ひめちゃんとタバサねーちゃんは、車で常広寺にお出かけです。
おかあさんが、郷右衛門さん&六地蔵さんとお墓のお花を取り替えるのを待ちます。
少し緊張したけど、良い子で待てました。
庫裏にも挨拶していきましょう。
よそのウチの玄関、緊張します
あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です
新光太平山妙珠院善昌寺は、現在は桐生市新里町新川にあります。
長楽寺文書の中に、「沙彌道羸寄進状案(しゃみどうるいきしんじょうあん)」があります。
「沙彌道羸寄進状案(しゃみどうるいきしんじょうあん)」に上野国山上保窪井村とあります。
中世、善昌寺は山上にあったのです。
そして少し時代は遡りますけど、あの『念仏往生伝』の著者・行仙上人が住んでいた、窪井の本坊も近くだと思われます。
上野国山上保窪井村の善昌寺に、『念仏往生伝』の記憶を訪ねて、タバサちゃんと久しぶりに行ってみよう
(2021年3月の訪問です。)
あれ、門柱の付近が華やかになっています
階段下に駐車です。
タバサねーちゃんも、階段を登ります
階段脇に、お地蔵様と六地蔵幢です。
あったっけ?
反対側にも、六地蔵幢です。
あったっけ?
後ろの方が気になります。
赤ちゃんを抱いているような感じを受けます
早くいこうよ
真っ赤な山門があります
こんなに真っ赤な山門だったっけ?
タバちゃんは、軽くジャンプして通過です
「新田義貞公墓、新田義宗公墓」ですって
新田郡出身の、ひめちゃんちのおかあさんには、どうして新田義貞の墓がここにあるのか、全く理解できません
でも、新里のお年寄りは、「新田義貞は善昌寺にいかってるんだ(埋葬されているんだ)。」と普通に言います
息子の義宗の墓もあるんですか
知りませんでした
まずは、本堂で参拝です。
合掌
脇に古い石造物が積まれています。
りっぱな墓石や僧形の墓石も無造作に積まれています。
でも、赤い帽子やオガケで、みなさん少し元気になったみたい
中央の大きな方はどなたでしょう?
蓮華座の上に座って、往生印を結んでます。
合掌
さあ、奥の新田義貞の首塚へ行きましょう。
タバサねーちゃんは、階段を一段一段踏みしめて登ります。
覆い屋の下が、新田義貞の首塚です。
おや、左に大きな碑があります。
あったっけ?
ちょっと読みにくい
なんとか読み取ってみましょう。
・大同元年に伝教大師の天台宗伝道教団がやって来た時に開山
・新田義貞公とも縁が深い・・・内室の父は舟田善昌
・義貞は、鎌倉攻めの時に武運長久を祈って、阿閼井皇水を汲んで軍神を祀った
・新田義貞が討ち死にした後、舟田善昌は、京都に人を派遣し勾当の内侍の侍女を使って首を手に入れ、善昌寺に埋葬する
・その他家臣団の墓も建立した
よく見えませんけど、こんな所かな?
そうだったんですか
知りませんでした
あれ、そばにある新里村指定重要文化財のポールは、「善昌寺の五輪塔群」です
「新田義貞の首塚」ではありません
五輪塔群の覆い屋の脇に、ひっそりと「阿閼井皇水」とあります。
新田義貞は、ここの水を軍神に捧げたのですか
知りませんでした
こんにちは
中央の一番大きいのが、新田義貞の墓ということでしょう。
合掌
一応完全な形は、これ1基だけかな?
みなさん、かなり古いですね
なんとなく鎌倉時代の雰囲気です
タバちゃんと、大きさくらべです。
タバちゃんは、標準的な柴犬の大きさだと思います。
新田義宗の墓はわかりません
でも、この付近なんとなく鎌倉時代に書かれた唯一の往生伝、『念仏往生伝』時代の雰囲気です
更に奥の墓地や石宮群も歩いてきました
お出掛け、楽しいです
階段を前向きに降りて帰ります。
タバサねーちゃん、この夏お誕生日がきたら、13歳になります。
(タバサねーちゃんは、今年の7月に14歳になりました。)
タバサねーちゃん、まだまだ若いもんに負けません
善昌寺の由来が舟田善昌の善昌でないとすると、善昌ってだれだ?
『念仏往生伝』には禅勝上人(ぜんしょうしょうにん)の往生伝があり、浄土宗関係の書籍にも禅勝上人はよく出てくるようです。
行仙上人は、禅勝の弟子という説もあるようです。
『念仏往生伝』第45話は、遠江国禅勝房です。
欠落部分があり、次に法然の法語があり、最期に禅勝坊の往生譚です。
彼禅勝房自云。念仏往生之信心決定同。我身可死。更無一念疑殆之心云々。其後齢八十五。正嘉二年〈戌午〉十月四日入滅。兼五六日。夢奉見源上人。同三日戌時語人云。蓮花雨下。人々見之哉云々。又云。只今有迎講之儀式。正臨終云。観音勢至已来迎云々。即至寅初起居。合掌念仏三反。即気止了。従高野山。上野国山上。下向上人二人。一人名専阿弥陀仏。一人名誓阿弥陀仏。親拝見彼往生。而来語之。
漢字を眺めての大意です
そして、禅勝坊はこ法話が自分の念仏往生の信心を決定したのと同じだと云います。
「法然上人に帰依して念仏往生をひたすら目指して疑うことなく修行しました。」と。
その後85歳で、正嘉2年(1258)〈戌午つちのえうま〉10月4日に、入滅しました。
彼は入滅の前5、6日に源上人(法然上人)の夢を見ました。
10月3日の午後8時頃、語りました。
蓮の花がいっぱい雨のように咲いています。
人々がこれを見ています。
ただいまお迎えの儀式です。
観音様や勢至菩薩が来迎しています。
そして、午前3時頃起き上がり念仏を3回唱えて、息絶えました。
高野山から、二人の上人が上野国山上(こうずけのくにやまがみ)にやって来て、彼らが実際に見た禅勝房の往生について語ったのです。
高野山からやって来た上人とは、高野聖(こうやひじり)のことでしょう。
高野聖とは、ウィキペディアによると、
高野聖は、中世に高野山を本拠とした遊行者。日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のため、勧化、唱導、納骨などを行った僧侶。ただしその教義は真言宗より浄土宗に近く、念仏を中心としたものだった。
上野国山上に、高野聖がやってくる場所があったのです。
それは、行仙坊の近くにあったのでしょう。
もしかしたら善昌寺あたり?
もしかしたら山上に広く念仏信仰が展開していたのかも知れません。
行仙上人は、その中心にいたのです
禅勝と善昌、「ぜんしょう」つながりです
山上に広く念仏信仰が展開してなかで、この高野聖が下ってきていたところが、行仙上人と深い係わりのあった禅勝坊にちなんで禅勝寺、のちに善昌寺となったかも
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