あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

トルコ・イスタンブール・ボスフォラス海峡クルージング

2010-07-26 21:23:50 | トルコ旅行
 首都圏は、相変わらずの猛暑がこれからも続きそう。少しは涼しさを感じていただけ
ればと思い、トルコ旅行の最終日の、イスタンブールの海峡クルージングの模様を
お届けします。船上から海風に当たっているつもりでご覧下さい。

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 2010年5月24日(月)、トルコ旅行最終日の午前中は、イスタンブールのヨーロッ
パサイトとアジアサイトの間にある、ボスフォラス海峡のクルージングでした。

 手前の船に、ツアーの一行12人が乗船しました。往路はヨーロッパサイド沿いを
進みます。


 スュレイマニエ・ジャーミィと呼ぶモスクが間近に。オスマン帝国が最も繁栄したこ
ろの君主スュレイマン大帝が造らせた寺院で、1557年の完成とのこと。


 出港した付近には、幾つもの観光船が並んでいます。


 右手の尖塔は、高さ61mというガラタ塔。143段の階段かエレベーターで頂上の
バルコニー出ると、ボスフォラス海峡や金閣湾、マルマラ海といたイスタンブールが
囲む海や、イスタンブール市街などの展望は絶景のようです。


 ドルマバフチェ宮殿の前を通過します。アフメット1世が1614年に完成した離宮
です。


 昨日宿泊した、コンラッドホテル↓が見えてきました。


 こちらは高級ホテルのよう。


 チュラーン宮殿のそばを通過しました。


 やはりホテルのようです。


 往路はデッキに上がって、移りゆく風景を眺めました。


 第1ボスフォラス大橋のそばにあるモスク、オルタキョイ・ジャミイ。


 ボスフォラス海峡に最初に架けられた、第1ボスフォラス大橋の下を通過。

 アンテナ塔の並ぶ向こう側(右手)は、アジアサイトです。


 この辺りでは斜面の上部まで、高級住宅らしい建物が並んでいます。


 間もなく、第2ボスフォラス大橋の下を通過します。完成は1988年で、全長は約
1200m、高さは約64m、建設には日本企業も参加したようです。

 橋の交通量はかなり多いようで、車が渋滞している様子が見られます。

 第2ボスフォラス大橋の手前にある要塞、ルメリ・ヒサール。1452年に、メフメット
2世が、コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)攻略のために築いたもの。

 アジア側のアナドル・ヒサールと向かい合うように建てられ、海上封鎖によって、ビザ
ンチン帝国への武器や食料の運搬を阻止したとのことです。

 第2ボスフォラス大橋の先で折返し、アジアサイドに沿って戻り、約1時間半の船旅
を楽しみました。
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トルコ・世界遺産イスタンブール歴史地区③(ブルーモスク)

2010-07-25 21:43:29 | トルコ旅行
 2010年5月23日(日)夕方、トルコ・イスタンブールの旧市街の歴史地区にある
世界遺産ブルーモスクを訪ねました。

 ブルーモスクは、オスマン帝国第14代のスルタン・アフメット1世により建設され
た、イスタンブールで最も美しい寺院と呼ばれています。

 1609年に着工し、1616年に完成、神学校、貧民救済のための簡易食堂、隊
商宿などを兼ねた総合施設です。



 ここが、ブルーモスク観覧者の入口です。


 内庭は5か所の扉から入れ、広さは72m×64mとか。


 モスクに入ると、高い大きなドームに目を見張ります。


 中心のドーム下の部分は、礼拝者だけしか入れません。観覧者は、周辺の回廊
を巡ります。


 内部には、17世紀のイズニック・タイルが、2万1千枚以上使用されています。
当時は、タイル1枚が金貨7枚分に相当したとのことです。


 この礼拝堂の広さは、約2700㎡で、ドームを支える4本の柱の直径は、約5m
あります。


 真ん中の大ドームを見上げたところ。高さ43m、ドーム直径は22.5mです。


 窓には、たくさんのステンドグラスがはめ込まれています。

 ステンドグラスの美しい光と、内部に使われた青いイズニック・タイルから、「ブル
ーモスク」と呼ばれるようになったようです。


 1日5回の礼拝の時間には、見学することは出来ません。私たちが観覧できるこの
ときに礼拝している人は、礼拝の時刻に遅れて後から来た人のようです。  

 礼拝の人たちが向いているのは、メッカの方向です。



 観覧を終えて内庭に出ました。


 向こうの門が出口です。


 30分ほど観覧して、ブルーモスクを後にしました。
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トルコ・世界遺産イスタンブール歴史地区②(アヤソフィア)

2010-07-23 22:50:36 | トルコ旅行
 今日は、1年でも最も暑いといわれる二十四節季の一つ「大暑」。わが所沢市内も、
梅雨明けから今日までの1週間、連日35℃前後の猛暑に「対暑」しながらの毎日
です。

 この1週間は熱中症にならぬよう、日中はもっぱら家の中で過ごし、お陰で溜まっ
たままだった本棚の周囲の片付けが結構進みました。

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 2010年5月23日(日)午後訪ねた、イスタンブール旧市街にある歴史地区の世界
遺産、アヤソフィアを紹介します。

 アヤソフィアは、ビザンツ建築の最高傑作といわれ、ギリシア正教の大本山になっ
たり、イスラム寺院に姿を変えたりした、イスタンブールの象徴ともいえる建物です。

 現在の建物は、537年に時の皇帝、ユスティニアヌスの命により、6年近くかけて
完成した、ビザンツ様式の大聖堂です。

 波乱に満ちた歴史を経て1934年、トルコ共和国初代大統領アタテュルクにより、
博物館として一般公開されるようになりました。

 ここがアヤソフィアの入口です。


 中に入ると、まず天井の高い大きなドームに目を奪われます。

 
 真下から見上げた中央の大ドーム。直径は31mあり、ロドス島で造られた軽い
レンガで出来ているようです。




 下から見上げる2階の回廊と柱。




 北側から石畳のスロープを上がると、2階の回廊を巡ることが出来ます。2階から
見下ろす1階中央部。


 1階の吹き抜けを挟んで、反対側の回廊。


 2階の窓は高く、私の背丈では直接見ることは出来ませんが、デジカメを手の上に
かざして撮った外壁など。


 2階には、モザイク画が幾つもの凝っていました。モザイク画は、ガラスや大理
石、金などを細かく砕いたものを、漆喰で固めた部分に埋め込んでいくとのこと。
耐久性に優れているので、長い年月を経ても美しさは変わらないようです。

 「聖母子と皇帝家族」と呼ばれるモザイク画。中央に幼いキリストを抱くマリア、
左は金貨の入った袋を持つ皇帝アレクシス、右は目録を手にした皇后イレーネ。


 こちらは「キリストと女帝ゾエ夫妻」と呼び、中央にキリスト、左は金貨の入った
袋を持つ皇帝コンスタンティヌス9世モノホマスと、右は目録を手にした皇后ゾエ
が描かれています。


 これも2階の高窓から見た、アヤソフィアの壁面の一角。


 出口が近くなりました。


 南出口近くの天井に描かれたモザイク画「聖母子に献上する皇帝」。10~11世紀
初頭のもので、中央に幼いキリストを抱くマリア、右はコンスタンティノーブル(現在の
イスタンブール)の町を献上するコンスタンティヌス1世、左はアヤソフィアを献上する
ユスティ1世とのことです。

 1時間近く観覧して、アヤソフィアを出ました。

 南側の公園を隔ててふり返るアヤソフィア。


 イスタンブールを代表する景観の一つです。
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トルコ・世界遺産イスタンブール歴史地区①(トプカプ宮殿)

2010-07-22 21:49:20 | トルコ旅行
 2010年5月23日(日)午後、トルコ第一の都市イスタンブールに戻り、旧市街に
ある世界遺産・歴史地区を訪ねました。



 最初は、ボスフォラス海峡や金閣湾、イスタンブールの町全体を見渡せる小高い
丘に立つトプカプ宮殿です。

 トプカプ宮殿は、15世紀半ばから20世紀初頭にかけて、強大な権力をもっていた
オスマン帝国の歴代君主(スルタン)の居城として建設されました。

 敷地面積は70万㎡あり、1856年にドルバフチェ宮殿が出来るまで、ここは、ウィ
ーン付近から黒海、アラビア半島、さらに北アフリカまでを支配したオスマン朝の中
心地として栄えたところです。

 現在は博物館として公開されていて、年間の来訪者は約150万人とのことです。

 最初にトプカプの門と呼ぶ、この門から入ります。


 その先は第1庭園と呼ばれ、広葉樹が道の両側に続いていました。


 博物館の入口となる皇帝の門(表敬の門)、ここでセキュリティチェックを受けて
入ります。

 木々の間を進むので、門のそばまで行かないと両側の双塔は見えませんでした。


 芝生と立派な植栽の第2庭園の左手にある「会議の間」。国政をとり仕切る重要な
会議が行われた場所のようです。


 3番目に通過する幸福の門。スルタンの私的スペースである第3庭園の入口。


 宮殿の東北端にあるレストラン付近からは、ボスフォラス海峡や、イスタンブール
の市街地などが展望できます。


 ずっと向こうに見えるのは、第1ボスフォラス大橋です。


 幸福の門の、入口右手前に立つ大木。


 これは図書館と聞いたように思います。中には入りませんでした。


 これは何の建物だったかな? あまりにも建物が多いので忘れてしまいました。


 ここは、あまり大きくはない建物でしたが、天井のドームはみごとです。


 同じ建物の中のひとつの間。


 第2庭園の右側にある厨房跡。16世紀末には、1200人余りの料理人がいたよう
ですが、現在は陶磁器の展示館になっていました。


 日本でも展示会で公開された、トプカプの短剣やスプーン屋のダイヤモンド、世界
最大のエメラルドなどの展示された宝物館は大変な混雑、写真撮影は禁止でした。

 1時間ほど観覧して、トプカプ宮殿を出ました。

 こちらは、近くにあったアヤイリニ教会、532年の改築で現在の姿になったとか。

 この後回るアヤソフィアが出来る前は、ギリシア正教会の大聖堂として機能し、アヤ
ソフィア完成後も、第2の教会として威光を放っていたとのことです。
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トルコ・世界遺産カッパドキア②

2010-07-19 17:20:17 | トルコ旅行
 2010年5月22日(土)に回った、トルコ中部にある世界遺産カッパドキアの
続きです。

 この日の午後のメインは、カッパドキア北部にある、ギョレメ野外博物館へ。
ここが野外博物館の入口。

 カッパドキアでは、4世紀頃からたくさんのキリスト教徒が住むようになったの
ですが、9世紀頃から強まったイスラムの圧迫を避け、岩を掘って洞窟に教会や
修道院を造ったといわれているようです。

 ギョレメ一帯には、400~500もの教会があったようですが、現在はおよそ30
の教会が、野外博物館として公開されているとのこと。



 
 当時の信徒が描いたフレスコ画の壁画が幾つか見られました。

 以前、そばにリンゴの木があったことから「リンゴ教会」と呼ばれるところの、みご
とな壁画。

 12~13世紀にかけて造られたもので、光が入らなかったところは保存状態がよ
いようです。

 高台の斜面につけられた遊歩道を歩いて、つぎの教会へ向かいます。 

 世界各国からの観光客で大賑わい。入るのにかなり待たされたところもありました。




 私たちは回らなかった、さらに高台にも、観光客の姿が見られます。


 ギョレメ野外博物館を出て、谷を隔てて反対側の高台にある展望台に上がりました。

 カッパドキアの中心部付近の展望が広がります。


 東側、一番向こうに見える平坦なところは、ローズヴァレー(赤い岩)と呼ばれ、ここ
にも教会があり、7世紀頃の彫刻や、11世紀頃のフレスコ画が残っているとか。


 最初に回った、ウチヒサールの「尖った砦(とりで)」と呼ぶ、巨大な一枚岩の城塞が
眺められました。


 この日泊まったギョレメの洞窟ホテルの、部屋からの眺めです。
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トルコ・世界遺産カッパドキア①

2010-07-17 22:19:16 | トルコ旅行
 関東甲信越地方も、今日、7月17日(土)に梅雨明けの発表がありました。しばら
くは暑さが続きそうですので、外出の際には熱中症に十分ご注意を…。

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 2010年5月22日(土)は、トルコ中部の世界遺産、カッパドキアをめぐりました。



 カッパドキアは、トルコ中部・アナトリア高原の中央部に広がる、大奇岩地帯です。
キノコのような岩に代表される奇岩の続く不思議な景観や、奇岩の中に残っている
数多くのキリスト教壁画、地下何十mに掘り下げられた地下都市などがあります。

 カッパドキアには、紀元前8000年ころには人間が住み始めたとか。紀元前15~
12世紀には、オリエントで強大な帝国だった、ヒッタイト王国の中心地として栄えま
した。

 紀元後4世紀には、ビザンチン帝国の領土となり、この地に移住してきたキリスト
教徒により、岩窟住居が建設されました。

 11世紀にはイスラムの支配下になりましたが、キリスト教徒はその後も暮らし続
けていたようです。しかし1923年にトルコ共和国が建設され、隣国ギリシアとの
間で住民交換が行われて、キリスト教徒は姿を消したようです。

 それでは、南北約50㎞に広がるカッパドキアの中で、幾つか回った観光の中心
地の様子を紹介しましょう。

 カッパドキア地方で最大の町、ネヴシェヒルから、最も高いところにある村、ウチ
ヒサールを経て、さなざまなキノコ岩の見えるギョレメに向かいました。

 ウチヒサール付近。


 ウチヒサールの中心にある巨大な岩。

 敵の侵入を防ぐための城塞として利用されていたものです。





 昼食は、カッパドキアの北端に近い高台のレストランでした。レストランの駐車場
から見えた大岩。


 バスで10分ほどの、テヴレントにあるラクダ岩。


 カッパドキアの代表的景観、キノコ岩が並ぶパシャバー地区。

 動物が立っているようにも見えませんか…。




 このような地層は、数億年前に起きたエルジェス山の噴火で造られたものとか。
火山岩と溶岩が数百mずつ積み重なった後、凝灰岩や溶岩層になり、その後も風雨
に打たれて浸食が進み、固い部分だけが残って、このような形になったようです。 

 このあたりは皆、キノコのようです。



 どこを見ても、飽きない眺めでした。




 各々の地域の駐車場周辺には、観光客目当ての土産物店が並んでいました。


 (続く)
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トルコ・世界遺産パムッカレの石灰棚とヒエラポリス遺跡②

2010-07-16 18:13:45 | トルコ旅行
 2010年5月21日(金)、トルコ西南部の世界遺産、パムッカレの石灰棚とヒエ
ラポリス遺跡めぐりの続きです。

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 広大な石灰棚を歩く観光客。景観保護のため、皆さんはだしです。


 石灰棚の下に見えるパムッカレの家並みと、その向こうの広大な景観。


 長い年月により形成された石灰棚の様子。水こそ流れていませんが、中国西部の
世界遺産、黄龍(こうりゅう)の石灰棚と同じように生成されたのではないでしょうか。


 石灰棚の右端に近いあたりの様子。


 石灰棚を離れて、ヒエラポリス遺跡の一角を進みます。


 

 温泉のアンティックプールがあるというのですが、入る時間はないので、のぞくだけ
にしました。

 温泉プールの底には、ローマ時代の遺跡がゴロゴロしているようです。水温は
35℃前後とか。

 たくさんの人が、温泉プールを楽しんでいました。


 プールのそばから見えるヒエラポリス遺跡。奥は、大きな劇場のようです。


 ハドリアヌス帝により紀元前2世紀に造られたローマ劇場で、収容人員は1万5千
人だったとのこと。


 当時の水路の一部が残っていました。




 駐車場に並ぶ観光バスなど。日本人を初めたくさんの観光客が見えていました。
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トルコ・世界遺産パムッカレの石灰棚とヒエラポリス遺跡①

2010-07-15 11:17:54 | トルコ旅行
 2010年5月21日(金)、トルコ西南部の世界遺産、パムッカレを訪ねました。



 パムッカレにある、ヒエラポリス遺跡の城壁でしょうか。ここが入口です。


 ヒエラポリスは、紀元前190年に始まった都市の遺跡で、この時代のものとして
は、最も内陸部にあることで知られているようです。

 ベルガモン王エウメネス2世により建造されたものとのこと。2~3世紀には、人
口10万人を超え、典型的なローマ地方都市となり、ビザンツ時代まで繁栄したの
ですが、セルジューク朝により滅ぼされました。



 広大な斜面のあちこちに、大きな遺跡が見られます。  



 南西側だったでしょうか、残雪の山並みが望まれます。






 遺跡に接した、町を見下ろす斜面には、広大な石灰棚が広がっています。


 この地の、温泉水に多く含まれた炭酸カルシウムが、水中の酸素と結合して沈殿
し、長い年月を経て凝結されたものとか。

 石灰棚の長さはおよそ3㎞、厚さは300m、ふもとの町並みからは100mほどの
高さのところにあります。



 石灰棚と遺跡との間にある、公園のようなところには、キョウチクトウやバラなどが
花盛り。

 向こうに見える石積みのところは、南大浴場だったヒエラポリス博物館ですが、
時間の都合で入館はしませんでした。。


 花の近くに、当時の(といってもいつ頃のものか忘れましたが…)都市の想像図
がありました。 その頃から石灰棚はあったようです。


 石灰棚の中には、裸足になれば入ることが出来ます。中に走る溝には温泉が流れ、
足湯も楽しめます。でも流れはぬるぬるしているので、滑らぬよう注意が肝心。

 あれ!右の帽子を被った日本人風の男性は、靴を履いている。ルール違反です。 



 眼下に見える緑の豊い町並み。教会も見えています。

 
 このあと、石灰棚上部に沿った遊歩道を、先に進んでみました。(続く)
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トルコ・エフェソス遺跡②

2010-07-11 17:49:03 | トルコ旅行
 2010年5月20日(木)午後に訪ねた、エフェソス遺跡の続きです。

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 エフェソス遺跡 観光コースの中心にある、広いクレトス通りを下って行きます。


 紀元135年頃(102~104年という資料もある)、トラヤヌス帝に献上されたと
いうトラヤヌスの泉。手前に水道があり、奥に池があって鏡としても使われたとか。


 ある建物の前に敷かれたモザイクタイル。


 ハドリアヌス神殿。紀元138年頃、皇帝ハドリアヌスに捧げられた神殿。正面
玄関の装飾が見事です。


 正面アーチのアップ。中央に女神ティケが彫られています。


 ここは公衆トイレ。穴の空いたところに座って、隣の人と話ながら用を足すと
いう開放的なもの。水路の水で、お尻を洗うことも出来たようです。


 柱の並ぶクレトス通りを先に進みます。


 エフェソスのシンボルともいえるのがケルスス図書館。2世紀にこの地を統治した
ケルススをしのんで、息子のティベリウスが建立したものとか。

 1階はイオニア式、2階はコリント式という、異なる様式の柱で造られています。

 ここには、1万2千巻の書物が所蔵されたといわれています。

 1階上部の部分アップ。


 図書館の右手にある門をくぐると、年代ごとの特徴ある柱が3本並んでいます。

 左が古く、右が一番新しい年代のようです。

 その先のマーブル通りには、敷石に刻まれた娼館の広告が見られます。この足
より小さい人は、利用できなかったのだという説もあるようですが…。


 マーブル通りとアルカディアン通りの交点にある大劇場。演劇の上演や市民参
加の集会会場になり、市民にとって大切な場所だったようです。

 収容人員は約24000人という、トルコ最大級の円形劇場で、大観客席の直径
154m、高さ38mの半円形。音響効果も大変優れ、いまもコンサートなどに利用
されているとか。

 大劇場の全景。丘陵の斜面を巧みに利用して造られたことが分かります。


 ここでエフェソス遺跡観光を終え、入ったのとは違う北側の入口に出て、この日の
宿に向かいました。
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トルコ・エフェソス遺跡①

2010-07-09 21:57:54 | トルコ旅行
 2010年5月20日(木)、午後は、トルコ西南部のエフェソス(エフェス)遺跡を
めぐりました。

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 エフェソス(エフェス)は、紀元前11世紀にギリシアからやってきたイオニア人に
より建設された都市国家です。

 この町の黄金時代は、ローマ帝国が支配した紀元前130年ころとのことで、当
時は約10万人が暮らしていたと推定されるようです。

 当時は、ローマやアレクサンドリアに次ぐ3番目の人口を誇り、数々の国際会議
が開催され、キリストの死後には、使徒ヨハネが聖母マリアとともに移り住んで、
余生を過ごしたことでも知られているとのことです。

 昼食地から見た、エフェソス遺跡のある台地。ここにバスで上がりました。


 南側からの入口を入ると、近くにあるのがヴァリウスの浴場。紀元前2世紀に造
られたもので、当時は、この町に入るものは消毒として全身に漆喰(しっくい)を塗
りったあと、この浴場で体を洗ったといわれているようです。


 約1,400人が収容できたという会議場オデオン。当時は上部が屋根に覆われて
いたとのこと。 


 好天で暑くなってきた午後ですが、たくさんの観光客で溢れていました。
 



 大理石の柱の残る通りを先に進みます。 





 市公会堂のあったところ。現在は数本の柱が残っているだけですが、かつてはここ
に聖火が灯され、火が消えることはなかったとのこと。


 私たちはガイドのハイダルさんから、各々の場所で説明を聞きながら進みました。




 こちらはドミチアン神殿、紀元1世紀にローマ帝国のドミティアヌス帝に捧げられ
た神殿。2本の柱の間には、高さ7mのドミティアヌス帝の像が立っていたようです。


 多くの遺跡が並ぶクレテス通りにある、勝利の女神ニケのレリーフ。


 広いクレテス通りを緩やかに下って行きます。正面真ん中は図書館。


 クレスト通りの入口にあるヘラクレスの門。ライオンの毛皮をまとったヘラクレスの
姿が彫られています。2つ前の写真、勝利の女神ニケのレリーフは、この門のアー
チとして飾られていたものだそうです。


 クレスト通りには、このような石像が幾つも並んでいました。


 さて、この先には、どんな遺跡が残っているのでしょうか。 次回紹介します。
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