あるきメデス

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続カタツムリ歩行で蕨を歩く(埼玉)

2015-06-22 17:30:35 | カタツムリ歩行
 2015年6月21日(日)

 前夜の予報では朝から雨だったが、朝起きたら曇り空だった。今日は、続カタツムリ歩
行の第25回例会である。


 集合はJR京浜東北線の蕨(わらび)駅。9時55分に西口をスタートした。改札口の
ある2階から西口の階段を下りたところに、駅の開設記念碑がある。蕨駅の開業は明治
26年(1893)7月16日だという。
        

 中央一丁目を貫いて南に延びる通りを少し進むと、とみなが園芸という店に、販売する
野菜や花、植木など何種類もの品が所狭しと並んでいた。


 県道110号を斜めに横断して、中央二丁目に入る。民家のユリがきれいな彩り。
        

 南町一丁目にあるあけぼの公園には、蕨市の「土のうステーション」というがあり、大
雨などの際の浸水対策用の土のうが保管され、市民が自由に使えるようになっていた。


 その先を右折して南に向かい、最初の目的地である南小へ。校庭の南西端に標高2.9m
の三角点があるはずだが、道路側から見たらその辺りはしの竹が茂っていて、確認できな
かった。

 校庭の南側を、南町桜並木遊歩道が西に延びていた。桜並木の下に小さな流れもあるの
でその遊歩道を進む。


 次の交差点の南西側にはせせらぎ公園があり、湧出したせせらぎのそばで小さい子が水
と楽しんでいた。
    

 中央二丁目に戻って三蔵院に入る。開山時期は不明のようだが、「新編武藏風土記稿」
には、天正3年(1573)再建と記されているとか。

 時を経て昭和20年(1945)4月13日夜、空襲による焼夷弾で本堂や本尊の観音
菩薩像などは灰燼と帰し、現在の耐火構造の本堂は昭和57年(1982)5月の再建と
いう。


 境内には、江戸時代造立と思われる地蔵を祭る地蔵堂↓と、比較的新しい6地蔵堂が並
んでいた。  
        

 境内北側に隣接する緑地に、ヤマモモがたくさん熟している。つまんで初めて口に入れ
てみたら甘酸っぱい味だった。ジャムにするとより美味しいかも知れない。
    

 中央浄水場通りに出て蕨市水道部の前を通過し、中央二丁目交差点を左折して背後の墓
地から宝樹院に行く。

 観応3年(1352)以前の創建と伝えられ、本尊は地蔵菩薩とか。蕨城主渋川氏の菩
提寺である。

 本堂の左手前に、渋川公墓(しぶかわこうぼ)があった。渋川公(宝寿院殿)は永禄
10年(1567)、上総国三舟山(みふねやま)(千葉県富津市・君津市境付近)の合
戦で里見氏に敗れて戦死し、その死を悲しんで、夫人は榛名湖に入水したといわれている
とか。
        
 入水した夫人は竜神となり、榛名神社(群馬県)に雨乞いに行くと雨が降るという伝説
が生まれ、榛名湖まで水をもらいに行く雨乞いの行事が昭和初期まで行われていたという。

 山門の前にはお地蔵さんが並んでいた。


 墓地北側の中央土橋通りを少しで、標識に従い中央6丁目に入ると右手に正蔵院がある。
樹木の無い小さめの境内は、墓参の人や関係者以外は立ち入り禁止の札がある。


 参道に古い青面金剛像が並ぶ。左端は享保17年(1732)と読めたが、ほかの造立
時期は分からなかった。
    

 中央小の南を通過し、国道17号の東に平行する旧中山道に入る。この辺りから約1㎞
ほどが中山道蕨宿(なかせんどうわらびしゅく)の家並みが並んでいた辺り。


 蕨宿は江戸から2番目の宿場で、天保14年(1843)の人口は2,223人、家数は
430軒、本陣2軒、脇本陣1軒、問屋場と高札場が1か所ずつあったという。

 歩道には、中山道の宿場のタイル絵が埋め込まれている。


     蕨郵便局前には、こんな案内板が立っていた。
    

 近くに、市立歴史民俗資料館の分館があったので入る。


 敷地の3/4を庭園が占め、北西側道路に接して母屋↓や蔵などの建物が並んでいる。

 母屋の、きめ細かな木組み細工の障子。



 庭園内の園路を一巡する。奥の一角に咲くアカンサス。


 中央部には池がある。


     南東の道路際には、何株かのアジサイが花を競っていた。
    

 分館から600mほどには歴史民俗資料館の本館がある。


 入ったロビーは照明が少なめで薄暗い。その奥の常設展示場を観覧した。


 本陣、加兵衞家(かへえけ)の上段の間を復元したもの。大名や貴人の休泊する部屋で、
ほかの部屋より一段高くなっている。
    

         上段の間に並ぶ、大名の食事メニュー。
        

 中山道蕨宿の模型。

 
 蕨では江戸時代末期から織物業が盛んになり、明治から昭和初期まで織物の種類も増え
て栄えたが、日中戦争が始まった頃から次第に経営が苦しくなったとか。
    

 正午が近いので館を出てゴールに向かい、そばの交差点を右折して市役所前を通過する。
ちなみに蕨市は、面積5.11㎢で全国の市の中で最も面積が少なく、総人口は72,805
(6月1日現在)で人口密度14,247人/㎢は全国の市町村で最も高い。

 すぐ先のゴール、和楽備(わらび)神社には12時ちょうどに着いた。社殿は、平成9
年(1997)の再建で新しい。

 和楽備神社は、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城の守り神と
して八幡社を勧請(かんじょう)したのが始まりとか。明治44年(1911)に町内の
18社を八幡社に合祀して、和楽備神社と改称したのだという。

 神社に接した南側が蕨城跡で、現在は蕨城址公園になっている。公園内の市民会館周辺
で昼食をした。


 ちなみに蕨城は、南北朝時代に渋川氏が館を構えたのに始まり、戦国時代の永禄10年
(1567)、上総国三舟山合戦で渋川氏の戦死に伴い廃されたといわれ、江戸初期には、
鷹狩り用の用の休憩地の「御殿」として跡地が利用されたという。 


 和楽備神社に接する木々の下、本丸跡に、文学博士 諸橋轍次(もろはし てつじ)氏の
選書(せんしょ)による「蕨城址碑」が立っていた。 
        
 
 城址公園内には、「成年式発祥の地」碑もある。終戦直後の昭和21年(1946)
11月26日、当時の蕨町青年団が20歳を迎えた成人者を招いて、祖国再建の先駆者と
しての自覚を持って行動すべき時と激励し、前途を祝したのが高く評価され、2年後に成
人の日が国民の祝日として制定されることになったという。
        

 近くには、 マッカーサー元帥が座右の銘としていたという、アメリカの作詩家サミエ
ル・ウルマンの「青春」の詩碑もあるが、字が細かくて読むのは困難だった。

 市民会館のそばには、万有引力を発見したイギリスの物理学者アイザック・ニュートン
の、生家のリンゴの木の子孫という「ニュートンのリンゴの木」が枝を広げていた。
    

        
 食事を終えて記念撮影後、ミーティングをして、数人から最近の経験や思いなどが語ら
れ、13時過ぎに散会となった。

 (天気 曇、距離 4.4㎞、地図(1/2.5万) 赤羽、歩行地 蕨市、
                                歩数 8,600)





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