あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…
2019年6月30日(日)
前回の投稿、6月27日(木)のウィークデーハイキングのレポート後半は「ところざ
わのゆり園」についてでしたが、ゆり園ではたくさんの花を撮ったので、その中から第2
報としてご覧いただくこととします。
まずはところざわのゆり園への地図を。西武狭山線の終点・西武球場前駅から徒歩3分
です。西武狭山線は、西武池袋線の西所沢駅乗り換えの支線で、2駅で終点です。
もう一方のルートとしては、西武新宿線の小平駅から多摩湖線で終点・西武遊園地駅へ。
山口線(レオライナー)に乗り換えて終点の西武球場前駅へと行くこともできます。
ところざわのゆり園入口のチケット売場。入場料は大人(中学生以上)1,100円、
4才~小学生350円です。
ここで、このような入場券がわりの扇形の絵図をもらいます。
こちらの面↑には、園内3か所にあるスタンプを押す欄があり、全部押印できたら右下
の「見晴の丘」でしおりをもらえます。
もう少し大きな絵地図で
さてそれでは、まずは大外のルートを反時計回りで回って目についた花の数々を。
つぎつぎと咲き競う花に目を奪われて、なかなか進みません。
東北側下部から
北側の斜面上部へ
ほぼ一周近く回った南西側高台にある休憩所
いろいろな色の花が咲き競い、50種約45万株が咲くというゆりの花園は、見飽きぬ
風景でした。
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2019年6月27日(木)
梅雨の晴れ間ならぬ曇天だが、西武鉄道のウィークデーハイキング「都立公園を巡り、
ところざわのゆり園を訪ねる!」に参加した。
西武球場前駅から、小さい車輌の西武山口線(レオライナー)に乗る。
この線に線路は無く、ゴムタイヤで走行する。終点の西武遊園地駅には9時40分に着
いた。
南口のテントで西武ウィークデーハイキングの受付を済ませ、9時46分にスタートし
た。
近くのフヨウが花を競い、そばのブラシノキも咲き出した。
車道を横断して都民の水源のひとつ、多摩湖(下湖)の堰堤(えんてい)下を南に延び
る都立狭山公園を進む。
東側には、ソメイヨシノや広葉樹などの緑が続いている。
堰堤の南端まで進み、宅部池の横を過ぎる。池の対岸にはアジサイが花を見せていた。
その先は樹林下の遊歩道で、中ほどに大きなガクアジサイが花いっぱい。
狭山公園南門で公園を出て西北西へ。「特養ホームやまと苑」前のお地蔵さんには、花
が供えられている。
すぐ先を左折した路地の民家にはマルベリーが、たくさんの実をつけていた。
近くの狭山神社に横から入り参拝する。狭山神社は地元の氏神、産土神(うぶすながみ)
として崇敬されているよう。
現在の社殿は、平成5(1993)年の再建という。
南側高台には圓乗院がある。創建については古い記録が消失して不明のようだが、寺に
ある歴代塔には賢誉法印(平治元(1159)年没)を始祖とするという記録があるとか。
立派な鐘楼門は寛延2(1749)年の建立という。武蔵野三十三観音の第8番札所で
もある。
鐘楼門を入り正面の本堂は、コンクリート造りの堂々たるもの。
境内は豊富な緑に覆われ、聖観世音菩薩像や大きな石灯籠が目につく。
大きな鉢のハスが花を見せ、近くにはキキョウも咲いていた。
圓乗院の横から西に緩やかに上がって都立東大和(ひがしやまと)公園に入る。
東大和公園は多摩湖の南にあり、狭山丘陵の雑木林が残る場所。昭和40年代後半に団
地開発が計画され、多くの市民が市とともに「この林を守りたい」と東京都に働きかけ、
昭和54(1979)年に都立最初の丘陵地公園として開園したとか。現在も植物保全な
どの市民活動が活発に行われているという。
気持ち良い樹林下の遊歩道が1㎞前後続き、その中を西進する。西側の正門広場を出る
と、東大和市立二ツ池公園があり、池のスイレンがいくつか花を見せていた。
東大和市のマンホールは、多摩湖の取水塔のデザイン
少し先で住宅地を北へ、多摩湖南岸沿いに設けられた多摩湖自転車歩行者道に入り西進
する。多摩湖南岸の森では、ウグイスがあちこちで声援を送ってくれる。
並走する車道の南側に、変わった姿の彫刻が目に入る。
この地に昔住んでいた「つちんど」という頭が槌(つち)の形をした大蛇をイメージし
て、平成5(1993)年に作られた作品のよう。
1㎞余り進んで、車道などを越える全長160mの鹿島橋を渡る。
その先の東屋のところで自転車歩行者道に分かれて東北東に向かう。
多摩湖(上湖)の堰堤下に下りて北進する。多摩湖(下湖)の水辺が見下ろせるはずだ
が、堰堤の堤体強化工事中で水辺は何10mか東側からになっていた。
歩行者用吊り橋のある多摩湖北交差点から、北に向かって下るとプロ野球 埼玉西武ラ
イオンズの建物やメットライフドーム(西武ドーム)↓が見えてきた。
ゴールの「ところざわのゆり園」前には11時50分に着き、ゴール受付をする。
そのまま西武球場駅に向かう人もいたが、ハイキング参加者はところざわのゆり園に割
引料金で入場できるので、観覧することにした(大人1,100円が割引で900円)。
開園は2005年からなので、もう15年目。近くに住みながら私はまだ来たことが無
く、ちょうどよい機会である。
ところざわのゆり園は、もと「ユネスコ村」跡に開園したもの。狭山丘陵の地形をその
まま活かし、約3万㎡の自然林に早咲きのスカシユリや遅咲きのハイブリッド種などおよ
そ50品種、約45万株のユリが咲き、毎年6月上旬~7月上旬に公開されている。
散策コースは2種類あり、花を眺めながら森林浴などが楽しめ、園内3か所に休憩所も
あるという。正午頃ゆり園に入ると、周辺には色とりどりのゆりが咲き競う。
園内を一周する散策路があり、まずは反時計回りに進むことにして、右手の斜面を下っ
てみる。
見たことの無い色も多く、撮りながら進むと白いゆりのエリアとなる。
左手に回り込み、一番低いあたりから一面のゆりを眺める。
右手(東側)最上部に上がってほぼ稜線上に進む。
南側にメットライフドームが望まれるようになり、さらに進んで休憩所のそばまで行く。
この辺りには黄色いゆりが増えてきた。
対斜面には帯のように咲く何色かのゆりの花園が望まれる。
ほぼ一周して「見晴の丘」と呼ぶお休み処近くには、黄色と赤の混じったゆりが咲き競
っていた。
今度は少し戻り、稜線より下の中間の遊歩道を逆行してみる。後半は最初に歩いたエリ
アを進んで見晴の丘に戻り、入場券代わりにもらった扇状の園内図にある3か所のスタン
プも押し終えた。
スタンプを示して見晴の丘で参加賞のしおりをもらう。約1時間の観賞を終えて13時
にゆり園を後にした。
歩行中は曇天だったが蒸し暑さが続き、園内では一時ポチポチと雨粒も落ちてきた。
空腹を感じたので、ゆり園の南側、西武球場前駅への跨線橋横にあった中華居酒屋味亀で
昼食をする。
西武球場前駅13時33分発西武山口線で帰路につく。わが家の最寄り駅までは2駅で
ある。
(天気 曇、距離 7㎞、地図 ウィークデーハイキング地図、歩行地 東京都東村山
市、東大和市、埼玉県所沢市、歩数 15,100)
ちなみに、ところざわのゆり園の今年の営業期間は7月7日(日)までの予定。ゆり
園のサイトはこちらへ。
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年号が平成から令和に代わった最初の月末、5月28日(火)~6月4日(火)、『絵
はがきのような小さな村・街を巡る美しきイタリア8日間』という阪急交通社トラピック
ス企画のツアーに参加した。
2度目のイタリア旅行にもお勧めという、イタリア北部の個性あふれる街を巡るようだ
が、私は初めてのイタリアである。
第1日 2019年5月28日(火)
== 成田国際空港からミラノへ ==
自宅を5時30分に出て、所沢駅から6時10分発成田空港行きシャトルバスに乗る。
ラッシュの渋滞も少なく、成田空港第1ターミナルには予定の9時より早い8時38分に
着いた。
成田空港第1ターミナル4階出発ロビー北ウィングに上がりしばらく待ち、アリタリア
航空のカウンターで個人チェックイン後にGカウンターの阪急交通社受付カウンタへ。今
回の添乗員は福原千恵子さん、参加者は27名という。
12時35分発、イタリア北部のミラノ行アリタリア イタリア航空AZ787便は、
13時01分に成田空港を離陸した。
機種はエアバス社のA330-200(256席)で、飛行時間は12時間40分の予
定。ミラノまでの距離は9,760kmである。
航空機は30分ほどで新潟市西方から佐渡島の東北端付近を経て、日本海を横断して
14時25分頃にシベリア大陸↓に入る。
ハバロフスク付近から広大なシベリア大陸へ、しばらくは長大なシベリア大陸北部を通
過する。
その間、日本時間14時10分過ぎに昼食が出た。
白海、ヘルシンキ上空などを通過してヨーロッパ大陸北部に入り、日本時間より7時間
遅いイタリア時間の16時40分頃に夕食が出た。
イタリアの北西部、スイスとの国境に近いミラノ(Milano)空港に近づくと、窓からは
雪をまとったアルプス山脈や湖、水田かと思われる水辺などが望まれる。
やがてレンガ色の家並みが眼下に迫り、ミラノ市外地の北西側郊外にあるミラノ国際空
港には予定より12分早い18時03分に着いた。ミラノの天気は曇、気温は15℃とか。
空港からのバスは19時04分に出発し、空港の東側、ミラノ市街地の北西郊外にある
チェッロ マジョーレ(CERRO MAGGIORE)のホテル「ウナ マルペンサ(UNA MALPENSA)」
には19時25分頃到着した。
日本時間では翌29日早暁の2時25分である。機内ではあまり眠れなかったこともあ
り眠気でふらふら感が強く、シャワーもせずにベッドに入った。 (歩数 7,700)
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2019年4月18日(木)〈続き〉
== 中通島・頭ヶ島の天主堂を巡り有川港から高速船で長崎港を経て帰路へ ==
中通島、有川港そばの割烹扇寿での食事を終え、そばの土産店をのぞいたり、これから
乗る高速船の発着する建物・鯨を形どった有川港ターミナルビルや周辺の風景など眺める。
13時15分にバスに乗り、その有川港ターミナルビルにはすぐに到着した。この後乗
る長崎港行き高速船の時間待ちの間に、1階にある鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム
の観覧をする。
館内では有川湾で行われていた捕鯨や南氷洋捕鯨、捕鯨用具、鯨の模型や実物、鯨の加
工品など鯨に関する多彩な展示がある。
鯨のあご骨
鯨のひげ板を使った応接セット
さらに、先ほど訪ねた頭ヶ島に関するコーナーや、地元有川出身の境川親方(もと横綱
佐田の山)のコーナーもあり、いずれも興味深く観覧した。
これで五島列島島巡りの観光を終え、有川港14時20分発長崎行き高速船「シーエン
ジェル」に乗り、長崎港に向かう。長崎港到着予定は16時03分である。
高速船は港を出て北東へ向かい、中通島北東部の集落や岬の近くなど通過する。
島を離れて南南東へと向きを変え、島影も次第に消えた。しばらく進むとやがて九州本
土が近づき、大きな吊り橋の下から長崎湾内に入った。
クレーンや輸送船などが現れて長崎港が近づき、予定通りの16時03分頃、長崎港に
着いた。
港のそばで待機していた長崎バスに乗り、16時08分にバスは出発する。市街地を北
に進んで16時22分に長崎平和公園近くのカステラ店・和泉屋平和公園前店の駐車場に
着いた。この後は長崎平和公園の見学である。
急坂を上がって長崎平和公園に入り、平和祈念像や折鶴の塔、長崎刑務所浦上刑務支所
跡、原爆殉難者之碑、大噴水や周辺の山並み、公園内のクスノキの新緑、いくつかの彫刻
など眺める。
長崎刑務所浦上刑務支所跡
公園内をほぼ一巡してもとの道を戻り、長崎カステラ店の和泉屋 平和公園前店に入り、
土産のカステラを求めた。
16時55分にバスは出発して長崎空港に向かう。高速道路を北にしばらく走り、長崎
空港には17時25分に到着した。
帰路の18時55分発羽田空港行きANA670便は、19時04分に長崎空港を離陸
した。機種はボーイング社製B777-200型機、羽田までの飛行距離は974㎞であ
る。
機は順調に飛行して、羽田空港には予定時刻20時40分より早い20時22分に着陸
した。
第1ターミナルビル21時05分発所沢駅東口行きバスに乗り、所沢駅東口には22時
25分に着いた。西武池袋線下り電車に乗り、わが家には22時52分に帰宅した。
(歩数 9,200)
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2019年4月18日(木)
== 中通島・頭ヶ島の天主堂を巡り有川港から高速船で長崎港を経て帰路へ ==
新上五島町(しんかみごとうちょう)の南部、町で最大の島・中通島(なかどおりじま)
の北部高台にある2日目の宿、カンパーナホテルで6時に起床した。
外を眺めると好天である。
7時から朝食後、玄関を出て周辺の山並みやそばの路傍に咲くヤエザクラなどを眺める。
ホテルに隣接して上五島特産の椿油研究試作施設・椿夢工場があり、建物の前に「文学
博士 潁原退蔵顕彰碑」が立ち、「麦笛や子を待つ母の夕支度」の句などが刻まれていた。
潁原退蔵(えばらたいぞう)はこの地の生まれ、日本の国文学者で元京都大学教授、長
崎県初の文学博士。俳諧の研究を中心とした実証的学を確立し、特に芭蕉や蕪村の研究論
文など多く第一人者だったという。
8時42分にバスでホテルを出た。今日もドライバーは山下さん、ガイドはオダさん。
南進して10分足らずの8時51分に青砂ヶ浦(あおさがうら)天主堂に着いた。
西側に奈摩(なま)湾を見下ろす位置にあり、設計施工は長崎県下に数多くの教会を残
したここ上五島出身の建築家・鉄川與助(てつかわよすけ)により、明治43(1910)
年に竣工したとか。
外観、内部とも均整のとれた構造で細部の意匠も優れ、日本人設計者により建設された
レンガ造り教会堂の初期のもので、この後県内の離島中心に多数建築されたレンガ造り教
会堂の構造、意匠の起点となったという。
現在の建物は3代目で、2010年に献堂100周年を迎えており、国指定重要文化財
である。
9時から堂内も拝観したが撮影禁止なので、「建築家 鉄川與助」のリーフレットから
紹介する。
9時18分に教会堂前駐車場を出た。奈摩湾に沿って南下して湾の西側へ。鉄川與助が
初めて設計施工したという冷水(ひやみず)教会前を通過する。
間もなく、湾の北西端に近い「矢堅目(やがため)の駅」に9時30分に着いた。
まずは、「矢堅目の塩 かん水場」に入る。ここでは、五島近海の海水100%を原料
にして、蒸発法などで十分な時間と手間をかけて海水から水分を除くことにより塩分を濃
縮し、一切の添加物や加工剤を加えずに海水中の塩類を結晶化させた海水塩を作っており、
その製造行程の説明を受ける。
その後、隣の「矢堅目の駅」と呼ぶ直売場に入り、「矢堅目の塩」などの商品を求めた。
北側に延びる岬の先端には三角形の奇岩があり、「矢堅目の夕景」で知られる人気の夕
景スポットだという。10時ちょうどに矢堅目の駅を出た。
奈摩湾沿いに南下して戻り、島中央部を東北に広がる海沿いに回り、レンガ造りの山門
のある元海寺前を通過する。
この山門も鉄川與助の作で、元海寺は鉄川家の菩提寺のよう。
有川港沿いを東進して、有川地区北岸沿いの県道62号を次第に高みへと上がる。
有川地区の東北端まで進んで頭ヶ島(かしらがしま)大橋を渡り、小さな島、頭ヶ島に
向かう。橋からは北西に、昨日泊まったホテル↓周辺も望まれた。
島に入り次第に高度を上げると、北側眼下にはこれから行く頭ヶ島天主堂のある白浜集
落が見下ろせ、さらに北方の島なども望まれる。
10時50分に、上五島空港のターミナルビルを活用したインフォメーションセンター
に着いた。
上五島空港は1981年に開港したが、海上空港と山岳空港の特徴を備えた日本有数の
着陸の難しい空港として知られ、気象条件に左右されやすいこともあり開港当初から就航
率が少なく、その後、長崎港と中通島を結ぶ高速連絡船の就航もあり、2006年に定期
便が廃止されて休港状態が続いているという。
インフォメーションセンターは、2015年に頭ヶ島天主堂の世界遺産登録を見据えて
設けられ、頭ヶ島天主堂など祈りの島頭ヶ島を紹介する古い写真やパネル、資料などが展
示されていた。
天主堂のある白浜集落へは、入場者数と車両数を制限するため今年4月1日からシャト
ルバスに乗り換えることになったとのこと。
11時発のシャトルバスに乗って北へ下り、5分ほどで白浜集落の駐車場に着いた。
頭ヶ島天主堂を含む頭ヶ島の集落は、2018年7月に世界文化遺産「長崎と天草地方
の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されている。
現在の頭ヶ島天主堂は、鉄川與助の設計施工で明治43(1910)年に着工し、乏し
い建設資金のため近傍の砂岩を利用して大正8(1919)年に完成したもので、国指定
重要文化財である。
外観は表面が粗い切石を積んだルスティカという手法で力強く男性的、内観は折り上げ
天井に花柄をあしらった優しい雰囲気の女性的な空間で、外観と対照的な造りのよう。
頭ヶ島の集落は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するにあたり、どのような場所
を移住先として選んだのかを示す4つの集落のうちのひとつとか。
19世紀に外海地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、病人の療養地として
人が近づかなかった頭ヶ島を移住の適地として選び、仏教徒の開拓指導者のもとで信仰を
カモフラージュしつつ移住してひそかに共同体を維持し、解禁後はカトリックに復帰し、
禁教期における指導者の屋敷近くのこの地に教会堂を建てたことにより、彼らの潜伏は終
わりを迎えたという。
天主堂の周囲を一周して五島キリシタン復活信仰顕彰之碑↑、キリシタン拷問五六石之
塔、フレル師同伴信徒殉教者記念之塔、マリア像、壁石に刻まれた漢数字などを見た。
その後堂内に入り、折り上げ天井やツバキの花柄の装飾、祭壇などを拝観した(撮影禁
止なので、現地でもらったリーフレットの写真で紹介する)。
拝観を終えて戻る道沿いのツツジが満開である。
東北側には、昨年9月オープンしたという「島のふれあい館」がある。集落の空き家の
古民家を改修して昭和30年代の島の生活様式を再現したもので、内部の間取りや家具、
文化遺産関連の紹介パネルなどを観覧した。
さらに下った港のそばにはキリシタン墓地があり、十字架の墓石がたくさん立ち並んで
いた。
11時38分発のシャトルバスでインフォメーションセンターに戻る。
再びツアー用バスに乗り、11時45分にインフォメーションセンターを後にした。
新緑の山並みや北側の海などを眺めながら往路を西南西に進んで有川港まで戻り、港の
そばの割烹扇寿(せんじゅ)に12時10分に入り、海鮮丼と五島地獄炊きうどんの昼食
をする。
〈続く〉
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第2日 2019年4月17日(水)
== 五島・福江島から久賀島、奈留島の教会・天主堂を巡り中通島へ〈後半〉 ==
13時30分に遣唐使ふるさと館を出て、国道を東から東南へと向かう。
間もなく田植えの始まりそうな水田や入江の横などを通過して、島の東部の中心市街地
に戻って福江島の観光を終え、福江港に14時05分に着いた。
この後は、福江港から貸切りの海上タクシーに乗り、2つの島を巡って新上五島町(し
んかみごとうちょう)の中心地、中通島に向かう行程である。
イエローカラーの海上タクシーは14時30分に福江港を出航した。
ガイドは大崎五月さん、船長は三宅さんとのこと。船体は小さいがかなりのスピードで
エンジン音も大きい。
北に向かって進み、朝一番に訪れた堂崎天主堂の北東側にある久賀島(ひさかじま)に
向かう。
久賀島が近づき島の東側を北上すると、東側の小さい島、前島と南西側のさらに小さい
末津島との間が干潮でつながった状態になる「トンボロ」と呼ぶ景観が見られた。
潮の流れで小石が堆積してできた砂洲で、幅約10m、長さ約400mに及ぶという。
普段は海なのに、干潮時になると石州を歩いて渡ることができる現象を「トンボロ現象」
ということから、トンボロと呼ばれているようだ。
景観として美しいだけでなく地形学的にも大変貴重で、日本三景のひとつ京都の天橋立
も同じ成り立ちだという。
トンボロを見て数分、15時過ぎに久賀島の東部の波止場に着いた。すぐ近くに、国の
重要文化財に指定されている旧五輪(ごりん)教会がある。
旧五輪教会は、明治14(1881)年に島の西南側の浜脇教会として建築されたのを
昭和6(1931)年に移築したもので、五島に現存する木造教会では最古の建物とのこ
と。
この教会は、キリシタン弾圧時の殉教者の遺徳をしのび、信者が総力を結集して建設し
たもので、五島カトリック史上重要な意義をもつもののよう。
内部意匠は、三廊式板張肋骨穹窿(ろっこつきゅうりょう・リブボールド)と呼ぶ純教
会様式を用いており、建築本体は地元大工による和風建築であり、明治初期の日本教会建
築を考察する上で、わが国の建築史上極めて重要な位置を占める文化財という。
教会に入りそれら建築の様子や祭壇、ステンドグラスなどを眺めた。ここは今回観覧し
たキリシタン教会中、唯一写真撮影が可能だった。
そばに新五輪教会もある。
ちなみに、この五輪地区の共同墓地をたずねると、「五輪」という姓が多く、かつては
地区のほとんどが五輪姓だったよう。ただし本家筋の人だけが「ごりん」姓を、本家筋の
人以外は「いつわ」を名乗っていたという。
シンガーソングライターの五輪真弓(いつわまゆみ)のお父さんも五輪地区の出身で敬
虔(けいけん)なカトリック信者で、おじいさんは教会でオルガンを弾いていたとか。
五輪真弓さん自身も久賀島を数度訪れており、デビュー40周年の2013年には久賀
島を訪れ、先祖の弾圧の歴史を知ったときに作曲した「時の流れに〜鳥になれ〜」を熱唱
しているという。
15時20分に旧五輪教会そばの波止場を出発して北東側の奈留島(なるしま)に向か
い、15時35分に島の北西部の江上(えがみ)港に着いた。
湾沿いに少し歩いた山すその木々に囲まれた一角に木造白亜の江上天主堂がある。
江上天主堂を含む奈留島の江上集落は、先ほど訪れた久賀島の集落とともに、福江市内
の世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されている。
江上天主堂は、教会建築の名工という鉄川與助(てつかわよすけ)の設計施工で、木造
ロマネスク様式の天主堂として最も完成度が高いといわれているよう。
湧水による湿気を意識して床を高く上げ、軒裏には装飾を兼ねた通風口を設けるなど在
来技術を用いており、1918年にキビナゴ漁などによって蓄えた資金を元に潜伏キリシ
タン集落だった江上の人々により建築されたという。
柱には手書きの木目模様、花を描いた窓ガラスなどの特徴があり、内部は三廊式の平面
を持ち、リブ・ヴォールト天井(こうもり天井)構造で、美しい曲線が祈りの空間を包ま
れており、それらについて説明を聞きながら閉館時間の16時までに拝観を終えることが
できた(撮影禁止)。建物は国の重要文化財に指定されている。
海上タクシーに戻り、16時05分に江上港を出港した。江上港のある奈留島までは五
島市で、この先北東側の若松島・中通島とその周囲の島々は新上五島町(しんかみごとう
ちょう)になる。
海上タクシーは次の目的地、奈留島の北東にある新上五島町の若松島に向かい、島の南
端近くまで進んで、16時35分に手前の小島にある「キリシタン洞窟」のそばを通過す
る。
キリシタン洞窟は、明治時代初期に始まったキリシタン弾圧の迫害を逃れるために、4
家族8名が船でしか行けないこの断崖の洞窟に身を隠したが、たき火の煙を漁船に見つか
り、水責めなどの厳しい拷問を受けたという。
すぐ近くには、「ハリノメンド」と呼ぶ岩礁がある。「メンド」とは五島の方言で穴の
こと。
「ハリノメンド」は「針の穴」という意味で、その形状が聖母マリアが幼いイエスを抱
く姿に見えることから注目されているようだ。
さらに15分ほどの16時57分に若松島東岸中央部の若松港に着いた。港のそばに待
機していた西肥バスに乗る。ドライバーは山下さん、ガイドはオダさんとのこと。
17時05分にバスは出発する。
バスは東進して若松大橋を渡り、新上五島町の中心で最大の島、中通島(なだどおりし
ま)に向かう。
橋の下は若松瀬戸と呼ばれ、激しく流れる潮流が望まれる。
島に入って間もなくバスは北に進んで中ノ浦教会の横を通過する。
中ノ浦教会は大正14(1925)年建築の木造教会で、高い鐘塔は昭和41(1966)
年の増築とか。海辺に映る姿から「水鏡の教会」とも呼ばれているという。
濤静かな湾沿いに進み、島の中央部近くまで行くと、はるか海上に浮かぶ国内最大とい
う洋上石油備蓄基地が望まれる。
巨大な人工浮島を使用した、世界初の洋上タンク式石油備蓄基地で、日本の石油需要7
日分に相当する440万㎘もの原油を貯蔵しているとか。
折島と柏島との間に防波堤が設けられ、二重の浮式防油堤に囲まれた海域に5隻の貯蔵
船を係留したもので、1隻あたり長さ390m、幅97m、深さ27.6m、野球場3個
分の広さがあるという。
島の中央部東側、榎津港かと思われる辺りの繁華街を進み、中通島北部高台にある2日
目の宿、五島列島リゾートホテル マルゲリータに18時15分頃到着した。
(歩数 9,700)
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2019年6月14日(金)
東村山市のサイトで見ごろになったと報じられていたので、今日の市内ウオーキングは
都県境を越えて北山公園の花菖蒲を見に出かけました。
わが家からは、南に向かって3つの丘陵を越えて1時間余りかかります。12時10分
に北山公園の西側から菖蒲園に入りました。
竹垣に囲まれたこのエリアも、かなり見ごろになっています。
少しずつ東側へ。
かなり固まって咲く花も。
だんだんと中央部に近づきました。
中央部北側には、菖蒲まつりの期間中に見張り台が設けられるので、上がって一望しま
した。
見張り台の北側、西武鉄道西武園線沿いにはアジサイ園もあり、ほぼ見ごろに。
もう一度菖蒲田の方に戻って一巡します。
蓮池ではスイレンが開花していました。
東端まで進んで振り返り、そろそろ帰路へと。
南東側入口のテントで、北山公園の維持管理費の一部として販売していた絵葉書(2枚
入り100円)を求め、13時08分に菖蒲園を出ました。
帰路は東側から、やはり3つの丘陵を越えて戻り、往復10㎞のウオーキングでした。
なお、「東村山菖蒲まつり」のサイトはこちら。
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第2日 2019年4月17日(水)
== 五島・福江島から久賀島、奈留島の教会・天主堂を巡り中通島へ〈前半〉 ==
福江島の東部、福江市の中心街にあるカンパーナホテルで6時に起床した。天気は曇り
空で降り出しそう。今朝の朝食は近くの食堂でするので、7時03分に五島バスでホテル
を出た。今日のガイドも昨日と同じシロタニさん、ドライバーは中村さん。
2分ほどで漁師食堂・魚市に着いた。2階の食堂に上がると周囲には大漁旗が張られ、
海産物の直売コーナーもある。
さっそくの朝食は、ヒラマサとキビナゴの刺身、鯛とブリのあら汁、キビナゴの南蛮漬
け、野菜のかき揚げ、野菜サラダなどである。
食事後にクイズや海産物の直売品の購入などの時間もあり、8時25分に漁師食堂を後
にした。
福江島の東岸沿いを北へ、県道162号線を進んで島の北東部にある堂崎(どうざき)
天主堂近くの駐車場に8時40分に着いた。少し小雨模様の中を歩いて4分ほどのところ
に堂崎天主堂資料館がある。
天主堂のある堂崎教会は長崎県指定有形文化財で、五島のシンボル的教会のよう。禁教
令が解かれた後、五島キリシタン復興の任を帯びてフランス人宣教師フレノーとマルマン
の両神父が五島を訪れて布教にあたり、1879年にマルマン神父により五島における最
初の天主堂(木造)として建てられた。
その後着任したペルー神父により、1908年に現在のレンガ造りの教会堂が完成した
という。建築の際には資材の一部がイタリアから運ばれ、内部は木造で色ガラス窓、コー
モリ天井などの教会堂建築となっていて、現在は、弾圧の歴史や資料を展示するキリシタ
ン資料館として一般公開されている(入館料300円)。
キリシタン資料館の開館は9時なので、それまで周辺の入江や構内のキリシタン庭園を
見る。
庭園には五島キリシタン復活の礎になったマルマン神父・ペルー神父と子どもたちの像、
日本26聖人のひとりで1578年に福江島で生まれ1597年に殉教した聖ヨハネ五島
「受難のとき」像、五島の人々とキリスト教との「出会い」を記念する『アルメイダの宣
教碑「出会いの日」』碑、マリア観音碑などがあった。
9時の開館とともにキリシタン資料館に入館し、聖ヨハネ五島関係の資料、かくれキリ
シタン資料、布教用の木版画、名取洋之助氏撮影の写真など貴重なキリシタン関係資料を
10分ほど観覧した(館内は撮影禁止)。
入江の風景を眺めながらバス駐車場に戻り、9時25分に出発する。
県道162号を南下して福江市街地に戻り、島の中心部を東西に貫く県道27号を西進
して西岸へ。国道384号線に入って荒川温泉の横をして玉之浦町を南下する。
島の西南部に入ると、路傍に「立谷教会跡地 無原罪の聖母像」の案内標識とミニアチ
ュアな教会があった。そこから350mほど入ったところが立谷(たちや)教会跡地との
こと。
立谷教会は、1878年に五島最初の教会として建設されたが、1987年の台風後、
老朽化により自然倒壊し、安置されていた無原罪のマリア像は、これから行く井持浦
(いもちうら)教会で保管され、信徒たちも井持浦教会に通うことになったとか。
以後、立谷教会跡地は放置されたが、1998年にマリア像が戻されて野外教会として
整備され、信徒たちの祈りの場になっているという。
その井持浦教会の駐車場には10時20分に着いた。
少しの階段を上がって井持浦教会へ。井持浦教会のある玉之浦地区は、五島に迫害の嵐
が吹き荒れた明治初期に、唯一迫害を免れた地区とのこと。
明治30(1897)年、フランス人宣教師ペリュー師の指導で五島で最初のレンガ造
りの立派な教会が建設され、大正13(1924)年には教会内部が拡張されたが、昭和
62(1987)年の台風被害により取り壊され、現在のコンクリート造りの教会は翌年
に建立されたものだという。
敷地内の斜面に「ルルド」がある。ルルドとは、南フランスのピレネー山脈にある町の
名でカトリックの聖地であり、聖泉の水を飲んだり浴びたりした者は病が癒やされるとい
う奇跡が起きたといわれ、世界的な聖地のよう。
井持浦のルルドは、ペリュー師の指導により信徒が五島各地から集められた岩石により
築造され、内部に聖母マリア像が安置されている。
傍らの井戸には聖地ルルドの聖泉の水が混入されていて、第2のルルドとして全国各地
から熱心な信徒が訪れているという。ルルドを見たあと教会内も拝観した(撮影禁止)。
10時41分に井持浦教会の駐車場を出て西へ、福江島の最西端の大瀬崎(おおせざき)
に向かって次第に高度を上げ、大瀬崎断崖展望台に10時55分に着いた。
大瀬崎は、東シナ海の荒波で浸食された断崖が高さ100~150m、延長15㎞にわ
たって続き、断崖に立つ白亜の灯台と雄大な自然が織りなす絶景は「日本の灯台500選」
に選定され、西海国立公園を代表する景観だという。
突端の灯台は明治12(1879)年に初点灯され、現在のものは昭和46(1971)
年に改築され、200万カンデラの明かりが50㎞沖合まで届き、東シナ海を航行する船
舶の重要な道標になっているようだ。
ちなみに、解体された旧灯台は船の科学館(東京・品川区東八潮)に展示されていると
のこと。
展望台は3か所あり、それぞれを回り眼下の荒々しい断崖、周辺の山並みや入り組んだ
湾などの大展望を楽しんだ。
11時15分に大瀬崎断崖展望台の駐車場を後にした。国道384号線を北へ、複雑に
入り組んだ福江島の西岸沿いを進む。
車中でガイドのシロタニさんが、福江島の魚介カレンダーを紹介してくれた。
1月ブリ、4月はタイ、7月アワビ、9月アゴ、12月フグといった旬の魚介が福江島
では毎月味わえるようだ。
沿道に広がる幾つもの湾や漁港、緑の草地、湾内に浮かぶカツオのいけすなどが望まれ
る。
12時ちょうどに西岸中央部よりやや北の高浜ビーチ(海水浴場)に着いた。
「日本の渚(なぎさ)百選の地」碑と「新観光百選の地」碑が立ち、「快水浴場百選」
にも選ばれている日本屈指のビーチのよう。
白銀色の砂浜、波打ち際から水色、青色、沖合では深い藍色のコントラストを見せる海、
周囲を囲む深緑の原生林、沖に浮かぶ嵯峨島などの景観で知られ、西海国立公園の特別地
域に指定され、周辺地域を含めて人の手がほとんど加わっていないことから、渚本来の浄
化能力が保たれているという。
砂浜を波打ち際まで行き、きめ細かな砂や砂浜に残る水紋、野生の鹿の足跡などを確か
めた。
12時20分に出発、国道384号線を北へすぐの浜を見下ろす高台でバスを止めてく
れたので、眼下のビーチとそれを囲む緑豊富な山並みなどを一望した。
さらに国道を北上して島の西北側、三井楽(みいらく)町にある「遣唐使ふるさと館」
に12時32分に着いた。
2階のレストランに入り、五島美豚のハム、ブリとアオリイカの刺身、鯖寿司などの昼
食をする。
昼食後はまず、屋上のステンドグラス展望台に上がって周辺の海や山並みなどを眺める。
その後2階に戻り、物産販売コーナーをのぞいたり三井楽ゆかりの遣唐使と万葉集関係
の展示室を観覧した。
ちなみに、ここ三井楽は唐への遣唐使船が最終の寄港地としたところとか。唐の文化を
学ぶために赴く多くの若者にとっては、生きて帰れるという約束のない船旅だったので、
激励する村人、家族や恋人たちとの別れなどのドラマの舞台でもあったようだ。
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2019年6月9日(日)
梅雨入り3日目の今日は、カントリーウオークグループの第264回例会に参加した。
集合はJR高崎線鴻巣駅。
西口から10時26分発東松山駅行川越観光バスに乗り、荒川の御成橋(おなりばし)
を越えた古名(こみょう)バス停で10時32分に下車した。
== 川幅日本一を確認して吉見運動公園の管理事務所へ ==
北側の旧道から荒川右岸堤防に上がり、御成橋西詰に回ると「川幅日本一」の標柱が立
っていた。
吉見町と鴻巣市との間を流れる荒川の川幅は2,537mあり日本一。ちなみに川幅は、
「荒川左右岸の計画最高水位での堤防間の距離」としているという。
堤防から望む堤内(ていない・住宅地側)は早苗田の田んぼと新緑の森などが、幅広い
堤外(流れ側)に流れは見えず、広大な草地と幾つもの常緑広葉樹の塊が望まれる。
川幅日本一の実際の位置は、橋から上流360m、河口から62㎞の地点で、そこにも
標識が立っていた。
今にも降り出しそうな雨雲の下、早苗田に影映す田んぼや、広大な堤外の草地など眺め
ながら1㎞ほど進み、送電線の下で堤防を下る。
北下砂集落に入ると、民家にユリやノカンゾウなどが咲き出し、大きなビワの木に色づ
いた実がたわわに実る。
北側の小さなお堂は龍渕寺(りゅうえんじ)で、墓地のそばに吉見町指定考古資料で宝
暦9(1759)年造立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立っていた。
塔内には紙の曼荼羅経のほかに、銅板の経が納められていたとか。水害の多かった吉見
町では、腐朽しやすい紙本のほかに銅版なら永続的に残りやすいからという。
さらに北へ少し、県道76号下を跨道橋で抜けて、昼食地の吉見運動公園管理事務所に
11時45分に着いた。
運動公園の利用者や荒川右岸の自転車道を走るサイクリストなどのための休憩施設にな
っていて、小規模の売店やカフェ、自販機などもある。
屋内外にある休憩用椅子に腰を下ろして昼食とする。
== 荒川左岸の寺社を巡り鴻巣駅へ ==
食事を終えてミーティングをして、12時45分に運動公園管理事務所を出た。
堤防を越えて東側から北へと広がる吉見運動公園に下り、テニス場エリアから多目的広
場へ。
広々とした草地のところどころにメタセコイア並木がある。それらを眺めながら草地を
県道76号・鴻巣川島線沿いに東進し、中ほどで記念撮影をした。
公園の東端まで進み、県道が左カーブして糠田橋(ぬかたばし)となるところで県道下
を抜けて糠田橋に上がる。
見下ろす堤外の小麦畑は、麦秋を迎えて小麦色の広大な畑が一面に広がり、その向こう
にはJR鴻巣駅周辺のビル群も望まれた。
橋の中ほどで荒川の流れが見下ろせ、上流側右手に利根川からの導水路・武蔵水路が合
流している(下の写真は下流側)。
左岸に渡り終え、堤防下の公衆トイレ際から県道の下を西に抜け、そばの聖泉寺で小休
止した。
墓地には、累代住職の墓らしい宝篋印塔に似た墓が建ち並ぶ。山門を入り左手には、文
久3(1863)年からという「歯目鼻の神様」の小さな祠(ほこら)が祀られていた。
南西側すぐ先にうっそうとした鎮守の森がある。県の「ふるさとの森」に選定された糠
田氷川神社の森で、参道沿いや本殿背後には鴻巣市保護樹木のケヤキやイチョウ、カシな
どの古木が目につく。
糠田氷川神社は文禄の頃(1692~6)までは小社だったが、寛永年中(1624~
44)に村の鎮守として造営されたよう。
現在の本殿は享保3(1718)年の建立で、本殿の四周を飾る精緻な木彫は市指定文
化財。
だが、近年その一部が心ないものに盗まれてしまったという。ここでも社務所の濡れ縁
で小休止した。
北東側近くの放光寺にも立ち寄る。境内のアジサイやタイサンボクが咲き出していた。
本堂前に数個のハス鉢が並び、中でたくさんのメダカが泳いでいた。本堂前には小規模
の枯山水もある。
本田一ノ割集落を東へ、糠田橋から延びた県道76号下を抜けて、ひとつ北に並行する
道へ。
民家にユリが咲き、そばの畑では、もうコスモスが花開く。たわわに実をつけたブドウ
の目につく民家もある、
集落東端の足立北部排水路際、区画整理記念碑の横に青面金剛像の石塔が立ち、側面は
「東 鴻巣十八丁」などの道しるべになっていた。
足立北部排水路を越えて本田五ノ割集落を東北に抜け、登戸集落にある永林寺へ。
徳川家光が三代将軍になった約380年前の開創のよう。境内前面で、庭を掃く小坊主
姿の石像が迎えてくれた。
住宅地の中を登戸から緑町、大間二丁目へと南東に進み、拝殿の西側から大野神社に入
る。
創建は天慶元(938)年で、長元3(1030)年には源頼義が平忠常の謀反征伐の
ため、獅子頭を掛けて祈願したとか。江戸時代は氷川神社だったが、明治19(1886)
年に大野神社に改称したという。
最近は 来年末で活動を停止するというアイドルグループ「嵐」の聖地として知られる
ようになったようで、「嵐」に関わる祈願の絵馬がたくさん奉納されていた。
参道を進んで南側の町道に出て、戸建て住宅地を南東へと進む。鴻巣市のマンホールに
は特産のおひな様が。
ゴールの鴻巣駅西口には15時45分に着いた。
心配された雨は午前中わずかに感じた程度で傘を差す必要も無く、気温も20℃ほど。
梅雨時としてはまことに歩きやすい一日であった。
(参加 15人、天気 曇、距離 10㎞、地図(1/2.5万)、東松山、鴻巣、
歩行地 吉見町、鴻巣市、歩数 19,400)
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前回の投稿後、5月末から6月上旬にかけて出かけていたのと、その準備や整理などで
だいぶ間が空いてしまいました。毎日ご覧いただいていた方には申し訳ありません。
今回からの五島列島のレポートも3日目がまだできていませんので、途中で別のレポー
トが割り込むかもしれません。
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桜の見頃も過ぎた4月16日(火)~18日(木)、阪急交通社クリスタル企画による
五島列島7島20景めぐり3日間のツアーに参加した。
第1日 2019年4月16日(火)
== 羽田空港から長崎空港を経て五島・福江島へ ==
自宅を5時55分頃出て、所沢駅東口から6時40分発の高速バスに乗り、車中で最寄
り駅前のコンビニで買ったサンドイッチを食べる。羽田空港第2ターミナルには予定より
5分遅れの8時50分頃に着いた。
第2ターミナル2階に上がって受付開始時刻まで待機し、全日空14番カウンターの阪
急交通社受付で添乗員の西川さんに受付をしてもらう。
11時発宮古空港行きANA663便のB777-200型機(405人乗り)は、
11時20分に羽田空港を離陸した。
天気は快晴、離陸後東京湾を北上して西へ、皇居↑や神宮外苑と明治神宮の森↓などを見下
ろしながら進む。
15分足らずで残雪の富士山の北側を通過した。間もなく見えたのは南アルプスの一部
だろうか、山頂付近に残雪を残す山嶺が見下ろせた。
九州北部を横断し、有明海上空からは海と締切堤防で仕切られた様子がはっきりと認識
できる。
長崎空港には予定の12時55分より2分遅れで着陸した。乗り継ぎ時間中に空港内で
昼食をする。
乗り継ぎの五島福江空港行きは、1番搭乗口から階段を下りて飛行機のそばまで行き、
5段ほどのタラップで搭乗したORC(オリエンタルエアブリッジ)のプロペラ機、カナ
ダ・ボンバルディア社製のDHC8-201型機(39人乗り)。
14時45分発は5分遅れの14時50分に離陸した。
飛行機は西彼杵(にしそのぎ)半島を横断後、海上を西南西へ進み、わずか18分の
15時08分に五島福江空港に着陸した。気温は18℃、天気は曇である。
長崎県は島が日本一多く、594の島があるとか。五島福江空港のある福江島(ふくえ
じま)は、五島列島の中で最大の島で五島市の中心地。五島市は11の有人島と52の無
人島で形成され人口は36,600人余り、世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の
潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産を有している。五島福江空港はその福江島の西南部
にある。
出迎えてくれたガイドのシロタニにさんの誘導でツアー参加者18人が五島バスに乗る。
ドライバーはオオトさん、空港を出て15分前後の15時32分頃、最初の観光地、空港
の南東側すぐ近くにある西海国立公園「鬼岳(おんだけ)園地」の駐車場に着いた。
五島のシンボルともいえる鬼岳は標高314m、全面が芝生に覆われていて、春には凧
(たこ)あげ大会が行われるとか。
100段の階段を上がって中腹の展望台に上がると、眼下に福江の市街地や周辺の山並
み、五島列島の島々などが一望である。
そばには簡素な社殿の鬼岳神社が祭られ、近くには九州でも有数という60㎝反射望遠
鏡を備えた鬼岳天文台が見える。
駐車場のすぐ上には、「ココロの球」と呼ぶ2つの球体の作品があった。反対斜面の新
緑の木々がみずみずしい。
16時に鬼岳駐車場を出発して南側の海際に下り、10分ほどで鐙瀬(あぶんぜ)溶岩
海岸へ。
鬼岳噴火の際に流出した溶岩が海に流れ込み、10数㎞にわたり複雑な海岸線を形成し
ている。
沖合には近くの島が幾つも望まれた。
ふり返ると芝生に覆われた鬼岳が間近い。
岩場の斜面にたくさん咲く白い花は、潮風に強くて海岸線に咲くことが多いトベラとの
こと。
駐車場近くには桜が咲いていた。
そばにある鐙瀬ビジターセンターにも入り、短い時間だが一巡して観覧する。
16時35分に鐙瀬溶岩海岸を後にした。
バスは島の東岸に回って福江島の中心街・福江の市街地に入り、武家屋敷通りや石田城
址公園の横を進み、福江港に近い今日の宿、カンパーナホテルに16時55分に着いた。
五島バスグループの宿で、平成14(2002)年11月18日には天皇皇后両陛下が
宿泊されたよう。
部屋でひと休み後、近くの城址公園などを回ってみることにした。ホテルを出て左折す
ると、西側一帯は県指定史跡の石田(いしだ)城(福江城)跡。
石田城は、福江藩最後の藩主・五島盛徳が幕末の文久3(1863)年に建てた城で、
築城当時は三方を海に囲まれた海城だったよう。現在は裏門の蹴出門(けだしもん)と石
垣堀が残り、石垣は野面(のづら)積み工法を多用した自然石が積み上げられ、本丸跡に
は県立五島高があるという。
表門にあたる御番門を入ると、正面に城造りの五島観光歴史資料館が見える。
ツツジ咲く城内を右手に回り、城山神社に参拝する。近くにはクスノキの大木も目につ
いた。
南東側にあった大きな建物は福江文化会館で、道路側には大きなツツジが何株かあって
いずれも見ごろ。
会館の左手には,昭和44(1969)年の長崎国体を機に当地を御巡幸された際のこ
とを読まれた「久しくも五島を観んと思ひゐしが つひにけふわたる波光る灘を」という
昭和天皇の御製碑があった。
東側に進んで城造りの五島観光歴史資料館の前に出たが、入館時刻は過ぎていた。近く
の石垣は急峻で高さもあり、攻略は難しそう。東側の外堀に沿って南に進む。
堀の向こうにやはり城造りの市立図書館が望まれ、お堀に沿った外堀公園の車道側には
フェニックスの並木が続き、その下の何色ものツツジが何れも見頃の花を見せていた。
南東端の交差点まで進み、そばのドラッグストアで買い物をして、18時35分頃ホテ
ルに戻った。 (歩数 10,700)
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