あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

ポーランドとバルト3国の旅⑤ リガとトゥライダ城観光後 タリンへ(その1)

2015-08-02 21:59:27 | バルト3国とポーランド旅行
 第5日 7月15日(水) 晴一時曇

 == ラトビアのリガとトゥライダ城観光後エストニアのタリンへ(その1) ==

 リトアニアの首都リガのホテルで7時に起床、7時30分から朝食をして、バスでホテ
ルを9時10分に出発した。

 今日の行程は、午前中に世界遺産リガ歴史地区の観光後、東北東約52㎞のスィグルダ
(Sigulda)郊外にあるトゥライダ(Turaidas)城を見て、約300㎞走り、最後の国エス
トニアの北部にある首都タリン(Tallinn)に入る予定である。

      

 今日午前中のガイド、マドリーナさんの話などによると、ラトビアはチョウのような形
をしていて、リガ湾とバルト海に臨み、4つの地域で構成され、農耕馬など馬の飼育が盛
んとのこと。

 リガは、11世紀にドイツ、ブレーメンのアルベルトが来て要塞を築いたのが始まりと
か。13世紀末にはハンザ同盟に加盟して急速に発展し、旧市街の建物はこの頃に建てら
れたものが多く、現在の人口は約70万人という。

 バスはダウガヴァ川の斜張橋、ヴァンシュ橋を渡って旧市街の東側に回り、10分ほど
のところで下車した。


 ブリーヴィーバス(Brivibas )大通りに立つ自由記念碑は、1935年にラトビアの最
初の独立を記念して建てられた。ソ連時代にも独立への希望を支え続け、ラトビア人には
とても大切な記念碑で、高さは51mという。

 自由記念碑から旧市街を北西に進むと、ツタに覆われた火薬塔がある。

 14世紀に建てられ1650年に再建されたもので、塔の高さは25.5mあり、火薬
の保管に使われたとか。内部はラトビア戦争博物館として公開されているという。


 火薬塔から北西に延びるトゥルァクシュニ(Troksnu)通りを進む。通りには2階建て
の長い建物が続き、その先の城壁のそばに古い大砲が残されていた。




 さらに進むと「スウェーデン門」と呼ぶ門がある。リガに残るただひとつの城門で、
1698年に城壁を利用して住宅が作られたときに付加されたものとか。
      
 当時、向かい側の兵舎に住んでいたスウェーデン兵がよく利用したのでこの名がつき、
その頃禁じられていたリガの娘とスウェーデン兵との恋物語があるという。

 近くには倉庫として使われた建物も残り、倉庫に荷を引き上げるためのクレーンのよう
な仕掛けが残っていた。
      

      
 その先、細い通りの向こうに聖ヤコブ教会の尖塔が見えてきた。1225年の記録にあ
る古い教会で、現在の塔は15世紀に再建され、塔の高さは80mあるという。

      
 塔の中ほどに見える突起には鐘が吊されている。「哀れな罪人の鐘」と呼ばれ、市庁舎
広場で罪人の処刑時には、この鐘を鳴らして市民に知らせたという。      

 近くの通りの建物の壁面に、変わった彫刻があった。「ユーゲントシュティール
(Jugenda Stila)建築群」と呼ぶ建物のひとつ、ユーゲントシュティールとはドイツ語
で、フランス・ベルギーのアールヌーボーのこと。19世紀後半にヨーロッパ各地を席巻
した新芸術様式で、その特徴は過度に装飾的なデザインらしい。
         
 リガではちょうど大建築ブームだった頃で、10数年の間に市内中心部の建築の4割は、
この様式で建てられたという。


 さらに進んで、昨日夕食のレストランに行くとき通った「猫の家」のところに出た。か
つてこの建物には裕福なラトビア商人が住み、大ギルドに加わりたかったが、ドイツ人が
支配的だったギルドの加入を拒否された。

 怒った商人は大ギルド会館に尻を向けた猫を屋根に取り付けたのだとか。その後、大ギ
ルド会館はコンサートホールに変わり、猫は音楽に誘われて向きを変えたという。
      

 この建物の入口にも、ユーゲントシュティールの装飾が施されていた。
  

 猫の家から西進して、ドゥァマ(Doma)広場に出る。レンガ造りのリガ大聖堂は、現
存するバルト3国最古の建築のひとつで、1211年に建設を開始し、その後何度も増改
築されて18世紀後半に現在のような姿になったという。高さ90mの塔は修復中だった。


 若い女性ガイド、マドリーナさんの足取りが速くなり、大聖堂前を西進してダウガヴァ
川沿いに出た。10時発1時間のダウガヴァ川クルーズに間に合わせるためのようだ。
        


 近くの遊覧船乗り場に着きすぐに乗船した。2階のデッキは風を受けて涼しいので、多
くの人が備え付けのガウンを着用する。


 船はダウガヴァ川を上流に向かう。水量は豊富だが流れは静かで、どの方向に流れてい
るのか一見分からないくらい。対岸の変わった大きな建物は国立図書館だという。





 5連のアーチ橋になっている鉄道橋をくぐると市街地から次第に離れ、両岸には緑が増
える。




 昨日市街に入るときに渡った次の橋の先に、ラジオ テレビ塔が近づいてきた。
   
  ラジオ テレビ塔はダウガヴァ川の中州にあり、高さは368.5m、ソ連時代の
1985年に建設されたもの。ヨーロッパで3番目の高さで、EU加盟国中では最も高い
建築物とか。高さ97mの展望台からは、旧市街やバルト海などを一望できるという。


 右岸沿いに南下した船は30分経過して折り返し、帰路は左岸沿いに進む。再び市街地
が近づき、リガ駅裏にあるという科学アカデミーの建物が目に入る。
      
 いかにもソ連というスターリンクラシック様式は、最初に訪れたポーランドの首都ワル
シャワの文化科学宮殿に似た感じだ。


 旧市街の教会なども近づき、レンガ造りの倉庫群が続く。


 アクメンス橋を通過するトラム(路面電車)


 一番北側のヴァンシュ橋の少し先で折り返して船着場に向かう。すぐ先右岸のリガ港に
は、大型クルーズ船が停泊していた。

 ダウガヴァ川はこの先12㎞ほどでリガ湾に入るが、グーグルマップで確認したらこの
先は海まで橋はないので、このような大型船が入れるのだと分かる。

      
 11時ちょうどに船を下りて旧市街に向かい、聖ペテロ教会に入る。13世紀初めに最
初の教会が建てられ、現在の教会は18世紀に改築されたとか。

 塔の高さは132.25mあり、エレベータで72mの所まで上がると、リガの町が一
望できるという。
      


 私たちは堂内を一巡して、祭壇や壁面の装飾、堂内での絵画や写真の展示、ステンドグ
ラスなどを10分ほど観賞した。
   

      

         

   

 北側のスカールニュ(Skarnu)通りに入ると、路傍でラトビアの民俗楽器の演奏をして
いる。
    

 その先では、姉妹都市ドイツ・ブレーメンから贈られたというグリム童話「ブレーメン
の音楽隊」の彫刻が目に入る。
         
 下から上へ、ロバ、イヌ、ネコ、ニワトリが歌っているという。


 この近くで20分ほどのフリータイムとなり、周辺を回って店をのぞいたりする。



 「THE NATIONAL ARCHIVES OF LATVIA」のプレートのある建物のウィンドウには、
1873年から1960年代までの合唱祭らしい写真が年代順に掲示されていた。
               


 11時55分にチョコレート店の前に集合して、10分ほどの所にあるレストランに入
り、1時間ほどの昼食をした。  (続く)




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ポーランドとバルト3国の旅④ ビリュニスとカウナス観光後 リガへ(その2)

2015-07-31 17:46:27 | バルト3国とポーランド旅行
 2015年7月14日(火) 続き(午後)

 == ビリニュスとカウナスの観光後 ラトビアのリガへ(その2) ==  

 リトアニアの首都ビリニュスの市内で午前の観光と昼食を終えてバスに戻り、12時
33分に出発した。ネリス川の北側から西に延びる高速道路A1号線に入り、西方約
103㎞の都市カウナスを目指す。

 町外れに出ると北方にテレビ塔が望まれる。

 テレビ塔の高さは、東京タワーに近い約326.5mで、165mの位置に展望台とレ
ストランがあるとか。この付近は、1991年の「血の日曜日」事件の際に、最も多くの
犠牲者を出したところだという。


 その先の台地上には、原子力発電所かと思われる独特の建造物が見えた。


 しばらく郊外を走り、ビリニュスに次ぐリトアニア第2の都市、カウナス(Kaunas)の
市街に入る。カウナスの人口は約45万人、ソ連併合以前の22年間、ポーランドに占領
されたビリニュスに変わりリトアニアの臨時首都だったという。


 中心街からは少し外れた東部の住宅街に回り、旧日本領事館だった杉原記念館に14時
過ぎに着いた。建物は、少し大きめの住宅といった感じ。
      

 最初に映写室に入り、杉原千畝(すぎはらちうね)の生涯についての映像を見る。

 杉原千畝は岐阜県八百津町に生まれ、早稲田大学在学中に外務省留学生試験に合格し、
中華民国ハルビンでロシア語を学んだ。ハルビンの日本領事館、フィンランドのヘルシン
キ日本公使館勤務などを経て、1939年(昭和14年)に、ここカウナスの日本領事館
領事代理となり、その直後に第2次世界大戦が始まった。

 翌1940年7月から8月にかけて杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドな
ど欧州各地から逃れてきた、主にユダヤ系難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓令に
反して日本を通過するための大量のビザ(通過査証)を発給し続け、6,000人にのぼる
といわれる避難民を救済した。

 第2次大戦終結後、杉原一家はソ連軍に拘束され、1947年2月にようやく帰国し、
その年に外務省を退職している。その後は、幾つかの貿易会社に勤めるなどして、モスク
ワなど再び海外生活を送ったことなどが紹介された。

    
 このあと公開されている幾つかの部屋を巡り、当時の写真や執務室の様子などから、第
2次世界大戦中の緊迫した状況における杉原の英断や仕事ぶりを推察した。


   

      

               

 杉原記念館周辺の住宅にはリンゴの木が多く、実が大きくなっていた。



 西方眼下には聖ミカエル教会らしい建物の周辺などが望まれる。


 狭い路地まで入って近くに駐車してくれていたバスに戻り、14時50分に出発する。
この辺りは高級住宅街のようで、近くにはアメリカのプロバスケットボールチームで活躍
したという選手の自宅↓もあった。


 今日の行程はまだ先が長い。「十字架の丘」を経て国境を越えてバルト3国2番目のラ
トビアに入り、首都リガまで約260㎞の道のりである。


 カウナス郊外に出て川を渡り、高速道路A1号線に入って西北に向かう。



 小麦畑や牧草地などの間を進み、16時10分にガソリンスタンドでトイレ休憩に。や
はり売店があり、周辺には麦畑が広がる。16時40分に出発した。



 国道A9号線からA12号線を経て、北部リトアニアの中心都市シャウレイ(Siauliai)
を通過する。下は沿道で見えた風車。


 さらに12㎞ほど北東に進んだところにある「十字架の丘」の駐車場に17時28分に
着いた。

 インフォメーションセンター棟と土産店のある建物の間のゲートをくぐり、広々とした
草地を進むと、小さい丘とその周囲に大小数えきれぬほどの十字架が林立している。



 「十字架の国」とも呼ばれるリトアニアの象徴的な聖地のようだが、墓地ではないので
死体は埋められていないという。


 最初の十字架は1831年のロシアに対する蜂起の後、処刑者や流刑者のために建てら
れたらしい。

 それ以後、十字架の丘は抑圧された民族、宗教の象徴として扱われ、ソ連時代はこの丘
は禁城とされ、KGBと軍は何度も十字架をなぎ倒したり焼き払ったりしたが、人々は夜
陰に紛れて新しい十字架を立て続けたとか。
      
 近年は十字架建立がますます盛んになり、アメリカやオーストラリアなどからも、移民
の人々が運んできた十字架を残しているという。中には日本人らしいものも幾つか見られ
た。       

 


 丘のピークから反対側に見える建物↑は、この丘とは関係ないらしい。その右手には、
こんな建物も見えたが、ほかに周辺に建物は見あたらなかった。



 18時18分に出発して国道A12号線を北北東に進み、18時53分に国境を通過し
てリトアニアからラトビアに入る。

 片側1車線ながら、真っ直ぐ延びる国道A8号線を順調に進む。沿道にはアカマツやカ
ラマツに似た林が続いている。


 幅広いダウガヴァ(Daugava)川の橋を渡ると高いテレビタワーが望まれ、ラトビアの
首都リガ(Riga)の市街地に入る。


 20時3分、旧市街の西端近い「ブラックヘッドの会館」と呼ぶ建物近くでバスを下り
た。

 右側がその建物で、15世紀に建てられたものが1941年にドイツ軍の空襲で破壊さ
れたのを、リガの創設800周年を記念して1999年にほぼ完全に再建されたという。


 その前から旧市街中心部のリーブ広場を抜けて、「猫の家」と呼ぶ屋根上に2つの猫の
上がる建物の横を通過する。
      



 近くにあるレストランに20時11分頃入り、ゆっくりと時間をかけての夕食をした。
21時45分にレストランを出て、ようやくたそがれてきた旧市街を戻る。

 この時間になってもリーブ広場などはまだ多くの人で賑わっている。

 ちなみに、リガは北緯57度以北にあり、日本付近の緯度ではサハリン北端よりさらに
北になる。


 夕日で映えるブラックヘッドの会館まで戻り、21時57分にバスは今日宿泊するホテ
ルに向かう。
    

 そばのアクメン(Akmens)橋を渡ると、北側の斜張橋、ヴァンシュ(Vansu)橋の向
こうにちょうど夕日が沈むところ。

 晴天と良いタイミングに恵まれ、素晴らしい落日を見ることができた。

 橋を渡り間もなくの今日の宿、ベルビュー パーク ホテル リガ(Bellevue Park Hotel
Riga)には、22時過ぎに着き、長かった1日の観光を終えた。 (歩数 10,300)



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バルト3国とポーランドの旅④ ビリニュスとカウナス観光後 リガへ(その1)

2015-07-29 22:45:16 | バルト3国とポーランド旅行
 第4日 7月14日(火) 曇後晴

 == ビリニュスとカウナスの観光後 ラトビアのリガへ(その1) ==

 リトアニアの首都ビリニュスのホテルにて6時18分に起床した。ホテルの部屋から外
を見ると曇天である。


 7時過ぎから朝食をして、8時30分にロビーに集合する。

 4日目の行程は、午前中に世界遺産ビリニュス歴史地区の観光をして、約103㎞を移
動してカウナスの旧日本領事館だった杉原記念館の観光後、十字架の丘を経て約260㎞
の移動で、バルト3国2つ目の国、ラトビアの首都リガまで行く予定である。

     

 ビリニュスはバルト3国の首都ではただひとつ内陸部にあり、ドイツ商人の影響無しに
建設されたので、この後行くリガやタリンのような天をつくゴシック教会の塔は見られず、
やわらかな線のカトリック教会が多いとか。人口は約50万人という。

 バスでビリニュス歴史地区に向かう前に、ホテルのすぐそばにある杉原千畝(すぎはら
ちうね)の記念碑を見に行く。

 杉原千畝は第二次大戦中の駐リトアニア共和国領事館代理で、身辺に迫る戦争の危機の
中で、亡命ユダヤ人約6,000名に対して、1か月にわたり査証を発給し続け、彼らの
命を救ったことはご存じの方も多いと思う。
      
 この記念碑は、杉原の出身校である早稲田大学が、世界に誇る杉原氏の功績を称えて
2001年10月に建立したもの。 下は、杉原が発給した査証のコピー。
    

 傍らの桜の木は、リトアニアとの学術交流による友好関係がさらに深まることを祈念し
て植えたものという。


 近くには、1945年8月6日に広島に投下された原子爆弾で被爆した、市内電車の敷
石もあった。
          

 ホテルに戻ってバスに乗り、8時48分に出発した。ネリス川を渡って南側のビリニュ
ス歴史地区に向かう。

 市街地には、久しぶりに見たダブルポール集電方式のトロリーバスが走っている。


 まずは歴史地区の前に、東側の新市街に回る。8時57分頃バスを下り、ネリス川の南
岸にある聖ペテロ&パウロ教会に入る。
      

      

 バロック調の建物は1668年から7年間かけて造られたが、内装にはその後30年余
りの年月をかけているとか。


 それは、2,000以上もあるという内部のいたるところに施された漆喰(しっくい)の
様々な彫刻群のためという。
      

          

      
 制作には、イタリアから招かれた彫刻家などがあたり、地元の職人数百人もアシスタン
トとして加わったようで、彫刻のテーマの多くは聖書や神話から選んでいて、リトアニア
の戦史をあらわしたものもあるという。
      

     

        

           

 バスに戻り、9時15分頃に出発して新市街から旧市街に入り、15分足らずの大聖堂
近くでバスを下りた。


 大聖堂はヴィリュニスのシンボルともいわれる教会で、現在のクラシック様式の建物は
18世紀の大改築によるものとか。


 そばにある鐘楼は高さ53mあり、基礎の部分には13世紀の城壁の塔が使われている
という。
      

 大聖堂前の広場に、「人間の鎖(くさり)」の記念という足形が残されていた。
    

 人間の鎖とは、1989年8月23日にソビエト連邦の統治下にあったバルト3国で、
独立運動の一環として行われたデモ活動のこと。

 約200万人の人が参加して手をつなぎ、バルト3国を結んで約600㎞以上にわたる
人間の鎖を形成し、国際社会に独立を訴えるために行われ、ここがその長い鎖の南端だっ
たという。
    
 今日午前中のガイド、バージニアさんが、その時の写真を見せてくれた。


 東に接する王宮↑は、代々のリトアニア大公が住んだ宮殿。2002年から再建が始ま
り、2013年に博物館として公開されているという。


 その先は、トチなどの広葉樹に覆われた公園。樹間から、東北側の高台にありビリニュ
スの街並みが一望できるというゲディミナス(Gedimino)塔が望まれる。
      


 公園にあった公衆トイレ(有料)で用を済まし、南に延びるピリエス(Pilies)通りから
東へのミコロ(Sv.Mykolo)通↑りに回り、通りの末端近くにあったるアンバー・ミュージ
アム・ギャラリー(Amber Museum Gallery)に入る。

 様々な琥珀(こはく)を集めた博物館でもあり、琥珀の直売もしているところ。

    
 琥珀採掘の歴史や採掘用具、世界中の琥珀産地の紹介などの展示と、様々な琥珀や加工
品を直売するウィンドウなどを眺めながら一巡した。
    
 
         

      
 通りの東側に見える聖ミカエル教会の方向に進み、その横を回ってその先の赤レンガ造
りの聖アンナ教会に入る。


      
 15世紀末に建築された後期ゴシック様式の教会で、建設には33種類もの異なった形
のレンガが使われ、フランボワイアン(火焔式)ゴシック建築の傑作とされ、ナポレオン
が「フランスに持ち帰りたい」と言ったとか。
            

      
 ビリニュスでは珍しいゴシック様式の教会という。白壁に囲まれた堂内には、精巧な木
彫を施した祭壇などが幾つも並んでいた。
    

       

          


 15分ほど観覧して教会の前でバスを待つが、なかなかやって来ない。ドライバーさん
との間で何か行き違いがあったようで、周辺の建物などを眺めたりして25分ほど待ち、
バスに乗る。


      
      近くに見えた教会2つ。


      
 バスは旧市街の南端付近まで進み、「夜明けの門」↑と呼ぶ城門の近くで下りた。夜明
けの門は、9つあった城門のうちで現在残るただひとつの門という。
          

        
 門を入ってふり返ると、2階部分が小さい礼拝所になっていて、普段はそばまで上がれ
るようだが、ちょうどミサが行われていて上がれず、下から眺めるだけ。
      

       

 祭壇の中心ある聖母のイコンは、奇跡を起こす力があると信じられているとか。祈る人
の間からイコンの上部だけが望まれた。
           

 夜明けの門の外に戻り、ビリニュス市内での半日の短い観光を終え、近くからバスに乗
る。


 15分足らずのところでバスを下り、近くのレストランに入って昼食をした。(続く)





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バルト3国とポーランドの旅③ ワルシャワからトラカイ城経由ビリニュスへ

2015-07-26 22:10:35 | バルト3国とポーランド旅行
 第3日 2015年7月13日(月) 曇後晴

 == ワルシャワからトラカイ城経由 リトアニアのビリニュスへ ==

 今日は、ポーランドの首都ワルシャワからバルト3国最初の国リトアニアの首都、ビリ
ニュスまで、今回の旅で最長の450㎞余りをバスで行く。行程が長いので、ホテル出発
は7時15分の予定。450㎞というと、JR東海道線では東京~彦根くらいの距離にな
る。
      

 5時半前に起床、6時30分から急ぎ朝食をしてバスに乗り、7時19分に連泊のワル
シャワのホテルを後にした。今朝は曇天で気温は17℃とのこと。


 車中、添乗員のUさんから、ポーランドについての説明がある。ポーランドはコウノト
リが多く、世界の1/4が生息しているとか。この後通過した車中から、国境を越えたリ
トアニヤやラトビアなどでも、電柱の上にある巣と鳥の姿を何度も見ることができた。

 ポーランドはヨーロッパの中心にあるので「ヨーロッパのハート」と呼ばれ、国土の
90%が標高300m以下で、最高峰も499mという。降水量は少なく、高緯度なので
農産物の収穫量も少ないとのこと。ブドウの栽培もわずかなので、ワインは製造してない
という。

 でも、ライ麦やジャガイモの生産量は世界上位、豚とチーズは7位とのこと。最長の川
は昨日午後見たヴィスワ(Wisla)川で、南から北に流れてバルト海に入っていることなど
の話があった。



 市街地を抜けると広々とした展望が続き、キツネ色に色づいた麦畑が増える。東北に向
かうR8号線を進み、8時38分に最初のトイレ休憩のためガソリンスタンドに寄る。


 店舗も併設されていて、飲物や食料品、カー用品などを販売している。
 

 トイレは有料で、ポーランド通貨1ズロチ(約35円)。ポーランド通貨を使えるのも
あとわずかなので、ここで買い物をしてズロチ紙幣を消費する人も多い。

 この旅の全行程の移動でお世話になったバス。



 9時12分に出発する。間もなくR627号線に入り、さらにR677号線、R61号
線など広大な麦畑やトウモロコシ畑、牧草地などの間を進む。





 11時40分に、ポーランドの東北部、リトアニアやベラルーシ国境に近いアウグスト
フ(Augustow)の町中にあるレストラン↓に入り昼食をした。


 レストラン入口から見た近くの町並み。


 12時40分に出発して国境に向かう。昼食後の沿道はアカマツやヒノキ、スギに似た
針葉樹の森が続く。標識があったどうかか気づかずのうちに13時50分に国境を通過し
てリトアニアに入った。リトアニアなどバルト3国はポーランド時間より1時間早いので、
時刻を14時50分に修正した。


 国境を越えて間もなくの建物。インフォメーションセンターのよう。

 リトアニアも平坦地が多く、最高峰でも標高297mとのこと。最長の川はネムナス
(Nemunas)川で延長937㎞、国鳥はコウノトリだという。バルト3国には松が多く、
松が長い年月の間に化石化して出来た琥珀(こはく)の特産地のよう。



 15時38分にガソリンスタンドに着きトイレ休憩に。

 バルト3国のトイレ事情は厳しいようで、ここは男女共用で1つだけ。やはり売店があ
り、飲み物や食べ物を求めることが出来る。バルト3国での通貨はいずれもユーロである。
16時13分に出発した。



 R32号線からR112号線に入り、首都ビリニュス(Vilnius)の西方にあるトラカイ
(Trakai)に17時25分に着いた。


 バスを下りると、静かな湖の向こうの島に赤レンガ造りのトラカイ城が見える。木の橋
を渡り城内に入った。
      

 トラカイ城は、14世紀後半にドイツ騎士団からの侵略を防ぎ、あるいは催事などを行
うために、リトアニアの君主ケストゥティス公と息子ヴィタウタス大公により建設された
とのこと。ヴィタウタス大公の死後、住居として内部に装飾が施され、諸外国の特使など
も招かれるようになり、その後、夏の王室として機能したり、牢獄として使用されたこと
もあるという。

 17世紀のモスクワ公国との戦争で城は破壊されて廃墟となったが、20世紀になり復
元をはじめ、1987年にはほぼ15世紀当時の姿を取り戻したという。現在、城は城壁
や本丸とともに博物館となっている。



 現地ガイドの案内で博物館内の主な部屋を回って説明を聞いた後フリータイムとなり、
博物館内の幾つかの部屋を回り、展示物や調度品などを観覧した。
    

    歴代の王のレリーフ
    
   
    



      



      古いパイプはこのほかにもたくさん展示されていた。
      







 幾つかの部屋を一巡して城を出る。
 


  湖畔の建物などを眺め、土産店をのぞいたりしてバスに戻る。


    

 


 バスは18時30分に出発し、東方約27㎞にあるリトアニアの首都ビリニュスに向か
う。


 ビリニュスの市街地に入って19時15分にバスを下り、近くのレストランに入り、
20時10分まで夕食をした。





 バスに戻って市街地を進み、旧市街の北西側、ネリス(Neris)川の北岸に立つラディ
ソン ブル リエトゥーヴァ(Radison Blue Lietuva)ホテル↓に20時24分に着いた。
      


 ホテルの部屋からの、ネリス川沿いの眺め。



 ひと休み後、まだ営業しているという隣接のビルの1階にあるスーパーMAXIMAに行き、
飲料水などを求める。


    

                              (歩数 7,300)



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バルト3国とポーランドの旅② ワルシャワ市内とショパン生家へ(2)

2015-07-24 21:34:44 | バルト3国とポーランド旅行
 第2日 7月12日(日)午後

 == ワルシャワ市内とショパン生家のあるジェラゾバボーラ観光 ==

 ワルシャワの西方約56㎞にあるソハチェフ(Sochaczew)の町はずれ、ジェロゾバ
ボーラのレストランで昼食を終え、13時過ぎにショパン生家のある公園に入った。


 公園は、もとスカルベク男爵の屋敷があった場所で、ショパンの両親は男爵に仕えてい
た当時、ここに居住していたらしい。公園の面積は約1万㎡あるという。

 公園専属のガイドさんの説明を聞きながら、フレデリック・F・ショパン(Fryderyk
Franciszek Chopin)が1810年に生まれた建物↓に入り、そう広くない幾つかの部屋
を説明を聞きながら一巡した。

 建物内部は、最近リニューアル公開されたようで、この春までは内部には入れなかった
ようだ。

 建物は現在博物館になっていて、ショパンの生まれた部屋やショパンの出生証明書、両
親の結婚届、ショパンが書いた楽譜の複製などゆかりの品や、家具などが展示されている。
    

 今日は日曜日、夏期の5月から9月の日曜日には、11時と15時からショパン作品の
演奏会があり、園内で演奏を聴くことが出来るという。
    
    演奏会で使われるピアノ。演奏は建物の外で聴くことになる。

 建物のそばにあったショパン像。
 

 演奏会までは時間があるので、建物を出て園内主要部を案内してもらう。緩やかな斜面
を下ると池があり、池のほとりにヤナギの古木が立っていた。ショパン誕生の頃からあっ
たものらしい。
      


 広々とした園内には伸び伸びと枝を広げた高木が多く、その間に芝生地があり様々な花
が咲き競い。気持ちよい景観が広がっている。


     

         

     




 川のほとりを進んで入口付近に戻り、15時50分までフリータイムとなった。


 入口横にある建物に入ってミュージアムショップを少しだけのぞき、再度園内を回って
みることにした。


     

 近くの露店で名物というアイスクリームを求め、そばのベンチで小休止してからショパ
ン生家の周辺に行く。




 池のほとりから川沿いに行き、橋を渡って対岸に回ったりするうち、ピアノ演奏の15
時が近くなったので、生家のそばに戻った。






 ピアノのある部屋に近いベンチは、すでにたくさんの人で埋まっている。


 少し下がったベンチで20分ほど演奏を聴き、あとはゆっくりと園内一帯に流れる演奏
を聴きながら入口を出て、バスの駐車場に行く。




 15時50分にバスは出発して、ホテルのあるワルシャワ市内に向かう。


 広々とした麦畑やジャガイモ畑などの多い往路とは別の道を進んでワルシャワ市街に入
り、17時に旧市街の入口付近でバスを下りた。





 旧市街広場まで行き、夕食会場のレストランに向かう18時までフリータイムとなる。

旧市街広場は、午前中より人出が増えて賑わっている。


 路地を東側に抜けると展望台になっていて、眼下の緑の多いヴィスワ(Wisla)川や対
岸の双塔の教会、東南方のワルシャワ国立競技場などが望まれる。
      



 展望台の鉄柵には、何か願いごとでもしたのだろうか、たくさんの鍵が付けられていた。
    

 別の路地に入ると路傍に大きな鐘が置かれていて、こちらも願いごとをするのかその前
を回る親子がいる。
        

 旧市街広場の近くには、ドイツ軍により破壊された当時のワルシャワ市街の写真を10
数点展示した小さい塔が立っていた。
        

      
 ワルシャワ最古の教会という洗礼者ヨハネ大教会大聖堂↑などの前を通り、インフォメ
ーションセンター前に戻る。
      

 広場には、ワルシャワ旧市街が1980年にユネスコ世界遺産に登録されたことを記念
するプレートが埋め込まれていた。
    

 18時に全員集まり、近くのレストランに入って19時10分まで夕食をする。


 近くからバスに乗り、連泊のノボテル ワルシャワ セントラムホテルには19時30分
に戻った。                         (歩数 15,700)




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バルト3国とポーランドの旅② ワルシャワ市内とショパン生家へ(1)

2015-07-22 22:31:09 | バルト3国とポーランド旅行
 第2日 7月12日(日)

 == ワルシャワ市内とショパン生家のあるジェラゾバボーラ観光 ==

      

 ワルシャワのノボテル ワルシャワ セントラムホテルにて6時45分に起床、7時から
朝食をして9時5分にバスでホテルを出発する。ドライバーは、最後まで通してのアル
トゥル アザさん、ガイドは昨夕お会いしたアリシャさん。朝の気温は13℃だが、日中
は24~25℃になる予報という。

 午前中は、世界遺産ワルシャワ歴史地区の観光で、ワジェンキ(Lazienkowski)公園か
ら旧市街広場、そしてキューリー夫人生家を巡る予定である。

 ちなみに、ワルシャワの人口は約170万人、今日は日曜でもあるが、ポーランドは夏
休みに入っているので市内の人口は少なく、交通量も少ないという。ワルシャワはピアノ
の詩人ショパンの生まれた町。第2次世界大戦ではドイツ軍に徹底的に破壊されたが、戦
後になって以前と全く同じ姿に復元されたとのこと。


 バスは市の中心街のホテルを出て南東に向かい、10分後の9時15分にワジェンキ公
園に着いた。


 ワジェンキ公園は、ヨーロッパで最も美しい公園のひとつに数えられているとか。公園
は、ポーランド最後の王、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(Stanislaw August
Poniatowski)の夏の離宮として1766年から30年かけて造営されたという。


 公園の中央に池があり、そのほとりには1926年建立というショパンの像があり、周
辺のたくさんのバラが見頃だった。
        



 池を囲むようにボダイジュやトチなどの木々が伸び伸びと育ち、南側の木の下には同時
代の音楽家でピアノの魔術師と呼ばれたリスト(FerencList)(1811~86)の胸像もあった。
        


 25分ほどで公園を出て市街地を北西へ、ワルシャワ市街の中心部に戻って新世界通り
でバスを下りた。



 北北西への通りを聖十字架教会に向かうと、ポーランド科学アカデミーの前に、15世
紀のポーランド出身の天文学者で地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を初
めて唱えた、ミコワイ・コペルニクス(Mikolaj Kopernik)(1473~1543)の像がある。


        

      
 すぐ先が聖十字架教会↑。教会に入ると白壁に囲まれた正面の祭壇には金銀の装飾が施
され、堂内は荘厳な雰囲気に包まれている。
      

        
 手前の石柱の中に、ショパンの心臓が埋め込まれていた。第2次大戦中に教会はドイツ
軍に破壊され、心臓も持ち出されてしまったが、戦後すぐの1945年10月に返還され
たという。
        

 なお、この教会での日曜日のミサは、ポーランド国内にラジオ放送されるとか。

 通りを北進して隣接するワルシャワ大学前を通過する。北側に接するヴィジトキ
(Wizytek)教会↓は、ワルシャワ大に中・高等学校が併設されていた頃、ショパンがア
ルバイトで日曜のミサのオルガニストとをしていたという。
      


 新世界通りから延びるクラクフ郊外通りに入る辺りから旧市街となる。


 大統領官邸前には、馬に乗ったポーランドの英雄ユーゼフ・ボニャトフスキ
(J.Poniatowskiego)像が目につく。
      


 近くの広場には、ポーランドのロマン派詩人アダム・ミツキヴィッチ(Adam Mickiewicza)
像が立っていた。
      


 400m余りで王宮広場に入る。東北側にある赤レンガ造りの旧王宮↓は、王の住居の
ほかに国会や大統領執務室としても使われ、さらに士官学校や国立劇場だったこともある
という。



 赤レンガの城塞門を入って旧市街広場に行く。


 ビッシリと接した4~5階建ての建物の前にカフェテラスが並び、多くの人で賑わう。


 広場の中心には勇ましい姿の人魚像が置かれていた。
 
 ちなみに、ワルシャワ市の紋章は人魚をデザインしたものという。




 北西側の門を抜けて200mほど進むと、女性で最初のノーベル賞受賞者キューリー夫
人(1867~1934)の生家の建物↓が残り、現在はキューリー夫人博物館になっている。

 壁面には、キューリー夫人が発見したラジウムとポロニュウムの化学記号などが描かれ
ていた。
       


 少し戻りドウガ(Dtuga)通りを南西へ。


 そうとは見えない近代的な造りの最高裁の前の広場に、ワルシャワ蜂起記念碑がある。

 1944年8月1日、ナチス・ドイツの支配に対してワルシャワ市民が立ち上がった記
念碑で、激しい戦闘により町は壊滅的な打撃を受け、ソ連軍の援軍も受けられず孤立して
約20万人もの死者を出したという。「ワルシャワ蜂起」を記念して45周年にあたる
1989年に造られたとのこと。

 11時11分に近くの通りからバスに乗り、ショパンの生まれた西方約56㎞のジェロ
ゾバボーラ(Zelazowa Wola)に向かう。



 市街地を抜けると両側にはボダイジュの並木が続いている。12時13分にショパンの
生家のある公園入口付近に着き、そばのレストランで昼食をする。      (続く)





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バルト3国とポーランドの旅① 成田からヘルシンキ経由ワルシャワへ

2015-07-20 22:14:43 | バルト3国とポーランド旅行
 10日余りお休みしたのは、7月11日(土)から18日(土)まで、JTBの旅物語
「美しきバルト3国とポーランド8日間」というツアーに参加したためです。以下、日程
に従いその行程を順次紹介しますが、途中にほかの話題を挟むかもしれません。

 =======================================

 第1日 2015年7月11日(土)

 == 成田国際空港からヘルシンキ経由でワルシャワへ ==

 自宅を5時41分に出て、池袋、日暮里を経由して京成電車の空港第2ビル駅に8時2
分に着き、第2ターミナル3階南ウィングのJTB「旅物語」受付カウンターで受付を済
ませる。今回の添乗員はUHさん、参加者は22人である。

 今回の主要行程は以下の地図の通り。



 11時00分発フィンランド航空ヘルシンキ行きAY074便のエアバスA340-
300機は、11時10分に成田空港を離陸した。
    
 ヘルシンキまでの距離は7,849㎞、飛行予定時間は約10時間20分である。

    
 飛行機は西北に向かい、新潟上空を通過して北上しシベリアに入って西へ、ハバロフス
ク、ピリュイスク、モスクワの北方などを通過して、フィンランドのヘルシンキ空港に予
定より30分早い14時55分に着いた。ちなみにフィンランド時間(夏時間)は日本よ
り6時間遅い。


 乗り換えのワルシャワへの便は18時40分発なので、18時集合までフリータイムと
なり、空港内の店をのぞいたり買い物をしたりして時間を過ごす。


 18時に16番ゲート前に集合して同じフィンランド航空のワルシャワ行きAY743
便に乗る。

 ヘルシンキ便は座席が横に2-4-2席だったが、ワルシャワ便は通路を挟んで両側2席
ずつ。小さめのエアバスA320機かA319機のよう。ヘルシンキ便ではエンジンが両
翼に2個ずつだったがこちらは1個だけ。予定より2分遅い18時42にヘルシンキ空港
を離陸した。
    
 飛行機は、明後日以降通過するエストニア、ラトビア、リトアニア3国の上空を逆行す
るように南南西に向かい、1時間20分でポーランドの首都、ワルシャワ・ショパン空港
に19時02分に到着した。ワルシャワ時間(夏時間)はヘルシンキ時間より1時間遅く、
日本時間よりは7時間遅い。気温は21℃とのこと。


 出迎えのバスに乗り、明日のガイドのアリシャさんの説明を聞きながら市内中心街に入
った。


 ワルシャワ中央駅に近く、ロシア時代に建てられたという尖塔のある高いビル、文化科
学宮殿と広場を挟んで相対する、ノボテル ワルシャワ セントラム(NOVOTEL
WARSZAWA CENTRM7)ホテルに20時頃着いた。


 ホテルの部屋から見える文化科学宮殿↓や向かいのホテル。

 37階建てで塔の高さは234mという。

 

 ヘルシンキ便機内で多少仮眠したとはいえ、日本時間では翌12日の午前3時過ぎ。部
屋に入ってトランクの荷物を開き、シャワーだけしてベッドに入る。
                              (歩数 12,700)




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