ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内の西側・東柴(ひがししば)の田んぼ道を歩いてきました。
道ばたの樹に絡まって咲く葛の花発見
ここは中世には葛塚村(くずづかむら)、葛の生い茂る古墳だらけの村だったのです
武蔵国吉田郷尼の記憶を訪ねて(椋神社に行ってきました)、続けます
でも、その前に、吉田郷尼の往生の様子を、行仙上人の『念仏往生伝』現代語訳(ひめちゃんち流)で確認しておきましょう
かの尼は47歳で出家しました。
その後、念仏三昧に日々を送り、68歳になりました。
建長5年(1256)11月6日、持病が悪化、9日に息子の入道に向かって言いました。
「さる9月11日の暁、恒河聖衆(こうがせいじゅう)が私を囲みめぐりました。
夢か幻のようでした。また昨日からずっと青い蓮の花が見えてます。」
12月10日に言いました。
「眼をつむると、善導和尚が枕上にお立ちになってました。
また、青い蓮の花がみえました。
この時、心はますます清く澄んで、この身体もますます平安でした。
極楽浄土の青い蓮も見えます。」
戌剋(いぬのこく 午後8時前後)に、また言いました。
「今は臨終の時ではありません。
卯時(午前6時前後)がその時です。
そのために、仏や菩薩が少し離れて立っておられます。」
子剋(ねのこく 午前6時前後)に別の念仏を唱え、言いました。
「臨終いよいよ近し、仏が已にそばに来ています。」
吉田の尼は、その後声高に念仏を唱え続けます。
卯の刻(午前6時前後)に、その声は止みました。
でも、念仏を唱える口は、なお二十数回動きました。
そして、彼女は往生したのです。
そんな彼女のいた吉田郷、吉田郷の椋神社の訪問記続けます
椋神社の御由緒があります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が道に迷ったときに、持っていた矛の先から一条の光がさして、その先に大きな椋(むく)の木があった。
そこには猿田彦大神が立ち、その導きで大勝を得た。
そこで、矛をご神体として、猿田彦大神を祀ったのが、創建である。
それで、椋神社なのですね
永禄12年(1569)、侵入した武田勢に焼き払われたとは
天正3年(1575)、鉢形城主北条氏邦が再建したのですか、よかった
さあ、本殿に参拝です。
赤い鮮やかな社(やしろ)です
狛犬も、さっきの山犬さまほどではありませんけど、ちょっとはクラシックです
木鼻の彫刻も見事です
拝殿で、2礼2拍1例礼で参拝です
脇にまわって、本殿を確認です。
さっき、御由緒に、脚元の細い蟇股(かえるまた)とありました。
確かに細い
隣の覆屋の中に八幡宮があります。
かなり古そうです。
でも、よく見ると見事な彫刻です
扉や壁には、かつては絵が存在したようです
秩父平氏が館の鎮守に勧請したものと、説明板にはありました
秩父氏が畠山に進出したときに、この椋神社を勧請したのが、畠山(深谷市畠山)の井椋(いぐら)神社だったのです
いただいた御朱印です。
竜勢の絵と山犬の絵があります
武蔵国吉田郷尼の往生譚、かなり詳しく書かれてます。
著者の上野国山上の行仙上人(こうずけのくにやまがみのぎょうせんしょうにん)と深い交流があったものと思われます
また秩父氏は平氏の流れなのですね
行仙上人も、その出自は平頼盛の孫と言われています(「新纂浄土宗大辞典」ウエブ版)。
深い交流も納得ですね
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