黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

主君の回向を善昌寺で(善昌寺は山上氏の菩提寺か?)

2020-05-14 22:26:58 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんと獅子丸は、今日も堀之内を北に出ました。

さて、赤城山をバックに一枚撮ろうね。

あれ、電池切れだ

 

昨日の朝、田んぼにいたカモさん、まだアップしてませんでした。

田植えの準備で、田んぼに水が入り始めています。

この季節、時折り、田んぼでカモやサギを見かけることがあります。

みんな熱心にお食事中です

田んぼを歩いてます

人家のそばですけど、平気です。

ひめちゃんたちが通っても、飛び立ちませんでした。

きっとおいしいご馳走が、いっぱいいるのでしょう

 

 

 

常広寺文書の中に、意味深な文書があります。

大雑把な、内容です。

山上城の城主・山上六郎左衛門尉秀直の嫡子は、山上七郎秀諦です。

山上七郎秀諦の嫡子は、徳之進正忠で、彼は鏑木(かぶらぎ)姓を名乗った。

山上七郎秀諦の次男は、山上新左衛門正勝です。

山上七郎秀諦の三男は、山上藤七郎正秀です。

今右大将様が御回向をされたいということなので、私の家・鏑木家は、鏑木正忠の子孫(つまり山上氏の正当な子孫)であるので、この事業のまとめ役を引き受けた。

今月(8月)15日、本山善昌寺に、みんな集まれ

 

時は、天文2年(1533)8月15日少し前の設定です。

でも、ハンコが押してあります。

江戸時代に作られた文書です。

 

一番気になるのは、善昌寺で主君の山上氏の回向をすることです。

善昌寺は、まるで山上氏の菩提寺のようです

 

一般的には、善昌寺は新田義貞の家臣・船田善昌寺にちなんで、善昌寺になったいいます

 

修験者・鏑木さんの意識では、善昌寺のあたりは、山上です。

山上氏家臣団の創作が行われたのは、天保3年(1832)です。

 

善昌寺には、有名な新田義貞の首塚があります。

安永3年(1774)、世良田の毛呂権蔵は善昌寺に寄りました。

善昌寺では、船田善昌についていろいろ説明されたようです。

それは、毛呂権蔵にとって、素直にうなずけないものでした。

「明拠なし」「滑稽の話なり」(『上野国志』)といってます。

彼は、世良田の船田善昌館跡に住んでいたのです

 

修験者・鏑木家も善昌寺と深く関わったはずですけど、こんな文書も残したのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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