あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

塩の道 千国街道を歩く(柏矢町から安曇沓掛)(2003年) (長野)

2020-08-16 22:05:39 | 塩の道を歩く
 2020年8月16日(日)

 前回の投稿後に塩の道千国街道のレポートを確認したところ、全行程中で柏矢町~安曇
沓掛間の記録がないのに気づきました。そこで古い資料入りの段ボールを探してみたら見
つかったので、報告することにします。

 ただ、17年前の2003(平成15)年の記録で、デジカメではなくフイルムカメラ
で撮った写真なので、プリントををスキャナーでスキャンしました。彩りもピントもいま
ひとつですがそのまま報告しますので、ご覧いただければ幸いです。

========================================

 2003年10月1日(水)

 松本市内のビジネスホテルを出て、松本駅からJR大糸線下り電車に乗る。8時39分
に柏矢町(はくやちょう)駅で下りた。

 拡幅中の駅前通りを東へ、とうとうと流れる矢原堰(やばらぜき)を越えて、南北に走
る塩の道に入る。柏矢町の商店街は、車がスピードを出して通過するので注意して進む。

 ほどなく商店街は終わり、稲穂の向こうに常念岳が姿を見せた。


 三枚橋交差点の手前に三枚橋公園があった。もとは穂高小の跡で、大石に埋め込まれた
穂高小校歌の校歌碑↓や、国会開設運動などをした幕末から明治初期の自由民権家・松沢
求策之碑が立っていた。


 穂高神田町簡易郵便局前には、彩色した道祖神と大黒さんが並んでいる。穂高町は道祖
神の宝庫。数年前に町内をあちこち歩いたが、立派な道祖神が多かった。


 穂高町の町並みに入り、役場前の参道を進んで穂高神社に詣でる。安曇野を代表する神
社で延喜式内社(えんぎしきないしゃ)。


 太い杉木立に囲まれた境内には、海の神を祭る本殿を中心に、若宮社、地元に伝承する
ものぐさ太郎や日光泉小太郎のブロンズ、塩の道道祖神などがある。


         

 水のきれいな穂高はわさびの産地。通りにはわさび漬けの店がいくつか見られた。


 蔵造りの家の前に、大きな庚申塔や二十三夜塔などが並んでいる。
          

 民家の庭先に立派な松がある次の交差点を左折して、等々力町で大糸線の西に出る。


 穂高ギャラリーや握手像の道祖神↑前を通過して、貝梅(かいばい)集落を抜け烏川右
岸に出た。烏川と穂高川にかかる穂高橋付近は、いったん国道147号線に出て、再び大
糸線の西に回る。

 湾曲して流れる穂高川のそばに、かじかの里公園があった。カジカの養殖場があり、幾
つもの生け簀(いけす)に大小様々なカジカがたくさん泳いでいる。


 園内を回遊する流れに吊り橋が架かり、有明山などの展望の良い自然公園である。


 その先しばらくは広々とした田園地帯。まだ幾らか残る黄金田や、咲き残るコスモスの
向こうに有明山周辺の山並みが連なる。


 緩いカーブの道路に散在する青木新田の家並みには、街道らしい風情が残されていた。

 追分集落に入り、とっつきにある青嶋神社で休憩。立派なアカマツに囲まれた境内、社
殿の南側に大黒天などの石仏が並んでいた。


 無人の信濃追分駅↓の先で国道の東に出る。


 穂高川の手前に、ナカニシアートミュージアムというのがあった。池田満寿夫、横尾忠
則、草間彌生、長岡京城などの作品を展示しているらしい。


 穂高川にかかる高橋橋からは、北に爺ヶ岳、鹿島槍、五竜岳などの展望が望まれ、東側
山腹には、北アルプスの展望が良さそうな池田町立美術館の大きな建物が見える。

 石の道標に従い、十日市場集落で再び道を北にとり、刈り入れ後の田園地帯を進む。ト
ンビが数羽、ピーヒョロロと鳴きながら飛ぶ。

 昼食地にと目論んでいた内鎌(ないがま)神社の森が右前方に見えたので、あづみのの
柱という新興住宅地の横を東に入り、コサギの飛ぶ流れに沿って進んだら、會染八幡宮だ
った。内鎌神社はすぐ北側らしい。


 アカマツに囲まれた境内。解放された舞台があったので上がって昼食をさせてもらう。
正面に大きな杉玉が下がっていた。

 食事を終え、杉木立に囲まれた内鎌神社へ回る。境内に、文政11(1828)年銘の
道祖神や、斎藤瀏・史(ふみ)父娘の歌碑があった。
         

 神社の裏手からは、黄金の稲穂の向こうに爺ヶ岳、鹿島槍、西側に有明山などの展望が
広がる。


 塩の道に戻る西への道筋には、歌人で書家として知られたアララギ派の長老、岡麓終焉
の家(おかふもとしゅうえんのいえ)が残っており、庭先には歌碑もあった。


 内鎌集落を北に向かう。10月に入ったとはいえ、午後の日差しが強まり汗ばんできた。
でも空気は乾燥しているので、林中集落で木陰に入ると涼しい。


 休耕田の大豆もだいぶ色づいてきている。


 ほどなく宇佐八幡宮。「万延元(1860)年8月」と記された吹き抜けの舞台がある。
社殿前の狛犬は、丸っこい顔でユーモラスな姿だ。
         

 二十三夜塔や道祖神、養蚕大神、御岳大神といった古い石仏群が境内西側に並んでいた。


 神社の北側付近から道筋にはナナカマドの並木が続き、赤く色づいた実がたくさん付い
ている。


 池田町の中心に近づいたところに十王堂という小さなお堂があり、二十三夜塔と道祖神
が並んでいた。


 右と左に二つの枡形を曲がって、池田町の中心街に入る。「金の鈴会館」と呼ぶ池田町
観光協会近くに牛つなぎ石があるはずだが、見つからなかった。

 通りの西側にある浄念寺に寄る。上が鐘楼になっている山門は竜宮城のようなユニーク
な形。本堂の屋根にはしゃちほこが上がり、庭には大きな石灯ろうがあった。
     

 残暑が厳しくのどが渇いた。Aコープ池田店でアイスを買ってゆっくり休憩する。如意
輪観音や二十三夜塔などの石仏の並ぶ辺りで町並みは終わった。

 塩の道は再び田園地帯に入った。南正科バス停を過ぎた辺りで、爺ヶ岳や鹿島槍ヶ岳の
山容が一層迫って見える。正科の郵便局先で県道に分かれて北東に道をとる。

 すぐ先の段丘上にある竈神社に回る。大ケヤキがあるというが見つからず、太い杉木立
だけが目についた。急がぬと安曇沓掛(あずみくつかけ)駅から予定の列車に間に合いそ
うにないと分かり、焦ってきたせいだろうか。

 秋ソバが花盛りの原集落から宮本集落までは緩い上り道が続く。残り時間を気にしなが
ら息を弾ませて進み、昨年7月の塩の道歩きのスタート地、仁科(にしな)神明宮の鳥居
の前に着いた。

 もう神社に参拝する時間は無い。鳥居に向かって頭を垂れ、宮本集落を西に下る。

 高瀬川の宮本橋へ向かう道筋、西側の山腹や川向こうの田んぼのあぜに、幻想的な野焼
きの白煙が上がる。秋の安曇野の象徴ともいえるのどかな光景である。



 ゆっくりと眺める暇もなく宮本橋を渡り、大きな工場の北を回って16時05分に安曇
沓掛駅に着いた。


 5分後に来た松本行き上り電車は混んでいたが、間に合ったのでほっとする。

(天気 晴、距離 19㎞、地図(1/2.5万) 豊科、明科、信濃池田、大町南部、
 歩行地 穂高町、池田町、大町市)



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塩の道千国街道、白馬村から小谷村 16年前の夏の風景

2020-08-13 22:27:44 | 塩の道を歩く
 2020年8月13日(木)
 
 昨日と今日は午後、埼玉県内各地でかなりの雷雨となりました。所沢市でも午後から夕
方にかけてよいお湿りが続き、梅雨明け後毎日夕方続けていた日よけにしている庭のゴー
ヤーへの水やりもせずに済みました。

 でも、昨日も今日も午前中から35℃前後の猛暑になり、関東1都6県には熱中症警戒
アラートも発令されたこともあり、買い物を兼ねたウオーキングも4㎞前後しか歩かず、
さらに38.3℃になった一昨日は外出もせずに過ごしました。

 そのような最近なので、今日も古い写真の中から16年も前の2004年7月に歩いた
塩の道・千国(ちくに)街道の信州、白馬村(はくばむら)から小谷村(おたりむら)の
写真です。

========================================

 2004年7月19日午後

 JR大糸線白馬駅前から、塩の道千国街道を北に向かうことにしました。


 白馬村の産土神(うぶすながみ)である平川神社。


 その境内か近くにあった大きな庚申塔


 新田集落の水車と水神塔


 観音原と呼ばれるところに並ぶ観音塔、西国、板東、秩父の各観音霊場の観音像です。


 北隣の小谷村に入り、栂池(つがいけ)集落近くの庚申塔。



 周辺の風景


 翌日、7月20日は小谷村栂池の民宿を出て、松本から糸魚川にいたる塩の道千国街道
の中で、最も古くからの塩の道の面影の残る小谷村内を北に向かいます。


 沓掛集落集落に残る牛方宿(うしかたやど)


 親坂と呼ぶ坂道を下ったところに並ぶ庚申塔群





 千国(ちくに)集落に残る千国番所資料館と庭に並ぶ当時の牛方と牛の像。


      千国集落の外れにあった神社
     

      千国街道沿いの路傍に立つお地蔵さん。
     


 集落を出て眺める穏やかな風景。      

     
     
      役場や小谷郷土館などのある次の雨中集落の民家や周辺に咲く花
         

      虫尾阿弥陀堂と周辺の眺め
     

     

 池原集落近くの棚田


 幸田文(こうだあや)文学碑(中央)周辺

 幸田文は、明治44(1911)年8月に起きた当地、稗田山の「抜け」と呼ぶ日本三
大崩のひとつで死者23名、家屋田畑など70余町を流出した大惨事に関心を持ち、昭和
52(1977)年に訪ねてそれを「婦人の友」に「崩れ」と題して発表しており、その
文学碑。

 ただ、その文学碑も平成7(1995)年の豪雨災害で土砂により流出し、この文学碑
は翌平成8年6月に再建したもののよう。


 文学碑近くからの北方の眺め
     

 来馬(くるま)集落の常法寺本堂

 本堂には、鎌倉時代後半の制作という県宝の銅造阿弥陀如来と両脇侍立像の阿弥陀三尊
像が安置されていました。

 この日のゴールはJR大糸線北小谷(きたおたり)駅、15時46分頃の到着でした。



 16年前の記録なので、現在は変わったり無くなったものもあるかもしれません。

 なお、塩の道千国街道(長野県松本市~新潟県糸魚川市)の全行程の記録は、当ブログ
のカテゴリー「塩の道を歩く」からご覧になれます(順不同)。
 



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塩の道 千国街道を歩く(松本から柏矢町)(2003年)

2009-07-30 21:38:25 | 塩の道を歩く
 日差しが出た今日の所沢市、昼前後、市内を歩きましたが、今年最高
かと思われる暑さ。それもそのはず、夜のニュースでは最高気温34.9
℃で、全国2位の高温だったと伝えていました。

 何年前かの今ごろ歩いた、塩の道・千国街道を紹介していますが、今日
は、6年前のコース、千国街道の北端です。

 写真は、フィルムカメラの一眼レフで撮ったものです。プリントが少し色
あせてしまったものもありますが、記録として紹介します。

=============================== 

 2003年7月28日(月)

 =松本~穂高町南部(柏矢町)=


 
 8時に松本のビジネスホテルを出た。今日は、昨年(2002年)7月の
2日間に大町市南部から白馬駅まで歩いた塩の道の、南側半分だけを
歩く予定である。

 コース地図は、昨年、初日に一緒に歩いたKさんに後から頂いた「古道
案内 塩の道千国街道」の、2万5分の1地形図上に詳細にポイントを記
してある地図を、拡大コピーして用意してきた。

 まずコースの出発点となる松本城に向かう。市の繁華街、中央二丁目
の交差点で「ぜん光寺道」と記された御影石の道標に気づく。明治26年
(1892)6月のものだが、ピカピカに磨き上げられていた。

 国宝松本城は、均衡のとれた姿を静かな堀に写していた。朝なので観
光客の姿はほとんどない。


 塩の道は、松本城から隣の豊科(とよしな)町に向かって、「飯田道」、
「養老坂道」、「真々部道」と名付けられた2本の道筋がある。今回は、標
高差はあるが展望のよさそうな養老坂道を行くことにした。

 一旦東に向かい、500m近く進んで国道143号に出る。朝の通勤時刻
なので車の交通量が多い。城東一、二丁目を過ぎ、豊栄寺の前で西に入
る。「この通りは北国西往還(旧善光寺街道)です」という表示があった。

 2本目の路地を北に向かうはずが、先まで進んでしまい、逆コの字形に
回り道して、桐一丁目の学校の横から塩の道に戻る。道はゆるい上りとな
り郊外の住宅地を西北に向かう。

 沢村三丁目を過ぎると家並みが途切れ、リンゴ畑が現れた。リンゴは大
きくなっているが、赤みはほんの少しだけ。

 徐々に高度が上がり、田んぼのかんがい用水の水源、塩倉池辺りまで
来ると、東側の展望が開けてきた。

 好天ならば美ヶ原などが見えそうだが、池に影を映すのは近くの山並
みと周辺の丘陵である。

 池のすぐ上に見えた海福寺は、上杉が武田に塩を送ったおり、塩荷を
一時庭に置いたといい、「塩倉」の地名もそれに由来するようだ。

 塩倉に残る、元治元年(1864)銘などの石仏群。

 道は塩倉集落の西を上がる。ししおどしの「ズドン」という音が間近に聞
こえてビックリ。リンゴ畑の間を進んでゆくと少し右に回り込み、小さい沼
の下に出た。

 気づかぬ分岐で道を間違えたようだ。沼の下にある棚田のあぜを下って
車道に出て、老根田の小集落を抜ける塩の道に戻った。

 リンゴ畑の間を上がり、畑が終わった辺りから林間を下る山道にかかる。
入口に「松本市城山遊歩道」の道標があった。

 「ようろう坂コース」の矢印に従って下り始めたら、草が伸びて道をふさ
いでいる。

 しかしそれはわずかの間で、赤松林から広葉樹林になった。

 右にカーブしてゆくと少しだけ樹林が開け、西側の梓川やその先、安曇
野の展望が広がる。


 しかし、あと2~300mほどで泣坂に下る車道に出るという辺りで、ツタ
や瓜類の葉のような木が一面を覆い、道が分からなくなった。

 地図と見比べ、前方のヘヤピンカーブの曲がったところに出ればよいと
考え、葉の上をはうようにして進む。一瞬足を踏み外して転倒したが柔ら
かい葉の上なのでケガはない。眼鏡が外れたので探したらすぐに見つか
りひと安心。

 アシが増えたので、湿地だとマズイと思ったが水気はなく、やぶこぎも
10分前後でなんとか車道に出た。

 その先も山道を少し下って国道254号を越えるのだが、分からないの
で車道を回り、松本トンネルの料金所下に出て国道に合する。

 国道下を横切る人道トンネルを西に抜け、島内の民家入口のりっぱな松
の木の下で休憩。


 昔の塩の道はこの先、泣坂を下ってJR篠ノ井線沿いに進み、川手番所
跡から熊倉の渡しで犀川を越えたが、渡しは現在は廃止されているので
南側の平瀬橋へ迂回(うかい)する。

 西側が開けた斜面を篠ノ井線の西に出て、国道の橋脚下から斜張橋の
平瀬橋に出た。橋脚下の田の横に、オミナエシやヒャクニチソウがきれい
な花を開いていた。

 草や木に覆われた自然堤防の間に豊富な流れを見せる奈良井川は、少
し下流の熊倉の渡し跡付近で左からの梓川と合して犀川となる。

 その奈良井川と犀川の間には、芝生と植栽の広がる平瀬公園と、松本
市の清掃センターがあり、その余熱を利用したラーラ松本と呼ぶ温水プー
ルやレストランなどの新しい遊興施設もあった。

 奈良井川に比べ3倍以上も川幅があるが、水量が少なく砂利ばかり目に
つく梓川は、自転車道、あづみの橋を渡る。


 橋の中ほどで、向こうからご夫妻のウオーカーが来た。お二人はいつも
自分達で計画したウオーキングを楽しみ、米国グランドキャニオンも歩いた
とか。

 旗を持ってぞろぞろ歩くウオーキング団体の歩きを毛嫌いしていたが、そ
んな歩きにも参加している私は、ちょっと気をそがれた。

 奈良井川から取水した拾ケ堰(じっかぜき)と呼ぶ流れが、橋のそばで梓
川をくぐるサイフォンになっていた。

 文化13年(1816)に約3ヶ月の突貫工事で完成したというが、当時として
は極めて高度な技術力を駆使し、その豊富な流れは今も安曇野の田園を
潤している。橋の西側に出た流れはきれいで、緑の藻をゆらしていた。

 その流れに沿った自転車道が塩の道の一筋、飯田道になっているので、
そのまま進めばよかったのだが、熊倉の渡し跡へ出るには、梓川左岸沿い
を進んだ方が近いと見て未舗装の車道に入った。

 先方に砂利を積んだダンプが見えたので怪しいと思ったが、川沿いに川
砂利のたい積場があり、それを運搬する大型ダンプが通過するたびに、道
路一杯に土ほこりが舞い上がる。数台に遭遇してたちまち、ホコリ高き男
になった。

 1㎞余りでダンプ街道は終わり、さらに進んで林が途切れたところで西側
の田んぼに抜け、宮下集落の南に出た。昼食に戻る農家の奥さんに場所
を確認、背の高い赤松が数十本並ぶ、近くの春日神社に入り、松の下で昼
食にした。


 神社裏手には「ぶたい保存庫と熊倉の渡し舟」という標石が立っていて、
そばに熊倉の渡しで使われた十数人乗りの木の舟が屋根付きで保存され
ていた。

 渡しは、昭和35年(1960)頃まで利用されていたらしい。

 少し進むと仏法寺の百体観音の標識があり、寺の参道両側に古い石の
観音像が並んでいた。


 寺の東正面が、松本藩百ヶ村あまりを結ぶ交通の要衝だった熊倉の渡
し跡である。

 渡し舟を形取った新しい「熊倉の渡し跡」碑が、犀川の清流に面して出
来ていた。

 川原田の集落を抜けると、道は次第に西に向きを変える。トンビが「ピー
ヒョロロ」と泣く田園地帯となり、日差しが暑く汗が増える。

 「手打ちそば処千利」の看板のある大原や長野自動車道を過ぎ、保健セ
ンターなどのあるサントピア豊科、豊科町役場前などを通過して豊科町の
中心部に入る。

 飯田道、真々部道と合して1本となった塩の道は、JR大糸線に平行す
る国道147号を進む。

 細萱の洲波神社の東側、国道際に古い双体道祖神が祭られていた。


 国道は、歩道はあるが車が多いのでうっとうしい。暑いので、SONYの
工場近くにあったコンビニでアイスを買い、裏手の日陰に回って緑の田ん
ぼを眺めながら食べた。

 コンビニの少し先に、「飯沼飛行士記念館」がある。昭和12年(1937)
4月、神風号により東京~ロンドン間を約94時間の世界新で飛んだ飯沼
正明飛行士の生家。

 その時の写真や飛行機の模型などを展示していたが、入館はせずにの
ぞいただけで通過した。

 安曇野の豊富な湧水を水源とする万水川(よろずいがわ)のほとりにあ
る、玄蕃(げんば)稲荷社に寄る。近くにある松本藩の群奉行などを勤めた
細萱(ほそかや)氏館跡の鬼門にあたり、厄よけの神として置かれた社だ
という。

 万水川を渡ると穂高町。すぐ先のY字路で国道を右に分け、左の旧道に
入る。この辺りから北は、近年何回かカントリーウオークをしており、おなじ
みの土地だ。

 大糸線上り電車にちょうどよい時刻なので、今回はここまでとし、柏矢町
(はくやちょう)駅に向かう。駅前の道路は拡張され、克彦美術館という新
しい施設も出来ていた。

 駅の南側、踏切際にある道祖神など。


 柏矢町駅には、14時48分に到着した。青春18きっぷ3枚目を使い、15
時発の電車に乗る。

 松本で中央本線に連絡、小淵沢、甲府、高尾と乗り継ぎ、20時50分に
帰宅した。   

 (天気 晴、距離 19㎞、歩行地 長野県松本市、豊科町、穂高町)
 〈注:歩行地名は当時のもの、豊科町、穂高町は現在は安曇野市〉     
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塩の道 千国街道を歩く(信濃木崎から白馬)(2002年)〈続き〉

2009-07-28 22:47:34 | 塩の道を歩く
 相変わらず首都圏も天気がぐずつき気味で、夏風邪に襲われたので、
午後、かかりつけの病院へ行って来ました。

 本日も、7年前の2002年7月下旬に歩いた、塩の道レポートの後半
です。

==============================

 =仁科三湖を経て白馬村へ=

 2002年7月21日(日)〈続き〉



 すぐ先が佐野集落。最初の三差路に、姫川源流への表示があったので
回ってみた。国道を越えた東側の林に柵の着いた遊歩道があり、その一
帯が姫川源流。木々の下から清涼な水が流れ出ている。

 姫川は、白馬連峰からの平川、松川と合して小谷(おたり)の渓谷を下
って新潟県に入り、糸魚川で日本海に注ぐ全長158㎞の清流。日本名水
百選の碑の先で林を出た流れは、ゆるいカーブを描いて佐野集落東側の
田んぼを潤している。

 源流一帯は、春になると一面福寿草の大群落が花を開くという。

 流れに沿った遊歩道は、北側が開けた気持ちよい田園地帯へ。最初の
橋を渡って佐野集落に入り、西側の高台へ上がって塩の道に戻ると、す
ぐ先に東徳寺があった。

 本堂は小さく無住だが、苔むした観音像など、趣ある石像が並ぶ。明治
7年(1874)には佐野学校が置かれたところとも記されていた。

 佐野集落にも、かやぶき屋根の民家が幾つか残っている。



 次の十字路には古い石仏が50体くらいあり、近くにも立派な大黒天や
双体道祖神などが立ち、この辺り、古くからの信仰が根付いていることが
うかがえる。


 これも、佐野集落に残る家。


 南神城(みなみかみしろ)駅の東を過ぎ、護岸された川を渡ると沢渡集
落。暑さで疲れが出てきたが、線路を越えて西側の山すそにある貞麟寺
(ていりんじ)に回る。

 弘治2年(1556)、仁科氏の支族、沢渡兵部盛賢の母、貞麟尼の開基
という古寺。境内の樹齢500年というイトザクラが見事な枝振りを見せる。


 満開のオカトラノオに、たくさんのヒョウモンチョウが止まって蜜を吸って
いた。


 このようなかやぶきの納屋も、いつまで残るであろうか…


 増築中の小学校の先で一旦国道に出て、すぐ線路際の草の道に入る。
線路が国道に近づいた辺りに道の駅白馬があったので立ち寄り、冷たい
牛乳でのどを潤した。

 神城駅入口の先まで国道を、少し先で右から左へと国道を横切って塩の
道は進む。

 飯田集落の民家。かやぶき屋根の家を見ると、貴重な民俗文化財と思い、
皆撮りたくなる。


 飯田北原庚申塚石仏群の説明板の近くに、大きな地蔵座像と7体の地
蔵立像があった。

 座像は延享元年(1744)の造立。おだやかなたたずまいで周囲の緑に
とけこんでいた。


 「炭火焼白馬茶屋」の看板があるかやぶきの家(上)の横で、大糸線の
西に出て、飯森集落に入る。ここも五竜とおみスキー場を控えて、民宿の
看板が多い。

 昨日の朝寄ったので今日は通過したが、一夜山(いちやさん)の山麓に
ある長谷寺(ちょうこくじ)は、明徳2年(1391)建立の曹洞宗の古寺。

 天和2年(1682)再建の本堂を中心に、庫裏、衆寮、かやぶきの山門
など重厚で落ち着いた建造物が並ぶ。参道の馬頭観音や整った庭園も
必見だ(写真は前日朝撮影)。

 集落を出て、展望が広がる田んぼの中に、飯森神社の森がある。神社
は、飯森氏により南北朝時代の承徳年間(1097~9)に創建、雨乞い、
水乞いの社として知られる。


 南側の流れのそばに、大きな庚申塔や石橋供養塔、馬頭観音などが並
び、きれいな流れには「ホタルの里」の表示がある。


 広々とした田んぼが終わるとKさんの別荘がある林。別荘地の入口にな
っているオリンピック道路でKさんに電話して、2日間の御礼と、時間がな
いので寄らずに、白馬(はくば)駅に向かうことなどを告げる。

 塩の道は、平川橋を渡ってY字路でオリンピック道路に分かれる。深空
(みそら)や、白馬町の角にある庚申塚や百番巡礼供養塔(下)などの石
仏群を見ながら道を急ぎ、16時15分白馬駅に着いた。


(天気 晴、距離 22㎞、歩行地 大町市、白馬町、地図(1/2.5万) 大町、
 神城、白馬町)
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塩の道 千国街道を歩く(信濃木崎から白馬)(2002年)

2009-07-27 21:24:54 | 塩の道を歩く
 今日も、7年前の2002年7月に歩いた最初の塩の道・千国街道、2日
目のレポートです。

==============================

 =仁科三湖を経て白馬村へ=

 2002年7月21日(日)


 
 2日間大変お世話になったKさんの別荘を7時20分に出る。今日は
一人で昨日のコースの先を歩くことにした。

 8時19分、ここも無人の信濃木崎駅に下車。西側は木崎の集落が並
ぶが、東側は安曇沓掛駅と同様、緑あふれる田んぼで、すぐ先に山が迫
っている。



 大きなイチイの木のある木崎集落を抜け、ゆーぷる木崎湖までは前日
の道をたどる。森集落の南西から田んぼの西、山すそへ回り、塩の道の
西ルートに入る。

 アオサギが飛び、ノカンゾウ、ヒメジョオン、ムラサキツメクサなどがたく
さん咲く野道は、向かい風が爽やか。

 山麓の木立の中、太い木の下に「鬼穴古墳」の石碑が立っていた。

 鬼塚とも呼び、直刀などが出土したところのようだ。林でウグイスが競っ
てさえずっている。

 木崎湖西岸に出るとキャンプ場があり、湖畔にはキャンパーや釣り人が
何人か姿を見せていた。


 500mほどで塩の道は山道に入るが、草が茂って通過しにくそうなの
でそのまま湖畔の車道を進む。唐松林の先は杉木立の上りとなり、陽は
差さぬが汗が出る。林床にオカトラノオがたくさん咲いている。

 南平集落からは、木崎湖北面が見下ろせ、展望が気持ちよい。集落に
は3戸のかやぶき民家があった。宮沢の神社で小休止。杉木立の下に
ある手水鉢に、石垣からきれいな水が勢いよく落ちている。

 宮沢に残るかやぶき屋根は、穀物倉だろうか。



 湖を離れ、田んぼや民家をを見ながら北村集落を抜ける。集落内に咲き
競う夏の花。


 木陰が無くなり、日差しが強く暑い。大糸線の東に出て、棚田の間を勢
いよく流れる清流沿いに進んで国道に上がった。

 高速で通過する車に注意し、1㎞余り国道を進む。大町やなば信号を
左へ、中綱集落に入り車から開放され、ほっとする。水神社(下)で小休
止。冬はスキー客で賑わう集落も今は静か。


 民宿が続く中綱集落を縦断する。下は民宿中屋の納屋。


 オタマジャクシがたくさん泳ぐ田んぼの畔から、中綱湖西岸へ。この小さ
い湖にも釣り人がいる。聞くと、ブラックバスが釣れるとのこと。塩の道の
湖から、ブラックバスの追放はできないのだろうかと思う。

 両側から山が迫る糀原から振り返る中綱湖。



 糀原を抜けると、仁科三湖で最大の青木湖。青木集落の入口で、小さ
なかやぶき屋根のかやを10数人で、はいでいた。

 仁科三十三番札所15番の堂崎観音堂の屋根、集落の人が総出で、
1週間かけてふき替えるのだという。

 説明してくれた方が、横に外してあった古い掲額を見せてくれた。堂の
ことを読んだ歌のようだが、達筆で読めない。東側には、たくさんの石仏
が並んでいた。

 青木集落も民宿が多い。集落を出て、西岸に細く突き出た岬、秋葉崎
に向かう林には、ドクダミやオカトラノオ、ガクアジサイなどが咲いている。


 サンアルビナ青木湖スキー場のゲレンデ下付近はキャンプ場で、家族
づれや若いキャンパーの姿が見える。


 キャンプ場が終わる辺りから、杉木立の下を佐野坂に向かっての上り、
佐野坂三十三番観音が道の左側に並んでいる。

 およそ20~30m間隔、最後の方は100m間隔くらいで、文政12年
(1829)に高遠石工によって彫られたという苔むした観音像が続く。

 この2日間で、最も塩の道らしい雰囲気を感じたところであった。

 4番観音が坂の頂上。思ったより楽に佐野坂を越え、白馬村に入る。
2番観音と道を挟んで鬼石というのがあった。西行法師が巡礼の際、休
息された腰掛け石とか、鬼が投げようとして爪を立てた石とかの伝承が
ある。道は佐野に向かって杉木立を下る。
 
 ほぼ下りきって大糸線の東に出た。そばの流れを越えたところに蚕彰
社と呼ぶ小さい社がある。

 木陰で風も通りそうなので、草の上にシートを敷いて昼食にした。(続く)
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塩の道 千国街道を歩く(安曇沓掛から木崎湖畔)(2002年)

2009-07-26 23:11:33 | 塩の道を歩く
 古く神話時代から「塩」を運んで信州の人々の生活を支え、上杉謙信が
敵方、武田信玄の窮状を察して、牛馬により塩を運ばせたと伝えられる、
塩の道・千国(ちくに)街道は、松本から糸魚川までの約30里(120㎞)。

 北アルプスの東側を平行して南北に伸びる道は、どこも景観が素晴ら
しいという。以前から歩いてみたいと思っていた塩の道。思いがけず、こ
の春からのウオークで知ったKさんから、「歩きませんか」とお誘いをいた
だき、参加することにした。

 これが、私が塩の道・千国街道を全コース歩くことになったきっかけ、
今から7年前の夏のことである。

==============================
 
=安曇沓掛から木崎湖畔まで=
 
 2002年7月20日(土)


 
 Kさんと一緒に、白馬村(はくばむら)神城(かみしろ)のKさんの別荘を
出て、JR大糸線飯森(いいもり)駅から上り電車に乗る。隣の神城駅で、
この歩きの主催者でペンション経営のTさんと、ペンションに宿泊してこの
歩きに参加するHさんも乗り込む。

 8時37分、無人の安曇沓掛(あづみくつかけ)駅で下車。ホームは一面
だけで駅舎はない。駅の東側は田んぼが広がり、北の雲間から爺ケ岳が
顔を見せる自然が一杯の駅である。


 塩の道は、東に見える標高1,000m前後の山並みのふもとを南北に走
っている。

 踏切を越えて東に向かい、「日本海へ292㎞」と記された高瀬川の宮本
橋を渡る。大きな石がたくさん堆積された川原、幾つかの川筋に急流が音
を立てて流れる。

 「昔はたびたび氾濫したので川の周辺には住めず、塩の道は山すそにつ
くられたのだ」とTさん言う。

 緑あふれる田んぼの間を進んで宮本集落に上がり、まず仁科(にしな)
神明宮に詣でる。大町地方の豪族仁科氏が、伊勢から勧請した鎮守。

 うっそうとした杉木立に立つ檜皮葺(ひわだぶき)の社で、鳥居や本殿
などの配置は伊勢神宮にならい、日本最古の神明造りの様式を伝える国
宝である。

 20年ごとの式年遷宮が、600年間にわたり守られているという。荘厳な
境内の一隅に、山菜の逸品コシアブラの小木があった。


 十字路まで戻り北に向かう。かやぶきの家が残る宮本から、信州独特
の本棟(ほんむね)造りの家(下)も見える曽根原にかけては、大町市郊
外の家並みや田園の展望が気持ちよい。


 その向こうに北アルプスも望めるはずだが、今日は雲に隠れて前衛の
山々しか見えないのが残念。


 曽根原の北には「ホタルの里」と記された清流が里の方に下っていた。
たくさん並ぶ馬頭観音やキキョウの咲く閏田(うるうだ)集落を抜けると、
大町市民俗資料館があった。

 昭和53年(1978)3月で閉校した社(やしろ)小の建物を利用したもの。
江戸から昭和30年代まで、この地の主要産業だった宮本紙・松崎紙と呼
ばれた二つの和紙の資料や、民具、農具、小学校の古い教科書などが展
示してあった。

 馬頭観音や双体道祖神の残る山すそを更に進む。山下集落を過ぎると、
大町市街の展望が広がる。田園地帯に下り、昭和電工の工場群の横を通
過、農具川の橋近くにある松崎和紙の工房を訪ねる。

 松崎和紙は、長久3年(1042)に仁科神明宮の祭り用に製造したのが
始めとされ、その後、農家の冬の副業として発展したが、現在はここ、腰原
康雄さんご一家だけが伝統を守っておられる。

 腰原さんから、原料のコウゾが和紙になるまでの工程を詳しく説明して
いただく。一定の厚みで漉けるようになるのに年期がいるようだ。

 ご主人が漉いたばかりの和紙に奥さんがモミジの葉を並べ、その上に薄
く漉いた和紙を重ねるという、独自の製法も拝見した。

 農具川を越えると市街地。信濃大町駅の北に出て、塩の道博物館のそ
ばにある「タカラ」というそば屋で昼食にした。

 歩き始めは風もあったが、市街に近づくにつれ気温が上がり、かなりの汗
をかいた。冷たい水とビールがのどにしみる。注文したそばも美味しかった。

 昼食後は、斜向かいの塩の道博物館の見学。建物は、庄屋であり塩問
屋でもあった平林家の母屋と奥行きのある土蔵。平林家は味噌、醤油の
製造販売も行い、庄屋よりも商家という感じが濃い。

 接待の場だった奥座敷、いろり、帳場などに残る古い道具や装飾、牛に
荷を背負わせて塩などを運んだ歩荷(ぼっか)の装具や道具、土蔵にある
塩のにがり溜、農具や民具など、多数の資料をゆっくり見た。

 隣接する流鏑馬(やぶさめ)会館では、京都の加茂神社、鎌倉の鶴岡八
幡宮とともに、伝統を伝える大町の流鏑馬と、夏祭りに関する資料を展示
していた。大町の流鏑馬は、射手が少年というのが珍しいという。

 アーケードのある本通り商店街を北へ。大町市一番の通りだが、閉店し
ている店が目につき、車や人通りも少ない。この時期は同じ市内でも、
アルプス銀座の方が賑わっているようだ。

 アーケードが終わるとナナカマドの街路樹。中にはもう紅葉した木もある。

 大黒町のY字路には、大きな大黒天石像と太いしだれ桜がある。大黒天
像は高さ172㎝、江戸末期の嘉永5年(1852)の建立。松本平で最も古
く、最も大きい像だという。

 推定樹齢約150年というしだれ桜は、樹高8.5m、目通り周囲3.05m、
市内最大のしだれ桜である。

 少し先を標識に従い左に入り、若一王子(にゃくいちおうじ)神社へ。立派
な杉木立を背にした神社は、垂仁天皇の御代にこの地を守った仁品王が
建立、鎌倉時代初期、仁科盛遠宿禰が熊野権現の若一王子を勧請して、
若一王寺の宮となったという古社。

 承応3年(1654)に大修理した、春日造りで檜皮葺の本殿、宝永3年
(1706)建立、かやぶき屋根の観音堂、宝永8年(1711)建立の三重
塔が風格と落ち着きを見せて立つ。


 スギを中心とした広い神社の森は県の天然記念物。流鏑馬会館で見た
大町流鏑馬は7月29日、この神社の夏祭りに奉納されるものである。

 一旦国道に戻り、大黒天のある借馬(かりま)のY字路を左に入る。道路
沿いの水路はコンクリート護岸だが、清流が音を立てて流れ、暑さを和ら
げてくれる。


 借馬から木崎にかけては、何体かの大黒天と、二、三のかやぶき農家が
残っていた。田園の向こうに広がる、蓮華岳などの展望が気持ちよい。






 15時15分、今日のゴール、木崎湖南岸の「ゆーぷる木崎湖」に着く。
プール棟と温泉棟に分かれていて、夏休み最初の土曜日とあって、どちら
も賑わっている。われわれは温泉棟で、1日の汗と疲れを洗い落とした。

(天気 晴、距離 15㎞、歩行地 大町市、地図(1/2.5万) 大町南部、
 信濃池田、大町)
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塩の道・千国街道(小坂~美山公園~糸魚川海岸)【新潟】

2008-08-09 22:50:57 | 塩の道を歩く
 2008年8月1日(金)<続き> 



 小坂にある道の駅の休憩棟で昼食を終え、12時半過ぎ
出発する。

 家並みが少なくなり、緩やかに下った三差路に、古い石
の道標がある。

 今来た塩の道の方には「左志ん志やう」と刻まれ、「信州」
への道であることが記されていた。

 すぐ先の家の壁面に、木彫りの作品がたくさんな並べて
ある。この家の方の作品らしい。


 ニゴリスミ川を渡ると大野集落。川のすぐ北にある大野
神社は、かやぶき屋根にトタンを被せた社殿。

 りっぱな杉木立の並ぶ境内に、1等水準点があった。

 鳥居のそばには、高さ29mの大ケヤキがあったようだが
今は切り株しか残っていない。

 次の十字路際に十王堂があり、古い閻魔(えんま)像が
10体以上並んでいた。

 「十王を供養すると、死後、閻魔さんの裁判のときに罪が
軽くなる」という庶民信仰により造られたものらしい。

 木陰が少なく日差しが強まり、汗が止まらない。大野小
の東でJR大糸線の東に回り、用水沿いに進む。色鮮やか
なヒャクニチソウがたくさん咲いていた。

 頚城(くびき)大野駅の東側を過ぎたあたりに、馬頭観音
などの石仏が並ぶ。


 少し先で塩の道を逆行する女性3人のグループと行き交
う。この暑いのによく歩く気になったと感心。行く手の道の
様子を教えてくれた。

 文字のかすれた「林道下山線」の表示に従い、T字路を
右折すると緩やかな上り道。大汗をかいて上がる。

 最高点近くに、権現清水と呼ぶ湧水が右手の斜面から落
ちていた。

 手を合わせてすくって何杯も飲み、乾いたのどを潤す。

 左カーブする最高点に、新しい握手像の双体道祖神が置
かれていた。

 携帯電話のアンテナ塔の先で、車道をヘヤピン状に横切
る。その先からは林間の土の道。緩やかに上がると林間か
ら、北の谷間に日本海が見えてきた。


 再び右から接近した車道の横に、木のベンチがあったの
で小休止する。


 カラマツ林の横を下ると美山公園の一角となり、小さい池
のそばに平成2年(1990)に作られた歩荷(ぼっか)像が
立つていた。


 公園の一角、西側の高台を少し上がって展望台に登る。
糸魚川市の上水道配水塔を展望台としたもので、南は緑の
田んぼや山並み、西に姫川の流れ、北に日本海と糸魚川
市街、東は緑濃い山並みと、360度の展望が得られる。


 歩道のある車道をゆるやかに北に下り、最終コースに向
かう。北陸自動車道を越え、総合体育館や中学校横を過ぎ
ると、糸魚川の住宅街になる。

 「蒼龍松の古木」の表示があった淨福寺に寄ったが、枯れ
たようで、本堂前に切り株だけが残っていた。

 山門はなかなか趣がある。

 新鉄2丁目の狭い家並みの間を抜け、JRの踏切を越えて
市街地へ。中央通りの交差点際に、「塩の道広場」と呼ぶ
小公園があり、牛と牛つなぎ石の石像やトイレ、ベンチが
あった。


 すぐ先、東側を入った経王寺には、新潟県最古という永享
4年(1432)銘の梵鐘(ぼんしょう)があり、県の文化財に
指定されていた。


 次の通りが糸魚川市の繁華街。交差点に糸魚川町道路
元標が立つ。


 さらに進んで15時33分、ついに日本海海岸沿いの国道
8号に出た。テトラポットの護岸の向こうに穏やかな海が広
がる。


 3年前の前回の大峰峠越え西コースに続き、今回は大網
峠を越えて東コースでの、2度目の日本海への到達である。
塩の道千国街道の歩きが終わった。

 今回も、江戸時代の塩の道の雰囲気をかなりのところで感
じることが出来、暑かったが満足できる歩きだった。

 まだ午後の日差しは厳しいが、早いので東に向かい、糸魚
川の中心街をめぐることにして、塩の道を離れた。

(天気 晴、距離 12㎞+確認往復5㎞、地図(1/2.5万)
 小滝、越後大野、梶屋敷、糸魚川、歩行地 糸魚川市、
 歩数 34,100)
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塩の道・千国街道(根知駅~中山峠~小坂)【新潟】

2008-08-07 23:52:30 | 塩の道を歩く
 2008年8月1日(金)
 

 
 朝7時半過ぎ、糸魚川のビジネスホテルを出る。糸魚川駅8時
15分発上り大糸線に乗り、昨日のゴール・根知駅まで戻り、8時
33分に出発する。

 駅の東側は、緑の田んぼが気持ちよい。

 根小屋集落の三差路までは昨日の道。朝から好天で、少し歩
くと汗が出てきた。三差路から北に向かい、根知川を渡る。


 次の仁王堂集落の十字路にある飯縄神社に参拝。境内は太い
杉木立に囲まれていた。


 集落の名のもと、仁王堂はこの神社境内にあったらしいが、
現在は残っていない。

 神社の前にある塩の道の道標に従い、2車線の車道を北に向
かう。少しの集落が終わると上り道となり、振りかえると仁王堂
の家並みが見下ろせる。


 大きなカーブの先からは、林間の木陰の道を期待したのだが、
道幅が広いので木陰は少ない。上り道が続くので暑くて汗が目
に入り、何度となくハンケチで顔をぬぐう。

 早くも、秋の気配を感じさせるススキの穂が出ていた。


 中山峠と思われるところに来たが、標識は何もない。その先
からは緩やかな下りとなる。(下の写真はふり返ったもの)


 案内図にある「旅人の墓」のところから、西側を並行する道が
あるはずだが分からず、塩の道が車道になってしまったと思い、
そのまま車道を進む。

 ところが、2つの送電線が交差するところで、予定した右側の
塩の道ではなく、左の車道を来たことが分かった。

 さらに進むと、その車道の舗装が途切れ、右斜面からの崩れ
た土砂を取り除く工事をしている。(写真は工事か所通過後、
ふり返る)

 工事中のショベルカーすれすれに通過させてもらい、未舗装
の車道を少し進むと、車道も終わり、車の通れぬ草道となった。
しかしこの道も間もなく延長工事が始まりそう。


 棚田が現れ、間もなく小坂集落に下った。Y字路に休憩棟と
トイレの建物があったので休憩する。


 休憩棟にあったノートを見ると、東側の塩の道は、昔のまま
残っているらしい。

 そばに塩の道の標識もあったので、本来の塩の道がどこから
入ったものか、戻って確認することにした。


 標識のある林道を500mほど行ったら道が途切れた。おかし
いと思い休憩棟そばまで戻ったら、林間に入る本来の塩の道
があった。その林間の杉林の下の土道に入る。


 杉林を過ぎるとブナ林となり、カンパ地蔵と呼ぶ小さな地蔵
堂がある。


 すぐ先からは「ウトウ」と呼ぶU字状の堀割を上がる。


 稜線上を走るようになり、気持ちよいブナ林の中の緩やかな
アップダウンが続く。


 西側下部で道路工事の音が聞こえ、先ほど通った工事中の車
道が樹間から見下ろせる。

 二つの送電線下を通過し、地図と現在地を対比確認でき、無
いと思った茶屋跡の表示も残っていた。

 送電線が車道を西北から東南に横切る車道のそばに出た。

 そこに塩の道の大きな標識があったのだが、気付かずに車道
を進んだのだった。

 まだ先まで草の道が残っているので、車道の東側を並行する
道をさらに進み、林が途切れて車道が大きく左カーブするとこ
ろまで戻った。

 ここには塩の道の標識が無く、分かりにくそうなので確認を
終え、再び本来の塩の道を休憩棟まで戻った。

 確認のための往復で5㎞近くを要し、休憩棟に最初に着いて
から2時間を経過していた。

 ちょうど正午を過ぎたので、休憩棟で昼食とする。  <続く>

【注】塩の道・千国街道は、越後側(糸魚川市)では「松本街道」
と読んでいますが、松本~糸魚川間を通して普通、「千国街道」
と呼んでいるので、タイトルは「塩の道・千国街道」とします。 
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塩の道・千国街道(白池~山口関所跡~根知駅)【新潟】

2008-08-06 23:34:45 | 塩の道を歩く
 2008年7月31日(木)<続き>



 昼食をした白池からは、雨飾山や鬼が面山、駒ヶ岳など
が見えるはずだが、雲が多くてはっきりしないのが残念。
 下は、白池の北側にある休憩舎。 


 池には、小花のヒツジグサが咲いていた。休憩舎のそば
に、ぼっか宿の柱の台石などが残っていた。

 近くには、独特な形のオオウバユリが咲き出していた。


 昼食を終え、山口への下り道へ。


 ところどころに緩い木の段が設けられている。林間で
ウグイスやヒグラシが鳴く。

 林道を横切るところに、塩の道を読んだ短歌の碑が立っ
ていた。


 日向(ひなた)茶屋跡(下)あたりでは、パラパラ降って
きたが、すぐに止んだ。


 東側に岩稜の山並みを見ながら下り、庚申塔や百番供養
塔などを過ぎると山口集落に入る。

 左から駒ヶ岳(1487m)、鬼ヶ面山(1571m)、鋸岳
(1631m)である。 

 田んぼの向こうに、かやぶき屋根のりっぱな民家が見えて
きた。そばに下ると「道の駅資料館」だった。

 400円の入館料を払って入館し、内部を観覧する。

 豪雪に耐えるためのガッチリした造りで、屋根裏の3階
や2階には古い民具や農具など、1階には塩の道を往復し
た歩荷(ボッカ)や牛方たちの生活用具などが収集・展示
されていた。


 目を引いたのは、土間から2階の天井くらいもある頑丈
で重そうなそり。(下の写真は2台分)

 材木を、2本ひと組のそりの間にいっぱいに積み、雪道
を下ろすのに使ったのだという。

 集落の中心の三差路に下ると、車道の上に小さい人形
がたくさん吊してある。

 何の風習なのか知りたかったが、人気(ひとけ)が無く、
聞くことは出来なかった。

 少し南側が山口関所跡。天保年間(1830~)から明治
2年(1869)4月まで、塩の道の輸送物資の監視と、物品
に課税する「運上銀(うんじょうぎん)」の徴収が主業務で、
運上銀は藩の重要な財源だったという。

 現在は、毘沙門天を祭る小さいほこらと「関所址」の碑が
あるのみ。

 車道を北に進み、左手にスキー場を見て、民宿案内図の
ある三差路を西に入る。

 すぐ先にスキー場内の宿泊施設、ホテルホワイトクリフが
ある。そばに、「塩の道交流館歩荷(ぼっか)茶屋」もあるら
しいが見逃し、寄らずに通過した。

 次の集落、稲場との間は、地名のとおり緑の田んぼが広
がり、振りかえる山口集落の南(下の写真)や東に、特徴的
な山容の山が姿を見せる。

 真ん中に山頂付近だけ見える双耳峰のピークが、日本百
名山・雨飾山のようだ。

 このあたりの交差点には、塩の道の新しい道標が設けられ
ているので、地図と対照して迷わず進める。


 大工屋敷集落が近づくころ、日が差してきて暑くなった。
西側の山腹でヒグラシがカナカナカナカナ…と鳴く。

 和泉で車道に出たが、車の交通量は少ない。家並みの並
ぶ根小屋集落に入り、2階が鐘楼を兼ねた古い山門のある
廣傳寺前を通過する。


 根小屋会館の前の通りにも、先ほど山口にあったのと同
様な、たくさんの人形が吊されていた。

 集落を西に抜けて大糸線の踏切を越え、16時21分に
根知駅に着く。今日の行程はここまで。


 16時58分発の下り電車で糸魚川まで行き、宿泊する市
内のビジネスホテルに向かった。

(天気 曇後晴、距離 行戻り2㎞+16㎞、地図(1/2.5万)
 越後平岩、雨飾山、越後大野、小滝、歩行地 長野県
 小谷村、新潟県糸魚川市、歩数 34,300)
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塩の道・千国街道(平岩駅~大網峠~白池)【長野・新潟】

2008-08-04 23:18:51 | 塩の道を歩く
2008年7月31日(木)


 
 宿泊した南小谷の民宿、おぎさわ荘を7時半ころ出る。
南小谷7時51分発1両の糸魚川行きに乗り、8時10分に
平岩駅に下りた。

 標高は約260m。駅備え付けのノートに行き先を記入し
て、8時17分に出発する。

 最初のポイント、大網集落に上がる道は2つあるが、本来
の塩の道である南側の大網橋から発電所経由を行くことに
した。

 大糸線と国道とを一緒に覆う、雪除けの平岩洞門を抜けて
国道に分かれ、姫川の大網橋を渡る。南側の斜面中腹に、
白馬大仏が見える。

 3年前の前回は、この大仏のそばを下ってきたのだった。

 橋を渡ったところに、「塩の道千国街道」の道標が立つ。
発電所に向かって緩やかに上がって行くと、対岸に、こんな
僻地にと思われる場所に、大きな旅館が見える。

 発電所は、電力会社のものでなく、電気化学の大網発電
所だった。

 ヘヤピンカーブのところまで上がったら、後から工事関係
の車らしいのが2台来た。カーブ点には通行止めのゲートが
あり、それを外して入ろうとして、この先は工事中で通行禁
止だという。

 どこにも通行禁止の標識がなかったので、そのことを言っ
て通してもらえぬかと頼んだが、だめだという。手前の橋の
ところにでも標識を出しておくよう強く要望し、仕方なく引
き返すことにした。

 平岩駅まで戻り、先ほど記入したノートに、「発電所方向
からの塩の道は通行禁止」のことを朱書して、北側の姫川
温泉経由の車道に向かう。

 駅のすぐ北で姫川湯橋を渡ると、右手のがけから温泉が
滝になった流れ落ちている。「源泉は姫川上流3㎞地点で、
温度は55℃」などの説明板があった。

 姫川温泉は、以前は賑わっていたようだが、すぐ先の観
光ホテルとか記された大きな建物は壊れかけ、ほかには2、
3軒ほどで、寂れた感じの温泉場になっていた。

 わずかな温泉街の外れに出ると、大きな2本の導水管が
姫川河岸の発電所に向かって下り、こちらも電気化学の
大網発電所と表示されていた。


 その先は、7~8回の緩やかなカーブが続き、高度が
どんどん上がるが、風がないので蒸し暑く、汗が出る。

 西の方に見えてきた山に残雪がほんの少し見える。東
側には凸型のピークを持つ山並みが現れた。


 カーブが終わって傾斜が緩み、標高400mに近い大網
集落に入った。


 集落の中ほどにある大網諏訪神社(上)の境内に、太い
広葉樹が大きく枝を広げていた。そばの三差路を北に進み、
集落の北に出て草の道に入った。

 振りかえると、大網集落の静かなたたずまいが見渡せる。

 林に入って少しで、古い石仏がたくさん並んでいた。塩の
道を通る人の安全を祈って造られたものらしい。

 赤い前垂れをつけた六地蔵も、そばで見送ってくれている。

 ところどころに、「塩の道千国街道の」道標が立っているの
で心強い。林道に出ると、「下清水茶屋跡」の標識が立つ。

 ウグイスのさえずる坂を下って横川の支流に出た。堰堤
(えんてい)の間で木の橋を渡り、右岸に沿って進む。

 横川の本流のところには、釣り橋がかかっていた。流れは
泥で濁っている。

 揺れる橋を渡ると上り坂となり、傾斜が強まる。

 ブナ林の間の流れに沿って上がり、二つの沢の間に出た。
左側の沢の左岸沿いに上がると、5mくらいの滝がある。

 このあたり道がちょっと分かりにくいが、滝の右手を回って
滝の上で右岸に回る。

 ブナ林の中の急斜面をゆっくりと上がり、「牛の水飲場」で
流れを横切る。

 牛の気持ちになって?冷たい水を手ですくって飲む。まろ
やかな味わいだった。

 しかしこの前後は、かなりの傾斜があり、重い塩などを背
負って上がり下りした牛には、かなり厳しそうで、「モウたく
さん…」と言いいたかったのではなかろうかと思われた。

 さらに流れに沿って上がって右岸に回り、少しずつ流れか
ら離れる。一帯は豊富なブナ林が続く。


 太い杉の木の根元に「菊の花地蔵」と呼ぶ、かなりすり減
った古いお地蔵さんが鎮座していた。


 その付近からは傾斜も緩み、やがて茶屋跡のちょっとした
平坦地を通過する。再び沢を横切ったので、流れに手を入れ
てもう一度飲む。天然のミネラル豊富なおいしい水である。

 この周辺のブナは、どれも真っ直ぐ伸びていて、幹も白っ
ぽく、なかなかみごとな景観。


 谷間を上がるようになり、ブナの下草に白い花と淡い紫の
ガクアジサイがあちこちに咲いていた。

 上り詰めたところが標高約800mの大網峠。今回のルート
での最高点である。(下の写真は、来た方をふり返り見る)
 
 峠の周辺も、豊富なブナ林になっていた。

 峠から下って行くと、右手の木々の間からに角間池が見え
てきた。

 近くには休憩舎があったが閉ざされている。そばにトイレ
もあった。

 峠から1㎞余り下ると、白池が見下ろせるところに出た。
諏訪神社跡で、元禄年間(1688~)には信越国境だった
というが、その後、池一帯を越後の用水池として渡し、現在
このあたりは新潟県になる。最近立てた小さな石のほこら
があった。


 周囲を豊富な樹林に囲まれた白池の北側に下ると、休憩
舎とトイレがある。ここで昼食とし、民宿で作ってもらったお
にぎりと、たくさんのおかずを、おいしくいただいた。(続く)

【追記】大網橋から発電所経由で大網への道の通行禁止に
ついて、小谷村観光連盟に連絡しました。観光連盟では、
さっそく調査し、【村道長坂線は治山工事のため、お盆前
まで通行止め】との情報が返って来ました。
 近日中にこの道を歩く計画の方は、下記小谷村観光連盟
に連絡して、通行の可否を確認して下さい。
  http://www.vill.otari.nagano.jp


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