2023年5月25日(木) (長岡市内を観光後帰路へ・前半)
宿泊した新潟駅前のビジネスホテルで6時前に起床した。7時30分頃から1階でのサ
ービス朝食をいただき、9時前にチェックアウトした。
新潟駅の新幹線東改札を入り、9時30分発の上越新幹線上りとき314号の自由席に
乗る。
市街地を過ぎると田園地帯に入り、西方には弥彦山をピークとする弥彦山塊の山並みが。
ちなみに、弥彦山の標高634mは東京スカイツリーの高さと同じ。
燕三条駅を経て、9時51分に長岡駅で下車した。
駅構内には、真夏の8月2日と3日に信濃川河畔で開催される、長岡市の大花火で打ち
上げられる大花火の大きな模型が。
その先の観光案内所で、市内の見どころのリーフレットなどを入手した。
構内のコインロッカーに今日も不要荷物を預け、西側の大手口へ。
大手口の北側にも、2本の打揚花火の大筒が展示されている。
新緑の街路樹の葉先から花が伸びていた。
近くには、長岡出身の著名人のパネルも。
駅前一帯は長岡城の本丸跡のようで、その石碑も立っている。
駅の北側壁面には、「長岡今昔」と題する陶板レリーフが目につく。
歩道に並ぶ鉢花の木桶(おけ)
今日の長岡観光の目的地は、時間の関係で以下の3つとする。それは、「河井継之助記
念館」と「山本五十六記念館」、それに「長岡戦災資料館」で、いずれも駅からほど近い
ところにある。
まずは線路沿いを北へ進み、大手口駐車場の北西側交差点を左折して、次の交差点際に
ある「河井継之助(かわいつぎのすけ)記念館」(入館料200円)に行く。
河井継之助は、司馬遼太郎著「峠」で主人公として描かれた長岡藩家老で、幕末に西日
本各地を遊歴後、画期的な藩政改革や近代武装を断行し、諸藩が朝廷側か幕府側かで揺れ
る中で、独自の路線「武装中立」を目指したとか。
しかし、小千谷会談で夢破れてやむなく新政府軍への徹底抗戦を決意し、長岡は北越戊
辰戦争の激戦地へと化していったという。
この記念館の場所は、河井継之助の屋敷跡に整備されたもののようだ。
入口際だけ写真撮影が可能だったたので、それらを。まずはガトリング砲
映画「峠-最後のサムライ」関連のパネル
「風雲 蒼龍窟」と題する河井継之助像
さらに館内を一巡して、さまざまな改革を行って一人ひとりが個性と能力を発揮する豊
かな社会をつくろうとした、継之助の偉大な生涯の足取りを初めて認識した。
以下はリーフレットから
安政6(1859)年に西国遊歴した地域
北側の庭の様子
40分前後観覧して、受付にあった「戊辰・河井継之助ゆかりの地 ガイドブック」を
もらい、河井継之助記念館を出た。
ガイドブックには、河井継之助が幕末を駆け抜けた地元長岡市や小千谷市、福島県の只
見町や会津若松市などゆかりの地の情報などが掲載されていて、それらをたどる旅もして
みたいが、現在の私の体力では もうかないそうにない。
館前の通りを西へ、次の関東町交差点で広い通りを越えて、すぐ先にある「山本五十六
(やまもといそろく)記念館」へ(入館料500円)。
館の前に、山本五十六が鎌倉在住の頃に買い求め、以後に育てたという「唐楓(トウカ
エデ)」がある。
平成22(2010)年秋に、東京・南青山の旧山本邸から移植したという。
山本五十六は、旧長岡藩士高野貞吉の6男として生まれ、市内の坂之上小、長岡中学校
を卒業後に海海軍兵学校に入り、その後旧長岡藩家老職の名家だった山本家を継いでいる。
日独伊軍事同盟に断固反対したが、陸軍次官から連合艦隊司令長官となり、太平洋戦争
中の昭和18(1943)年4月18日、前線を視察中の搭乗機が南太平洋のブーゲンビ
ル島上空でアメリカ軍戦闘機に撃墜されて戦死し、元帥の称号を受けた。
山本五十六元帥は同年6月5日に日比谷公園で国葬が行われたが、皇族・華族以外で国
葬に付された最初で戦前唯一の例だという。
その国葬当日、私は埼玉県中央部の寒村に住む国民学校低学年児童のひとりで、校庭に
全校児童が整列して哀悼したことを覚えている。
館内は撮影禁止なので、もらったリーフレットからその一端を。
ワシントン議事堂前の山本 米国駐在大使館付武官
パスポート
ゆっくりと1時間余り観覧して山本五十六の生涯の足跡や生き様などを理解し、最後に
受付で半藤一利著「山本五十六」(平凡社ライブラリー・本体940円)を購入した。
半藤さんも長岡中学校卒で、山本の後輩になるという。
山本五十六記念館前の歩道や、近くに咲く花
〈続く〉
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宿泊した新潟駅前のビジネスホテルで6時前に起床した。7時30分頃から1階でのサ
ービス朝食をいただき、9時前にチェックアウトした。
新潟駅の新幹線東改札を入り、9時30分発の上越新幹線上りとき314号の自由席に
乗る。
市街地を過ぎると田園地帯に入り、西方には弥彦山をピークとする弥彦山塊の山並みが。
ちなみに、弥彦山の標高634mは東京スカイツリーの高さと同じ。
燕三条駅を経て、9時51分に長岡駅で下車した。
駅構内には、真夏の8月2日と3日に信濃川河畔で開催される、長岡市の大花火で打ち
上げられる大花火の大きな模型が。
その先の観光案内所で、市内の見どころのリーフレットなどを入手した。
構内のコインロッカーに今日も不要荷物を預け、西側の大手口へ。
大手口の北側にも、2本の打揚花火の大筒が展示されている。
新緑の街路樹の葉先から花が伸びていた。
近くには、長岡出身の著名人のパネルも。
駅前一帯は長岡城の本丸跡のようで、その石碑も立っている。
駅の北側壁面には、「長岡今昔」と題する陶板レリーフが目につく。
歩道に並ぶ鉢花の木桶(おけ)
今日の長岡観光の目的地は、時間の関係で以下の3つとする。それは、「河井継之助記
念館」と「山本五十六記念館」、それに「長岡戦災資料館」で、いずれも駅からほど近い
ところにある。
まずは線路沿いを北へ進み、大手口駐車場の北西側交差点を左折して、次の交差点際に
ある「河井継之助(かわいつぎのすけ)記念館」(入館料200円)に行く。
河井継之助は、司馬遼太郎著「峠」で主人公として描かれた長岡藩家老で、幕末に西日
本各地を遊歴後、画期的な藩政改革や近代武装を断行し、諸藩が朝廷側か幕府側かで揺れ
る中で、独自の路線「武装中立」を目指したとか。
しかし、小千谷会談で夢破れてやむなく新政府軍への徹底抗戦を決意し、長岡は北越戊
辰戦争の激戦地へと化していったという。
この記念館の場所は、河井継之助の屋敷跡に整備されたもののようだ。
入口際だけ写真撮影が可能だったたので、それらを。まずはガトリング砲
映画「峠-最後のサムライ」関連のパネル
「風雲 蒼龍窟」と題する河井継之助像
さらに館内を一巡して、さまざまな改革を行って一人ひとりが個性と能力を発揮する豊
かな社会をつくろうとした、継之助の偉大な生涯の足取りを初めて認識した。
以下はリーフレットから
安政6(1859)年に西国遊歴した地域
北側の庭の様子
40分前後観覧して、受付にあった「戊辰・河井継之助ゆかりの地 ガイドブック」を
もらい、河井継之助記念館を出た。
ガイドブックには、河井継之助が幕末を駆け抜けた地元長岡市や小千谷市、福島県の只
見町や会津若松市などゆかりの地の情報などが掲載されていて、それらをたどる旅もして
みたいが、現在の私の体力では もうかないそうにない。
館前の通りを西へ、次の関東町交差点で広い通りを越えて、すぐ先にある「山本五十六
(やまもといそろく)記念館」へ(入館料500円)。
館の前に、山本五十六が鎌倉在住の頃に買い求め、以後に育てたという「唐楓(トウカ
エデ)」がある。
平成22(2010)年秋に、東京・南青山の旧山本邸から移植したという。
山本五十六は、旧長岡藩士高野貞吉の6男として生まれ、市内の坂之上小、長岡中学校
を卒業後に海海軍兵学校に入り、その後旧長岡藩家老職の名家だった山本家を継いでいる。
日独伊軍事同盟に断固反対したが、陸軍次官から連合艦隊司令長官となり、太平洋戦争
中の昭和18(1943)年4月18日、前線を視察中の搭乗機が南太平洋のブーゲンビ
ル島上空でアメリカ軍戦闘機に撃墜されて戦死し、元帥の称号を受けた。
山本五十六元帥は同年6月5日に日比谷公園で国葬が行われたが、皇族・華族以外で国
葬に付された最初で戦前唯一の例だという。
その国葬当日、私は埼玉県中央部の寒村に住む国民学校低学年児童のひとりで、校庭に
全校児童が整列して哀悼したことを覚えている。
館内は撮影禁止なので、もらったリーフレットからその一端を。
ワシントン議事堂前の山本 米国駐在大使館付武官
パスポート
ゆっくりと1時間余り観覧して山本五十六の生涯の足跡や生き様などを理解し、最後に
受付で半藤一利著「山本五十六」(平凡社ライブラリー・本体940円)を購入した。
半藤さんも長岡中学校卒で、山本の後輩になるという。
山本五十六記念館前の歩道や、近くに咲く花
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