ひめちゃんと獅子丸の朝散歩が復活しました
天神田(字天神の田んぼ)を歩きます。
後ろ姿で失礼します。
2人で元気に歩きます
獅子丸のウ●チをビニール袋に取っているとき、白い大きな鳥がやって来ました。
カメラが間に合いませんでした。
ここらへんもシラサギさんのテリトリーなのでしょう。
無量寺(むりょうじ)に寄って帰りましょう
古い墓石がたくさんあります。
墓地の東、この一角だけ、お寺の雰囲気を遺しています。
たぶんこの前が本堂だったのでしょう。
以前はゲートボール場で、付近のお年寄りで賑わっていました。
今は訪れる人もありません。
堂宇もなく廃寺のようですけど、新川の善昌寺が兼務という形でお寺としては存続しているということです。
かつての檀家は、三々五々あちこちのお寺に散らばったようです。
『上野国郡村誌』によると、
無量寺 東西拾七間南北廿二間反別一反弐畝九歩村ノ中央ニアリ天台宗山城国比叡山延暦寺末派開基創建ノ年月不詳明治五壬申年一月火災ニテ堂舎焼滅ス
『上野国寺院明細帳』によると、
本山、山城国延暦寺末です。
本尊は正観音、本堂は間口三間奥行一間半、境内は三百六拾九坪、檀徒は三拾八人とあり、境外に田畑や林を持ってます。
昭和10年、6、28の付箋がありますね。
こんな田舎の寺なのに、比叡山延暦寺の末だったのですね
平安初期の天台宗の東国伝導教団と何か関係あるかな?
この寺には、「江戸の地名名付けの寺」という伝承があります
もう一度確認です
昔々、無量寺の和尚さんは、足利学校で太田道灌を教えました。道灌は江戸城を造った時、恩師の和尚さんを完成祝いに呼びました。そしてまだ地名がない江戸の街に地名を付けてくれるように頼みました。和尚さんは、板橋、大久保、高縄など、こちらの地名を付けました。
ことの真偽はわかりませんけど、かつては無量寺には、室町時代の日本の大学・足利学校で教鞭をとれるような学識豊かな僧侶がいたということでしょう
堂宇跡の東には民家が建ってます。
でも、寺院の名残があります
みなさま何思う?
道の向こうで、白いワンコ「ボクのテリトリーだぞ」と叫んでます。
おはよう、バイバイ