黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

日光裏街道総集編20(大胡太郎の墓石)

2023-09-06 20:29:08 | 日光裏街道総集編

昨夜は激しい雷雨に見舞われました

久しぶりに本格的な雷雨でした

でも、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、何とか静かに過ごせました。

今朝は、元気に堀之内を西に出ます

堀之内を出てまもなく、シラサギの姿がありました

最近は、サギさん達を見かけることが多くなりました。

 

 

 

前回、大胡宿と河原浜の道しるべを確認しました。

実はここら辺は日光裏街道とは意識しないで、あちこち訪問してあります。

41番が大胡宿の道しるべ、47番が河原浜の道しるべです。

そして、43番が伝・大胡太郎の墓石、44番が江戸初期養林寺の山門です。

違うカテゴリーの記事ですけど、日光裏街道総集編にも入れておきたいと思います

 

 

 

上野国山上に住んでいた行仙上人の編集したという『念仏往生伝』に、大胡小四郎秀村があります。

大胡太郎の墓石と言われるものが、長善寺にあります。

大胡小四郎秀村は、大胡太郎の子孫と書かれています。

大胡小四郎秀村のご先祖様の墓石ということになりそうです。

これは、是非確認しなくては

 

長善寺の北側に駐車場がありました。

墓地を抜けて歩くと、まもなく見つかりました

大きいですね

 

む、おじさん邪魔

でも、大胡太郎の墓石といわれるものは、おじさんとたけくらべです。

 

斜め後ろからも、やわらかい曲線美です

 

説明板を確認しましょう。

塔身の中央に梵字が2つ刻まれている。向かって右が阿弥陀如来、左に地蔵菩薩の種子があり、その左側から「貞和三年三月廿二日」と銘文が刻まれている。

貞和三年(1347)は、南北朝時代です。

もう鎌倉時代は終わってます。

大胡太郎の墓石としては、時代がちょっとあわないようです。

別の資料によれば、長善寺は「大胡太郎が開基。中世赤城南麓の滝窪町白草の地に創建された。弘治・永禄の頃(1555~1569)現在地に移されたという」とあります。

赤城南麓の国道353号線の辺りでしょうか?

少し離れています。

説明板だと、その移転の時に運んだとあります。

でも、こんなに大きく重いものを運ぶのは大変です。

移転の時期は戦国時代まっただ中。

移転してきたのはお寺だけで、もともとここにあったと考える方が自然な気がします

 

大胡小四郎秀村は、正元元年(1259)年に42歳で往生しています。

彼は、大胡太郎の子孫と書かれてあります。

 

中世大胡で活躍した大胡氏の墓石であるようですけど、大胡太郎の墓石というにはちょっとどうかな?

でも、どっしりとした優しいラインの石造物で、大胡太郎の墓石という言葉が似合います

 

さて、山門から入りなおして、参拝です

どっしりシンプルな門です。

 

本堂もシンプルな感じです。

 

右側に、鐘楼堂があります。

かわいいお地蔵さまたちです。

どこかで、会ったことがあるような気もしますけど

 

左手の水子地蔵の隣も気になります。

凝灰岩石仏ですね

 

線香立て付きの石殿です。

どこかで会ったことがある羅漢さんもいます。

 

本堂の左に、観音堂です。

向拝の柱に龍のおじさんがいます。

おじさんという感じです。

現代的な龍です

十一面観音はこちらかな?

こんにちは

合掌

 

本堂をちょっと覗いたあと、庫裏に寄って御朱印をいただきます。

ありがとうございます

 

本堂前の手水舎、凝ってます

カエルがいっぱいいます。

無事カエル

 

これから、大胡氏館跡といわれる養林寺を尋ねます

 

  

 初出『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・大胡太郎の墓石

(2020/11/18  カテゴリー 群馬県・旧勢多郡)

2023/09/06 改稿

 

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