あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

鎌倉街道上道を歩く⑨ =相鉄ゆめが丘から鶴岡八幡宮へ=(神奈川)

2023-10-13 18:43:17 | 鎌倉街道上道を歩く
 第9回 2002年11月16日(土)
             〈相鉄ゆめが丘から鶴岡八幡宮へ 全コースを無事完歩!〉

 最終回ということで、初参加のSmさん、Naさんも加わり、過去最高の14人が相模鉄
道いずみ野線ゆめが丘駅に集まった。

 曇り空でちょっと寒いが、雨の心配はなさそう。少し遅れたMさんを待ち、9時50分
に出発した。

 == 境川左岸段丘を東俣野へ ==

 前回は暗くなって通過した佐馬神社(別名、下飯田神社)に寄る。鳥居のそばに古い石
碑が並んでいた。
      



 バス道路に出て、相鉄と横浜市営地下鉄のガード下を抜ける。ガードのすぐ先の富士塚
公園に「富士塚城趾」の石碑があった。飯田五郎家義の館跡だという。

 少し先で、鎌倉街道は西側にコの字状に回っている。この辺り、立派な防風林に囲まれ
た家が多い。

 もとのバス道に出て、少し戻ったところに東泉寺という大きな屋根の寺が見えたので入
ってみた。
      
 源頼朝の命の恩人、飯田五郎ゆかりの薬師堂があり、家康に仕え、小牧長久手(こまき
ながくて)の戦いや小田原城攻めに功績のあったという、筧助兵衛(かけひすけひようえ)
為春の墓もある。
         

 相模准四国八十八カ所59番霊場で、巨木山の山号どおり、太いイチョウも立っている。

 参拝後、ご住職の奥様に鎌倉街道を歩いていることを話したら、ご住職から、鎌倉街道
にまつわる話をして頂けるという。

 アカザの杖をついてご住職が本堂にお目見えになり、新田義貞の鎌倉攻めのこと、平家
の総大将、大庭(おおば)景親や、飯田五郎家義のことなど、この付近の歴史を詳しく話
して下さった。

 さらにご住職、関水宗孝氏が第二次大戦において、海で撃沈されたときのことを書かれ
た、貴重な海軍ドキュメント「夜光虫」という著書を5冊もいただいた。篤く御礼申し上
げて寺を去る。

 下飯田交差点の先、街道右手は広い用水池の工事中。和泉川の橋を渡り、東側の山すそ
に回ると、「ゲンジボタルの生息地」と記されたきれいな流れがあった。東斜面の木も、
よい色に色づいている。


 俣野町の小さい交差点に古い庚申塔が3基あり、その台になっているコンクリートの中
にも、埋め込まれた庚申塔が幾つかあった。


 黄色い小菊の咲く俣野町に入る。県道との交差点に、かやぶきにトタンをかぶせた観音
堂があり、「平宗盛軍の将だった俣野五郎景久ゆかりの観音堂」と記されていた。


 県道を少し東に進み、道祖神など5の並ぶT字路を南に入る。境川の方に少し回り道し
て、支流の宇田川を越えると東俣野町。

 左手に見えたのが龍長院。立派な本堂左の地蔵堂は、俣野景久の守護仏の石像があると
のこと。

 トイレを借り、境内を拝観。池に見事なニシキゴイが10数匹泳ぎ、横浜市の名木古木
のイチョウもある。北斜面からは滝も落ちていた。

 すぐ先、坂を上がった八坂神社の少し離れた鳥居の横には、「右かまくら道、左八王子
道」と記された古い庚申塔があった。


 500mほど先の十字路に、東俣野中央公園の標識が立っていた。左手の丘陵にある公
園で、芝生が広がりカエデの紅葉が見事。12時10分なので、ここで昼食とする。

 芝生に腰を下ろし、弁当を出そうとしてハッと気付く。途中で弁当を買うのを忘れてい
た。コンビニでも探そうとしたら、皆さんが分けてくれるという。食べきれないほどいろ
いろいただき、感謝してごちそうになった。




 == 藤沢市東端を抜け、いざ鎌倉! 夕暮れの鶴岡八幡宮へ ==

 座っていると寒い。早めに食事を終えて12時48分に出る。円形の建物、老人保健セ
ンター横を上がって交差点に出ると、小さい屋根の下に奉納された6基の庚申塔や道祖神
が並んでいた。


 掘割の国道1号線を歩道橋で渡り、影取町から唐沢へと入る。この辺りはもう藤沢市。
車道の東側斜面上にある唐沢神社は、社殿の彫刻が見事。鎌倉武士でこの地の領主、大久
保佐渡守の崇敬高い社だったという。

 唐沢交差点で県道302号に出て東に向かう。消防分署のある交差点の先、左手高台に
鎌倉札所第三十三番の慈眼寺という立派なお寺があったので参拝する。

 新しい大きな本堂。境内のツツジやモミジがよい彩り。

 モチノキ、タブノキ、シイノキの8株が根元でくっついたという樹齢300年以上の混
成樹の大木が珍しい。


     
 この地の旅館の隠居で、たくさんの和歌を詠んだという平 氏満の墓もある。


 渡内の新興住宅地を進み、村岡城跡の公園で休憩。高台にあり、南西方向、藤沢市街の
向こうに逆光に光る海が見えた。「村岡城址」碑↓
         

 坂を下って武田薬品工業の広大な敷地の西を回り、JR東海道本線を陸橋で越える。線
路沿いに戻って神戸製鋼の工場東に出て、柏尾川を渡った。いよいよ鎌倉市内である。 

 JR大船工場横から湘南モノレール下を通過、高台にある大慶寺や、四国霊場のお砂踏
み道場のある東光寺に寄る。深沢中でトイレを借り、梶原の住宅地を上がると、ハゼの紅
葉が色鮮やか。

 稜線を進んで、源氏山公園にある葛原岡(くずはらおか)神社に参拝する。

 元弘2(1332)年、ここで最期を遂げた後醍醐天皇の忠臣、日野俊基を祭る古社。
陽が傾き冷えてきた。

 少し湿って滑りそうな化粧坂(けわいさか)を注意して下る。鎌倉を囲む七つの谷戸
(やと)の一つだ。JR横須賀線を3回越え、薄暗くなった16時40分、ついに鶴岡八
幡宮に到着した。

 拝殿に参拝して長い道のりを無事歩き終えたことに感謝し、それぞれ満足感を胸に神社
を去る。太鼓橋前での記念撮影



 Kkさんが予約しておいてくれた鎌倉駅近くの食事処「秋本」に入り、賑やかに打ち上げ
の宴を楽しんだ。








(参加 14人、天気 曇後晴、距離 16.5㎞、地図(1/2.5万) 藤沢、戸塚、
 鎌倉、歩行地 横浜市泉区、戸塚区、藤沢市、鎌倉市) 


 9回に分けて歩いた鎌倉街道上道、総歩行距離は170㎞、歩き継いだ群馬、埼玉、東
京、神奈川の市町は15市10町、使用した2万5千分の1地形図は17面、参加者総数
は90人、全行程の完歩者は4人だった。                  〈完〉



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鎌倉街道上道を歩く⑧ ==町田から相鉄ゆめが丘まで==(東京・神奈川)

2023-10-05 09:15:20 | 鎌倉街道上道を歩く
 第8回 2002年10月20日(土) 〈町田から相鉄ゆめが丘まで〉

 前回同様雨の予報なので、覚悟をして小田急小田原線の町田駅に行く。参加者は前回と
同じメンバーの6人。曇っているが幸い雨は降っていない。すぐ雨具を出せるようにして、
9時45分に駅を出た。

 == 境川サイクリング路を経て横浜・瀬谷へ ==

 JR横浜線に沿って南東に進み、1㎞足らずで線路を越える。すぐ先に町田天満宮があ
った。本殿前に狛犬が三対と狛牛が一対並んでいる。七五三のお参りに来た家族連れが数
組見られた。

 行き違いがやったとの狭い車道だが、車が多いので注意して進む。天和3(1683)年、
旗本の下屋敷に建立したという金森杉山神社には、文化7(1810)年の地神塔など、
苔むした石塔が5基並んでいた。


 ちなみに、「地神塔(じじんとう)」というは埼玉県内では見たことがないが、大地の
神としての地神信仰に基づき地神講あるいは社日講により造立された石塔で、東日本では
神奈川県に、西日本では岡山県と香川県に多く分布しているという。

 境川の西に小さい三重塔を見ながら進み、西田の杉山神社に寄る。
     
 太い幹と枝を広げた大イチョウがある。「町田市名木百選」№1で幹は4人抱えもある。

 神社前から鎌倉街道は途切れるので、境川左岸沿いのサイクリング道路に出る。ツツジ
の植え込みがあり、川には大きなコイが泳いでいる。散歩していた人が、川原の桑の木に
カワセミがいると教えてくれた。きれいな色のカワセミは、しばらくジッとしていた。

 国道16号線と東急田園都市線の下を越え、緑がいっぱいの鶴間公園で休憩。サイクリ
ング道路は、1㎞ほど先の国道246号線のそばまで続いている。

 街道は、セコムの大きな建物の先東名高速をくぐり、上瀬谷町の農村地帯に入る。竹村
町の牢場坂南側の竹やぶの中に、小さいが古い五輪塔2基と板碑があった。




     

 近くの妙光寺は、弘安5(1282)年に日蓮上人が身延山から池上本門寺に向かう時
に泊まったという寺。


 本堂はコンクリート造りで新しいが、大きな日蓮上人像や瀬谷八福神の大黒天がある。
鐘は、鎌倉時代の正中2(1325)年の鋳造で、重要文化財である。

 すぐ先の三差路に、七つの地蔵さんがコの字形に並ぶ地蔵堂がある。
     
 
 三差路を右に入ると、養護学校の前に広い庭の旧家が目に入る。門の無い開放された庭
をのぞくと、節がねじれた珍しい竹や、大きなサルスベリなどが見える。
          

 近くには、「瀬谷銀行跡」の標識があり、広い庭に樹木がうっそうと茂っていた。


 この辺りは中屋敷という地名の通り、広い屋敷に名木古木に指定された太いケヤキや、
色づいた柿などのある、りっぱな屋敷林の家が並び、街道らしい雰囲気が色濃いところだ。

     
     中屋敷一丁目の地神塔↑、同じ町内の大きな柿の前で記念撮影




     近くには名木古木に選定されている大ケヤキも。
     

     
      大きなケヤキの立つ日枝神社で小休止。


 大門小の先で相模鉄道を越えると、三差路のど真ん中に地神塔がある。道路拡幅の際も、
移転せずに残しておいたようだ。


 13時34分、厚木街道の先にある西福寺に入る。うっそうとした境内、樹齢千年以上、
周囲5.6mという大きなシイノキが見事。
     

 昼食をするには少し暗いので、南側の左馬(さば)神社に行く。

 祭神は源頼朝と伝えられる古社。左馬神社というのは、全国でこの境川沿いに11社し
か無いという。


 == 新幹線を越えて相鉄ゆめが丘へ ==

 14時30分出発。ジュウガツザクラの咲く北新集落に入り、宗川寺に寄る。ここにも
ジュウガツザクラが咲いていた。
     

 シダレザクラや、市の名木である大きな夫婦イチョウもある。門前に「中原街道問屋場
跡」の標識が立っていた。

 その中原街道を越え、相沢川の手前で十字路を右折する。下瀬谷小や上和田中の横を通
過し、きれいな流れの相沢川の先から柳明神社へ。

 鎌倉二十四番札所で、古い六地蔵が並んでいる。神社の前には、文政5(1821)年
銘の道祖神がある。

 右側の田んぼは借り入れが終わり、はさ掛けが並ぶ。500mほど先の小さい十字路の
角に、「江戸柳明(やなみよう)古地図」が描かれていた。



 その上の建物が羽太(はぶと)資料館。向かいの家に声をかけたら、館長の羽太さんは
外出中だったが、奥さんが勘のカギを開けて下さった。

 鎌倉街道を個人で研究しているという羽太さんが集めた、古い農具や馬具、家具、衣服
などが館内所狭しと展示してある。

 2階には、境川沿いに並ぶ家並みを描いた絵地図があり、江戸時代この柳明集落には色
々な職業の人が住んでいたと分かる。奥さんの話では、現在は皆、農家とのこと。

 東海道新幹線のすぐ南側にある本興寺は、日蓮上人中興の寺。本堂の精巧な彫刻が素晴
らしい。堂内も同様である。
     
 広い境内は緑が多く、大イチョウやカシなどが目につく。今日行われた721回御会式
法要の真新しい柱が本堂前に立っていた。境内の砂が、きれいに掃き清められ気持ち良い。

 寺の先から、上飯田集落の台地下を流れる清流沿いに設けられた桜並木の「せせらぎ緑
道」を進む。


 右側はコンクリート建てのいちょう団地が続く。団地が終わり、屋敷林の多い集落の一
角に飯田神社があった。境内には庚申塔などの石仏がたくさん並んでいる。

 はさ掛けの並ぶ田んぼの間を進む頃から、霧雨が降ってきた。たいした降りでは無さそ
うだが、長後街道との交差点で傘を出す。

 車が多いので、街道に並行する東側の道に回る。こちらは畑と農家が混在する静かな道
で、昔の街道のような道筋である。

 500mほどで、車道の西側に通じる鎌倉街道に戻る。左側は柿の色づく農家、右側は
田んぼが広がり、昔ながらの街道らしい雰囲気が残っているところだ。

 下飯田の左波神社で、今回の歩きは区切りとする。畑の中を進んで、17時16分、高
架が新しい相模鉄道ゆめが丘駅に着いた。

(参加 6人、天気 曇、距離 18.5㎞、地図(1/2.5万) 原町田、座間、藤沢、
 歩行地 町田市、横浜市瀬谷区、泉区)




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鎌倉街道上道を歩く⑦ =北府中から町田まで=(東京)

2023-09-30 17:49:18 | 鎌倉街道上道を歩く
 2002年9月14日(土) 〈北府中から町田まで〉

 予報は雨だったが曇り空。気温も20℃前後と歩きやすそうな日和である。JR武蔵野
線北府中駅に集まった6人は、一応雨具を付けて9時40分にスタートした。

 
 == 府中の寺社を回り多摩ニュータウンへ ==

 府中街道を南へ進み、京王線を越えて府中市の中心部に入る。


 大きな高札場のある交差点を東に回り大国魂(おおくにたま)神社へ。



 京王線府中駅まで続く参道には大ケヤキが並ぶ。源頼義・義家父子が奉納したのが始ま
りとか。太いケヤキのそばに源義家像が立っていた。
     

 大国魂神社は、武蔵国の国府だった府中の中心にある。立派な社殿に参拝。


 嘉永7(1854)年再建という鼓楼(ころう)や、国の重要文化財に指定されている
子供を乗せた狛犬↓などを見て西に抜ける。
     

 JR府中本町駅の北西、南武線の北側にある善明寺に寄る。建長5(1253)年に造
られたという国重要文化財の阿弥陀鉄仏座像は、収蔵庫にあり拝観できない。

 アカマツ、ツツジ、ソテツなどの間に灯篭や自然石を廃した日本庭園が素晴らしい。


     
 鎌倉街道を挟んだ西側は高安寺。足利尊氏再興の寺で、徳川家から御朱印十五石を拝領
していたという。広い境内に立派な総門、山門↑、本堂↓、鐘楼、観音堂などが立つ。
     

 背の高く重厚な山門の四方に、さまざまな楽器を持ち、羽を付けた楽士などの精巧な彫
刻が施されており、目を奪われる。
     

 境内には、「府中市百選」のタラヨウジュやクスノキ、台湾桜、枝垂れ松、コウヤマキ
などの樹木が多い。サルスベリが花盛りだった。

 二つの寺を挟んだ鎌倉街道は遊歩道になって南に延び、中央自動車道の先で街道と分か
れ、多摩川北岸にある「郷土の森公園」まで続いている。

 府中市南町1丁目にて


 遊歩道から多摩川左岸のサイクリング路に出て、関戸橋を渡ると多摩市である。

 新大栗橋交差点から右斜めの旧道に入る。大栗川の先、関戸五丁目の地蔵堂のそばに
「関戸古戦場跡」の碑があり、「元弘3(1333)年5月、幕府軍と新田軍が合戦、新
田軍が勝利した」と記されていた。

 すぐ先の観音寺は刑場跡だったといわれ、墓地には板碑がたくさん集められていた。
     

 観音寺は、多摩川三十三観音と多摩八十八か所札所で、江戸時代狩野派の絵師・柳沢五
流と、華道の一派の創始者である柳沢伴主父子の墓もある。

 その先の熊野神社は、鎌倉時代の建暦3(1213)年に設けられた霞の関木戸柵跡。
約45㎝間隔に丸柱の痕跡が残っていた。


 多摩市役所前を通過し、多摩ニュータウンの住宅群に入る。13時25分、乞田川(こ
ったがわ)と京王線の間の小公園に入り、昼食にした。

 食事の半ばから雨が落ちてきたが、なんとか傘は差さずに済んだ。

 == 多摩ニュータウンを抜けて小野路へ ==

 ニュータウンの豊ヶ丘住宅群を抜けると、町田市東北部の丘陵地帯。恵泉女学園大の東
側で雑木林の林道へ。静かな土の道は、多摩ニュータウンとは対照的に鎌倉街道らしさを
残している。

 途中、東南に少し回り道はしたが、休耕田沿いの草の道で、思いがけずのカントリーウ
オークを楽しんだ。

 林が終わると小野路(おのじ)町の集落。宿場町の雰囲気が残る家並みが続くが、車の
交差が出来ない狭い街道は交通量が多い。注意しながら進み、小島資料館の先で三差路に
出てホッとした。

 右折した山際に小野神社があった。小野篁(おののたかむら)の子孫、小野孝泰が武蔵
国府として天禄年間(972~)に赴任し、小野篁を祀ったという古社。

 ちょうど年に一度の秋祭りの日で、本殿、神楽殿、囃子舞台などを飾って、夜の神楽の
準備中。御輿(みこし)所をのぞくと、大小2基の立派な御輿が鎮座していた。

 神楽殿を見下ろす芝生で休憩する。


 神社から200mくらい、坂の途中で旧道へ。野津田公園の駐車場そばに「大山道一里
塚」の案内標がある。
  
 一里塚は、元和3(1617)年、駿河の久能山に埋葬した徳川家康の遺骨を、日光東
照宮に移したときに造られたとのこと。
 
 == 野津田から町田市街へ ==

 街道は、谷間にある野津田公園の陸上競技場横を抜けているが、右に回り南多摩外科病
院前に出て、公園の西側で小休止。台地上なので、眼下の競技場や東側に広がる緑の丘陵
などの展望がよい。


 桜並木を野津田高から日本聾話(ろうわ)学校前に進み、林の中を下って県道に出た。
小田急と神奈川中央バスの大きな車庫が並ぶ。車庫の先で右折、鶴見川の丸山橋を渡る。

 七国山の北斜面を、オミナエシや秋ソバの花などを見ながら上がる。七国山ファマーズ
センターの先で10数戸の新興住宅地を抜け、七国山の稜線に出た。東側に広いソバ畑が
あり、白い花がじゅうたんのように広がっている。


 その先500mほどは、薄暗くなってきた林。中ほどに鎌倉井戸がある。新田義貞が北
条泰家を追ってここを越えた時、馬に水を使わせたという。木枠があるのでのぞいて見た
が、水は見えなかった。

 今井谷戸交差点の少し先から恩田川沿いへ。日蓮上人が佐渡流罪の途中、ひと息入れた
という宏善寺で最後の休憩。本堂はコンクリート製。シダレザクラやよく手入れされたツ
ツジなどの庭がよい。

 暗くなってきたので先を急ぐ。養雲寺の先で恩田川の西に出て、県道Y字路の西側にあ
る菅原神社に寄る。菅原道真ゆかりの神社で、境内裏手は「井戸の沢古戦場跡」だという
が、54段の石段を上がって参拝しただけで出た。

 神社西側の裏道から県道3号に出るつもりが、町田郵便局の通りに出て回り道してしま
う。18時35分にゴールのJR横浜線・小田急小田原線の町田駅に着いた。

(参加 6人、天気 曇、距離 21.5㎞、地図(1/2.5万) 立川、武蔵府中、
 原町田、歩行地 府中市、多摩市、町田市)



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鎌倉街道上道を歩く⑥ =東村山から北府中まで=(東京)

2023-09-26 17:39:55 | 鎌倉街道上道を歩く
 第6回 2002年7月13日(土) 〈東村山から北府中まで〉

 鎌倉街道も東京都に入り、今回はほぼ府中街道沿いの商店街や住宅地。緑や展望はあま
り期待できず、曇っているが蒸し暑い。西武新宿線 東村山駅を9時45分にスタートした。
 
 == 府中街道を恋ヶ窪へ ==

 祭りの準備が進む東口広場を出て、府中街道を南に向かう。東村山の中心街を通過、新
青梅街道の先で、西側の八坂神社に寄る。


 屋台が店を開け、氏子がちょうちんを吊して夏祭りの準備中。


  ヤマブドウのつるを輪にした「カマエビ」というのが並べてあった。玄関に吊して疫病
の侵入を防ぐという古い信仰のひとつ。Toさんは一輪分けてもらい、頭にかぶる。

 本殿には、金色の大きな獅子頭の雌雄と大太鼓が飾ってあった。

 西武多摩湖線の八坂駅南側は、「九道の辻」と呼ばれるところ。いまは七差路だが、昔
は九差路だったようだ。
     
 野火止用水の橋際に、その標柱が立っていて、「前橋から十八里(七十二㎞)、鎌倉へ
十八里(七十二㎞)」と記されていた。

 700mほど続くブリジストン東京工場の周囲は、豊富な樹林で囲まれている。西武国
分寺線小川駅入口で府中街道を離れ、東側のブリジストンの社宅団地へ。南側に公園があ
ったので休憩。蒸し暑くてのどが渇くので、水分補給した。

 小平市小川町2丁目の古い民家の土蔵


 鎌倉街道はその先2㎞ほど、青梅街道や たかの街道を横切り、小平市の住宅地を真南
に進む。わずかに残るカボチャ、ジャガイモ、サトイモなどの畑、梨やブドウの果樹畑の
横を抜け、津田塾大の東で玉川上水の鎌倉橋に出た。

 玉川上水は江戸時代の開削なので、鎌倉時代には無い橋。緑に覆われた上水の水量は少
な目だが、大きなコイがたくさん泳いでいた。

 五日市街道に出て西へ、府中街道との交差点の南西に公園があったので休憩。太陽が出
ていっそう蒸し暑く、冷たい飲み物がのどにしみる。


 車の多い府中街道を1㎞ほどで、西武国分寺線を越える。線路沿いに東南に入ると熊野
神社があった。


 境内に、室町時代、京都聖護院の准后(じゆごう)道興が文明8(1486)年から翌
年、関東を行脚して記した「廻国雑記(かいこくざつき)」に詠んだ、この地、恋ヶ窪を
歌った歌碑が立っていた。
       

 神社に近い東福寺には、「傾城(けいせい)の墓」と、三代目「一葉の松」がある。

 傾城は、畠山重忠と恋仲になった遊女。近くの姿見の池に身を投じた。それを知った村
人が松を植えたが、その葉は不思議にも一葉の松になったという。三代目の松にも、一葉
だけの葉が見られた。
      
          上は「傾城碑由来」碑、下は傾城の墓
          

 == 武蔵国分寺から北府中へ ==

 姿見の池があるという森の横から府中街道に戻り、西国分寺駅前でJR中央線を越える。
都住宅供給公社の集合住宅群の横を抜け、次の交差点で街道の東に回り、12時15分に
武蔵国文寺に入った。

 府中街道は暑いが、国分寺はうっそうとした森に囲まれ、木陰が暑さを和らげてくれる。

 国重要文化財の木造薬師如来坐像を祀る薬師堂↑から本堂↓に下って参拝。


 本堂前で今日の記念撮影




 境内には、万葉集に歌われたたくさんの植物が並ぶ。宝暦年間(1751~64)建立
という仁王門の軒下に、ザックを下ろして昼食にした。






 雲が厚くなり、食事を終える頃には雨が落ちてきた。傘を出して13時35分に出発。
南側の国史跡・武蔵国分寺跡に回る。

 広い芝生地に、国分寺の説明板や金堂址の石柱などがある。


 府中街道を越え、JR武蔵野線の西に出て、黒鐘公園にも寄る。公園一帯は国分尼寺跡。
雨が本降りになってきたので、公園の北にあるという鎌倉街道遺構の切り通しには回らず
に先を急ぐ。

 高い塀と監視カメラに囲まれた府中刑務所横を通過して、14時12分に北府中駅に着
いた。

 今日は皆、夜のホタル観賞ウオークに参加するため、ここまでとする。14時19分の
JR武蔵野線下り電車で岩槻に向かった。

(参加 11人、天気 曇後雨、距離 10.5㎞、地図(1/2.5万) 所沢、立川、
 歩行地 東村山市、小平市、国分寺市、府中市)



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鎌倉街道上道を歩く⑤ =武蔵高萩から東村山まで=(埼玉、東京)

2023-09-17 17:52:38 | 鎌倉街道上道を歩く
 第5回 2002年6月22日(土) =武蔵高萩から東村山まで==

 明け方に激しい雨のところもあったが、JR川越線 武蔵高萩駅に着いたら、ほぼ雨の
心配は無くなった。気温も20℃以下か、歩くには絶好の日和となった。

 地図を配ろうとザックを開けたが無い。忘れてしまったようだ。しばらくは、Kaさんが
用意してくれた絵図だけで歩いてもらうことにして、9時42分に出発する。
 
  ==智光山公園から狭山市内へ==

 駅前の桜並木を下って県道を横切る。以前の例会でも歩いた住宅地を抜けて霞野神社へ。
     


「女影ケ原古戦場の記」があり、「建武2(1335)年に北条時行が幕府軍の足利直義
などに撃破された古戦場だ」との説明が記されている。


 近くの交差点には、鎌倉街道の案内板も立っていた。


 第二小畦川に沿って、緑が色濃くなった水田が広がる。川の先、道の東側に「鎌倉街道
上道碑」と説明板がある。






 この辺りは緑が多く、気持ち良い道筋である。


     
 坂を上がった国道407号線との十字路↑は「鎌倉街道」交差点。日高カントリーの南
端沿いに進み、圏央道をくぐると智光山公園。一時間余り歩いたので休憩する。

 狭山工業団地に入り、コンビニで地図をコピーして皆さんに配る。工業団地を抜けて、
入間川に向かう下り道は信濃坂。信濃に通じていたことから名付けられたようだ。

     
 坂の下、七差路の手前に陰隠(かげかくし)地蔵が立つ。木曽義仲の子、義高が源頼朝
の刺客から身を隠したが捕らえられたという。


     地蔵は高さ1m余りしかなく、発見されるのも当然と思われた。
      

      そばに、道しるべにもなっていた安政5(1858)年の石橋供養塔もある。
           


 街道は真っ直ぐに入間川を渡しで越えたようだが、我々は左に入り、↓水天宮の石碑の先
で昭代橋を渡る。
      

 狭山市の市街地となり、市民会館の先から右折、裏手から天満天神社へ。
 
 「新編武蔵風土記稿」にも記された社。表に抜けて、西側の交差点を左折して徳林寺へ。

 徳林寺は、新田義貞が入間川合戦の際の本陣だったところ。境内にはお願い地蔵という
のがあり、こぶし大くらいの石がたくさん奉納されている。
     

 武蔵野三十三観音霊場の第十七番札所でもある。

 西武新宿線の狭山市駅前に出て南側の踏切を渡る。踏切の手前に200年前の庚申塔が
立っていた。

 この先は所沢市内まで、鎌倉街道は交通量の多い県道50号線になっている。車を避け
て東側を平行する住宅地の道を進む。

 狭山工業高校の先にある富士見公民館に13時に着き、遊歩道のある東側の林で昼食に
する。今日も、Ktさんが美味しいコーヒーを沸かしてくれた。


 ここで、思いがけない出会いが起きた。この歩きに参加されているIkさんのお姉さん、
Skさんと、Kfさんが30数年前、同じ職場の同じ部にいた同期生と分かり、皆ビックリ!
世の中は広いようで狭いとは本当にこのこと。今回の歩きでの大きなトピックとなった。
 
 ==所沢を通過して東村山へ==

 13時45分に出発。県道に出て500m足らずの不老川(としとらずがわ)の北側に、
「七曲井(ななまがりのい)」があった。

 建仁2(1206)年が起源といわれ、平安中期に武蔵国府により掘られたと推定され
る井戸。周囲70m余り、直径18~26mのすり鉢状で、10m下に井桁があり、周囲
は金網で囲まれている。

 川の南側には、県指定文化財の「入曽(いりそ)の獅子舞」が奉納される入間野神社。


 神社前には、「鎌倉街道(上道)」の大きな案内板が立っていた。

 再び車を避けて狭山市水野では西側の住宅地を、所沢市北岩岡では東側に平行する畑の
中の細道を進む。畑にはサトイモやカボチャ、トマト、大豆などが多く、畑の境に茶の木
が植えてある。排気ガスや騒音から解放されてホッとする。

 霜よけの換気ファンの並ぶ広い茶畑を過ぎると住宅地になり、新所沢駅北側の踏切に出
た。商店街に入り、新所沢団地の中心にある緑町中央公園で休憩。もう一度、Ktさんのコ
ーヒーをいただく。

 峰の坂交差点を南に下り、東川(あずまかわ)のそばにある新光寺に寄る。竜宮門のよ
うな入口や奥の六角堂が珍しい。


 建久4(1193)年に源頼朝が那須野へ狩りに行く途中立ち寄り寄進した寺で、元弘
3(1333)年の鎌倉攻めの際、新田義貞が戦勝祈願をしている。武蔵野三十三観音第
十番札所でもある。

 南小の先で西武池袋線下を抜けて、住宅地の中を少し回り道して長久寺の前に出る。寺
の創建は戦国時代といわれ、開山した玖阿上人は、この先にある徳蔵寺の「元弘の板碑」
を造った人とか。庫裡前のミッキーマウス


 境内に豊川稲荷があり、地形図上では神社だけが記されていた。

 少し先、柳瀬川に架かるのが勢揃橋(せいぞろいばし)。新田義貞の軍勢が勢揃いして
鎌倉を目指したところのようだが説明板も無く、言われなければ通り過ぎてしまう平凡な
橋だ。ここで、もう一度記念撮影を。


 南側の林は、八国山(はちこくやま)と呼ぶ狭山丘陵の東端。薄暗くなってきた林に入
り、遊歩道を上がると将軍塚があった。
     
 新田義貞が鎌倉攻めの時に、白旗を立てたところだという。「元弘青石塔婆所在碑」も
立っていた。

 八国山は、かつて上野・下野・常陸・安房・相模・駿河・信濃・甲斐の8つの国を望む
ことができたことから名付けられたが、現在は樹林に囲まれていて展望は得られない。


 この稜線が都県境で南側は東京都東村山市。稜線を少し進み、濡れた笹に覆われた遊歩
道をもぐるようにして南に下る。

 前川の東に回ると徳蔵寺がある。新田義貞が鎌倉攻めの陣を置いたと伝わる場所。文化
年間(1804~)に八国山の廃寺に放置されていた元弘の板碑を保存した。板碑は現在、
国宝となり立派な板碑保存館に収蔵されている。

 西武新宿線西側の住宅地や商店街を進んで、18時17分に今回の終着、東村山駅に着
いた。

(参加 9人、天気 曇、距離 20㎞、地図(1/2.5万) 飯能、川越南部、所沢、
 歩行地 日高市、狭山市、所沢市、東村山市)



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鎌倉街道上道を歩く④ =武蔵嵐山から武蔵高萩まで=(埼玉)

2023-09-13 22:10:17 | 鎌倉街道上道を歩く
 第4回 2002年5月18日(土) 〈武蔵嵐山から武蔵高萩まで〉

 鎌倉街道上道も4回目となり、埼玉県の中央部にかかった。明け方の激しい雨で午前中
は傘が必要かと思ったが、東武東上線 武蔵嵐山駅に下りたらほぼ止んでいた。

 橋上駅に代わった新しい駅舎の天井に、かわいいツバメの子が見える。一応雨具を付け
て9時50分に、7人がスタートした。

 ==笛吹峠を越えて鳩山町へ==

 駅前を南進して国道254号線に出る。200mほどで国道に分かれて右折、国道バイ
パスを越えて都幾川の学校橋に下る。川原にはコサギやゴイサギが見えた。雨に濡れた新
緑の山々がみずみずしい。

 大蔵集落に入り、まず向徳寺に寄る。鎌倉時代に創建されたと伝えられる古寺。

  宝治3(1249)年に造られた銅造阿弥陀如来像及び両脇侍立像は、国の重要文化財。
以前は墓地にあった正応6(1293)年銘を初めとする板碑群は、山門横の建物に保存
されていた。

 かやぶきの家の先で十字路を西に進むと、源為義の次男、義賢の館であった大蔵館跡。
義賢は当地で武威を高めたが、久寿2(1155)年8月、甥の悪源太義平に討たれた。

 当時2歳の次子、駒王丸は畠山重忠に助けられて斎藤別当実盛により木曽に預けられ、
のち木曽義仲となったという。現在は大蔵神社↓があり、周辺に土塁、空堀が残っている。


     大倉神社の南側斜面に咲く黄色いツツジ
     

 不動坂の林にはエゴノキの白い花が満開。この先にもたくさんのエゴノキの花が咲いて
いた。左手林の中にある日吉神社に寄り、将軍沢集落を抜ける。日吉神社入り口付近にあ
った石碑
       


 広葉樹の新緑溢れる坂道を上って行くと両側は桜並木となり、笛吹峠に出た。


 「正平7(1352)年2月、新田義貞の三男義吉などが武蔵野の小手指ヶ原(こてさ
しがはら)古戦場で足利尊氏と戦い、最終的に決着がついたのがこの峠。尊氏は以後、関
東を完全に制圧した」などの説明板が立っている。


 峠を横切る東西の道は、板東十番札所岩殿観音と九番慈光寺を結ぶ巡礼街道である。大
蔵館跡といい笛吹峠といい、この辺りまさに鎌倉街道の中枢とも言えるところ。



 峠を下りきった左側の山の斜面に、「新編武蔵風土記稿」にもその名の由来が記されて
いるという、羽黒堂と呼ぶ小さい地蔵堂がある。
        

 ダイサギが悠々と飛ぶ大橋川沿いに出て、大橋集落に入る。
     
 橋の北側、駐輪場のそばに安永6(1777)年↑と↓文化3(1807)年刻の、苔
むした青面金剛や馬頭尊が並んでいた。
                

 「三差路近くの大橋家裏に板碑があった」と案内書(注)にある。車で帰ってきた人に
聞くと、以前は林だったが最近整地したとか。4基の板碑がきれいに揃えてあった。


 鳩川を越え、木造校舎時代は校舎の下を鎌倉街道の掘割が残っていたという、鳩山中の
先を入る。中央公民館に13時15分に着き、昼食に。

 雨の心配も無くなったので、雨具をしまって14時過ぎに出る。

 (注)「鎌倉街道夢紀行 上道コース」さきたま出版界発行

 ==毛呂山の街道跡から日高へ==

 県道を隔てて保健センターの東側は、「街道杉」と呼ばれた一本杉があったところ。近
年植え替えたという杉の木↓を確認し県道に戻る。
    

 鳩山町赤沼辺りに並ぶ石塔
 

 今宿の複雑な交差点を抜けて毛呂山町(もろやままち)に入る。越辺川(おっぺがわ)
沿いに出ると展望が開け、奥武蔵の山並みがよく見えてきた。

 ブック牧場という馬の牧場や、田んぼの中に出来たリプラ川角と呼ぶクリーンセンター
の横を抜け、以前の例会で寄った大類グランドで休憩。Koさんがコーヒーを入れてくれた。

 グランドの南の林から毛呂山町歴史民俗資料館を左に入る辺りは、昔ながらの土の道。
主要地方道39号との交差点に、「鎌倉街道(上道)」の大きな説明板がある。


 交差点を越えた左手に、街道筋には似つかわしくない黄と緑色で塗られた新しい家が見
える。ちょうど車で帰ってきた奥さんに声をかけられた。染色関係?の仕事をされている
Fuさんのアトリエ。東側の新しい二階家は、28匹の猫の住まいだという。

 拝見すると、野良猫だったというが行儀のよい猫が、四つの部屋にたくさんいる。こん
な立派な家に住まわせてもらえる猫君は幸せ。Fuさんから、「安曇野に別荘があるので、
ぜひお使い下さい」とも言われた。



 寄り道で思わぬ時間が過ぎ、16時半となる。この先も500m余り街道らしい雰囲気
の残る土の道が続いている。

 市場集落の市場神社には、背の高いイチョウや太いケヤキが立つ。集落を抜け、再び田
園地帯出ると高麗川(こまがわ)が迫り、土手で雄のキジが悠々と草を食べていた。

 高麗川にかかる森戸橋は、1車線分しか橋幅がない。こちらと向こうに10数台の車が
溜まり交互通行。我々もその間をすり抜けて渡る。

 橋の先で、車を避けて田んぼの中を貫く東側の道へ。1本の木の下に地蔵さんが立って
いる。外秩父の山並みの辺りが晴れてきた。


 きれいな流れを見せる小川を過ぎ、東武越生(おごせ)線 西大家(にしおおや)駅に
近い秋葉神社にて最後の休憩を。



 駅の南側に流れる掘割は、鎌倉街道の跡だとの説明板があったが、最近はコンクリート
板で整備され、面影が失われている。

 町屋の住宅地を抜けた広々とした畑作地帯では、雌雄のキジが歩いていた。駒寺野新田
を過ぎ、東西2㎞、南北1.5㎞ほどを整然と区画した道路が走る旭が丘の畑作地帯を抜
けた。

 薄暗くなった18時41分、今回のゴールとなるJR川越線 武蔵高萩駅に着いた。

(参加 7人、天気 曇後晴、距離 20㎞、地図(1/2.5万) 武蔵小川、越生、
 飯能、歩行地 嵐山町、鳩山町、毛呂山町、坂戸市、鶴ヶ島市、日高市)



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鎌倉街道上道を歩く③ =用土から武蔵嵐山まで=(埼玉)

2023-09-09 22:18:29 | 鎌倉街道上道を歩く
 第3回 2002年4月13日(土) 〈用土から武蔵嵐山まで〉

 スタートのJR八高(はちこう)線 用土〈ようど〉駅に、10時01分着で下りたのは
8人。JR埼京線が遅れて、4人は次の列車との携帯での連絡がある。待ち合わせ場所を
決めて10時33分に出発した。


 ==花園大橋で合流、今市へ==

 駅前から県道に出て左折すると諏訪神社がある。本殿は新しいが、創建は応和年間(961
~4)という古社。江戸時代から続く獅子舞は、町の無形文化財という。

 踏切の少し先に、文政12(1830)年と記された馬頭観音など、3基の古い石塔が
並んでいた。


     
 その先の十字路には、「川越街道脇往還」と記された↑2mくらいある石の道標が立ち、
そばに文化元(1804)年銘の大黒天や庚申宝塔などが並んでいる。そばの畑のコバン
ソウが、もうすぐ咲きそう。


 住宅の庭に咲き競うハナミズキ、ヤマブキ、ボタン、桃などを見ながら花園町に入る。
この辺りは「武蔵野」という字名(あざな)の通り、麦畑でヒバリがさえずり、二つ煙出
しをつけた大きな農家などの見える、のどかな農村風景である。

 中郷集落の中心にある常光寺に寄る。開いていた本堂の隅に、2mくらいの大だるまが
あった。本堂横の自然石の石塔に、象形文字のような珍しい字が刻まれている。古い馬頭
観音や庚申塔も多い。
     

 南西に接する八幡神社前に「鎌倉街道上道道しるべ」の案内板が立つ。


 主要地方道62号に出て、県道と分かれて真っ直ぐ進む。桑畑のあぜ道の先で、秩父鉄
道の線路を越えて工業団地を抜ける。国道140号線とそのバイパスを越えると、荒川を
見下ろすところに、「お茶々が井戸」というのがあった。

 鎌倉時代、旅人が休息する茶店があり、於茶々という美人の娘がお茶の接待をしたとこ
ろだという。いまは無粋な四角いコンクリート造りの井戸だが、どんな干天でも枯渇した
ことはないとのことで、濁ってはいたが確かに水はあった。

 お茶々が井戸の東側の民家


 荒川左岸の河川段丘上の道を東に向きを変えて進む。川に近い道に入ったが行き止まり。
細い流れを渡って上の道に出たりして時間を食い、後着の4人を花園大橋で1時間以上も
待たせてしまった。11時38分に無事合流する。

 橋を渡り、「あらかわ紀行」で歩いた荒川右岸の道へ。ナノハナの咲く気持ち良い道を
500mほど進むと、1947年まであったという赤浜の渡し跡。目印になった、獅子岩
とも川越岩とも呼ばれる大きな岩がある。

           中央の岩が獅子岩↑



 カワラヒワがたくさん飛び、新吉野川を渡った坂道の三差路には、「鎌倉街道山王の渡
し」の道標が立つ↓。この北側にも山王の渡しというのがあったようだ。
     


 坂道を南に上る。左手の竹やぶに鎌倉街道跡が残っているはずだが見当たらない。その
まま進み、13時25分に赤浜の普光寺に着き、遅くなった昼食とする。




 寺の山門にはだるまが吊してある。庫裡の駕籠寄玄関は天保14(1843)年のもの
で、柱上部に見事な狛犬の彫刻が施されている。


 庭の隅には屋根付きの板碑群が並ぶ。中央の五輪塔は大同4(809)年と読め、文化
2(1265)年の板碑もある。


     
 本堂裏の杉林に回り、鎌倉街道の名残という掘割を確認して、14時20分に寺を出た。

     寺の東側に立つ史跡の標柱
     

 ==のどかな里道を市野川沿いに==

 中世には鎌倉街道の宿場として「塚田千軒」と呼ばれるほど栄えたという、塚田の三島
神社の東で畠山からの鎌倉街道と合し、南に向かう。

 神社には、南北朝末期から室町初期に当地の塚田鋳物師が鋳造したと考えられる鰐口が、
御神宝として残っているという。

 今市(いまいち)集落の西端にある十字路に、寛政2(1790)年11月と刻まれた
大きな百万遍供養塔や、二十一夜塔、札所供養塔などが並んでいた。


 次の十字路南の畑の中には、宝永5(1708)年と享保15(1730)年の庚申塔
がある。小さいがきれいに磨かれていて、とても江戸時代のものとは見えない。


 左折して東南に進む街道からは、市野川(いちのかわ)の向こうに淡い新緑の里山が広
がり、のどかにニワトリが鳴く。ガードレールが無ければ鎌倉時代そのままとも思われる
光景だ。

 葉桜となった桜並木の先に、杉やカシで覆われた今市集落の鎮守、児泉(こいずみ)神
社があったのでひと休みする。境内南側の杉林にも、鎌倉街道跡と思われる掘り割りが残
っていた。

 市野川沿いに進んでクリーンセンターの先で、私が小中学校時代を過ごした小川町に入
る。鎌倉時代に高見城があった四津山(よつやま)が、名のように四つの山並みを見せて
いる。


 能増(のうます)の十字路を左折して、市野川のそばにある八宮(やみや)神社に入る。
明日の春祭りのため、集落の人が4、5人で境内の清掃中。
     

 私は、この神社の社務所に中三の時、両親や弟はその後も15年住んでいた。35年ぶ
りに訪ねたのだが、社務所も開けてあったので見ることが出来て、大変懐かしかった。


 ここで今日の記念撮影を。



 十字路に戻り、少し西側の道を入って鎌倉街道の標柱に従い南に進む。草に覆われた土
の道は、チゴユリの咲くヒノキの林を抜けて、田んぼに出る。


 小さい流れを回り道して再び林の中に入ると、諏訪神社奉祀遺跡という小さな祠が残っ
ていた。この辺り、昔ながらの街道の雰囲気の残るところだ。
     

 八和田(やわた)神社への道標に従い、新屋敷(あらやしき)の丘陵を下って行くと古
い馬頭観音があった。
     

 奈良梨の十字路に出て、長い境内を北に戻り八和田神社で最後の休憩。本殿の東側に、
樹高30m、樹齢800年という見事な杉が立っている。
     
 子供の頃、屋台が並びささら獅子が舞う八和田神社の秋祭りは楽しみだったが、この大
杉の記憶はない。

 奈良梨の十字路から県道を進み、新川(しんかわ)の高橋(たかばし)を渡る。すぐ先、
下横田の集落裏手を流れる小川の土手に、4基の小さい馬頭観音が欠けた1基とともに並
んでいた。


     
 県道沿いの満開の八重桜の下には、もっと大きい馬頭観音もある。昔は、農耕の主役と
して馬が大切にされていたことがうかがえる。

 鎌倉街道はこの先、県道を嵐山町(らんざんまち)まで続くのだが、我々は車を避けて
市野川の東に出て、山すその越畑(おつぱた)集落を結ぶ道を進む。

 杉山城跡に近づいた辺りで、西の山並みにオレンジ色の夕日が落ちて一瞬のうちに沈ん
だ。静かな山里の幻想的なひとときである。

 陽が落ちたのにそばの林でウグイスが盛んに鳴く。先を急ぎ、すっかり暗くなった嵐山
町むさし台の住宅街に入り、18時49分に東武東上線武蔵嵐山駅に着いた。

(参加 12人、天気 晴、距離 22㎞、地図〈1/2.5万〉 寄居、三ヶ尻、武蔵
 小川、歩行地 寄居町、花園町、小川町、嵐山町)



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鎌倉街道上道を歩く② =群馬藤岡から用土まで=(群馬・埼玉)

2023-09-04 21:15:40 | 鎌倉街道上道を歩く
 第2回 2002年3月30日(土) 〈群馬藤岡から用土まで〉

 前日の大雨が去り、好天となったJR八高線の群馬藤岡駅には、前回より多い13人集
まる。




 私が用意した地形図と、Kaさんが、読みやすいように8時間余りかけて文字の上下を入
れ替えたという「鎌倉街道夢紀行」掲載の地図を持って、9時50分に駅を出た。

 =神流川を越えて埼玉県へ=

 まず、八高線の西に平行する道と南に向かう。大きな鬼瓦のある寺があった。南側から
回ると大本堂が新しい成道寺。鬼瓦があるのは旧本堂らしい。

 鬼瓦は屋根の上下だけでなく中間にもある。庭には大きな布袋さんが座っていた。

     

 寛政9(1797)年銘の道祖神の横から踏切の東に出る。梨畑ではもう花が咲きだし
ていた。国道254号線に合する手前の寿楽寺にも、大きな鬼瓦が載っている。


 神流川(かんながわ)の藤武橋を渡る。北西の風が強くて帽子が飛ばされそう。男体山
や赤城山、浅間山などの展望が良い。河原の枯れ木立の間にはナノハナがたくさん咲く。


 橋の途中で埼玉県に入る。県境は神川町だが、200mほどでいったん上里町を通過し、
橋を渡り終えて堤防沿いに南へ、元肥土集落に入る。

    
 庚申塔や道祖神の並ぶ↑カーブの右手に見えた広野神社で最初の休憩。大きなケヤキが
2本あり、若桜が満開。

 小さい祠(ほこら)に、「肥土の石棒」と呼ばれる長さ156㎝の石棒が祀ってあった。
近くから出土したもので、縄文時代のものと考えられているようだ。

 中肥土の火の見の先で鎌倉街道に入り、神川町役場に寄る。


 八高線に乗り遅れた人がいないか、丹荘駅へ確認に行ったがいなかった。

 =桜が満開の雉岡城址=

 昨年6月の例会でも歩いたポピー畑の横を進んで線路の北に出る。


 八高線をまたぐ道路下にある女堀川の雀の宮橋↑を渡ると児玉町。

 ボーリング場の角から国道254号線に入り、町の中心街を進んで12時55分、雉岡
(きじおか)城跡である城山公園に着いた。
     
 雉岡城は八幡山城とも呼ばれ、中世、上杉顕定の居城として築城、その後、鉢形城主・
北条氏邦の持城となり、小田原北条氏の滅亡とともに落城、慶長6(1601)年に廃城
になった。
     

 園内を覆うようにソメイヨシノが満開。露店も出て家族連れなどで賑やか。昨年の例会
では葉が茂って薄暗い感じだったが、今日は花の下で明るい。



 持ち寄りのおかずや果物など、いろいろいただきながら昼食と花見を楽しんだ。




 =児玉町から小山川へ=

 13時45分に出発。消防署の横を入り、昨年の例会でも寄った実相寺へ。拝観は出来
ないが、本尊の阿弥陀三尊は寄せ木造・玉顔で鎌倉中期の作。

     
          本堂前のシダレザクラが満開である。
          

     
     国道のT字路を右折すると八幡神社。


 平安末期、源頼義・義家により創建と伝えられている古社。享保7(1722)年再建
という社殿の彫刻が緻密で見事。


 珍しい青銅造りの鳥居とともに、県の有形文化財である。広い境内には、筆塚や高札場、
講の参詣記念碑が幾つも並ぶ石塚などがあり、大きなケヤキも目についた。
     

 神社の裏手、東北にある玉連寺は、文永8(1271)年に日蓮聖人が佐渡流罪の折、
児玉六右衛門時国邸に1泊した地。時国は日蓮入没後に邸宅を寺院にして、東光山玉連寺
と名付けたという。


 住職が、本堂を開けて見せて下さった。ソメイヨシノが咲く墓地には、高さ2.4mで
梵字が深く刻まれた鎌倉後期の板碑があった。
     

 寺の東側に出て鎌倉街道に戻る。法養寺の先で国道を越え、小山川の右岸を進む。川の
両岸は、樹齢10数年と思われる若いソメイヨシノの並木が続き、花が見ごろ。左岸は深
谷市内まで9㎞余りのサイクリング道路になっている。

 堤防を500m余りで「陣街道」と記された道に出て、一里塚榎の碑のところで国道254
号線に入る。一里塚には、樹齢300年を超す一本榎があったが10年ほど前に枯れ、い
まは切り株だけが残っていた。

 =摩訶池から猪俣党の里へ=

 15時を過ぎて疲れが出てきた。十字路にあり、昨年6月例会でも眺めた「鎌倉街道
(上道)のみちすじ」という大きな案内板をもう一度見て、来た道とこれからの道筋を確
認する。


 東側の摩訶(まか)池のそばにある東屋で休憩。昨年は気付かなかったが、池に接する
ゴルフ練習場の西側に、ふた子塚古墳と呼ぶ前方後円墳があった。

 木が1本立ち、枯れ草に覆われた古墳に上がってみた。
     

 昨年の例会でTaさんから読み方のクイズが出た、南側の瓺𦼆(みか)神社に参拝。延
喜式神明帳にも記された古社で、現在の社殿は宝暦13(1763)年の再建。
     
 「みか」とは、酒造りに使う大きなかめのこと。神社には土師器の「みか」が4個保存
されているという。社殿の龍の彫刻が見事。境内のサクラも満開である。

 鎌倉街道は、国道の西側をつかず離れずに進み、広木、白石の集落を抜ける。広木には、
万葉集にも歌われた布を洗い晒す井戸、曝井(さらしい)遺跡というのがあるが、いまは
水が無くて荒れ放題のようなので、寄らずに進む。

 白石の大仏集落の十字路に、延享2(1745)年銘の六道能化地蔵尊があった。この
辺りの家並みには、当時の雰囲気が感じられる。集落の東には大きな馬頭尊と庚申塔が立
っていた。東側には、やわらかな新緑の広がる遺跡の森公園の林が見える。


 天神川の手前で、鎌倉街道は国道254号線に合する。橋のそばに地酒、奈良漬けの天
仁という酒造店があった。川の東側の猪俣集落は、武蔵七党の一つ猪俣党の本拠地。平家
物語にも登場する猪俣小平六の館跡や墓もあるが、1㎞余り回り道となるので通過する。

 野中集落の十字路で国道は右折、鎌倉街道は直進なのでそのまま進み、すぐ先の普門寺
で最後の休憩。境内の20本近いソメイヨシノが満開。本堂西側には、古い石仏が50体
近く並んでいた。


 さらに1㎞余り進んで17時30分、無人のJR八高線用土駅に着いた。少し待ってく
れたが全員揃わず、タッチの差で上り八高線は出た。


 15分ほど離れた酒屋まで7人で行き、買ってきてくれた缶ビールなどで乾杯。18時
26分発の高麗川行きに乗る。

(参加 13人、天気 晴、距離 20㎞、地図(1/2.5万) 藤岡、本庄、寄居、
 歩行地 藤岡市、神川町、上里町、児玉町、美里町、寄居町)




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鎌倉街道上道を歩く① =高崎から群馬藤岡へ=(群馬)

2023-09-01 20:24:48 | 鎌倉街道上道を歩く
 残暑が治まらず、新しいレポートづくりのための歩きが出来ないので、21年前の
2002年2月から11月にかけて歩いた、鎌倉街道上道(かみつみち)のレポートを
9回に分けて報告します。

 当時、私はまだデジカメでなくてフィルムカメラで撮り、プリントがやや色あせていま
すがご了承下さい。

========================================

 第1回 2002年2月16日(土) 〈高崎から群馬藤岡まで〉

 カントリーウオークグループの2月例会にて、「この指止まれ」で「鎌倉街道上道(か
みつみち)を高崎から鎌倉の鶴岡八幡宮まで歩きませんか」と呼びかけ、第1回をさっそ
くその週末の今日実施することにした。

 ちなみに鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網のことで、鎌
倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿のもとに馳せ参じた道。

 特によく知られるのが、上道(かみつみち、かみのみち)・中道(なかつみち、なかの
みち)・下道(しもつみち、しものみち)と呼ばれる関東地方を中心に広がる主要な幹線
道3本。さらに支線も加わり、いまも「鎌倉街道」の名を残すところも多い。

 このうち、鎌倉街道上道として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至
る古道で、鎌倉から化粧坂、瀬谷、本町田、小野路、府中、所沢、入間、笛吹峠、奈良梨
(小川町)、山名を経て高崎までのルートのよう。今回は、このコースを北から南へ、高
崎から鎌倉まで群馬、埼玉、東京、神奈川の1都3県をはせ参じようという企画である。

 なお、参考にしたのは、「鎌倉街道夢紀行 上道コース」(テレビ埼玉編、さきたま出
版会発行)である。
     

   本書に記載の鎌倉街道の全体図
   
      この図の左上、高崎から中央部下(南へ)鎌倉へのルートが上道

 =高崎駅から市内の旧跡へ=

 3人くらいは参加するかなと八高線経由で高崎駅へ行ったら、11人も集まった。

 駅西口をバックに記念撮影し、10時15分「いざ鎌倉!」へと出立した。


 穏やかな快晴でウオーク日和。まず西に向かい、鎌倉時代初期に和田正信が築いたとい
う和田城、のち井伊氏が大きく改修した高崎城跡へ。

 現在残るのは三の丸外囲の土居と堀、そして乾櫓(いぬいやぐら)と東門で、一帯は公
園になっている。


 公園と高層建築の市役所との間を南へ、噴水のある公園を抜けて光明寺横に出る。


 古墳上に護摩堂があったので、ここで旅の安全を祈願する。


 聖石橋に通じる車道を横切り小万坂を下る。国道17号線を横断、城南大橋下から烏川
左岸に出る。西側の展望が開け、真っ白な浅間山が見えてきた。

 少し先で左折、上信電鉄の踏切を越えると琴平神社。等身大の古い烏天狗が二つ立つ。
     
 本殿は小山の上。大ケヤキや大きなムクノキがある。北側の荘厳寺との間の細道が鎌倉
街道だと、Kuさんが寺の人に聞いてきた。

 細い路地を上越新幹線の東へ。和田多中町の三差路に双代道祖神があるのを、Kaさん
が見つけた。男女神が体を触れていないのは珍しく、県下で唯一のようだ。
     

 佐野窪町の三差路近くに、佐野の船橋歌碑があった。

 「かみつけの 佐野の船はし とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」と万葉集
東歌の一首が刻まれている。碑文は文政10(1827)年の記。

 『橋には烏川を挟んだ二つの村の男女の伝説があり、謡曲「船橋」の素材になった。歌
碑は二人の怨霊を慰めるために建てられた』と記されていた。

 その先で案内に従い右折、新幹線線路際の常世(つねよ)神社に寄る。


     
 室町時代の謡曲「鉢の木」の舞台になったと言われるところ。小さな社の前に、佐野源
左衛門常世が鉢の木を切っている絵がある。

 一昨年秋の特別例会にて、今日参加されたIeさんの生家近くの佐野市内で、源左衛門
の館跡に寄っており、不思議な縁を感じた。

 200m余り先、新幹線西側の杉林の森に定家神社があった。創建は江戸時代中期で、
祭神は鎌倉時代の和歌の名人・藤原定家。本殿内には定家の
               「来ぬ人の 待つほの潮の夕なぎの…」の掲額がある。

 定家は、家督を子の為家に譲った後、この佐野の松原に庵を結んだという。境内には古
墳も2基あった。


 ここで正午になったが、昼食はおあずけ。東に浅間山古墳を見ながら佐野町を抜け、新
幹線の西に出て交通量の多い一本松橋を渡る。 橋からの浅間山や妙義山方面


 橋の西側が高崎商科短大。トイレ借用の了解を得て、烏川右岸土手にザックを下ろす。

 静かな川面の向こうに浅間、妙義、榛名などの山並みを眺めながら昼食にした。


 =山名八幡宮から古墳群へ=

 40分の昼食を終えて13時15分に出発する。車道を700mほど進み上信電鉄山名
(やまな)駅の横に入り、線路下をくぐって西側の山名八幡宮へ。

 太いケヤキが2本。石段上の本殿は、平成3(1991)年に塗り直したという極彩色
の「神を守る動物」の彫刻で彩られている。

 明和6(1769)年に上州田沢村の関口文治郎の刻。本殿は裏側からも参拝で来る珍
しい造り。本殿裏の丘陵に続く道が鎌倉街道だったからだという。


 山すそを南東に進み、展望のよい田園地帯に出る。上信電鉄の南側に高さ数mの古墳が
5つ並ぶ。そばの田んぼでは、放射状に発掘した遺跡を2人で調査していた。


 回り道して鏑川(かぶらがわ)橋を渡り、藤岡市に入る。上落合集落の南に、空堀に囲
まれた国史跡の七興山古墳があった。

 地形を生かした三段構成の前方後円墳。全長148m、後円部径87m、前方部幅106m
高さ16mという立派なもの。
     
 東側から、桜の古木に覆われた墳丘に上がって休憩。高崎の町並や、浅間、赤城から日
光連山にかけての展望が良い。



 花の咲く頃もう一度来てみたいところだ。南東からの↓七興山古墳


 北原集落の東には皇子塚古墳が見え、集落の南、未舗装の細い鎌倉街道のすぐ東側には、
大きな石碑の立つ稲荷山古墳↓があった。この一帯、古墳の多いところだ。


 =吉良氏陣屋跡から神流川へ=

 15時を過ぎたが、予定の道のりは長い。ひと休みしようと下郷の龍泉寺に寄る。

 説明板を読むと、「吉良上野介の父、義冬(よしふゆ)(1606~68)が創建した
と伝えられる寺。近くに吉良氏の陣屋が置かれていて、忠臣蔵では悪名高いが、ここでは
領民から慕われた名君だった」という。

 立派なシダレザクラがあ、花時は見事であろうと思われた。

 下郷橋を渡り、鮎川の左岸を1㎞余り進む。陽が傾き西側の山並みが逆光に映える。鮎
川集落を抜け、鎌倉街道は田んぼの中を南東へ。南町の十字路には、「右鬼石道、左藤岡」
と彫られた古い道標が立つ。

 庚申山の南側を緩い上り坂が続き、庚申塔や道祖神、二十二夜塔が並ぶ辺りから下り道
に。鎌倉街道は藤岡モータースクールの先から神流川に向かってさらに真っ直ぐ伸びてい
たようだが、橋がないので車道を別所集落へ下る。


 17時近くなり冷えてきた。集落東の田の畦(あぜ)で最後の休憩。打合せをして、地
形図上、八高線の鉄橋北にある「せき」マークまで行き、渡れないようなら群馬藤岡をゴ
ールとする。

 下郷集落の東に出た。土師神社の北に本郷埴輪窯跡があるようだが寄らず、手前から八
高線を越え、線路沿いに回って神流川の左岸堤防へ。

 河原に下る道を入り、せきの見えるところに出た。残念ながらせきは大水で流され、一
部しか残っていなかった。

 川の横断は諦め、うす暗くなった根岸集落から八高線の西に出て、並行する車道を藤岡
の町並みに入る。すっかり暗くなった18時03分、群馬藤岡駅に着いた。

(参加 12人、天気 快晴後晴、距離 21㎞、地図(1/2.5万) 高崎、藤岡、
 歩行地 高崎市、藤岡市)




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