ひめちゃんと獅子丸は、今日も堀之内を北に出ました。
さて、赤城山をバックに一枚撮ろうね。
あれ、電池切れだ
昨日の朝、田んぼにいたカモさん、まだアップしてませんでした。
田植えの準備で、田んぼに水が入り始めています。
この季節、時折り、田んぼでカモやサギを見かけることがあります。
みんな熱心にお食事中です
田んぼを歩いてます
人家のそばですけど、平気です。
ひめちゃんたちが通っても、飛び立ちませんでした。
きっとおいしいご馳走が、いっぱいいるのでしょう
常広寺文書の中に、意味深な文書があります。
大雑把な、内容です。
山上城の城主・山上六郎左衛門尉秀直の嫡子は、山上七郎秀諦です。
山上七郎秀諦の嫡子は、徳之進正忠で、彼は鏑木(かぶらぎ)姓を名乗った。
山上七郎秀諦の次男は、山上新左衛門正勝です。
山上七郎秀諦の三男は、山上藤七郎正秀です。
今右大将様が御回向をされたいということなので、私の家・鏑木家は、鏑木正忠の子孫(つまり山上氏の正当な子孫)であるので、この事業のまとめ役を引き受けた。
今月(8月)15日、本山善昌寺に、みんな集まれ
時は、天文2年(1533)8月15日少し前の設定です。
でも、ハンコが押してあります。
江戸時代に作られた文書です。
一番気になるのは、善昌寺で主君の山上氏の回向をすることです。
善昌寺は、まるで山上氏の菩提寺のようです
一般的には、善昌寺は新田義貞の家臣・船田善昌寺にちなんで、善昌寺になったいいます
修験者・鏑木さんの意識では、善昌寺のあたりは、山上です。
山上氏家臣団の創作が行われたのは、天保3年(1832)です。
善昌寺には、有名な新田義貞の首塚があります。
安永3年(1774)、世良田の毛呂権蔵は善昌寺に寄りました。
善昌寺では、船田善昌についていろいろ説明されたようです。
それは、毛呂権蔵にとって、素直にうなずけないものでした。
「明拠なし」「滑稽の話なり」(『上野国志』)といってます。
彼は、世良田の船田善昌館跡に住んでいたのです
修験者・鏑木家も善昌寺と深く関わったはずですけど、こんな文書も残したのです