指定有形文化財で、旧東方村(ひがしからむら)にあった中
村家住宅が移築公開されている。入館料100円だが、今日は無料公開されていたので観
覧した。
旧東方村は、すぐ北側の現在の大成町で、越谷レイクタウンと元荒川に挟まれた一帯。
中村家は東方村の名主で、中村家住宅は安永元年(1772)の建築とか。建築年代の
確認できるものでは越谷市最古の住宅という。
幾つもの部屋や広い土間などががあり、たくさんの家具や民具、農具なども展示されて
いる。
客人などを接待する部屋の襖絵(ふすまえ)や板戸に描かれた絵など、なかなか見事な
ものだった。
客間からは、東側の公園の緑が望まれる。
便所付近のところは改装され、見田方遺跡の出土品などが展示されていた。
西側の広い通りに出て北へ、すぐ先で県道52号バイパスを横断する。北に延びる大成
町二丁目と相模町五丁目の間の通りに入ると、右手の大成町側に、大きな松やケヤキなど
の茂る広い屋敷らしい一角があるが、建物は見えない。
ちなみに、帰宅後、中村家住宅でもらった別の資料に掲載の、明治前期の地図で中村家
の位置を確認したら、この大きな屋敷の200mほど東方辺りと分かる。
その屋敷の南西端に、「従是東忍領」の標石が立っていた。中村家住宅のリーフレット
によれば、旧東方村は、元禄11年(1698)に幕府領からから忍領(おしりよう)に
組み入れられたとか。ここが、その忍領の西端だったと思われる。
近くの相模町五丁目側の桜堂墓地に、小さなお堂が祭られていた。古い五輪塔などの並
ぶ墓地の奥には、「南無阿弥陀佛」と刻まれた文和3年(1354)造立の名号(みょう
ごう)板碑が立っていた。
古くからの県道52号を横断し、さらに進んだ正面に文久元年(1861)銘の石鳥居
が立つ。
その先の参道は車道になっていて、200m余りで大相模久伊豆(ひさいず)神社の二
の鳥居が立っていた。
二の鳥居前に、樹齢数100年といわれる2本の大イチョウが並び、鳥居を入った右手
には、ヒノキ・エノキ双樹がある。
双樹はヒノキの幹の根元にエノキが絡まるように共生しており、地域住民の融和のある
べき姿であるとして、ご神木である。
久伊豆神社は旧東方村の鎮守、この地は、武蔵七党野与党の一族である大相模次郎能高
が本拠とした地と伝えられ、野与党の氏神として勧請されたものらしい。
境内の御手洗石には、文化4年(1804)と刻まれていた。境内にはケヤキやカシな
どがうっそうと茂り、鳥のさえずりが賑やか。
二の鳥居前の通りを東へ、近くに、久伊豆神社とは対照的に木々の少ない開放的な八坂
神社がある。
八坂神社は旧見田方村の鎮守で、天王社といわれた古社。境内には、文化8年(1811)
銘の改刻賽神塔(さいじんとう)や、文久3年(1863)銘の猿田彦大神塔、地蔵塔な
ど幾つかの石像が祭られていた。
さらに東へ、沿道の柿の実が色づく。
いったん南側の県道を回って大相模小入口バス停そばから北へ折り返す。左カーブ点の
木々の下に、庚申塔が立っていた。承応2年(1653)神無月(11月)の銘があり、
越谷市有形文化財に指定されている。
東側には、真新しい山門の観音寺があり、堂々たる本堂も最近の改築らしい。
観音寺の創建年代は不詳のようだが、「新編武蔵風土記稿」には記され、武蔵国三十三
ヶ所霊場第29番札所である。
境内のアメリカハナミズキなどが色づき、そばにこれも近年のものらしい双体道祖神が
立っていた。
境内の植栽はよく手入れされ、その一角に大師堂がある。
道路を隔てた南東の浄音寺に、墓地から入る。ここもクロマツなどの植栽が見事。
山門近くのお堂には、六地蔵が祭られていた。
正午に近いので、ゴールに向かって県道52号を東へと急ぐ。北行と南行とが分離され
た幅広い県道4号・東埼玉道路を横断する。
北側には豊富な屋敷林の民家が残り、南側は水田の向こうに越谷レイクタウンの建物群
が望まれ、対照的な景観である。
大成町交差点の先で細道を南に入ると、名の知れぬ小さな社殿が祭られ、古い五輪塔も
立っていた。
東町二丁目にある、ゴールの水神社には12時10分に着いた。
水神社は、明和6年(1769)に北東300mほどの元荒川と中川との合流点右岸近
くに建立され、中川の河川改修により平成18年(2006)に、この地に改築遷座した
とのこと。
境内には、安永5年(1776)、宝永4年(1707)、元文5年(1740)銘な
どの青面金剛塔、慶応4年(1868)銘の水神天尊塔などが並んでいた。
拝殿西側で昼食後、全員での記念撮影とミーティングを終え、13時頃散会となった。
(天気 晴、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 越谷、歩行地 越谷市、歩数
10,000)
散会後は中川の吉川橋を渡り、東側の吉川市内を少しだけ巡る。そのレポートは次回と
する。
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2015年10月16日(金)
1日中小雨模様でしたが、案内はがきをいただいたので、東京・清瀬市郷土博物館で開
催中の「西武池袋線池袋~飯能間ぶらりスケッチ」展の観覧と、周辺の社寺巡りに出かけ
ました。
11時25分に西武池袋線の清瀬駅北口をスタートして、北に延びるけやき通りを進み
ます。
駅近くにあった花屋さんには、生花がいっぱい。
駅前から300mも進むと、東側にはニンジン畑が広がっていました。
少し先の畑の傍らには、ホウキソウが雨に濡れてしっとりと。
500mほどで都道40号・志木街道と交差したので、その先の郷土博物館に行く前に
街道沿いの寺社を少しだけ巡ることにして右折して東北へ。
志木街道沿いはケヤキ並木が続き、りっぱな蔵のある古い民家もかなり残っていました。
交番の先まで進むと、大きな子育地蔵がお堂の中に立っています。
その横を右折して、武蔵野三十三観音霊場第6番札所の全隆寺を訪ねました。以前のウ
オーキングで何度か来たところです。
本堂前には、道元禅師ゆかりの新しい一葉観音が。一葉観音は、本堂内にも武蔵野三十
三観音霊場の本尊として祭られているようです。
道路に近い駐車場側には、羅漢像がたくさん並んでいました。
志木街道に戻り、子育地蔵と道路を隔てた北側には、広い境内に日枝神社と水天宮が。
日枝神社側の鳥居は、山王鳥居と呼ばれる形式のものです。
コンクリート造りの日枝神社拝殿。11月の七五三詣ででは賑わいそう。
日枝神社は、天正7年(1579)に中島筑後守信尚が造営したと伝えられ、悪事災難
を除き、家庭円満や健康の恩恵を授かるとか。
左手に並ぶ水天宮拝殿。
福岡県久留米市の水天宮御本社を勧請したもののようですが、創建年代は明らかでなく、
安産寸護、水難除け、寿命長久の神徳で信仰を集めているようです。
広い境内は、ケヤキなどの高木が豊富です。
境内にはほかに、八雲神社、金刀比羅神社、白山社、御霊社も祭られていました。西側
の鳥居際には、慶長年間(1596~1614)に築山して信州木曽の御嶽神社から勧請
されたという御嶽神社↓もありました。
御嶽神社横の鳥居から境内を出て住宅地を北西へ、けやき通りに向かいました。住宅が
途切れて畑となり、西側にけやき通りが見えてきました。
畑のあぜのアサガオに似た花やウドの花が雨に濡れて…。
周辺は、畑と屋敷林の静かな展望が広がります。
けやき通りを横断して次の三差路を左折し、今日の目的地である清瀬市立郷土博物館へ
(入館無料)。
さっそく、作者の南雲義男さんからはがきをいただいた「西武池袋線池袋~飯能間ぶら
りスケッチ」展会場の2階展示場に行き、池袋から飯能までの西武池袋沿線でスケッチさ
れた50点の作品を拝見しました(館内は撮影禁止)。下は案内のはがき。
このはがきの2作品、「雪道を歩く」(清瀬駅周辺 2014年)(右上)と、「起伏
のある茶畑」(小手指駅周辺 2013年)(左下)も展示作品に含まれていました。
なお、この作品展は、西武池袋線開業100周年と清瀬市郷土博物館開館30周年記念
の企画展になっていて、会場には西武鉄道からも、昭和5年(1930)年1月発行の
「最新大日本鐵道地圖 東京日日新聞付録」と、西武鉄道 国分寺=本川越間(旧川越線)
開業80周年記念乗車券や西武鉄道 池袋線開業100周年記念乗車券など7種の記念乗
車券も展示されていました。
南雲さんの作品の中には、その後の道路拡張や取り壊しなどで無くなった建物や、桜台
駅~大泉学園駅間の高架化に伴い改築された旧中村橋駅など、今は見られない風景も幾つ
かあり、私もウオーキングで訪ねて知った珍しい建物なども展示されていて、大変興味深
く観賞しました。
控え室には、作者の南雲義男さんがおられると受付の方に聞いたので、持参した南雲さ
んの著書「西武線全192駅165作品ぶらりスケッチ」(けやき出版・2013年10
月発行、本体1200円)↓にサインをしていただきました。
著書には、南雲さんが「新潟県十日町市松之山生まれ」と記されていたので、いまは解
散したカントリーウオークの全国組織「のみちネットワーク」のメンバーが平成8年
(1996)に歩いたレポートをまとめた、「野楽(のがく)五集 1997年」も持参
していました。
その中の、松之山町を歩いたレポートを見ていただいたところ、当時のような何段もの
稲架(はさ)掛けは珍しくなり、記載された美術館も閉館しているなど、大変貴重な記録
ですねとのお話もいただきました。
スケッチ展の観賞の後、1階の常設展示場も観覧しました。こちらは、地質時代から近
代までの清瀬の歴史を展示した歴史展示室の一部。
民俗展示室には、四季のさまざまな作業に用いられた用具などの展示が。
これは、清瀬市下宿の「ふせぎ」行事の飾り物。わらで大きい蛇と小さい蛇を作り、大
蛇を旧村境の三差路に立つ2本の木に架け渡し、小さな蛇を旧村境14か所に取り付けて
疫病や悪魔が村内に侵入しないよう祈願する行事とのこと。
カントリーウオークグループの4月5日(日)の例会で、下宿2丁目の地域市民センタ
ー近くの木に架かっていたのを見たことを思い出しました。
1時間ほど観覧して13時頃博物館を出ました。館前の眺め、畑の向こうはけやき通り。
この博物館には何度か来ていますが、北側にそば屋さんがあるのは知りませんでした。
今日は北側から来たので分かったので、ここで昼食をすることに。
注文した、きのこおろしそば(1,000円)、そばは少し柔らかめでしたが、汁がうす
味だったので美味しくいただきました。
雨は止みませんが、本降りではないのでもう少し市内を巡ることにして、住宅地や畑の
間を北進して中里三丁目に入ります。二つある神社の最初、東側の森に入ると小さな社が
ありましたが、何神社かは分かりません。
もう一つは道路が左カーブする地点、ここも何度か来ている「中里の富士塚」です。
富士講を信仰する人々により江戸時代の文化年間頃(1804~1818)築かれたと
いわれ、高さ約10mあり、東京都の有形民俗文化財に指定されています。
毎年9月1日には、都指定無形文化財の「火の花祭り」が行われるとのこと。「中里富
士山」は、「清瀬10景」のひとつにも選定されています。
山腹に立つお地蔵さんと庚申塔。
ジグザクの登山路を上がった山頂に祭られたほこらと石碑。山頂がコンクリート張りの
富士山は、ここだけかもしれません。
ミニ富士登山を終えて北側の柳瀬川通りに出て西へ、都道15号・小金井街道を横断し
て中里二丁目に入り、背後から南斜面の東光院に上がります。
ここも、カントリーウオークグループの4月例会で来ており、その時は境内のシダレザ
クラが見頃でした。
本堂の前に立つ、背の高いイチョウ。
北側の車道に戻ってさらに西へ、北側は清瀬市中里緑地保全地域で、豊富な広葉樹林が
何か所かまとまっていて、この林の北側辺りにはカタクリの自生地もあったはず。
少し先で、左手の斜面に残る中里緑地保全地域の別のエリアの斜面を、南側台地上まで
上がります。
ここも、4月に来た時にはカタクリが咲き残っていました。
台地上を東に進むと、民家の前の畑にたくさんの花。
向こうに見えるヒノキの森の中には、氷川神社が祭られています。
先ほど訪ねた東光院の西側に位置します。
南側の道を少し西へ、中里二丁目西部の民家の間の細道を南に抜けると、畑の中に上組
稲荷神社の小さな森が見えてきました。
周辺は、東京都下とは思えぬ静かな農村のたたずまい。
上組稲荷神社の小さな社殿。
神社の背後から西へ、畑のあぜ道の先にはクヌギなどの広葉樹の平地林が残っていて、
その林を西に抜けて野塩三丁目へ。
住宅地を南側からU字状に回って、円福寺の真新しい山門を入ります。
正面に本堂がありますが、豊富な木々に覆われてよく見えません。
本堂前には、今日見た中では最大のケヤキの古木が、高く枝を広げていました。
境内東側の高台には、鐘楼や新しい三重塔、それに薬師堂がまつられています。
こちらが薬師堂。
そろそろ帰路につくことにして、寺の西側で空堀川(からぼりがわ)を渡ります。
野塩一丁目の住宅地を進んで、隣の秋津駅に16時に着きました。
(天気 雨、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 志木、歩行地 清瀬市、歩数 14,400)
今日のエリアは、3日前に歩いた所沢市東部とは柳瀬川を隔てた南側になりますが、距
離も時間も少ないながら緑が豊富で社寺も多く、雨だったこともあり東京都内とは思えぬ
しっとりとした静かな里道歩きを楽しむことが出来ました。
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2015年10月13日(火)
所沢市作成のウオーキング地図のひとつ、「ウオーキングナビ③東エリア」の「戦国・
江戸時代から平成の新時代探索コースのおすすめルート」という、ちょっと分かりにくい
タイトルのコースを歩いてみることにした。
JR武蔵野線の東所沢駅を11時30分にスタートした。駅横の通りを南へ、最初の交
差点を東進してすぐに南に入ると、一面に畑と平地林の展望が広がる。
畑の中を東進して車道に出て南へ、右カーブ点の段丘上に東福寺の大きな観音像が立っ
ていた。観音像の前の急階段を下り、境内から観音像を再拝する。
東福寺の本尊、木造阿弥陀如来像は鎌倉から室町時代の造立と推定され、所沢市指定文
化財になっている。
本堂の東側には神社も祭られていた。
寺のある本郷集落の、中心を貫く車道を東北に抜けると畑が広がり、都県境の柳瀬川の
南側に、清瀬市の中里団地が望まれる。畑の隅のコスモスが花盛り。
JR武蔵野線の高架下を北に抜け、木々に覆われた城山神社の石段を上がる。
一帯は埼玉県指定史跡の「滝の城跡」で、神社は本丸跡に立っている。
南側の展望が開け、JR武蔵野線の高架や中里団地などが一望できる。
滝の城は、狭山丘陵の一角が低地に向かって落ちる崖を利用し、東南を流れる柳瀬川を
防御線とした平山城で、本丸を中心に遺構がよく保存されている。
城は、北条氏照の持城だったと推定され、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原
城攻略の際、落城したものと考えられているという。
内堀や三の丸跡沿いの遊歩道を回って城跡を北東に抜け、県道179号に出る。
関越自動車道と東川(あずまがわ)の上を通過し、次の交差点の先で左への細道に入り、
うっそうとしたカシやスギ、ケヤキなどの森を背にした東光寺へ。
大きな本堂の左上には、金比羅大王を祭るお堂があり、本堂前には安政6年(1859)
造立の庚申塔が立っていた。
縁日は毎月10日で、特に賑わうのは3月の大祭の時とか。朝早く参拝するほど御利益
があるとされ「朝金比羅」ともいわれているようだ。13時を過ぎたので、山門の近くで
昼食をした。
さらに東北に向かい、工場地帯の背後で2本の送電線下を抜ける。天神社↑の横を過ぎ
て、交通量の多い国道463号に合した。
交差点を渡ったすぐ北東に「柳瀬荘」の看板があるが、公開日は毎週木曜なので門は閉
じていて長屋門だけしか見えない。
柳瀬荘は、「電力王」と言われた財界人、松永安左エ門の別荘で、昭和23年(1948)
に東京国立博物館に寄贈されたもの。
柳瀬荘内には、国の重要文化財の黄林閣(おうりんかく)と、斜月亭(しゃげつてい)、
久木庵(きゅうもくあん)などがあるようだが、広葉樹林に覆われた斜面上部にあるのか、
確認できなかった。
柳瀬荘の敷地左手と工場の間の薄暗い林間の細道を上がり、上の車道に出て畑の中を西
進する。
ネギ畑の横を過ぎ、二つ目の送電線が近づいた辺りに、くず鉄の処理施設があり、膨大
な鉄材のスクラップに目を奪われた。
堀割を走る関越自動車道の側道に入り、すぐ左手の国道463号との交差部で信号を渡
る。
折り返して関越道西側の側道を進むはずが、国道の歩道沿いに進んでしまった。左折す
べき道路が無く、おかしいと思いながら次の交差点で、送電線の方向と亀ヶ谷交差点の標
識で間違いに気づく。
右折して北に向かったので、距離的にはほぼ同じで、二つ目の交差点際に、東京オリン
ピッククレー射撃記念碑があった。
昭和39年(1964)の東京オリンピックの際のクレー射撃場が、この周辺につくら
れたが、昭和47年には閉鎖された。
背後は広大な畑が広がり、前面の道路の東側には工場や倉庫が立ち並び、当時の面影は
全くない。碑の前を走る道路のみが、いまも「オリンピック道路」と呼ばれ、その名残を
留めている。
交通量の多いそのオリンピック道路沿いに、次のポイントに関係する川越いもの案内板
が立っていた。
300mほどで南永井交差点を通過し、近くの舘野製本の建物の先を右折すると、民家
の横に、「史跡南永井さつまいも始作地之碑」がある。
寛延4年(1751)、南永井村の名主、吉田弥右衛門が、息子にいまの千葉県市原市
に種いもの買い付けに行かせ、以後この地で飢饉(ききん)に強いとされるさつまいもの
栽培に武蔵野地方で初めて成功し、近隣に広めたとのこと。今は「川越いも」の名で知ら
れるが、ルーツは所沢のここなのだという。
ちなみに、今日、10月13日は「さつまいもの日」。サツマイモの旬が10月である
ことと、川越いもに由来する言葉「九里四里(くりより)うまい十三里」の十三里を合わ
せて、『川越いも友の会』が記念日に制定したもの。
そういえば、碑の前にわずかなサツマイモが植えられているが、通過した両側の畑には
サツマイモ畑は見当たらず、この先にも無かったのが残念だった。実は今日、このコース
を歩くことにしたのは、さつまいもの日なのでゆかりの記念碑を訪ねようとしたことから。
コース地図では、手前の交差点に戻って西進するようになっているが、すぐ北側に平行
して南永井集落沿いの旧道があるので、こちらを進むことにした。
すぐ先に八幡神社があったが、来歴などは記されてない。そばの民家の庭先のシュウメ
イギクが見ごろ。
さらに進むと、所沢市の「ふるさとの樹(巨樹)」に指定されたケヤキの大木が立ち、
車も少ない静かな里道である。
茶畑が増え、少しクランク状に曲がった先は生け垣や屋敷林が増え、りっぱな長屋門を
構えた農家もあった。
地図上のコースに合してY字路を左へ、すぐに左折して送電線沿いの旧道を南に進む。
行く手に高い煙突の所沢市東部クリーンセンタが近づき、西方には秩父の武甲山や大持
山小持山などの稜線が望まれる。
道路を隔てた東側には、リサイクルふれあい館「エコロ」があり、環境配慮に関するキ
ーワードである3Rについての啓発と展示があるようだが、休館日で入れない。
3Rとは、リデュース(ごみの発生抑制)リユース(再使用)リサイクル(ゴミの再生
利用)の優先順位で、廃棄物の削減に努めるのがよいという考え方だという。
工場が増えた辺りの十字路を左折して東へ、国道463号の新郷交差点を渡ってさらに
東進する。
16時半を過ぎて落日が近づき、西の空は茜(あかね)色に染まる。畑の中に「開拓の
碑」があり、昭和24年(1949)からここ柳瀬地区に30戸の入植者が入って開拓を
始め、4年後には電灯が導入されたことなどが記されていた。
少し先で南下して東川の橋を渡り、南側台地の東所沢公園を抜ける。公園内の豊富な広
葉樹林の西に間もなく陽が落ちそう。
スタートしたJR武蔵野線の東所沢駅に、16時52分にゴールした。
(天気 快晴後晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 志木、歩行地 所沢市、歩数
25,200)
今日歩いた行程は、前半の柳瀬荘までは良かったが、その先は広い畑作地帯ながらあち
こちに工場や倉庫、廃棄物処理場が目に付き、景観はいまひとつ。交通量の多い車道もか
なりあり、森に囲まれた寺社もなく、分かりにくいコースタイトルとあわせ、市で設定し
たにしては、是非歩かれてはとはお勧めできないコースだった。
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2015年10月11日(日)
今年の「ところざわまつり」は昨日の前日祭に続き、今日は本祭りを迎えました。
午前中の小雨も上がり、午後は天気も回復方向に向かいつつあったので、少し遅めでし
たが14時半過ぎになって会場に向かいました。
会場は、下の図のように西武線の所沢駅西口駅前から市街の中心を東西に、金山町交差
点までを車両通行止めにして行われました。
自宅から歩いて行ったので、一番近い西側の金山町交差点から入りました。この時間は
山車(だし)の引き回しはなく、それぞれの町内に待機して各々の舞台でお囃子を演奏し
ています。
金山町通りの露店の一部。
もと市役所のあった元町交差点まで進んだら、どうやら「所沢銀座サンバカーニバル」
が始まりそうなので、交差点際でカメラを構えます。
間もなく始まり、何組かのグループが次々に踊りながら通過しました。
元町交差点の南側には、近くの本町と星の宮の山車も待機してカーニバルの見物。
このペアが、メインの踊り手のよう。
撮っているうちに、デジカメのバッテリー切れとなり、予備電池を用意してきてなかっ
たので、電源を切ったり入れたりしてあとは1枚ずつ撮りながら、所沢駅西口の方に向か
いました。
カーニバルが終わると、車道にも人がいっぱいに。
作り替えて間もないらしい旭町の新しい山車。
所沢市有形文化財に指定されている有楽町の山車。
大規模スーパー・ダイエー前付近まで進みました。この辺りは日吉町です。
東端の所沢駅西口入口交差点前まで各町内の山車を見ながら進み、東住吉交差点から通
称「行政道路」と呼ぶ県道4号を帰路に向かいました。
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2015年10月10日(土)
埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの、第227回例会に参加する。集
合地は東武東上線の鶴ヶ島駅。
参加した12人は2組に分かれて、10時8分に駅西口をスタートした。
== 東洋大構内を抜けて小畦川の北側を東進する ==
線路沿いを東へ、最初の踏切を渡り、東洋大川越キャンパスへ新西門から入った。クヌ
ギやコナラなど武蔵野の雑木林を残した「こもれびの道」を抜けてキャンパス中心部へ。
「学祖井上円了先生」胸像があった。井上円了(えんりよう)は、仏教哲学者で教育家。
多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、東洋大学の前身、哲学館を29歳の若さ
で明治20年(1887)年に創立したという。
南側には、100m9秒台が期待される桐生祥秀(よしひで)選手も練習する公認陸上
競技場↓や、ラグビー場、野球場、テニスコートなどがある。
日よけのフウセントウワタが延びた学生ホール食堂棟↓や、やはり食堂もある福利厚生
棟に近い、木のベンチで小休止する。学内を東端まで進んで、大越門から出た。
道路を挟んで東側の、川越市民の森に入る。この森には、北側の下広谷から午後行く南
側の河越館跡近くを通る鎌倉街道が通っているとか。ここにも、豊富な武蔵野の雑木林が
残っていた。
名細(なぐわし)中の東北端から県道39号を少し南東へ。
東側の小さい森に八幡神社が祭られ、石段を下った段丘下の小さな池からは、きれいな
湧水が流れ出ていた。
隣接してコンクリート造りの能満寺があるが、門は閉じられ入れない。
東側は名細小、その北側の通りを北進して小堤(こづつみ)集落へ。少し西に迂回して
さらに北進する。
畑の隅に何本かのムラサキシキブが色づき、コスモスが花盛り。民家の庭先のカキも色
づいていた。
集落の北西端にあった白山神社に入る。慶長2年(1597)、加賀の白山山頂
(2720m)にある白山比(はくさんひめ)大神を勧請したもので、現在の社殿は、
昭和57年(1982)の再建という。境内は狭いが、社殿は堂々たる造り。
社前の通りを東に向かう。2つの送電線の中間辺り、広いソバ畑の秋ソバの花が花盛り。
広い工場の北側を通過し、標高21m地点の変則交差点を右折する。南北に走る道路と
の三差路際のコスモス畑がちょうど見ごろ。
その先の十字路際には、キバナコスモスも咲き乱れていた。
下小坂(しもおさか)集落の南端付近にある永明寺へ。堂々たる本堂で、境内の木々も
よく手入れされている。
境内のお堂に祭られた六地蔵は、きれいな衣装で並んでいた。
南側に見える清掃センターの方角に向かう。
小畦(こあぜ)川の精進場橋を渡り、右岸堤防を清掃センター沿いに進む。
センターの池にサギが1羽立ち、その先では男性が丹念に絵筆を走らせていた。
清掃センターの西に接した、開園間もない「なぐわし公園」に12時40分に入り、東
北端の東屋(あずまや)の周辺で昼食にした。
== なぐわし公園から河越館跡へ ==
公園内には「PiKOA」と呼ぶ清掃工場の廃熱を利用した大きな温水利用型健康運動
施設が設けられ、温水プールや多目的ホール、会議室、軽食コーナーなどがあり、川越市
民の健康生活の支援をしていて、大勢の市民が利用していた。
PiKOA内を少しのぞいた後、記念撮影をして13時42分に公園を後にする。
公園の南西すぐ間近、鯨井集落の北端に、静かで落ち着いたたたずまいの青林寺があっ
た。本堂前に大イチョウが立つが、ギンナンは落ちていない。
南側の通りの角の民家に、奇妙にねじれたアカマツが目を引く。近くの畑のホウキソウ
がよい彩り。
その横から畑の間を進み、裏手の墓地から長福寺に入った。寺は、永享8年(1436)
に、雲崗俊徳(うんこうしゅんとく)が開山したとのこと。
本堂の前には、川越城を築いた太田道灌を曹洞宗に導いた雲崗俊徳と道灌の銅像がある。
銅像は、2011年3月に、静岡県伊東市の彫刻家重岡建治氏により制作されたものら
しい。
交通量の多い、南側の県道39号を西進する。民家の庭先のキクが見ごろに。近くの十
字路の先の八坂神社境内に入る。
道路際には社殿より大きな東方薬師堂があり、その傍らに「鯨井のヒイラギ」と呼ぶヒ
イラギの古木が立ち、川越市指定天然記念物に指定されていた。
すぐ先のY字路を左へ、川越西文化会館「メルト」に入り、15時までの30分近くを
休憩とする。
ホールでは歌謡祭を開催中。展示場での地元のフォトクラブの写真展を観覧し、会場内
のソファなどで休憩した。
すぐ近く、南側の上戸(うわど)集落には日枝神社がある。本殿と、室町時代製作と推
定される内陣の懸仏(かけぼとけ)は、川越市指定文化財である。
日枝神社は、貞観(859~77)の頃、陸奥の修行僧が建立したと伝わる古社。永暦
元年(1160)、後白河法皇が京都東山に新日吉神社を祭ったことに伴い、翌年河越重
隆が河越三十三郷を後白河法皇に寄進し、以後法皇の御領地となり、新日吉山王権現と称
されるようになったという。
東北東に進み、県道114号との交差点に合する。交差点の北側に、木の塀を巡らした
広い屋敷の門があり、巨木の柱の門柱と厚い横板に目をひかれた。
上戸集落の東側に出た。入間川左岸に近い一帯は国指定史跡の河越館跡(かわごえやか
たあと)で、広々とした草地が残る。
河越館跡は、平安時代末期から南北朝時代中頃までの約200年間、武蔵国で大きな勢
力を誇ったこの地の領主で、桓武平氏(かんむへいし)秩父氏の流れを汲む河越氏の居館
(きょかん)跡。
河越氏は源頼朝が挙兵すると初め敵対し、後に御家人になる。だが義経と頼朝の仲違い
から、義経縁者であることから河越重頼(しげより)らは滅ぼされ、一時衰えたという。
しかし、鎌倉中期、高野山に町石(ちょういし)を建てた経重の頃はかつての勢力を回
復しつつあったとか。鎌倉時代の後半、館の中に時宗常楽寺が開山され、大勢の人で賑わ
ったようだが、応安元年(1368)に鎌倉府に反旗を翻して破れ、以降、河越氏は政治
の舞台から姿を消し、河越氏と館の関係も幕を閉じたという。
館跡の南東部に今も残る常楽寺に回ってみた。大釜や古い消防ポンプが保存され、2階
が鐘楼の仁王門をくぐると、正面に大本堂がどっしりと構えていた。
入間川左岸沿いから上戸新町の住宅街を南西に抜けて、ゴールの東武東上線の隣駅、霞
ヶ関駅に16時に着いた。
(参加 12人、天気 晴後曇、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 川越北部、歩行
地 川越市、歩数 19,600)
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2015年10月6日(火)
昨夜は北里大学特別栄誉教授の大村智さんがノーベル医学生理学賞に、そして今夜はノ
ーベル物理学賞に東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章さんが選ばれるという、日本人と
して大変うれしいニュースが続きました。
このようなことで、日本が世界に貢献できるということは大変素晴らしいことで、これ
からも後に続く人が数多く出ることを期待したいと思います。
========================================
今日は、カントリーウオークの仲間、Tさんの参加しているグループのスケッチ展の観
覧のため、正午過ぎにJR大宮駅に着き、会場に向かいました。
東口から一宮通りを経て、武藏一の宮・大宮公園の参道の中ほどにある↑二の鳥居から
参道を進み、会場の「氷川の杜(ひかわのもり)文化館」に入ります。
門前に掲示されていたスケッチ展の案内。
会場の入口
この「大宮スケッチ会」としては8回目の作品展のようで、Tさんなど10人の方が2
点ずつ、あわせて20点の作品が展示されていました。
作品の対象は主として首都圏の社寺や公園など、いずれも落ち着いた彩りの心安まる作
品ばかりでした。
会場の北側道路沿いの塀には竹が用いられ、これもなかなか風情を感じさせます。
会場を出た後は、近くの武藏一の宮・氷川神社と大宮公園を巡ることにして、氷川神社
の三の鳥居へ。
山門を入って正面の拝殿に参拝しました。
氷川神社の東側から背後に回り、大宮公園内を北に進み、春の花見時には賑わう桜の多
いところを通過します。
中心に立つ樹齢120年を超えるというシダレザクラ。大宮公園は、埼玉県最初の公園
として明治18年(1885)年に開設されましたが、開園当時からの木のようで、樹齢
は120年を超えているとか。
公園の北部にある池の東側からさらに北に進みます。
池の東側段丘上では、近くの幼稚園生でしょうか、松ぼっくりを拾っていました。
何度も来ていますが、今日もその先の埼玉県立「歴史と民俗の博物館」を観覧すること
にして、正面入口から入館します(入館料 300円)。
館内の一部は撮影可能なので、展示品の一部を紹介します。第1室「旧石器~弥生時代」
の中の縄文土器。
家型埴輪(いえがたはにわ)など。
第6室「板碑」の展示の一部。
第10室民俗展示室「農業と暮らし」のコーナーの農具。
同じ展示室のいろり端周辺の様子。
ひととおりの観覧を終えたら14時近いので、館内の食堂で遅い昼食を済ませて、館を
出ました。
次に向かったのは、何度も大宮公園に来ても入ったことのなかった小動物園へ(入園は
無料)。
動物たちは何れも、金網や鉄棒などに囲まれた檻(おり)に入れられていて、撮影には
不向きでしたが、撮れたのを2つほど。こちらはタンチョウ。
横に回って檻のすき間からのカピバラ。
小動物園を出ようとしたら、背後に格好良いアカマツが目に入りました。
野球場の南東辺りに回ると、第2代埼玉県令(現在の知事)白根多助の頌徳碑が、頑丈
なコンクリート造りの覆屋の中に立っています。
白根多助は、明治6年(1873)から15年(1882)まで約10年間県政に尽力
し、特に教育や産業の発展に力を注ぎ、県民の福利増進に努めたとのこと。
このようなりっぱな覆屋に守られた頌徳碑は、ほかに見た記憶がありません。白根多助
の偉大なる遺徳が偲ばれます。
ちなみに白根多助は、同じ時期に群馬県令となり、前回アップした上野三碑の保存など
に尽力して群馬県発展の基礎を築いた、群馬県令楫取素彦(かとりもとひこ)と同じ長州
藩の出身ということを、先ほど見た県立歴史と民俗の博物館の展示で知り、やはりNHK
大河ドラマ「花燃ゆ」に縁のある人だったことが分かりました。
近くの日本庭園にも入り、一巡します。
西側入口付近の、ムラサキシキブが色づいていました。
大宮公園を後にして、氷川神社の池の東側を回って参道に向かいます。
約2㎞続く大宮公園の参道を真っ直ぐに進みました。
JRさいたま新都心駅前からケヤキ広場を通過して、JR埼京線北与野駅へ。
西口の書店・書楽で地形図を求め、北与野駅から帰路につきました。
(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市大宮区、
中央区)
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2015年10月1日(木)
今年も残すところあと3か月になり、早くも1年の3/4を経過してしまいました。
さて、少し旧聞になりましたが、9月24日(木)に日本ユネスコ国内委員会から、
『2017年のユネスコの「世界記憶遺産」登録に向けた国内候補として、群馬県にある
国の特別史跡「上野三碑」(こうずけさんぴ)と、第2時世界大戦中に外交官の故杉原千
畝(すぎはらちうね)氏が当時のリトアニアの日本大使館でユダヤ人向けに発給した「命
のビザ」のリスト、とすることに決まった』ことが発表されたのを、テレビや新聞で報道
されたことを覚えておられますでしょうか…。
実は私は、この2つの国内候補ゆかりの地を今年訪れていたこともあり、ぜひとも2年
後の2017年に世界記憶遺産として登録されることを期待しています。
最初の候補「上野三碑」を訪ね歩いたのは、4月9日(木)でした。上野三碑のあるの
は群馬県高崎市の上信電鉄の沿線で、多胡碑(たごひ)、山上碑(やまのうえひ)、そし
て金井沢碑(かないさわひ)の3つの碑です。
上野三碑とは、高崎市教育委員会文化財保護課編集、歴史と文化を考える会発行のパン
フレット↑に以下のように紹介されています。
最初に訪ねた多胡碑は、上信電鉄吉井駅の北東、馬庭駅の北西側にあります。碑のある
一帯は「石碑(いしぶみ)の里公園」になっていて、碑はりっぱな覆屋の中に保護されて
いました。
多胡碑には、奈良時代初期の和銅4年(711)に「中央政府からの命令で、上野国の
片岡郡・緑野郡・甘良郡の3郡内から300戸を割(さ)き、新たに多胡郡を建てた」こ
とが記されているようですが、ガラス窓越しなので文字はよく読めませんでした。
公園内にはた多胡碑記念館もあり、上野三碑や日本三古碑、書道史、世界の古代文字の
ことなどが展示されています。
また、公園内には幾つかの歌碑がありますが、そのひとつが、群馬県令(現在の知事)
・楫取素彦(かとりもとひこ)の歌碑です。
歌碑には、「深草のうちに埋もれし石文の 世にめづらるゝ時は来にけり」と刻まれて
います。
楫取素彦は、いま放映中の今年のNHKテレビ大河ドラマ「花燃ゆ」の、ヒロインであ
る文(ふみ)が、美和子と名を変えて再婚する、亡き姉の夫だった人。「花燃ゆ」も終盤
に入り、今月からは群馬県がテレビの舞台になるのではないかと思われます。
その楫取素彦は、多胡碑の保管管理に力を尽くしており、この歌碑は、大正5年(1916)
に当時の島(ぬでしま)福七郎 吉井町長が建立したようです。
少し回り道しましたが、次の山上碑は、上信電鉄で2つ高崎寄りの山名(やまなえき)
の西方にありました。
駅から向かう道の途中には、上野三碑の世界記憶遺産登録を目指す看板が。
山すそにある山上碑に隣接して山上古墳があり、山上碑も覆屋に収められています。
山上碑は、天武時代の681年の建立で、完存のものとしては日本最古の石碑とか。
碑文は、隣接する山上古墳に埋葬されている、佐野三家(さのみやけ)を管理する豪族
の子女である黒売(くろめ)と、その子、長利(ちょうり)の系譜を述べたもので、黒売
の追善供養碑の性格もあわせ持っているようです。
3つめの金井沢碑の最寄り駅は、さらに2つ高崎寄りの根小屋駅ですが、山上碑から稜
線上の「石碑(いしぶみ)の道」を経由して行きました。
ここも、コンクリート造りの覆屋に守られています。
金井沢碑は、神亀3年(726)、三家(みやけ)氏が祖先の供養と一族の繁栄を祈っ
て建立した石碑とのこと。碑に刻まれている「上野国群馬郡(こうずけのくにくるまのこ
おり)」が、最古の「群馬」の名の使用例で、県名のルーツになっているようです。
次の登録候補、外交官の故杉原千畝(すぎはらちうね)氏が、第2時世界大戦中、当時
のリトアニアの日本大使館でユダヤ人向けに発給した、「命のビザ」のリストにゆかりの
地には、「バルト3国とポーランド8日間」のツアーに参加して、7月14日(火)に訪
れました。
外務省のリトアニア領事館領事代理だった杉原千畝は、1940年7月~8月にかけて、
ナチスドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた、主にユダヤ系難民の
ために人道主義と博愛精神に基づき、外務省の訓令に反してシベリア鉄道経由で日本を通
過するためのビザを発給し続け、6,000人といわれる人の避難民を救済したのです。
そのゆかりの地の一つが、7月14日の前日宿泊した、リトアニアの首都ビリニュスの
ホテルの近くにあった、杉原千畝の記念碑です。
記念碑は、杉原の出身校である早稲田大学が、杉原氏の功績を称えて2001年に建立
したもの。碑には、発給した日本通過ビザのコピー写真も埋め込まれていました。
午後は、ビリニュスの西約103㎞の、リトアニア第2の都市カウナスの町外れにある、
杉原記念館に行きました。
少し大きめの住宅のようなここが、当時のリトアニア領事館。館内には杉原千畝が使っ
た執務室や机などが、当時のままに残されています。
ここにも、発給したビザのコピーが展示されていました。
記念館で購入した「杉原千畝ガイドブック」。
いま、シリアからの難民が大変な数、ヨーロッパに毎日移動しているようですが、国に
より対応が分かれていて、EUでも対処がまとまらないようですが、ぜひとも杉原千畝の
精神を活かして欲しいものです。
また、「積極的平和主義」をうたう日本政府は、難民受け入れには極めて消極的なよう
ですが、難民受け入れにももっと取り組むべきではないでしょうか…。
ちなみに、杉原千畝の外交官時代のことを記した新潮文庫の新刊が、今日、10月1日
に発刊されたと新聞広告で見たので、さっそく購入しました。
あわせて、映画「杉原千畝」が12月5日からロードショー公開されるようなので、観
賞したいと考えているところです。
なお、上野三碑を訪ねた時のレポートはこちらを、杉原千畝ゆかりの地への旅のレポー
トは午前と午後とに分けてアップしています。
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