あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

大宮スケッチ会作品展と県立歴史と民俗の博物館へ(埼玉・さいたま市)

2019-09-25 16:53:52 | 写真展・スケッチ展(個人・グループ)観覧
 2019年9月20日(金)

 カントリーウオークグループのメンバーTさんから、今年も「第12回 大宮スケッチ会
作品展」の案内をいただいていたので、観賞に出かけました。会期は9月18日(水)か
ら22日(日)までです。

 11時50分頃にJR埼京線で大宮駅に着きました。東口の駅前広場に下りると、大宮
を代表するマスコットキャラクター「こりすのトトちゃん」が迎えてくれます。
                   


 いつものように進む一の宮通には、古くからの履物の店や京染・呉服の店などが目につ
きます。



 全長2㎞ほどある氷川神社参道の中ほど、二の鳥居から参道へ。残暑で暑くなってきた
日差しをケヤキなどの古木が遮ってくれます。
     


 右手に名物のだんごや屋さんを過ぎて間もなくに、スケッチ展の会場、氷川の杜(ひか
わのもり)文化館があり、竹林を抜ければ会場です。


         


 今回は、Tさんなど会のメンバー17人が各々1~3点を出展されていて、あわせて
40点が展示されていました。









 スケッチの対象は埼玉県内や都内を初め、関東甲信越など私も訪ねたところが多く、懐
かしい風景もあり、楽しく観賞しました。


 この後は、例年通り氷川神社から大宮公園を一巡することに。

 氷川神社参道には、明治天皇が明治元(1868)年10月17日に氷川神社に行幸さ
れた時のことを記した長い絵巻が掲示されています。以来、昨年でちょうど150周年に
なり、造られたようです。





 そばの三の鳥居を入って境内へ。創建から2000年以上といわれる武蔵一宮の氷川神
社は、東京都・埼玉県を中心に約200社ある氷川神社の本宮で、「大宮」と言う地名は
氷川神社を「大いなる宮居(みやい)」とあがめたことに由来しているよう。


 右手の神楽殿には、昨年同様に地元のサッカーチーム・大宮アルディージャのメンバー
による必勝祈願額が。


 その横には、一昨年10月28日に行われた「明治天皇御親祭150年際」の際に、埼
玉県酒造組合に加盟する県内の酒造店から奉納された酒樽が並んでいました。



 正面の神池にかかる朱塗りの橋を渡りながら、左手の池の中の小岩を眺めると、カメが
2匹甲羅(こうら)干ししているのが見られます。


 
 朱塗りの楼門を入り、舞殿↓の背後に回って拝殿に参拝しました。




 東門を出た辺りには、願いごとを記して奉納されたたくさんの絵馬が。



 ソメイヨシノの並ぶ背後の大宮公園内を進むと、中央部に石垣に囲まれた樹齢120年
というシダレザクラの古木が目に入ります。
     
 その下には、『大宮公園は、明治18(1885)年に埼玉県最初の公園として開園以
来「サクラ」の名所として親しまれ、現在は「日本のさくらの名所100選」のひとつに
なっている』ことなどが掲示されていました。


 さらに進んで「舟遊池」の南岸に出て、池に沿って西北へと進みます。
     

 北側に見えるのは国体会場などに使われた県営プール。


     
 池の北西端近くには、樹齢100年は超えていると推測されるアカシデの古木があり、
その周辺にたくさんヒガンバナが芽を出していました。
     
 昨日が彼岸の入りなので、例年なら今頃は花の見頃のはずですが、今年は夏の天候不順
のためか開花が遅れているようです。

 ちなみに、県内のヒガンバナの名所、日高市高麗(ひだかしこま)にある巾着田(きん
ちゃくだ)を紹介するリーフレットには、「一般的に、8月の気温が高く降水量が少ない
年は、開花時期が遅れる傾向にあるようです」と記されていました。


 池の西北端から台地に上がり、「国宝展示中」の旗のある県立歴史と民俗の博物館を観
覧することに。ここもスケッチ会作品展のあとにいつも来ているところ。
         
  


 いつもは観覧後にミュージアムショップで昼食をしたのですが、今日は出だしが遅れて
もう13時半近いので最初に食事をすることにしました。
    
 今日は団体さんが来て、ライスものや麺類は売り切れになっていたので、私としては珍
しくナポリタンを。でも美味しくいただきました。

 13時40分頃博物館に入館して、年代順に第1室から順次観覧することに。第1室
「旧石器~弥生時代」と第2室「古墳時代は撮影可なので目につくものを幾つか。






 第3室「奈良~南北朝時代」からは撮影禁止ですが、現在第3室で特別展示中の、武蔵
武士の大河原氏が備前長船派の刀工景光と景政に作らせた国宝の太刀と、景光が制作し、
後世に上杉謙信が所持したことから「謙信景光」の号を持つ国宝の短刀が撮影可になって
いました。 最初の太刀の方ははピンボケになりちょっと不鮮明ですが…

 いずれもこの当館で所蔵しているもので、国宝の太刀と短刀が揃って展示されるのは約
4年ぶりのよう。


 次の第4室「美術展示室」から第5室「室町~戦国時代」にまわると、「足軽」のコー
ナーのみが撮影OKでした。


 1階の展示室から階下に下りたところの第6室「板碑」は撮影可能。ちょうどボランテ
ィアの方が日本一大きな板碑について説明中。人の丈と比べてその大きさが分かります。
     
  
 第7室「江戸時代Ⅰ」と第8室「江戸時代Ⅱ」も撮影禁止ですが、第9室「明治時代~
現代」で4月23日から開催中だった特集展示「渋沢栄一と埼玉の近代」は、渋沢栄一が
新一万円札の顔に決定されたので公開期間が延長され、撮影も可能でした。






    


 その先の第10室「水とくらし」も撮影可能で、川での漁具や紙すき、藍染め、酒造り、
水との戦い、雨乞い行事などの展示がありました。




     

 展示室を一巡した後、通路に掲示されていたラグビーワールドカップ2019のポスタ
ーが目に入りました。
     
 ちょうど大会が始まったばかりで、県内では熊谷ラグビー場で3日間開催されます。

     
 15時に観覧を終えて県立博物館を後にして、舟遊池の北面沿いを東進しました。


 日本庭園に入ってみましたが、花など咲いていなかったので足早に通過し、神池の東側
を回って往路を戻りました。
     

     

 
 15時47分にJR大宮駅に着き、埼京線上り電車のホームに向かいました。

 これで今日は約5㎞の軽ウオーキングでした。
 





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東松山市の東南・辰野文庫を訪ね周辺の里道を歩く(埼玉・東松山ほか)

2019-09-23 18:30:21 | カントリーウオーク
 2019年10月16日(月・祝)

 敬老の日だが、市の敬老の催しには例年同様参加せず、カントリーウオークグループの
9月例会に参加した。

 予報では午前中は雨が残るかと心配されたが、集合地の東武東上線東松山駅に着いたら
ほぼ止んでいた。

== 下野本の寺や古墳を巡り辰濃文庫へ ==


 10時13分に東口をスタートして2階の駅舎から道路に下りると、今日の昼食地、辰
濃文庫ゆかりの辰濃和男(たつのかずお)さんが日本スリーデーマーチについて朝日新聞
の天声人語で記した、「楽しみながら歩けば 風の色がみえてくる」碑があった。
     

 その左手に新しい碑が目に入る。2015年にノーベル物理学賞を受賞した、東松山市
出身の梶田隆章(かじたたかあき)さんの受賞記念碑だった。
     

 線路に平行の道を南へ、近くのY字路で南東に進むと、長い間広大な空き地だったボッ
シュの工場跡地にビバモールを建設中で、鉄骨がほぼ完成していた。

    
 その東端の変則六差路から南への細道へ。民家の軒先にキノコの飾り物が並び、その先
の草地には大きなキノコが幾つも生えていた。


    
 今年は育ちが遅いのか、栗のいがはまだ緑色。近くの畑の隅のニラが花盛り。

 国道254号バイパス沿いを少しで国道の南に回り、向山集落を南に抜けると、かなり
色づいた水田が広がる。


 まずは、すぐ近くの清見寺(せいけんじ)に入る。

 上田能登守朝直が帰依(きえ)していた地蔵尊を安置して、元亀年間(1570~73)
に地蔵堂を建立したのが始まりのようだが、地蔵尊は確認できない。

 本堂左手に「市指定考古資料 清見寺心字座板石塔婆」の標柱がある。そばに三つ並ぶ
板碑の中央がそれらしく、鎌倉中期の建長元(1249)年造立のよう。



 東側近くで国道407号を横断し、すぐ先の無量寿寺へ。

     
 山門近くに「線香地蔵尊」のお堂があり、山門前に市指定文化財「野本館跡(のもとや
かたあと)」の説明板が立つていた。そばに黄色い花が咲く


 ここは、野本基員(のもともとかず)を初代とする野本氏一族の館跡。平安時代の公卿
藤原基経(836~891・堀川大臣)の警護をしていた片田基親の子が武蔵国野本に移
り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりのよう。

 基員は源頼朝の信頼が厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも登場する人物
だという。

 館は現在、無量寿寺の境内地で、本堂の北側に土塁(どるい)と堀がわずかに残るだけ
だが、当時は二重の堀と土塁を廻した構造だったらしい。

 徳川家康が関東入国した天正19(1591)年には、寺領10石の御朱印状を受領し
ているという。


 寺の南側に、杉木立などに覆われたこんもりした森がある。県指定史跡・野本将軍塚古
墳で、県内第2位の前方後円墳とか。

 墳丘の全長115m、高さは前方部8m、後円部15mで、まだ学術調査がされてない
ので詳細は不明だが、5世紀終わり頃に造られたものらしい。


 後円部墳丘上に社殿があるが、何神社かは不明。南側の前方部上部には二つの忠魂碑が
立っていた。
     

  


 古墳前の県道345号を東へ、少し先に大きな流木を並べた中華料理店が。


 その東側には市の学校給食センターと埋蔵文化財センターの入る建物が目に入る。


 天神社の先から北東に進んで曲輪(くるわ)集落に入り、台地を背にしてうっそうとし
た木々に覆われた、了善寺境内へと石段を上がる。

 了善寺は、了海(天正17(1589)年没)が三河国に開山し、渡邊丹後守が当地を
知行(ちぎょう)時に三河から呼び寄せて移転したという。

 第10世住職の嵩俊海は日本屈指の漢詩人で、20歳の嘉永5(1852)年に「春桂
家塾」と呼ぶ学問所を開き、大正3(1914)年の閉塾までに門弟3千人を超したとか。

 その塾跡は市指定史跡になっていて、東屋(あずまや)のような建物が境内中段に残っ
ていた。

    
 本堂前のモミジの1枝だけが色づく。今日の担当のKさんが庫裡(くり)に挨拶に行っ
たら、ご住職夫妻が本堂を開けて下さり、上がらせてもらう。


 本堂は大正時代の再建とのこと。正面の梁は境内に立っていたというヒノキの太い一木
(いちぼく)で、立派な彫刻が施されていた。

 奥様は、女性登山の先駆者・坂倉登喜子さんと登山されたようで、エーデルワイスクラ
ブの会員だったのだろうか。

 寺の東南側に立つ火の見やぐらの横から背後の台地へ。傍らの曲輪集会所は、大正か昭
和前期の建築かと思われる貴重な建造物だ。



 寺の東側のザクロが色づき、墓地際にたくさんのハギが咲き競う。
    

                  
 近くの畑にヒャクニチソウが咲き残り、大きな栗の木にまだ熟しきらないイガたたくさ
ん付いていた。
    

 曲輪集落を東南東に進んで国道407号を横断し、等覚院の横を西から北へと回り込む。


 寺の背後一帯はまだ若葉のソバ畑が広がる。


 東松山市東南端の集落、古凍(ふるごおり)に入り、鷲宮大明神前を東へ。



 鳥居の横にはたくさんの花が咲き競い、近くにかやぶき屋根をトタンで覆った民家が。




 その先を北に入り、昼食地の辰野文庫に12時42分に着いた。

 辰野文庫は、朝日新聞「天声人語」を約13年間執筆した辰濃和男さんの蔵書約1万冊
を無料で貸し出す。ここは、昨年12月に死去した辰濃さんの遺族から寄贈された図書を、
吉見町の建築家、佐藤清さんが古い土蔵を改造して公開したもの。


 まずは、ベジダリアンランチやコーヒーなども味わえる大きな母屋に入り、休憩卓で昼
食をする。昼食後、母屋西側の土蔵にある辰野文庫を訪ねた。



 四周の壁面に並ぶ書棚には「水」「日本語 話す」「歩く」「新聞記者 芸能」「沖縄
 戦争 平和」「人物」などに区分された図書や、分類されてないものなどが並ぶ。
     

          





 
 中央のテーブルや2階にも少し蔵書があり、辰濃さんが13年にわたり執筆された「天
声人語」も目につく。入口横には、辰濃さんの写真と色紙も飾られていた。
    

         
 蛇足ながら、私は辰濃さんの著書「四国遍路」(2001年刊)を読んだ後の2004
年晩秋、初めての四国遍路の途中、辰濃さんが同書で紹介していた若い三味線奏者、月岡
由紀子(つきおかゆきこ)さんの演奏を、夜に高知県西端の村のホールで、翌日は県境に
なっている遍路道の峠上で聞いたことを思い出す。

 辰野文庫の前で記念撮影をして、13時40分に出発した。


 == 黄金色の田園や大沼を経てウオーキングセンターへ ==

 南側の県道345号に出て東へ、「国分牧場」と呼ぶ牛関連のレストラン前を過ぎ、市
町境の市野川(いちのかわ)の慈雲寺橋を渡り吉見町に入る。


 カモジグサかと思われる穂の出た草の並ぶ左岸堤防を400mほど進んで堤防を離れた。


 色づく田んぼの間を進むと、若木のブルーベリー畑にたわわについた実が熟していた。
    

    
  
 流れの突き当たりまで進んで東へ、最初の橋を渡り、少し先で折り返す。


 県営ほ場整備事業竣工記念碑のある用水池の角を曲がり、田んぼの間を1㎞ほど北へ、
左手に大きな貯蔵庫らしい建物が2棟見える。



 台地に突き当たり、県道27号を少し西進して東北に上がり、晴れ間が広がり蒸し暑く
なった天神沼西端の建物前で小休止した。


 西に延びる細道を進んで大沼の東岸に出た。沼を眺めながら南岸を進み、南吉見集落の
長源寺に入って再度小休止する。


 境内南側に、午前中にも見た白いキノコがたくさん傘を開いていた。


 南側の県道27号に戻って西へ、西日を正面から受けて暑さを感じる。丘陵上に見える
武蔵丘短大の下や、「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定されている松山城跡下
を南から西へと回る。



 吉見百穴が間近な市野川の市の川橋を渡り、東松山市に戻った。市街地に入った県道を
西進して、ウオーキングの町東松山のシンボル、東松山ウオーキングセンターに入って最
後の休憩をする。





 さらに県道を西へ、下沼公園の南端から沼を見下ろし、ゴールの東松山駅に16時40
分に着いた。

(参加 11人、天気 曇後晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 東松山、歩行地 
 東松山市、吉見町、歩数 24,300)





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カタツムリ歩行同窓会で西武多摩川線多磨駅周辺を歩く(東京・府中市ほか)

2019-09-19 23:14:40 | カタツムリ歩行
 2019年9月15日(日)

 好天となり気温も30℃近くに上がりそうだが、カタツムリ歩行の第6回同窓会に参加
した。


 集合地は西武多摩川線の多磨駅。JR中央線武蔵境駅から乗り換えるこの西武多摩川線
に乗るのは初めかもしれない。


 今回の担当はNさんとKさんだが、Kさんは都合で不参加。地図をもらい、9時57分
に多磨駅をスタートした。

 線路沿いを北進して踏切際を左折し、人見(ひとみ)街道を西へ、

 多磨墓地が近いので通りには石材店などが並ぶ。


 近くの六差路を北西にすぐで、多磨霊園の正門を入る。


 右手の管理事務所で「東京都多磨霊園案内図」をもらう。表面は霊園の地図、裏面には
150人近い著名人の墓地の位置が示されていた。

 そばの円形建物は、平成5(1993)年に完成した新しい墓地形式の新納骨堂「みた
ま堂」。


 多磨霊園の開設は大正12(1923)年4月で、わが国最初の公園的風景を取り入れ
た大規模な墓地だとか。

 開設当初は約100万㎡だったが、昭和14(1939)年に西側に拡張して現在は約
128万㎡(約39万坪)あり、都立の8霊園の中で最も広く、霊園全体で墓地の面積は
50%以下に抑え、豊かな緑地を形成しているという。

 広大な霊園には、政治家、学者、芸術家など著名人の墓地があるようだが、今日はその
一部、東南側を回ってみることにする。

 北に真っ直ぐに伸びる幹線ともいえる園路を進んだつもりが、次の交差点で西北へ延び
た線と分かり、ロータリーを東へ。


 ロータリー近くの等身大の坐像は、教育者で東京女子大学長などを務めた新渡戸稲造
(にとべいなぞう)の墓地だった。
     


 東に進むと救世軍墓地があり、その先が3本の園路が南北に走る中央部最初の十字路。


 特種と呼ぶ西側最初には、第二次大戦開戦時の連合艦隊司令長官で元帥海軍大将の山本
五十六(いそろく)の墓があった。
         


 その北に隣接して日露戦争時の連合艦隊司令長官で元帥海軍大将の東郷平八郎墓がある。
         

          
 すぐ先、中央部ロータリーには8本柱の大きな塔が立ち、近くには純白のボタンヅルが
咲いていた。
         

 ロータリーの東北側に、第20代首相や蔵相を務めた高橋是清(これきよ)の墓地が。
         
  
 ロータリ北側には、大きなサルスベリがたくさんの花を見せている。



 北にすぐ、次の東西に長いロータリーの北東側に、霊園案内図にはないが福沢桃介(ふ
くざわももすけ)の墓がある。
         
 福沢桃介は明治から昭和初期の実業家。福澤諭吉の婿(むこ)養子となり主として電気
事業に関与し、木曽川などで水力開発を手がけている。私がこの人の名を知ったのは、中
山道ウオークで木曽川沿いを歩いて、ゆかりの発電所のそばを通過したことからだ。


 東側に隣接した開放的な芝生墓地の中央は石橋正二郎墓地。ブリヂストンタイヤの創業
者でプリンス自動車工業の育ての親でもあり、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大
な貢献をされている。
    

 ロータリーの北西側には、作家の有島武郎(ありしまたけお)夫妻が眠っていた。
         


 そして南西側は、枢密院(すうみついん)議長や第35代首相をされた平沼騏一郎(き
いちろう)墓地である。
         

 北に進んで次の交差点の先、西側には漫画家長谷川町子の眠る長谷川家墓地があった。
    


 その先、10区画北東端の十字路で右折して東に向かう。周辺にはりっぱな松などが並
び立ち、東への園路沿いにススキが穂を見せる。
    

 通りの中ほど北側に、陸軍大将山下奉文(やましたともゆき)墓が目に入る。
         
 太平洋戦争の初期、英領マレーとシンガポールを攻略し、「マレーの虎」の異名で知ら
れている。


 近くのロータリーを南下して次のロータリを東進し、11時に霊園の東門を出た。


 すぐ南側から東に延びる多磨町通りを進み、西武多摩川線の踏切を渡る。北側に永福寺
があるが寄らず、次の十字路を南への鶴川街道に入る。

 間もなく祭礼の準備中の三谷神社前だが、時間が無いのでここも通過した。


 多磨駅の北側から延びる通りに出て、近くの交差点から都立武蔵野の森公園の西北端に
入る。

 2004年の開園で面積は約34万7千㎡あり、調布飛行場を挟んで北地区と南地区に
分かれている。入った一帯は、桜などの植栽が伸び伸びと枝を広げる大芝生広場になって
いた。


 少し進むと南に滑走路が延びる調布飛行場が一望で、間もなく軽飛行機が北へと離陸し
た。



 滑走路の北端近くには修景池(しゅうけいいけ)があり、傍らに「この公園は災害時に
大規模救出・救助活動の拠点となる」ことなどが記されていた。

 池の北側、公園の北端に沿って玉石張(たまいしばり)の水路が残り、その沿革を記し
た掲示もある。



 池のそばに高さ数mの丘があり、上がると調布飛行場やその向こうにあるサッカー場・
味の素スタジアムなどが一望できる。






 味の素スタジアム、9月20日(金)に始まるラグビーワールドカップ初戦・日本-ロ
シア戦の会場である。


 車道を横断した東側も公園の一部で、そこに二つの掩体壕(えんたいごう)が残されて
いた。


 最初のは「掩体壕 大沢2号」で、そばの説明板によれば、掩体壕は軍用機を空襲から
守るための格納庫で、戦況が悪化した昭和19(1944)年頃から短期間に約60基が
造られ、この公園に2基と府中市内に2基が残っているという。

 この掩体壕には「飛燕(ひえん)」と呼ぶ戦闘機が格納されていたようだが、見た目に
は飛行機を格納するほどの大きさには見えない。


 南東側のもう一つの方にも回る。こちらは「掩体壕 大沢1号」で、やはり「飛燕」が
格納されていたようで、前面に飛燕のイラストが描かれ、そばに飛燕と掩体壕の模型彫刻
もあった。


 公園の北東端付近から出て、東側の水車通りを北進する。東側の野川(のがわ)右岸に
は水車小屋があるが、時間が無いのと以前訪ねているので省略とする。


 突き当たりを西にすぐで人見街道に合し、北側の龍源寺(りゅうげんじ)へ。本堂前の
大きなサルスベリが花盛り。

    
 本堂左手に比較的新しい双代道祖神があり、その横から本堂背後の墓地に回ると、東京
都指定文化財「近藤勇(こんどういさみ)の墓」や辞世碑があり、傍らに説明板が立って
いた。


         

    

 近くには長寿観音石像が、門前の人見街道際には「近藤勇と天然理心流」説明碑や近藤
勇の胸像などが並んでいた。
         

 人見街道を西にすぐ、変則五差路際に小さい祠(ほこら)と木製の鳥居の立つ近藤神社
の周辺が近藤勇生家跡。神社のそばに調布市史跡「近藤勇生家跡」の説明板が立っていた。
     
 それによれば、当時の屋敷は面積約7千㎡あり、建物は母屋のほか、蔵屋敷、文庫蔵、
乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋などがあり、周囲はケヤキ、カシなどの大木や竹林が茂っ
ていたという。

 その交差点際を北に入ると、野川を挟んで南北に広大な緑が広がる都立野川公園の正門
である。


 正門を入って左手の野川公園サービスセンターが今日のゴール、12時05分に着いた。
参加の皆さんのほとんどもあい前後して着く。


 センターの建物を北に抜け、蒸し暑くなった日差しを避けてクスノキなど大きな木の下
にシートを広げ、昼食にした。


 食事を済ませてしばらく休み、記念撮影とミーティングをして、近況報告や周知事項の
発表などあり、13時20分頃散会となる。




 皆さんは表門から帰路についたが、私は反対に野川公園を北に抜けることにする。

 家族連れやグループなど、たくさんの人が憩う広い芝生地と豊富な緑陰の間を進む。





 都道19号・東八(とうはち)道路の上を陸橋で渡り、北側の野川右岸近くに下ると、
野川公園自然観察センターがあったので立ち寄ってみた。

 国分寺崖線(がいせん)と野川があるこの場所ならではの自然の大切さを学ぶことので
きる施設で、野川公園の見どころ情報や、植物、野鳥、昆虫などについて、パネルや実物、
はく製などが展示されていた。


     

             

 自然観察センターを出て、そばの野川の櫻橋際へ。左岸沿いは、かなり以前毎年参加し
ていた東京スリーデーマーチで何度も歩いているのと、日陰が無さそうなので右岸沿いを
上流(西)に向かう。
     
 橋近くの川には、子どもたちが入って何か取ろうとしている。


 右岸沿いの豊富な緑陰下、ツクツクボウシの鳴き声を聞きながら進んで三つほど橋際を
過ぎる。


 西武多摩川線の高架橋が近づいたところで左岸に回り、線路下を西に抜けて川を離れて
「二枚橋の坂」を上がる。


 東町五丁目から四丁目へと住宅街を北上して、14時30分にJR中央線の東小金井駅
に着いた。
     
 駅前では、「東小金井駅開業55周年祭」のステージイベントを開催していた。



 14時32分発大月行き下り電車で帰路につく。

(天気 晴、距離 7・6㎞(2・9+4・7㎞)、地図(2万5千分の1) 吉祥寺、
 歩行地 府中市、三鷹市、調布市、小金井市、歩数 13,700)





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イタリア8日間の旅⑦ ボローニャからミラノへ ミラノ空港から帰国

2019-09-10 22:25:42 | イタリア旅行
 第7・8日 2019年6月3日(日)~4日(月)
 == ボローニャからミラノへ戻りミラノ空港から帰国へ ==

 今日は帰国の日、ボローニャ市街東郊のホテル、NHヴィラーノヴァで6時過ぎ起床した。
今朝も晴天である。
     

 昨夜ホテル到着後に添乗員の福原さんから、今日のミラノ発15時25分のアリタリア
イタリア航空が、機材繰りの都合で遅れそうとの話があったが、今朝の予定では20時発
になると知らされた。

 最初の予定では8時30分にホテル出発なので、ミラノ空港で長時間待たなければなら
ないかと心配したが、ホテルの部屋は10時まで使えることになり、ロビーにスーツケー
スなどを預けて10時から12時まで、ホテルのそばのショッピングモールで買い物がで
きることになった。

 ホテルのレストランで8時頃までに朝食を済ませ、10時にホテルロビーに集合して、
隣接するショッピングモール「extracoop」に行く。



 かなり広いショッピングモールだが、まだ早いのか人出は少ない。

 土産物などを買ったり、様々な店のウィンドウショッピングをゆっくりと楽しむ。







 きのう夕方訪ねたFICOより欲しいものも多く、こちらに来た方がよかったと思った人も
多かったようだ。


    
 店内での買い物後、構内やホテル周辺の花を眺めたりして、11時30分頃にホテルに
戻った。




    

    

         

    
 
 ホテル出発は12時30分の予定だったが、全員揃ったので12時17分にバスはホテ
ルを後にしてミラノ国際空港に向かう。ミラノまでは、昨日訪ねたモデナやパルマを経由
するハイウェイE1号線を北西へ約280㎞である。


 ハイウェイの右手に平行して鉄道線路が続き、13時07分に3度目のレッジョ・エミ
リア駅横を通過する。


 この駅を通過する高速鉄道ユーロスター(Eurostar)が時々見られたが、気づいても高
速なのであっという間もなく過ぎ去り、駅を撮るより難しい。

 ローマ、フィレンツェ、ボローニャ、ミラノなどを結ぶ幹線の高速列車で、時速250
~300㎞で走行するという。


 13時53分から14時45分まで、サービスエリアで昼食やトイレのために休憩する。
     


 大きなサービスエリアで商品の品揃えや飲食店も多く、ほとんどの人が最後の買い物を
したり、昼食を済ませるなどした。


     私の昼食はこれにした。
     

    



     

 バス車中では、添乗員の福原さんからイタリアのことなど、いろいろと説明がある。

 その一部としては、イタリア人の年収は日本円で400万円くらい、休日は家族サービ
スに努め、家族で外出する際には手づくりの弁当を持参し、レストランの利用は少ない。
医療費は無料で、ホームドクターを持っているよう。

 電力については、原子力発電は1990年までに廃止し、火力、水力、風力が主で、ほ
かに太陽光などに頼っている。

 EUにおける農産物の1位はフランスで、イタリアは3~4位のよう。自動車産業も盛
んで、ミラノ、トリノ、ジェノバなどにフィアット、フェラーリ、アルファロメオなどの
工場がある。

 ミラノは最大の工業地であり、ファッションの中心でもある。昨日訪ねたパルマとミラ
ノに近いクレモナは、有名なバイオリンのストラディヴァリウスの製造地とのこと。など


 サービスエリアを出て間もなく、通過するユーロスターが。


 しばらくは広々とした平原地帯が続き、ポー川を渡る。







 さらに進んでミラノ市内に入り、ミラノ国際空港には16時16分に到着した。



 17時過ぎにアリタリアイタリア航空のカウンターに行き、かなり長い間並んでチェッ
クインしてスーツケースを預けて搭乗券をもらう。


 出国審査を受けて出発ロビーに回り、B58搭乗口の近くに行き時間まで待機する。




 ミラノ国際空港発成田国際空港行きのアリタリアイタリア航空AZ786便は、予定の
15時25分より4時間30分余り遅れて20時02分に離陸した。

 成田空港到着は翌日の日本時間15時10分、飛行時間はおよそ11時間47分の予定
である。


    
 21時過ぎに夕食が出た。食事を終えてしばらくした後、長時間室内灯が消えてお休み
タイムとなるが、あまり眠ることができない。往路で観た椅子前面ディスプレイでのフラ
イト情報はこの機内では観られず、イージーリスニングの音楽を聴いたりしながら長い時
間を過ごす。

 イタリア時間4日(月)6時20分(日本時間13時20分)頃に朝食相当の食事が出
た。
    


 それから1時間10分余り、日本時間14時42分に成田国際空港に着陸した。


 機内案内では成田の天気は曇、気温23℃とのことだったが、晴れていた。

 成田空港第1ターミナルビル発16時45分の所沢駅東口行きリムジンバスに乗る。


 夕方のラッシュ時なので渋滞が心配されたが順調に走行し、所沢駅には予定の19時
30分より30分余り早い18時58分に着いた。



    
 所沢駅東口の駅ビル、グランエミオ3階のレストラン街で夕食を済ませて下り電車に乗
り、20時15分に帰宅した。        (歩数 成田空港まで6,900)【完】





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台風15号の通過と残暑のあとのあかね空(埼玉・所沢)

2019-09-09 22:21:52 | 所沢だより
 2019年9月9日(月)

 コンパクトで大型の台風15号が今日早暁に東京湾の真ん中から千葉市付近に上陸し、
首都圏各地に強風などによる大きな被害をもたらして東海上に去りました。

 昨夜23時40分のレーダー画面を「気象庁降水ナウキャスト」サイトから。

 


 皆さんのところでは被害はありませんでしょうか。被害にあわれた方には心かお見舞い
申し上げます。

 所沢市では昨日夜半から今朝にかけての総雨量は91㎜となり、最大風速も5時前には
17mを越えましたが、わが家では幸い自転車3台が転倒した程度ですみました。

 台風が去った後には猛烈な残暑がぶり返し、所沢市でも猛暑日間近の34.9℃まで気
温が上昇し、日中は出歩くのがためらわれて自宅に閉じこもっていました。

 夕方になり気温が下がった17時過ぎ、かなりよくなっている腰痛のリハビリテーショ
ンのために整形外科に出かけました。

 その帰路の18時過ぎ、西の空は久しぶりにあかね空に染まったので、持参したデジカ
メで何枚か撮ってみました。

 最初は東の空に上がったお月さん。




















     







 東京では最高気温36.2℃となり、この夏の最高気温を記録したようですが、明日も
それに近い予報。 そろそろ秋の気配が欲しいところです。





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銀座の今森光彦展と本郷の百田稔展&周辺の寺巡り(東京)

2019-09-07 23:33:06 | 江戸・東京を歩く
 2019年9月4日(水)

 8月は暑さのため、全く市外に出かけること無く過ごしたが、今日は真夏日にはならな
い予報なので、久しぶりに都内で開催中の2つの展覧会の観覧に出かけた。


 最初は、東京メトロ丸ノ内線の銀座駅から歩いて、銀座3丁目の松屋銀座↑8階で開催中
の「今森光彦展 写真と切り絵の里山物語」(入場料1,000円)へ。11時55分に入
場した。


 この展覧会の狙いについて、もらったリーフレットには以下のように記されている。

 人と自然がともに生きる“里山”。その中で生み出される豊かな営みを見つめつづけてき
た写真家・今森光彦(いまもりみつひこ)さん。琵琶湖を望む田園風景の中にアトリエを
構え、四季折々に移り変わる田んぼや里山に集まる生き物を撮り続けてきました。

 今森さんはまた、蝶や鳥、植物をモチーフに、精緻で生き生きとした作品を作る切り絵
作家としても知られていますが、深い洞察力により、たった一本のはさみから生み出され
る作品には、昆虫の力強さや植物の鮮やかさが表現されています。

 本展では、里山に暮らす今森さんのライフスタイルの紹介をおりまぜながら、写真と切
り絵で里山の魅力に迫ります。迫力ある大型作品を含む写真約80点、切り絵作品約30
点をご紹介します。

 自然とそこに暮らす人々がつながる美しい里山の景色と、身近な自然と関わりながら暮
らす喜びや魅力をお楽しみ下さい。

 会場では、里山の大型写真が四季に分けてたくさん展示されていて、何れも里山の魅力
や大切さが感じられるものだった。

 それらのなかで特に目についたのは、荒れ放題になった竹やぶを今森さんと仲間の方々
が大変な労力をかけて切り開き、里山への復元を図っておられる取り組みの様子。

 後半の切り絵作品は、昆虫や虫や植物などをきめ細かな切り絵で表現されていて、いず
れも見事な作品ばかり。
     
 会場内は撮影禁止なので、もらったリーフレット↑掲載の作品をわずかだが紹介する。

 実際の作品はいずれも鮮明なのだが、リーフレットの部分拡大のため以下の画質はかな
り落ちている。









    

     
  
 ほぼ1時間観覧して、11時55分に会場を後にした。

 このあと銀座通りを西へ、京橋を経て八重洲に回って八重洲ブックセンターに行き、地
階の地図売場で最近発売された2万5千分の1地形図と地図関連の図書を購入した。

 次の目的地に向かうためJR東京駅から山手線に乗り、日暮里駅で下車して西口から西
に延びる通りへ。


 すぐ先、通りの北側にあった本行寺に入る。

 本行寺は、大永6(1524)年に太田道灌の孫、太田大和守資高(おおたやまとのか
みすけたか)により江戸城内平河口(現在の毎日新聞本社辺り)に建立され、神田、谷中
を経て宝永6(1709)年にこの地に移ってきたとか。

 景勝地だったので「月見寺」ともよばれ、江戸時代には月見の名所だったよう。二十世
の日桓上人は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の
 露をさかなや ひとり酒」などの句を詠んでいるという。

 境内には、荒川区指定文化財の「道灌丘碑」がある。
    
 太田道灌は、長禄元(1457)年に江戸城築城の際、眺めのよいこの地に「物見塚」
という斥候台を造った。本行寺は、道灌の末裔(まつえい)とされる掛川藩主太田氏の菩
提寺で、寛永3(1750)年に住職や太田氏ゆかりの人が道灌の業績を記したこの碑を
建てたという。

 ほかに、種田山頭火の「ほっと 月がある 東京に来てゐる」という新しい句碑が立っ
ていた。
         

 その先にあった経王寺(きょうおうじ)にも立ち寄る。

 経王寺は、明暦元(1655)年に当地の豪農が寺地を寄進したことに始まり、本堂手
前右手の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮座しているという。



 大黒天堂

 慶応4(1868)年の上野戦争の際には敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府
軍の攻撃を受けることになり、山門にはその銃弾の痕が残っていた。
    

 本堂前のサルスベリは花いっぱいだが、そばのハギはまだ開花前だった。

    
 少し先の「夕焼けだんだん」と呼ぶ階段を下って、谷中銀座の細い商店街に入る。


 飴の店、惣菜店、メンチカツの店など懐かしい風情の店が目に入る。


     

     
 13時を過ぎたので、そば処「畔上」に入り、とろろそばで昼食(950円)とした。
    


 その先にも履物、雑貨など、古くかららしい店が続いていた。


    


 西端まで進んで十字路を左折して南へ、よみせ通りを進む。


     
 この通りでは米店、九州の農家の野菜などを販売する店、まんじゅう店などが目につく。




 200mほど進んで細い路地を西に抜け、不忍(しのばず)通りを団子坂下交差点へ。

 西に上がる団子坂を200mほどで右折し、すぐ北側にある汐見地域センター内にある
文京区立本郷図書館が今日2つめの目的地。
     
 ここで開催中の「放浪の絵描きおじさん 百田稔(ももだみのる)作品展」である。

 市川市在住の百田稔さんは、会社を退社後の2004年の東海道をはじめ、中山道、奥
州街道、九州一周、四国一周など、全国各地をスケッチをしながらの歩き旅をされ、それ
らの作品展を毎年のように市川市内で開催され、私も何度か観覧に出かけている。
     

     
 今回は、ここ文京区周辺の湯島、本郷。小石川、谷中、根津、千駄木などを描いたスケ
ッチの展示中。会期は9月23日(月・祝)までである。
     

          
  
     
 はがき大のスケッチは、図書館の地階と2階への階段の踊り場にエリアごとにまとめて
展示されていた。
          



    

 13時53分頃から14時15分頃まで観覧して、本郷図書館を出た。

 館の横から延びる千駄木三丁目の住宅地を北に300mほど進み、東京都指定名勝の旧
安田楠雄邸庭園を観覧しようとしたが、残念ながら耐震補強工事で11月初めまで休館中
だった。


 さらに200m近く進んで左折して文林中横に出て、南へと折り返して団子坂から西に
延びる大観音通りに回る。

 すぐ近くの千駄木一バス停そばのマンション前に、『「青鞜社」発祥の地』の説明板が
立っていた。


 同じ通りを100mほど、南に入ったところには文京区有形文化財の「銅造地蔵菩薩立
像(どうぞうじぞうぼさつりゅうぞう)」が祭られていた。
     
 江戸時代に「東都六地蔵」の第2番・宝珠(ほうじゅ)地蔵として知られた地蔵尊で、
高さ233.6㎝の鋳造仏とのこと。東都六地蔵のうち造立当時の全容を残すのは本像を
含めて極めて少なく、貴重なものだという。

 さらに西へ100m余りには、この通りの名のもととなる「駒込大観音(こまごめおお
がんのん)」で知られる光源寺(こうげんじ)がある。

 大観音は、正面のユニークな観音堂に祭られている。
     
 初代大観音は、7年の清月を費やして元禄10(1697)年に造立され、身の丈2丈
6尺(約8.5m)あったが、昭和20(1945)年5月25日の空襲で観音堂ととも
に焼失し、2代目のこの観音像は平成5(1993)年に再建されたよう。

 観音堂の右手には、やはり2代目の「蓬莱倍(ほうらいばい)」と呼ぶ梅の古木がある。
     
 初代は同じ空襲で焼失したので代替わりの梅を各地に探し求め、榛名山ろくで見つけ出
し、観音像と同じ平成5年に移植したもので、樹齢約300年という。

 蓬莱梅とは、住居表示前のここの町名が駒込蓬莱町だったのにちなんで名付けたもので、
明治末頃まで駒込周辺は梅や桜の花木産地として有名だったよう。

                  
 境内西側の建物前に、秋の七草のオミナエシが咲き出していた。

 境内右手には、文京区指定有形文化財の「庚申待百万遍講中庚申塔」が立っていた。明
和9(1772)年の造立で、地面からの高さ2.5mを超える大型の庚申塔。
         
 基礎には200名を超える人名が刻まれていて、この庚申塔の造立に関係した人々と考
えられるているようだ。

 背後の墓地には、「明珍本家の墓」がある。平安時代に京都・九条の甲冑師・鐔工(か
っちゅうし・つばこう)だった宗介は、その技術の優れていることから近衛天皇(1141
~55在位)から「明珍(めいちん)」の号を授かり、その一族は代々明珍姓を名乗って
各地で甲冑や鐔造りをを生業としていたとのこと。
         
 この墓所には、江戸寛政期(1789~1801)に幕府お抱えの甲冑師となった明珍
本家の54世から60世などが埋葬されているようだ。

 大観音通りを200mほど先、浄土宗栄松院の前に、「薩摩浄雲の墓、初代 松本幸四
郎の墓」の説明板がある。

 薩摩浄雲(さつまじょううん)は、江戸初期の浄瑠璃太夫で、上方出身だが寛永初
(1624)年頃に江戸に来て、「江戸薩摩」と呼ぶ浄瑠璃をおこして好評を博したとか。

 初代松本幸四郎は、寛永2(1674)年下総国生まれ、江戸中期の歌舞伎俳優で、2
代目市川團十郎と並ぶ名優のひとりと評されたという。

 本堂裏手の墓地を一巡してみたが、どちらも見つからず。東方の角辺りに文京区保護樹
木のスダジイの古木が立っていた。


     
 境内西側には「お美津地蔵」を祭る地蔵堂がある。

 その先、向丘三丁目交差点で国道17号線・本郷通りを横断し、白山上交差点から都営
三田線の白山駅まで行ったが、もう少し寄り道することにして白山上交差点から細道を本
郷通りに出た。

 すぐ北側の天栄寺門前に、「駒込土物店跡(つちものだなあと)」の説明板が立ってい
た。この辺りは、江戸三大青物市場の跡だったようだ。


 天栄寺境内にも入ってみたら、本堂は近代的でユニークな造形だった。


 本郷通りを北に200mほどで、目赤不動尊の南谷寺(なんこくじ)である。本堂は奈
良の唐招提寺を思わせる鴟尾(しび)の上がる屋根。


 通りに近い右手前に、江戸五色不動のひとつ目赤(めあか)不動尊が、宝形造りのお堂
に祭られていた。

 その前に、『寛永年間(1624~44)に鷹狩りの途中に立ち寄った三代将軍家光か
ら現在の土地を賜り、「目赤不動尊とせよ」との名を受けこの地に移った』ことなどが記
された説明板がある。


         


 少し戻り、東京メトロ南北線の本駒込駅に15時45分に着き、後楽園駅で丸ノ内線に
乗り換えて池袋駅に向かう。

  (天気 曇、距離 約6㎞(2+3.7㎞)、地図 「文の京 観光ガイドマップ」)






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イタリア8日間の旅⑥ ボローニャ、パルマと世界遺産モデナ観光(3)

2019-09-02 18:03:48 | イタリア旅行
 2019年6月2日(日)
 == ボローニャとパルマそして世界遺産モデナ観光へ(3/3・モデナ) ==



 パルマの観光を終え、朝通過したモデナに向かってハイウェイE1号線を戻る。


 再び真っ白でユニークなデザインのレッジョ・エミリア駅の横を一瞬で通過する。


 さらに20分余り戻ってモデナ市内に入り、15時55分に市街地中心部の南側でバス
を下りた。

 モデナ(Modena)もエミリア ロマーニャ州にあり、人口約18万人の基礎自治体(コ
ムーネ)で、モデナ県の県都である。

 モデナは古代からの歴史があり、13世紀後半にエステ家が治めたフェラーラに併合さ
れたが、その後フェラーラを追われたエステ家がこの地に逃げ延び、モデナ公国の首都と
なり、エステ家により町の整備が図られて現在の美しい町並みが生まれたという。

 特産品としてはバルサミコ酢が有名で、自動車メーカー・フェラーリの本拠地がモデナ
郊外にあるとのこと。

     
 噴水や彫刻などのある緑地から、正面に見える高い塔の方向に向かって進む。



 露店の並ぶ賑やかな通りに入り、見事な回廊を抜ける。
   


 さらに人出が増え、中心部の世界遺産に登録されているグランデ(Grande)広場へ。




 広場の一隅では小さなグループが合唱中。



 北側の高塔のある建物は、世界遺産のドゥオーモ(Duomo・大聖堂)。1099年に
建築家ランフランコと彫刻家ヴィリジェルにより建築が始まり、12世紀に完成したもの。
    
 彫刻と建築とが調和したロマネスク様式の傑作とされているようだ。

 「ギルランディーナ」(Ghirlandina・小さな花)の愛称でモデナ市民に愛される塔は、
1179年の完成とか。当初は5階建てロマネスク様式の塔だったが、後にゴシック様式
の上部と尖塔が付加されて高さ86mになっているという。


 ドゥオーモ本体では、特にたくさんの彫刻装飾の美しさが目につく。





 正面の扉やファサード(建物の正面部分)のノアの箱舟など創世記のレリーフの数々、
別の扉の上のモデナの守護聖人・聖ジャミーノの生涯、暦をテーマにしたレリーフなどた
くさんの彫刻について、日本語ガイドのジャン カルロさんさんから詳細な説明を聞きな
がら観覧した。


     
  
     
 16時45分から17時05分までドゥオーモ内部も拝観することにして、堂内に入っ
て一巡する。



 堂内の壁面にもたくさんの装飾彫刻が施されていた。


 ほかに、聖壇や祭壇画、キリスト降誕像、数々の装飾、窓からの光など見どころが多か
った。
     







     

     

     










 もと来たにぎやかな通りや回廊などを戻る。
     





 バスの駐車場所に着き、17時05分にバスはモデナを後にして、連泊する東南東へ約
50㎞のボローニャに向かう。

 モデナの観光が今回のツアーの最後、これで予定の観光地は全て巡り終えた。

 最後の寄り道は、ボローニャ中心部から東北東に約5㎞の郊外にあるテーマパーク
「FICO EATALY WORLD」(フィーコ イータリーワールド)で、18時20分に着いた。

 2017年11月にオープンした世界最大の食と食品に特化した常設のテーマパークで、
FICOとは、Fabbrica Italiana Contadina の略で「イタリア農業工場 」という意味のよう。

 「食」の価値を問い、生み出す場所で、扱う食品は純正イタリアンとのこと。コンセプ
トは、各土地・気候の中で「大地が作り出すもの」を「育て」「形を変え」「料理する」
術を知り、学ぶことだとか。

 レストランやストリードフードは45軒あり、提供される8割の食材がFICO内で作られ
たもので、イタリア最高品質の特産品を販売する9,000㎡の巨大マーケット。

 広い敷地内も建物内も貸し自転車で移動できるが、外国人が借りるにはパスポートを預
ける必要があるとのこと。

 添乗員の福原さんからは、モデナ特産のバルサミコや、チーズ、蜂蜜、ワインなど品揃
え豊富でスーパーもあり、お勧めの場所との説明がある。今日は、ツアーとしての夕食は
ないので、ここで夕食を済ますか購入してホテルで食べるなどすることになる。

 広い構内の地図をもらい、20時10分までフリータイムとなる。


 本当に広い建物で全体はT字型になっていて、端から端まで歩くと1.2㎞になるという。


 南西側の入口から入り、両側の店舗の商品や装飾、現地生産の製造装置などを見ながら
突き当たりまで進む。
    

        




 さらに左右に延びた建物内の2本の通路を往復して、たくさんの商品や店舗付属の食卓
群などを眺める。




 ヨーグルトなど乳製品の製造装置のよう。


    






 だが、期待に反して夕食に良さそうな品物は少なくてガッカリ。ひととおり回った後に
スーパーにも入ってみたが、こちらにも夕食向きの食品は少ない。


    

    













 もう一度戻って、目についていたパンやチーズ、ヨーグルト、ジュース、土産のバルサ
ミコ酢などを購入したりするうちに時間が経過して、集合時刻となった。


 太陽が西に傾いた20時10分にRICOイータリーワールドを後にした。
     

 連泊するボローニャ東郊のホテル、NHヴィラーノヴァに20時23分に到着した。

                         (天気 快晴、歩数 19,400)





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