黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

日光裏街道・正法院(南勢多郡の廃寺・阿弥陀寺)

2021-02-22 20:34:18 | 日光裏街道

暖かい朝でした

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出てお散歩です。

蕨沢川に懸かる2番目の橋、「たくみはし」です。

橋のたもとの石仏、今朝はなんとなく像が浮かんでます。

よくよくみると、文字だけなのですけど。

不思議な石仏です。

 

橋を渡って、渡って、諏訪神社の西の細道を下ります。

一瞬「小次郎パパか」と思う写真です

親子だから当たり前かも知れないけど。

 

この道は、危険な道です

冬なのに、田んぼの周りには電気柵が廻らされています

まさか電気は流れてないでしょうけど。

 

諏訪神社の前を通って帰ります。

鳥居の前で、仲良く情報収集です。

獅子くんは、ひめちゃんに恋の季節を感じていないみたいです

 

 

 

富田の三柱神社の後、日光裏街道(大胡道)32番・正法院へ向かいます。

というか、すぐ前です。

山門脇の駐車場に停車です。

 

実は、ここには阿弥陀寺という廃寺があったのです

「南勢多郡の廃寺」(平成23 内田憲治 群馬県勢多仏教会)には

阿弥陀寺(西雲山円蔵院―天台宗世良田長楽寺末)

富田町東原甲776番地に存在したが明治初年無住になった。阿弥陀寺の南約400メートルの字宮下757番地に天台宗持地山正法院延命寺が存在したが、天明元年(1781)と天保13年(1842)の火災により堂宇を焼失、本堂が再建されないまま明治維新に至った。そこで当時無住であった阿弥陀寺と正法院を合併移転することが協議され、明治10年(1877)12月に正法院が阿弥陀寺に移転し阿弥陀寺は廃寺になった。後に上武道路建設に伴う発掘調査により正法院は室町時代頃の創建と考えられ、桁行9間、梁行6間の本堂と周囲に環濠を廻らす寺院であることが判明した。

 

山門を入って、阿弥陀寺の記憶をちょっと探索です

持地山の文字が見えます。

正法院の山号ですね。

 

かなりクラシック石造物だけど

榛名山がきれいに見えます

 

本堂の前には、しだれ桜でしょうか?

阿弥陀寺の記憶はありませんね。

 

おや、古い石造物が集められています

後ろに荒砥史談会のポールが倒れています

ちょっと動かしてみたいけれど、我慢。

この石造物は、たぶん阿弥陀寺の記憶でしょう

合掌

 

駐車場の南にも、堂宇があります

秘仏のようです。

 

おや、横の堂宇に金ぴかの仏像です。

杖を持って坊主頭だから、お地蔵様?

 

古い石造物もあります。

小さいけれど、赤城塔(宝塔)です。

こちらも、赤城塔(宝塔)?

 

正法院がもともとあった場所は、もっと南のようです。

そうすると、これらも阿弥陀寺の記憶ですね

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日光裏街道・富田の三柱神社

2021-02-21 19:21:04 | 日光裏街道

暖かい朝でした

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

 

岩神沼に到着です。

いつもの黒いカモさんが、1羽しかいません。

 

上の新沼&童沢貯水池を目指します。

あれえ、珍しく新沼でカモさんの競演だ

隣の童沢貯水池は、ほとんどいません。

時間的にちょっと遅かったので、サギさんの姿はありません。

 

新沼にもどると、彼(?)は、まだ特等席にいます。

いつもはこの石柱が見えることはありません。

今朝は水位が下がっているのかな?

 

帰り道、道草です。

二人ともアブラナを見付けて、ムシャムシャ。

おうちに帰って、ひめちゃんは、良い子でハーネスを外してもらうのを待ってます。

夕べは暖かかったので、湯たんぽは入れませんでした。

今夜も湯たんぽはお休みです。

 

 

 

「街道を歩く・日光への脇往還(大胡道)」の前橋市富田町付近です。

2月5日、お使いがてら、33番三柱神社、32番正法院を訪ねました。

 

まずは三柱神社です。

大きな門柱と大きな車があります。

役員さんでも、来てるのかな?

 

付近を確認です。

日光裏街道(大胡道)です

この道を多くの人が日光方面に向かい、また日光方面からも多くの人がやって来たのです

赤城山の景色が、ひめちゃんちから見えるのとちょっと違います。

 

広い駐車場です。

大きな力強い鳥居です。

向こうに見える社殿は、村の鎮守の神様のイメージです。

茅葺き屋根を覆っているのかな?

 

由緒碑があります。

明治の時に、近郷のたくさんの神社を合祀したのですね。

メインの神社は、稲荷神社・春日神社・赤城神社ですね。

社名の由来、納得です

 

あれ、四代目宮司は六弥太登良麿ですって

確か二宮赤城神社の神主は、六弥太神主だったですよね

『平家物語』で、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)を討ったという岡部六弥太(おかべのろくやた)の子孫だとか。

 

拝殿で参拝です

やはり、鈴を鳴らせないように、工夫されています。

 

本殿への渡廊下、絵馬が懸かってます

多くの神様がいるので、いろいろな願いが叶うのでしょう

 

社殿後ろには、合祀された石宮の方々です。

よくある庚申塔の類はありません

 

本殿も拝殿と同じく大きいです。

 

明るい森の中の鎮守様という感じです

集落センターもあって、現役の地域の鎮守ですね

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間々の端山の稲荷様(ままのはばやまのいなりさま)

2021-02-20 17:20:36 | 群馬県・東毛

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台を歩きます。

暖かい日射しで、気持ちいね

赤城山も穏やかです

高台の中央でUターンして、山上の元蓮田の脇を通って戻ります。

諏訪神社には、早咲きの桜が咲いています

向こうに、真っ白な浅間山です。

ここは見晴らしのいい所なんだ

蕨沢川を渡って帰ります。

川沿いの桜も、蕾が膨らんでます

 

 

先日、大間々の道路元標を確認に行った帰り道、前々から気になっていた鳥居を訪ねます。

みどり市大間々庁舎の後方に、赤い鳥居が見えます。

大間々町誌の資料「大間々町の社寺」にもありません。

何様だろう?

「正一位福恵稲荷大明神」です。

鳥居の足下には、かわいいカエルです

鳥居をくぐりながら、階段を登ります。

狛犬ではなく、狛狐です。

 

最初にくぐった、石の鳥居の由来です。

反射してしまって、よく見えない所もありますけど、だいたい次のようなことらしいです。

日中戦争に従軍した息子が無事帰ることを祈っていたおかあさん、その願いを稲荷様が聞いてくれたのです。

おかあさんは願いがかなったら鳥居を奉納すると約束していましたが、果たさずに死去します。

50数年後、息子が石の鳥居を奉納して、約束を果たしました。

 

最後にある

間々にすみ 端山(はばやま)恋し 稲荷さま 語り継ぎ 言い継ぎゆかん 夫婦合(めおとあい)

いいですね

ここは間々(まま)、渡良瀬川の河岸段丘なのですね

 

脇の細道を上ってみます。

左のガードレールが切れた細道から出てきました。

大高坂(だいこうざか)に出ました。

左は大高・大間々高校、右が大間々中学校です。

 

大きな説明板があります。

 

坂を下ります。

町歩きマップがあります。

さっきの所は要害山の眺めがバッチリだったんですか

残念、今度はしっかり眺めましょう。

福恵稲荷は、岡直三郎商店の稲荷様ですか

あの日本一醤油の岡直三郎商店の稲荷様ですか

しょうゆソフト、もう少し温かくなったら、食べに寄りましょう

 

 

現在地のすぐ左の細道を帰ります。

あれ、石の門柱なんてあって、不思議な雰囲気

あれえ、ここは大間々町役場だったんだ

実は、ひめちゃんちのおかあさんは、数年間大間々町民をしてました。

役場も何度も足を運んだはずです。

でも、稲荷様、気がつきませんでした。

もっとうっそうとした森だったのかな?

 

ここからの景色だと、どうしても気になります。

気になっていた福恵稲荷、参拝できました

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旧雷電神社だった上植木・上樹神社

2021-02-19 20:08:45 | 群馬県・中毛

ひめちゃんと獅子丸は、久しぶりに東の牧場のヤギさんに会いに行きました。

ヤギさんいるかな?

やっぱりヤギパパと1名のボクだけです

ほかのみんなはどうしたのでしょう?

まさか

ちょっと見えにくいですけど、「エサ×」の貼り紙です。

かなり深刻みたいです

 

バイバイ、又来るよ。

変なもの食べないでね。

拾い食いが得意な獅子くん、聞いてる

 

ふたりは、鏑木川の支流・沢田川を渡って、上の沼を目指します。

橋のたもとで、仲良く情報収集です。

獅子くんのひめちゃんに対する態度は、いつも通りです。

ひめちゃんと小次郎パパが歩く所に、だれか発情中の子がいるのかな?

 

坂を上って、タケイ沼です。

赤城山は、かなりの雪化粧です。

たくさんのカモさんがいます

いろいろな種類のカモさんが集まっているようです

 

サマンサ坂を通って、長安寺跡を通って帰ります。

見慣れた光景ですけど、今朝初めて、後ろの馬頭観音の台石に文字を発見しました

南勢多郡の廃寺・長安寺、もう一度探索の必要ありのようです

 

 

 

上植木の建長石仏の近くに、上樹神社(うえきじんじゃ)があります。

突然ですけど、寄って行きましょう

ほどなく、到着です。

上樹神社って、ナウい命名のように感じます

鳥居がたくさんあります

 

いきなり、「上樹神社玉垣奉納の由来」の大きな碑があります。

上樹神社は昔から懐かしい産土神(うぶすながみ)と慕われ上植木の土地の神様として親しまれ団結と融和を果たして参りました。

そうだったんですね

赤城国体が開かれた記念に、上樹神社も玉串を初めとして、社殿の修理その他がなされたのですね

 

 

村社上樹神社です。

ナウい命名のようですけど、けっこう古い社名なのですね

 

最初の額は「村神大明神」

 

次は、「鹿嶋大神宮」

3

番目が、「上樹神社」です

 

次は、諏訪大明神

 

次が八幡宮です

 

次は、富杏嶽神社?

 

最後七つ目の鳥居は、額がありません。

鳥居だけです。

そばに、「上蓮太々講大正十五年三月九日伊勢両宮参拝太々神楽奉奏記念トシテ上樹神社ヘ大鳥居ヲ奉納ス」

講を作ってみんなで伊勢神宮に行って、伊勢神宮で太々神楽を奉納したんですね

 

 

上樹神社の由緒があります。

旧雷電神社とあります

主祭神は大雷神ですね

正親町天皇の永禄十一年萩田備中守赤石城主となり此の地を領するに及び社殿を修築し旱魃に際して雨を請い土民の安穏を祈願した。~(中略)~社殿は現在の地より当方四十間の所にあったのを寛永年間に移した。厳社殿は慶応三年に封建されたものである。

 

大雷神の活躍する雷電神社だったんですね。

 

 

拝殿で参拝です。

鳳凰と龍がいます

木から掘り出されたものなのに、生き生きしています

 

木鼻の獅子は、なんとなく気難しいバージョンの獅子くんみたい

 

本殿もきっとすばらしいと思いますけど、ちょっと近づきがたい

無理をせず退却です。

 

あれ、大きな山神様です

雷神様も、山神様も、農業には欠かせない神様ですね

 

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『念仏往生伝』の記憶を訪ねて(上植木の建長石仏)

2021-02-17 20:46:52 | 群馬県・中毛

今朝、ひめちゃんは小次郎パパとお散歩に出ました。

道沿いの竹藪に、ヤブツバキがきれいに咲いています

ひめちゃんとコラボで「椿ひめ」を撮りたいけど、ひめちゃんは興味なしです。

仕方なく、パパと椿のコラボです。

ボクもあんまし興味ないよ

パパはどうも、ひめちゃんに興味があるようです

ひめちゃん、もしかしたら恋の季節が来ているかな?

パパに気を付けながら、堀之内を北にでて、歩いてきました。

サクラソウのマンホールの蓋も踏みしめながら

サクラソウは、旧新里村の村の花でしたね

 

 

 

(伊勢崎市)下植木赤城神社からの帰り、上植木の建長石仏(けんちょうせきぶつ)に寄ります。

建長とは、鎌倉時代の年号で1249年~1256年です。

改元が激しい時代に、ちょっとだけ長い年号です。

そして、上野国山上で記された『念仏往生伝』に、何人かの人が念仏往生している年号です。

これは、絶対に寄らなければなりません

 

住所・上植木本町996-5をナビに入れて出発です。

個人のお宅のような門柱に、「上植木建長石仏」の文字があります。

入っていいのかな?

ためらいながら車を乗り入れて、到着です。

振り返って門柱です。

 

駐車スペースもしっかりあります

こんにちは

 

説明板も、ちゃんとあります。

右側の背面に建長三年(1251)の銘があるのですね

700年以上の歳月、人々を見守ってきたのですね

合掌です

 

隣に馬頭観音とお馬の親子です。

この親子に起こった出来事の碑があります。

かなりの要約です。

けがをした子馬を置いて、ママさん馬はご主人とお仕事に行きました。

子馬にお乳をあげたいママが綱をかみ切っておうちに戻ろうとしました。

その時、運悪く電車がやって来て、ママは電車にひかれてしまいました。

 

同行のおじさん、ウルウルです

 

歌があるのですね。

おじさん、さらにウルウルです

 

佐韋の花園(佐位郡の語源)です。

百合は古くは早由里ともいわれ、もっと昔はただ「佐韋」とも呼ばれた。粕川はかつて佐位川とも呼んで白百合が多く乱れ咲いていた。明治29年迄は、広瀬川より東は佐位郡と呼ばれその語源は佐位からとったもので、百合の郷であった。

そうだったんですか

 

上植木廃寺跡の礎石もあります。

そういえば、上植木廃寺跡も近くです。

上植木廃寺には、新里の雷電山付近にあった瓦工房の瓦が、使われたといいます。

雷電山には、『念仏往生伝』の編者・行仙上人が居たかも知れないのです

 

 

 

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