黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

楠木正成の愛馬を祀った(?)岩穴観音

2020-05-08 22:02:43 | 群馬県東毛・総集編

今朝、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ました。

岩神沼には、久しぶりに、アオサギの姿がありました

ひめちゃんたちに気がついて、飛び立って行きました。

後には、カモのカップルがいました

ひめちゃん、はいポーズですよ

穏やかな朝です

花好きおばさんのガーデンです。

黄色い牡丹がたくさんの花を付けていました

 

 

 

(2018年9月11日)

小平の大杉を後にして、岩穴観音(いわあなかんのん)の矢印の方にハンドルを切ります。

その後は、行けども行けども、表示がありません

そのうちに、右の高台に赤い建物が見えましたけど、ちょっと違うかな?

さらに、行けども行けども、表示も案内もありません

 

川の岸で土木作業をしているおじさんに逢いました

「すみません、岩穴観音は何処でしょう?」

「もっと下だよ、来すぎだよ。途中ユンボがあったろう、その200mくらい下で山側だよ。」

「ありがとうございます

おじさんは、3匹の犬を連れていました。

熊も出る山奥の作業には、犬も活躍しているようです。

人間だけでは危ないのでしょう。

Uターンさせてもらって、ユンボを探しながらくだります。

 

ユンボ、ありました

もう少し下ります。

 

ここは、さっきパスした赤い建物です

まあ、高台にのぼってみます。

なんだ、舞台だったんだ

大きな舞台です。

いつごろまで使われていたのでしょう?

ここは通りから奥まった高台で、通りからはこの赤い建物しか見えません。

 

舞台の左手に、山門があります。

岩穴観音のイメージは、この山門だったのです。

 

古い説明板があります。

 

『大間々町誌別巻7石造物』には、こんな驚きの説も紹介されています

楠木正成戦死後家臣四人(末孫の家臣ともいう)、公の愛馬及び守本尊毘沙門天を携えて小平狸原に来たりし時、たまたま愛馬病死したり、よって愛馬はその地に埋めて馬頭観音を祀り、守本尊は小平成満院に託せり、馬頭観音は乃ち小平岩穴観音なり、成満院へは、祭祀料として毎年銀二百疋を年貢中より支出して納付したという。(山田郡誌)

楠木正成の記憶が、小平にあったとは

成満院は、小平鍾乳洞の近くにあった、里修験です。

現在は営業していないようです。

ここのご主人が、「俺は坊主にさせられそこなったんだ。」と言ったとか。

確かここには円空仏もあったようです。

町誌編纂の時にも、たくさんの文書を出していますね。

岩穴観音の祭祀も担当していたんですね

 

馬の神様、眼の神様として、かつてはとてもにぎわったのですね

 

石段左側に、まだ赤い如意輪観音がありました。

今は良い感じの赤ですけど、かつては真っ赤だったのでしょう。

 

山門に、かつての境内図が、掲げられています。

ボケボケですけど、いくつかの堂宇があったのは分かります。

中央の赤い門がここで、奥に窟(いわや)がみえます。

山門付近には、石造物がいっぱいです

こんな石造物もあります

馬の姿は、後ろ以外の3面にあります

やはり馬の神様です

 

本堂(窟)への階段、手すりがあるので助かります

少し新しい建物があります。

岩穴観音は、この向こうです。

残念ながら、直接拝めません

 

でも、確かに岩穴の中にあるようです

 

みどり市HPによると、

この本尊は岩穴観音と呼ばれている。実際に安置されているものは室町時代の地蔵菩薩像(凝灰岩)と、戦国期の阿弥陀如来坐像(砂岩質)で、像種は異なったものとなっている。岩穴観音は馬の神様として知られ、盛んなときには何百頭もの馬が飼い主に連れられて参詣に来たという。

さらに、地蔵菩薩坐像は、

笠懸町西鹿田の天神山産の凝灰岩で作られた可能性が高く、中世新田荘の代表的交易品と考えられるものである。大間々町小平は、中世には薗田氏の須永御厨(すながのみくりや)に編入されており、新田氏薗田氏の支配領域を越えて搬入されたものとして、現時点において天神山凝灰岩の石造物の分布としては、渡良瀬川左岸における北限となっている。

 

そうだったんですか、合掌です

 

石段ではなく、スロープを下ります。

 

やっとやっとたどり着いた、岩穴観音でした。

御利益がありますように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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