ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ました。
ひめちゃんと獅子丸が、東の方に行こうとします。
じゃあ、久しぶりにヤギさんに会いに行こう
東の牧場にやって来ました。
ここには道標があります。
ちょうど電柱の下です。
右の細い道が本来の道なのです。
ひめちゃんたちは、西月田(前橋市粕川町月田)の方角からやって来たことになります。
ヤギさん、いるかな?
いました
でも、立ち上がりません
ひめちゃんも換毛期でかゆいようです。
獅子くんの得意ポーズをしてます。
ひめちゃんの後ろに、山神様の石宮があります。
後ろの鏑木川に架かる橋の名は、山神橋(さんじんばし)です。
ヤギさん、今朝は立ち上がりません
体調でも悪いのかな?
お大事に、バイバイ、またね
専門家の鑑定によって、山上氏家臣団は、天保3年(1832)に、大峯派権大僧都鏑宝院・鏑木武七正保によって、作成されたものと判定されました
そして、文書がみんな正応4年(1291)に帰結しているとの指摘もなされました。
なぜ、正応4年なのか?
それは、この文書が物語ってます。
御尊書とはよくわかりませんけれど、内容からすると、新川熊野神社の由来記というか由緒記というかといったところでしょうか
署名に花押ではなく印鑑が添えられているので、これも近世のものと考えられます。
新川熊野権現は、藤原秀郷が山上館にいたときに、山上の領民の除諸病のために勧請し新川の峯に鎮座させたとあります
え、それなら山上におけばいいのに
秀郷さん、山上館に居たの?
山上館って、どこにあったの?
蒙古来襲(元寇)の時にも活躍したって
山上の領民の除諸病のために勧請したのに、国家のためにも活躍したのです
弘安10年(1287)に、領主・山上六郎左衛門が田畑を寄進したって
山上六郎左衛門さんて、新田義貞について鎌倉攻めに行ったんじゃなかったっけ
相当な高齢で馳せ参じたことになります
まあ、『太平記』の世界の話で、史実かどうかは別問題ですけど
さて、左上に注目です
正応4年(1291)正月15日に、熊野権現(熊野神社)が火災に遭い、「御尊書」にある書類は焼失したと書き込みがあります
一連の文書を創作した人にとっては、熊野権現が焼けたことが、大きな意味を持っていたのです。
500年も経っているのに
鏑木さん、熊野詣での先達でもしていたのかな?
現在でも、新川に、熊野神社は鎮座しています。
参道が道路になってしまってます
庚申塔などの石造物があります
かつては、もっと下にも鳥居があったかもしれません。
拝殿は地味ですけど、本殿はなかなかです
常広寺文書は、史料としては全く価値のないものでした。
桐生図書館の専門家の先生方は、写真もコピーもとりませんでした。
「防虫剤を入れて保存した方がいいですよ。」というアドバイスがあっただけです。
でも、江戸末期の人間模様がいっぱい詰まってます
山上ろまんが、いっぱい詰まってます