晴れすぎるほど晴れました
ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、岩神沼を通ります。
サギさん、いるかな?
沼の上を、グレーの物体が横切りました
アオサギです
いつもの位置に着地です。
まもなく、飛び去っていきました。
後には、いつものカモのカップルです
獅子くんは、沼の前で、いつもの20年もいるような顔で、はいポーズです
あまりの暑さに、すぐ上の高縄の摩崖仏をまわって帰ります。
ひめちゃん、いい子でハーネスを外してもらうのを待ってます
大勢で暮らしているので、ひめちゃんのお部屋(サークル)には、テラスの柱があります。
でも、激突もせず、飛び込んでいます
新里の人は、「ろまん」が好きなようです。
山上は「ろまん」にあふれた土地のようです。
「山上ろまん」について、かつて存在した「黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅡ」(yahooブログ)にいくつかの記事がありました。
地元を見つめ直す意味で、「山上氏と山上城」の記事を、いくつかリメイクしてアップしたいと思います。
まず、常広寺文書の鑑定についてです。
『新里村史』に「正応4年山上城主山上氏家臣団」の一覧があります。
出典は、「昭和43年1月15日粕川正雄氏が、前橋市才川町大川吉蔵氏蔵書を写した物」とあります。
書名や文書の記載もありません。
山上の常広寺に、この一覧の元になったと思われる文書があります。
旧檀家の家族からの寄贈だそうですけど、ほかの何通かと合わせて、とりあえず常広寺文書と呼んでおきます。
2017年8月18日、これらの文書を預かって、桐生市立図書館で、専門家の先生方に鑑定してもらいました。
開口一番、役職が時代に合わないと言われました。
四天王・諸士・大目付・御墓番なんて役職が並んでいます
正応4年(1291)は鎌倉時代末期です。
それから、文書の最後に、天保3年に写したと署名があります。
他の文書にも、天保3年(1832)に、この人が写したというのがあります。
専門家の意見として、「この文書は天保3年に署名の人が創作した物でしょう。署名の人は、かなりの実力者で、さらなるステイタスの向上を求めた。由緒ある血統につながろうと考えた。山上氏は、既にいなかったので、つながりやすかった。」
確かにつながってます
「大家臣団をつくるために、近郷近在の名字を集め、仮名(通称、ミドルネーム)はそこらの名前を使ったのでしょう。」とのご推察です。
江戸時代にもほとんどの人は名字を持っていた
ただ使わなかっただけだそうです
大前田善四郎忠治ですって
この頃、国定忠治が活躍していたのでしょうか?
そういえば鏑木家のあった新川には、忠治の子分がいましたね
なぜ正応4年なのか、その答えは常広寺文書の中にありました。
(つづく)